第110話 宮廷の値踏み
記録卿に会う前に、宮廷に上がることになった。
順序が決まっている、とイリスは言った。外国の官吏が記録院に入るには、まず宮廷に名を通さねばならない。
「形式です。形式ですが、形式を踏まないと、あなたは記録院に入った瞬間に不法侵入になります」
「よく、できていますね」
「ええ。この国は、形式だけは、たいへんよくできています」
宮廷の大広間は、天井が高かった。
柱が並び、その下に人が立っている。誰も動かない。
私は、王国の広間を思い出した。あそこも高かった。あの朝、白い光が差し込んで、私は真ん中に立たされていた。
――似ている。
似ているが、違う。
王国の広間には、声があった。人がざわめき、誰かが私を指さし、誰かが目を逸らした。感情が、あった。
ここには、それがない。
全員が、同じ距離で立っている。同じ角度で頭を下げる。感情の温度が、部屋全体でひとつに揃えられている。
揃えられている、というのが、いちばん近い言い方だった。
「巡察府長官、バルテル卿」
案内の者が言った。
太った男を想像していた。違った。
背の高い、姿勢のいい男だった。五十ほど。軍人のような体つきで、目だけが役人のものだった。
「王国裁定院の院長どのが、辺境の埃がお好きとは」
最初の一言が、それだった。
私は、頭を下げた。
「埃は、どこにでもございます。帝都にも」
「ほう」
「掃除の行き届いた場所ほど、床下に集まります」
バルテルの目が、ほんの少し動いた。
周りの誰かが、息を呑んだ音がした。
「……面白い」
彼は、そう言った。笑ってはいなかった。
「オルデンで、何をしておられる」
「記録を整えております」
「整えて、どうなる」
「配給が、村へ届くようになりました」
「それは、役場の仕事だ」
「役場が、できていませんでしたので」
バルテルの表情から、面白がる色が消えた。
私は、続けた。
「昨年の冬、オルデン向けの麦の二割が、途中で消えていました。誰かが盗んだのではありません。帳簿が二重に走って、突き合わせる者がいなかっただけです。突き合わせたら、出てきました」
「数字の話か」
「はい」
「数字は、いくらでも作れる」
「作れます」
私は、そこで一度、言葉を置いた。
「ですから、私は作りません。作った数字は、突き合わせると、必ず合わなくなりますので」
広間の空気が、少し動いた。
バルテルが、口を閉じた。
その隣に立っていた若い男が、初めて口を開いた。
「兄が世話になっている」
その人を見た。
三十代半ば。アルミンに、少し似ていた。目のあたりではない。口の形が。
「第一皇子、オイゲン殿下」
「弟だ」
彼は、訂正した。
「兄ではない。アルミンは、弟だ」
私は、もう一度、頭を下げた。
「失礼いたしました」
「よい。よく間違えられる」
オイゲンは、そう言った。
声に、棘はなかった。
「弟が、離宮で客を迎えているそうだな。二十年ぶりのことだ」
「私が、押しかけております」
「そうか」
彼は、それ以上訊かなかった。
だが、去り際に、一度だけ振り返った。
「エルフェルト殿」
「はい」
「弟に、余計なことを教えないでいただきたい」
声は、静かだった。
脅しではなかった。
「あれは、教えられると、言ってしまう。言えば、この宮廷では長く生きられない。私は、二十年、それを止めてきた」
私は、返す言葉を持たなかった。
この人は、悪い人ではない。アルミンが言ったとおりだった。
この人は、弟を殺さないために、二十年、弟を無能にし続けた。
――それも、この国の作法か。
守ることと、閉じ込めることが、区別できない国。
オイゲンは、去った。
広間を出ると、廊下は長かった。
窓のない廊下だった。両側に扉が並び、そのどれもが閉まっている。
いちばん奥に、大きな扉が一つあった。
他の扉より、少しだけ古い。彫りが浅く、装飾がない。だが、金具だけが磨かれていた。
案内の者が、そこで足を止めた。
「記録院でございます」
オイゲンを悪役にしませんでした。この兄は、弟を守るために弟を無能にした人です。
帝国は、守ることと閉じ込めることの区別がつかなくなった国として書いています。




