第113話 同じ場所から
茶は、冷めていた。
ザカリアスは、それをようやく一口だけ飲んで、また置いた。
「二十年目のことです」
彼は、話を続けた。
「区に、帝都から人が来ました。何かを探していた。何を探していたのかは、いまでも知りません」
「見つかりましたか」
「見つかりました」
「私の綴りの中に、あったのです。十四年前の、ある家の土地の移りが。誰も覚えていない、小さな一行が」
窓の光が、少し動いた。
「その男は、驚いた顔をしていました。こんな辺鄙な区に、こんなに揃った記録があるのかと」
ザカリアスの指が、机の縁に触れた。
「そして、私に言いました。――これは、使える、と」
目を閉じたくなった。
レンツも、同じ言葉を言われた。
「私は。嬉しかった」
声に、感情はなかった。
感情がないからこそ、それが本当のことだと分かった。
「二十年です。誰も見なかった。誰も褒めなかった。私は、自分が何をしているのかも、分からなくなっていた。その日、初めて、私の二十年に、値がついた」
彼は、こちらを見た。
「エルフェルト殿。あなたなら、分かるでしょう」
私は、答えなかった。
分かる、と言えなかった。言えば、この人と同じ場所に立つことになる。
言わなければ、嘘になる。
――分かる。
私は、分かってしまう。
修道領で、初めて誰かが私の帳面を必要としたときのことを、私は覚えている。エレナ院長が、配給の綴りを見て、助かります、と言った。
あのとき、私の胸が、どれほど鳴ったか。
「……分かります」
ザカリアスは、目を伏せた。
勝ち誇りは、しなかった。
「それから、私は、帝都に呼ばれました」
彼は、淡々と続けた。
「密告の記録を整えろ、と言われた。当時は、ばらばらでした。区ごとに様式が違い、番号も揃わず、五年前の告発一つ探すのに、ひと月かかった」
「……それを」
「三年で、揃えました」
彼は、少しだけ誇らしげだった。
それが、いちばん恐ろしかった。
「様式を作り、番号を通し、索引を三つ立てました。年、区、名。あなたと、同じ三つですな」
「ええ」
「不思議なものです。同じ仕事をする者は、同じ答えにたどり着く」
私は、机の下で、指を組んでいた。
「――一つ、伺ってよろしいですか」
「どうぞ」
「あなたは、その記録が何に使われるか、知っていましたか」
書役たちの筆の音が、遠くで続いている。
ザカリアスは、しばらく黙っていた。
それから、口を開いた。
「知っていました」
「――」
「断罪に使われる。それも、正しくない断罪に」
彼は、言い繕わなかった。
「私が揃える前は、ひと月かかった。揃えたあとは、半日で済むようになりました。その分だけ、断罪は増えました」
「増えると、分かっていて」
「分かっていました」
何かを言おうとして、言えなかった。
「エルフェルト殿。あなたは、私を悪人だとお思いか」
「……分かりません」
正直に、そう答えた。
「あなたと私の違いは、思想ではありません」
ザカリアスは、静かに言った。
「順番です」
「順番」
「あなたは、記録が人を助けるところを、先に見た」
彼の目が、まっすぐ私を見ていた。
「配給が届く。冤罪が晴れる。誰かが冬を越す。そういうものを、褒められる前に、見た。違いますか」
私は、答えられなかった。
修道領。ミレイアを救った日。あれは、私が誰にも認められていない頃だった。
「私は、先に、褒められた。二十年、誰にも見られずにいた男が、ある日、値をつけられた。その値をつけたのは、断罪する側でした」
彼は、冷めた茶に目を落とした。
「それだけのことです。私は、たまたま、順番が悪かった」
鏡像の分岐点を、思想ではなく「順番」に置きました。
だから彼を軽蔑できない。それがこの第二部でいちばん難しいところです。




