第114話 申し出
ザカリアスは、席を立った。
私を、館の奥へ案内した。
通路の突き当たりに、扉がもう一つあった。開けると、そこにも棚があった。
だが、こちらは違った。
棚が、途中で終わっている。三分の一ほどが、空だった。
「未整理です」
「三十年前より古い分。区の様式が揃う前のものです。番号も、罫も、区ごとにばらばらでしてな。手をつける者がいない」
束を一つ、目で追った。
紐が朽ちかけている。角が虫に食われている。
この人でも、手が回らないものがある。
「四十年、この状態です」
彼は、棚の前で立ち止まった。
「私一人では、終わりません。書役はおりますが、彼らは様式のとおりに書くことはできても、様式のない紙を扱えない」
私は、その意味を、正しく理解した。
――様式で育てた者は、様式の外に出られない。
それが、この人の作った仕組みの、唯一の穴だった。
「エルフェルト殿」
ザカリアスは、こちらを向いた。
「この仕事を、あなたにお願いしたい」
「三十年前より古い、帝国の記録すべて。整理と、様式の統一。役職は、記録院の客卿。権限は、私に次ぐ。書役は、望むだけ付けます」
「私は、王国の官吏です」
「存じております」
「外国の官吏に、国家記録を扱わせますか」
「あなたなら、扱えます」
褒め言葉として言ったのではない。事実を述べる声だった。
「私は、四十年、この国の記録を見てきました。あなたほどの手を持つ者は、この国に、私を入れて二人です」
棚を見た。
朽ちかけた紐。虫食い。ばらばらの罫。
――整えたい。
その思いが、腹の底から、迷いなく立ち上がった。
これは、思想ではない。仕事の欲だ。荒れた棚を見ると手が動く、あの、二十年ぶんの癖だ。
私は、自分の右手が、少し前に出かけているのに気づいて、止めた。
「お断りする理由を、申し上げます」
声が、少し掠れた。
「その仕事をすれば、私は、この国の密告の記録を、いちばん美しい形に整えることになります」
「そうです」
「整えれば、断罪は、速くなります」
「そうです」
彼は、否定しなかった。
「ですから、お断りします」
「なるほど」
ザカリアスは、それきり、勧めなかった。
怒りも、落胆もなかった。
ただ、少し、寂しそうだった。
「残念です」
声に、力がなかった。
「私は、あなたと仕事がしたかった」
私は、そこで、初めて、ひどく息苦しくなった。
脅されていたなら、耐えられた。
罵られていたなら、立てた。
この人は、私と仕事がしたい、と言った。
私も、したかった。
この四十年分の未整理の棚を、この人と二人で片づける。どこから手をつけるか、どう番号を通すか、破れた紐をどう扱うか。そういう話を、していたかった。
――嘘だ。
いいえ、嘘ではない。
そう思ってしまった自分が、確かにいる。
記録院を出ると、外は暮れていた。
帝都の通りは、相変わらず静かだった。誰も、互いの顔を見ない。
ヨナが、少し後ろを歩いていた。彼は、館の中では一言も喋らなかった。
「視察官どの」
通りの半ばで、彼が言った。
「あの人、悪い人じゃなかった」
私は、足を止めた。
「……あなたも、そう思いましたか」
「ああ」
ヨナは、うつむいた。
「思っちまった。あの人が、俺の家族の名前を握ってる棚を、作ったんだよな」
「ええ」
「なのに、悪い人じゃなかった」
彼は、そこで少し声を落とした。
「……それが、いちばん、腹が立つ」
私は、返せなかった。
この青年の言葉が、私が一日かけて言えなかったことを、一行で言っていた。
その夜、宰相府の客間で、私は眠れなかった。
寝台に横になって、天井を見ていた。
――即答できなかった。
それが、すべてだった。
断ったことではない。断るまでに、私は、間を置いた。
あの棚を見て、手が動きかけた。
もし、あの申し出が十年前に来ていたら。私がまだ、誰にも読まれない棚の前にいた頃に。
――私は。
私は、そこで考えるのをやめた。
やめても、答えは、暗い天井に貼りついたままだった。
断ったのに、負けた気がする回でした。
「即答できなかった」ことが、この先ずっとリリアーナの喉に刺さります。




