第111話 記録院
扉が、内側から開いた。
押した音も、軋みもしなかった。よく手入れされた蝶番の、ほとんど無音の開き方だった。
中に、光があった。
私は、思わず足を止めた。
――明るい。
記録の館というものは、暗いものだ。紙は光で焼ける。だから窓は小さく、灯は落とし、日中でも薄暗い。オルデンの庫も、王国裁定院の書庫も、そうだった。
この館は、違った。
高い位置に、細長い窓が並んでいる。北向きだ。直射は入らず、白い散り光だけが、天井から降りてくる。
紙を焼かず、字だけを照らす光。
――計算されている。
私は、この設計を知っている。王国裁定院を建てるとき、私が北向きの高窓を頼んだ。同じ理屈で。
中は、広かった。
棚が、床から天井まで。梯子が三つ。通路が、まっすぐ奥へ伸びている。
埃が、ない。
通路を歩いた。
棚の背表紙を見た。年、区、種別。三つの軸で並んでいる。私がオルデンで作った索引と、同じ三つだ。
抜き差しの跡がある。だが、乱れていない。抜かれた場所には、代わりの木札が差してある。誰が、いつ持ち出したかを示す札だ。
――返却の管理まで。
私は、指先が冷たくなるのを感じた。
この館は、完璧だった。
私が十年かけて作りたかったものが、ここに、とうに完成していた。
「……なんだ、ここ」
後ろで、ヨナが呟いた。
彼の声には、恐怖がなかった。彼が呟いたのは、もっと単純な感想だった。
「綺麗だ」
その一言が、私の胸に刺さった。
オルデンの棚を見たとき、彼は同じことを言った。
美しいのだ。
この国の密告の記録は、憎しみでできていない。
愛でできている。
通路の途中に、机が並んでいた。書役たちが、黙って紙を繰っている。十人ほど。誰も顔を上げない。
その手つきを、私は見た。
速い。丁寧だ。紙を傷めない。
――レンツと、同じ手だ。
彼らは、みな、どこかの区で誰にも読まれない記録を整えていた者たちなのだろう。そして、ある日、使えると言われた者たち。
嬉しかったのだ、と、レンツは言った。
この部屋には、その嬉しさが、静かに満ちていた。
通路の、いちばん奥。
窓の下に、机が一つあった。
他の机と、同じ形をしていた。大きくもなく、飾りもない。書役の机だった。
そこに、老人が座っていた。
痩せた男だった。背が丸く、頭髪は薄い。上等でない灰色の上衣を着ている。
彼は、紙を繰っていた。
私が近づいても、顔を上げなかった。
二尺ほどの距離まで来て、私は立ち止まった。
案内の者は、扉のところで消えている。ヨナは、少し離れて止まった。
老人は、なお、紙を繰っていた。
私は、待った。
急かさなかった。
――待つべき場面だ。
この人は、繰りかけの綴りを、途中で置かない。置けば、どこまで見たかが曖昧になる。それを厭う人間の、背中の丸め方だった。
やがて、最後の一枚が終わった。
老人は、紐を締め直した。二度、返して。
それから、顔を上げた。
小さな目だった。優しくも、鋭くもない。よく眠れていない者の目だった。
彼は、私を見て、少しだけ首を傾げた。
そして、こう言った。
「あなたの綴じ方は、紐を二度返しますね」
私は、息を止めた。
挨拶ではなかった。名乗りでもなかった。
この人は、私が誰かを、とうに知っている。知ったうえで、いちばん先に、それを言った。
「ええ。一度では、緩みますので」
「そうです」
老人は、頷いた。
「一度では、緩む。三度は、紙が痛む」
彼は、締め直したばかりの綴りを、そっと脇へ置いた。
その置き方を、私は目で追った。
角を揃えて、机の縁から指一本分内側に。
――私と、同じだ。
落ちないように。だが、机の端に寄せて場所を空けるように。
この老人の手は、私の手と、同じ癖を持っていた。
どこの誰にも教わらず、ただ長い年月、同じことを繰り返した者だけが持つ癖を。
「記録卿ザカリアスです」
彼は、そう名乗った。
「よく、いらしてくださいました」
敵の本拠を、いちばん美しい場所として書きました。
この館の美しさが分かってしまうことが、リリアーナにとっての恐怖です。




