第118話 速い、ということ
次の日から、庫に来る人が減った。
最初は、雪のせいだと思った。
その週は、よく降った。道が悪ければ、人は出歩かない。写しを取りに来るのは、急ぎの用ではない。
だが、雪がやんでも、戻らなかった。
列は、消えた。
十日目に、私は、配給所へ行った。
年かさの書記が、そこにいた。私が来た当初、目も合わせなかった男。あとで、深く頭を下げた男だ。
彼は、私を見て、目を伏せた。
戻った。
最初の頃の目に。
「書記どの」
「……はい」
「庫に、人が来なくなりました」
彼は、しばらく黙っていた。
配給の樽を、意味もなく動かしていた。
「視察官どの」
やがて、彼は言った。
「あの写しは、いいものです。本当に、いいものです」
「ですが」
「持っていると、怖いのです」
彼は、顔を上げなかった。
「家に、自分の記録がある。誰かが来て、それを見たら、どうなります」
「――」
「あの家は、役場の紙を持っている。何かを調べている。そう思われたら、それだけで、告げる理由になります」
樽の縁を見ていた。
考えたことが、なかった。
王国では、記録を持つことは、身を守ることだった。手元に控えがあれば、後から言い分を立てられる。だから、私は写しを配った。
この国では、逆だ。
持っていること自体が、疑われる。
「もう一つ、ございます」
書記は、続けた。
「速くなりました」
目を上げた。
「役場が、です。以前は、告発が来ても、半年放っておかれました。放っておかれているうちに、告げた者の腹が収まる。収まれば、取り下げになる。そういうことが、よくございました」
彼の指が、樽の木を撫でた。
「間が、あったのです」
間。
「隣の家と揉めて、腹が立って、告げる。二日で我に返る。……ですが、役場が動くのはひと月後です。そのひと月のあいだに、頭を下げに行けた」
私は、息を吸った。
「いまは」
「三日で、決まります。頭を下げに行く暇が、ありません」
しばらく、動けなかった。
遅さの中に、逃げ道があった。
それは、この国の役場が怠けていたからできた隙間だ。
誰も設計していない。誰も守っていない。ただ、いい加減であることが、結果として、人を助けていた。
――私は、それを潰した。
潰したことにさえ、気づかなかった。
庫へ戻る道で、雪を踏んだ。
道の脇に、女がいた。
人別の写しを受け取った、あの痩せた女だった。夫の名が、まだ入っていた人。
彼女は、私を見て、足を止めた。
それから、少しだけ会釈をして、道の反対側へ寄った。
避けたのではない。
この土地の人は、道で人と並んで歩かない。並べば、話していたと言われる。
それを知っている。
知っているのに、その日は、こたえた。
庫の前で、ヴォルクが薪を割っていた。
老人は、私を見て、斧を下ろした。
「……減ったな」
「ええ」
「そういうものだ」
彼は、それだけ言った。
慰めではない。責めでもない。二十年、この区の人の動き方を見てきた男の、ただの観察だった。
「ヴォルクどの」
「なんだ」
「私は、この区を、悪くしましたか」
老人は、斧を薪に立てかけた。
長く、白い息を吐いていた。
「良くはした。麦は、届くようになった。それは、確かだ。この冬、飢えた家は、去年より少ない」
「ええ」
「そして、引かれた者は、去年より多い」
私は、頷いた。
「あんたは、両方をした。片方だけを数えて、悪くしたと言うのは、あんたの勝手だ。……だが、それは記録の人間のやり方ではあるまい」
顔を上げた。
老人は、また斧を持ち上げた。
「両方、数えろ」
遅さの中に逃げ道があった、という話です。制度を整えると、その隙間が消えます。
ヴォルクの「両方数えろ」は、この作品の主人公にとって、いちばん効く励まし方だと思って書きました。




