第112話 記録卿ザカリアス
茶が、出た。
書役の一人が運んできて、二つ置いて、下がった。ザカリアスは、自分の分に手を伸ばさなかった。
私も、飲まなかった。
「オルデンの庫は、どうです」
彼は、そう訊いた。
世間話の顔をしていた。
「荒れています」
「でしょうな」
「三年、綴じられていない配給の控えがありました」
「あの区は、庫付の老人が年寄りだ。手が回らんのです」
「手が回らないのではありません」
「回してはいけない、と教えられたのです」
ザカリアスの指が、机の上で止まった。
そのまま、しばらくこちらを見ていた。
それから、初めて、笑った。
小さく、皺を寄せる笑い方だった。
「……そのとおりです」
あっさりと、彼は認めた。
「あの区の庫は、荒れているほうが都合がよい。荒れた庫からは、何も出てこない」
「棚を、一列だけ残して」
「ええ。一列だけ、生かしてある」
彼は、隠さなかった。
私は、その正直さに、少し混乱した。
――嘘を、つかない。
イリスと同じだ。だが、イリスの正直は、取引のための正直だった。この人のは、違う。
この人は、たぶん、記録を扱う者が嘘をつくことを、生理的に嫌っている。
「エルフェルト殿。一つ、伺ってよろしいか」
「どうぞ」
「あなたは、王国で、記録の保存を義務づけられた」
「はい」
「何年分を、残すことになさいました」
仕事の話だった。
この人は、いちばん最初に、仕事の話をした。
「五十年です」
「五十」
ザカリアスが、目を細めた。
「多い」
「多いです」
「保管の費えは、どう賄われる」
「国庫からです。年に、王都の橋を一つ架けるくらい」
「橋一つ」
彼は、指を組んだ。
「その額を、議会は、よく通しましたな」
「通りませんでした。三度、否決されました」
「ほう」
「四度目に、通りました」
「何を変えられた」
「何も」
「同じ案を、四度出しました」
ザカリアスが、声を立てて笑った。
書役たちが、一斉に顔を上げた。この部屋で、この人が笑うのは、めったにないことなのだろう。
「……それは、いい」
彼は、目尻を拭った。
「同じ案を四度。あなたは、そういう人か」
「粘り強いのではありません。他に、案がなかっただけです」
彼は、また笑った。
私は、笑わなかった。
笑えなかったからではない。
――楽しい。
この会話が、私は、楽しかった。
それが、恐ろしかった。
この六年、私の仕事を、細部まで分かる相手はいなかった。マルクは私を信じてくれるが、綴じ紐を二度返す理由は知らない。エドワルド殿下は制度を通してくれるが、保管の費えの通し方の苦労は知らない。ミレイアは、これから知る。ルーカスは、たぶん知っているが、口に出さない。
この老人は、知っている。
全部、知っている。
初対面の相手と、これほど言葉が要らない会話をしたのは、初めてだった。
「エルフェルト殿」
ザカリアスが、笑いを収めた。
「私も、誰にも読まれない棚から始めました」
思わず、目を上げた。
「南のほうの、小さな区です。庫付でした。四十一年、いや、四十二年前になりますか」
彼は、窓の白い光を見ていた。
「二十年、あの庫にいました。誰も、私の綴りを読みませんでした。区の役人も、村の者も、私が何を整えているのか、知りもしなかった」
恨みの色は、どこにもなかった。
「毎日、紙を数えました。番号を振って、紐を締めて、棚に戻す。それだけです。冬は、指が切れて血が出る。血が紙につくと、その一枚は使えなくなるから、布を巻いて数えました」
私は、口を開けなかった。
布を巻いて数えた指。
私も、修道領で、そうしていた。
「あなたも、ご存じでしょう」
ザカリアスが、こちらを見た。
「誰も読まない棚を、それでも整える。あれは、なぜでしょうな」
私は、口を開いた。
言葉が、すぐには出なかった。
やがて、言った。
「そこに、在ったからです」
ザカリアスの目が、わずかに開いた。
そして、深く、頷いた。
「そうです」
彼は、静かに言った。
「そこに、在ったからです」
第二部でいちばん書きたかった対面です。憎めない、話が通じてしまう敵。
リリアーナがこの会話を「楽しい」と思ってしまうことが、この先の伏線になります。




