第120話 書けない夜
その夜から、私は、書けなくなった。
最初は、疲れだと思った。
机に向かう。紙を出す。墨を磨る。筆を持つ。
そこまでは、いつもどおりだった。
筆が、下りない。
どこに、何を書けばいいのかが、分からない。
配給の突き合わせは、できる。数字を写すだけだからだ。
だが、索引に一行足そうとすると、手が止まる。
この一行は、何を速くする。
その問いが、必ず先に来る。
来てしまうと、書けない。
三日、そうだった。
庫は、静かだった。ヨナは来ない。ヴォルクは薪を割っている。写しの束は、机の端に寄せたまま。
私は、棚を見た。
二月かけて整えた、私の一角。背表紙が揃い、村ごとに畳まれ、索引で引ける。
美しい、と思っていた。
いまは、何も感じない。
記録院の棚を思い出した。あそこは、もっと美しかった。天井まで揃い、抜き差しの札まで管理され、埃ひとつない。
私の棚は、あの棚の子どもだ。
やり方が同じだから、行き着く先も同じだ。
――同じ答えに、たどりつく。
ザカリアスは、そう言った。
同じ仕事をする者は、同じ答えにたどりつく。
あのとき、私は、それを不吉な言葉として聞いた。
いまは、単なる事実として聞こえる。
四日目の夜、私は灯を落とした。
落として、寝台に横になった。
眠れなかった。
目を閉じると、白い光が浮かぶ。
王国の大広間。あの朝。私は真ん中に立たされていて、殿下が何かを読み上げていて、誰も私を見ていなかった。
断罪。
あの光を、六年、忘れなかった。
忘れずに、制度を作った。あの光を誰にも浴びせないために。
浴びせた。
二人。
処断、死、二。
私が数えて、読まなかった二人。
その人たちの上に、白い光が落ちたとき、私の索引が、そこにあった。
寝返りを打った。
窓の外は、雪だった。
この土地の雪は、静かに降る。音がしない。積もっているかどうかは、朝になるまで分からない。
――何が、違ったのだろう。
そればかりを考えていた。
王国でしたことと、ここでしたことは、ほとんど同じだ。
荒れた記録庫を整えた。配給の歪みを直した。索引を作った。写しを渡した。人が、それを使い始めた。
王国では、そこから断罪が減った。
ここでは、増えた。
やり方は、同じだ。
なら、違うのは、私ではない。
――土地だ。
そう考えて、私は、すぐにそれを否定した。
否定しなければならなかった。
土地が違うから、と言った瞬間に、私は、この国が遅れているのだと言うことになる。
王国のやり方は正しい。この国が、それを受け止められる形をしていない。だから、うまくいかない。
それは。
それは、あの朝、私を断罪した人たちの理屈と、同じ形をしている。
悪いのは、こちらではない。悪いのは、そちらだ。
私は、寝台の上で、目を開けた。
暗い天井が、見えた。
六年前、私は、その言い方に殺されかけた。
その言い方を、絶対にしないと決めていたはずだった。
なのに、いま、私の中に、それが自然に湧いた。
――この国が悪い。
湧いてしまった。
寝台から起き上がった。
灯を、点け直した。
紙を、一枚出した。
書けなかった。
筆を持ったまま、白い紙を、しばらく見ていた。
夜明けまで、そうしていた。
朝、雪はやんでいた。
庫の窓から、光が入った。白い、散った光だった。紙を焼かず、字だけを照らす光。
記録院と、同じ光だった。
最大の谷の入口です。「この国が悪い」という考えが自分の中に湧いたことに、この主人公はいちばん打ちのめされます。
ここから長いこと、リリアーナは書けません。




