第109話 帝都へ
イリスの書状は、三行だった。
『帝都へ来られたい。日は問わない。ただし、来られる前に、あなたが何を持っているかを教えていただきたい』
この人らしい、と思った。
呼び出しではなく、交渉の申し出だった。手札を先に見せろ、と言っている。見せなければ、守れないからだ。
返事を書いた。
『三十年分の写しを、十分の一まで作りました。日付の欄に、一つ気になることがあります。それだけです』
嘘は書かなかった。
全部も、書かなかった。
馬車で、十日。
来たときと同じ道を、逆に走った。
あのときは、一人だった。今度は、ヨナがいた。
この青年は、オルデンから出たことがない。生まれて二十年、この区の外を知らない。
馬車が国境の丘を越えたとき、彼は窓から身を乗り出して、しばらく黙っていた。
「……広いな」
それだけ言った。
三日目、彼は帳面を出して、道々の村の名を書き始めた。
誰にも頼まれていない。ただ、通り過ぎる村に、名があることを、書いておきたくなったのだと思う。
――伝染するものだ。
それを、見ないふりをした。
帝都は、白かった。
石造りの街だ。壁が高く、通りが広い。人が多いのに、静かだった。
オルデンの静けさは、貧しさの静けさだった。ここの静けさは、違う。
人が、互いを見ないようにしている静けさだった。
通りで肩がぶつかっても、誰も相手の顔を見ない。見て、覚えて、あとで告げられるのを避けている。
ヨナが、小声で言った。
「……あんた、この街、どう思う」
「よく、掃除されています」
「それだけか」
「掃除の行き届いた家ほど、床下に何かあるものです」
ヨナが、口の端を上げた。
宰相府は、宮廷の西にあった。
イリスは、書類の山の向こうにいた。
私を見て、彼女は立ち上がりもせずに言った。
「痩せましたね」
「そちらもです」
「私は元からです」
彼女は、書類を脇へ寄せた。それが、この人の歓迎だった。
「座って。そちらの青年も」
ヨナが、身を固くした。宰相府の椅子に座るということが、彼にとって何を意味するのか、私には測れなかった。
「日付の話を」
イリスは、前置きを省いた。
私は、話した。
検分書の一件。証言者は目撃者でなければならないという第二条。だが、告発の日付が、行為の日付より前に置かれている記録があること。
そして、三十年分の写しを作りながら、それが一件ではないと分かり始めたこと。
イリスの表情は、動かなかった。
最後まで聞いて、彼女は、指を組んだ。
「……いくつ、見つけました」
「十分の一を写して、二百三十四件です」
書類の山の向こうで、筆が一本、転がって止まった。
「単純に伸ばせば」
「二千を、超えます」
「二千」
イリスは、目を閉じた。
しばらく、そうしていた。
開いたとき、彼女の目には、これまで見たことのない色があった。
「リリアーナ殿。それは、爆薬です」
「ええ」
「私が扱えば、宰相府ごと吹き飛びます」
「ええ」
「あなたが扱えば、あなたが吹き飛びます」
「ええ。だから、まだ、どこにも出していません」
イリスは、指を組み直した。
「一つ、確かめます。あなたは、これで実権派を潰したいのですか」
「いいえ」
私は、即答した。
「潰しても、渦は止まりません」
彼女の眉が、わずかに動いた。
「……渦」
「この国の断罪は、上から降っていません。横から回っています。頂の一人を落としても、明日、隣の家がまた急いで告げる」
私は、机の上に手を置いた。
「私が止めたいのは、人ではなく、決まりです。先に告げた者は問われない、という一行を」
イリスは、長いこと私を見ていた。
やがて、彼女は、初めて椅子の背にもたれた。
「……あなたは、本当に、やりにくい人だ」
「褒め言葉として、受け取ります」
「褒めています」
彼女は、そう言って、机の引き出しから一通の書状を取り出した。
白い紙。上等な封蝋。
見覚えのある紋だった。
「三日前に届きました」
イリスは、それを滑らせて寄越した。
「記録卿が、あなたに会いたいと言っています」
数字が出ました。二千件。ここから第二部は、後戻りできない場所へ入っていきます。
イリスは相変わらず、味方であって善人ではありません。




