第108話 無能でいるという仕事
私は、その日から、離宮に通うようになった。
三日に一度、半日ほど。帳面を読み、分からないところを訊く。アルミンは、最初のうち落ち着かない様子だったが、四度目には、私の分の椅子を出しておくようになった。
十年分は、深かった。
この人の目は、正確だった。感情を書き足さない。推測を事実の顔で書かない。分からないことは、分からないと書いてある。
――訓練を受けていない人の、天然の誠実だ。
私は、少し嫉妬した。
私がそれを覚えるのに、何年もかかったからだ。
「アルミンさま」
六度目の訪問だったと思う。
私は、六年目の頁を開いたまま、訊いた。
「なぜ、宮廷を離れられたのですか」
アルミンは、すぐには口を開かなかった。
窓の外の若木を見ていた。
「……兄上が、そのほうがよいとお考えになった」
「第一皇子の」
「オイゲン兄上だ。悪い人ではない」
彼は、そう付け足した。
「本当に、悪い人ではないのだ。私を害そうとしたことはない。ただ、私が宮廷にいると、都合が悪かった」
「都合」
「私が、余計なことを言うからだ」
アルミンが、初めて少し笑った。
「北の村の話を、した。麦が届いていないと。三度目に言ったとき、兄上が言われた。おまえは、政というものを分かっていない、と」
「……」
「あれは、正しい。私は、分かっていなかった。麦を届けるには、どの家の顔を立て、誰の分を削るかを決めねばならない。私は、それができなかった。ただ、届いていない、とだけ言った」
彼は、机の木目を指でなぞった。
「言い続ける者は、無能と呼ばれる。この国では、そうなっている」
「呼ばれて、どうしましたか」
「訂正しなかった」
アルミンは、あっさりと言った。
「無能でいるほうが、楽だった。……いや、違うな。無能でいるほうが、生きやすかった」
頁から目を上げた。
「有能な皇族は、この国では、長く生きられない」
彼の声が、少しだけ低くなった。
「母上が、そうだった」
私は、目を上げた。
「お母上」
「宮廷の女官だった。皇子を産んだが、位は上がらなかった。よく物を見る人で、よく口に出す人だった」
アルミンは、窓を見たままだった。
「私が十一のときに、告発された。罪状は、覚えていない。……いや、嘘だ。覚えている。禁じられた集まりに出た、というものだった」
禁じられた集まり。
ヨナの家族と、同じ罪状だった。
この国でいちばんよく使われる欄。何もなくても書ける、便利な一行。
「証言者は、匿名だった。弁明の場は、なかった。三日で、いなくなった」
「……アルミンさま」
「私は、そのとき、初めて政というものを見た」
彼は、こちらを向いた。
静かな目だった。恨みも、涙もない。ただ、十一の年から二十年、消えずに残っているものの目だった。
「以来、私は、上手く立ち回れなくなった。立ち回れば、母上を告げた者たちの列に、自分が並ぶことになる気がして」
庭で、鳥が鳴いた。
いくつかのことを、考えていた。
この人は、制度の受け手になれる。あの離宮で初めて会った日に、私はそう思った。人の痛みが分かり、断罪を疑い、誠実だから。
――違った。
この人は、受け手なのではない。
この人は、被害者だ。密告統治が、皇族の中にまで作った、二十年分の被害者だ。
だからこそ。
――この人が立てば、この国の話になる。
外から来た私が制度を持ち込むのではない。この国の内側で、断罪に殺された者の子が、断罪を終わらせると言う。
それは、押しつけではない。
私は、その考えを、すぐには口にしなかった。
口にすれば、この人を使うことになる。イリスが私を使うと言ったように。
――嘘は、つかない。
だが、まだ言う時ではない。
帳面に目を戻した。
「アルミンさま。この六年目の、断罪が増えた区ですが」
「ああ」
「新しい役人が来た年と、重なっています。この人の名は、他の年にも出てきますか」
アルミンが、少し身を乗り出した。
「――待て。八年目にも、いたかもしれない」
彼は、自分で帳面を繰り始めた。
その手つきが、速かった。
どこに何があるか、この人は覚えている。十年分を、頭に入れている。
それを、見ていた。
――無能。
この国は、この目を、二十年、無能と呼んできた。
夕暮れ、離宮を出ると、道でヨナが待っていた。
珍しいことだった。
「視察官どの」
彼は、一通の書状を差し出した。
「帝都から」
封蝋は、記録卿のものではなかった。
宰相府の紋だった。
アルミンを「善良だが無力な皇子」で終わらせないための回でした。
無能と呼ばれることが、生き延びる技術になる国。そこがこの帝国のいちばん深いところだと思っています。




