第107話 離宮の帳面
ヨナは、テオに何も言わなかった。
麦は足りていたか、と訊いただけだった。テオは、足りませんでした、と答えた。ヨナは、そうか、と言って、配給の綴りを開いた。
それだけだった。
テオが帰ったあと、私は何も訊かなかった。
訊かれたくないだろうと思ったからだ。
夕方、ヨナが、ぽつりと言った。
「……言えるようになったら、言う」
「ええ」
「まだ、無理だ」
「無理でいいと思います」
彼は、短く息を吐いた。
それきり、その話は終わりだった。
数日後、私は離宮へ行った。
アルミンを訪ねるのは、二度目だった。
庭には、あの若木があった。添え木は、まだ当たっている。幹が少し太くなったように見えた。
皇子は、庭にはいなかった。
小さな石の家の、日の当たる部屋にいた。
窓辺に机が一つ。その上に、帳面が積まれている。
扉の前で、足を止めた。
――記録だ。
積み方で、分かった。年ごとに揃えられ、背が手前に向いている。すぐ引けるように置かれた帳面の、置き方だった。
アルミンが、顔を上げた。
そして、私の視線の先に気づいて、あわてて帳面を伏せた。
「ああ、これは」
言い訳を探す顔だった。
「見苦しいものだ。片づける」
「アルミンさま」
「それは、何年分ですか」
彼は、手を止めた。
やがて、諦めたように、伏せた帳面から手を離した。
「……十年だ」
「拝見しても」
「面白いものではない」
「面白くない記録を、私はたくさん読んできました」
アルミンは、少し笑った。
それから、一冊を、こちらへ滑らせた。
頁を開いた。
中は、細かい字で埋まっていた。
日付。村の名。人の名。
その年、その村で、何人が死んだか。飢えか、病か、断罪か。誰の家が畑を手放したか。誰が村を出たか。子が何人生まれ、何人が冬を越せなかったか。
名前で、書かれていた。
人数ではなく。
次の頁へ、手が勝手に動いた。
三年目の冬。北の三つの村で、麦が届かなかった。届かなかった理由は書かれていない。書けなかったのだろう。だが、その冬に死んだ十九人の名は、一人残らず書いてある。
六年目。ある区で断罪が急に増えた。その前の年に、新しい役人が来ている。
九年目。ある村が、丸ごと消えている。名だけが、二十三、並んでいた。
顔を上げた。
「これは、いつからですか」
「二十歳の年からだ」
アルミンは、窓の外を見ていた。
「宮廷にいた頃、報告というものを見た。数字だけが書いてある。北方三区、死者十九。それを読んで、誰も何も言わなかった」
彼の指が、机の縁を撫でた。
「十九という数字は、忘れられる。私も、三日で忘れた。忘れた自分に、驚いた」
「それで、名前を」
「名前なら、忘れないと思った」
彼は、帳面に目を落としたまま言った。
「思っただけだ。実際は、名前でも忘れる。だから、書いた」
帳面を閉じた。
この十年、彼は、誰にも命じられず、誰にも読まれず、これを書き続けてきた。
褒める者は、いない。
――知っている。
私は、その手つきを、知っている。
修道領の記録庫で、名を奪われた私が、毎晩していたことだ。
「アルミンさま。これは、記録です」
「いや」
彼は、首を振った。
「これは、記録ではない」
声が、少し低くなった。
「記録というのは、使うものだろう。誰かが読み、何かが動く。これは、動かない。私が忘れないための、ただの言い訳だ」
自嘲では、なかった。
この人は、いつも、自嘲しない。事実だと思っていることを、そのまま言う。
「私は、力がない。知っていても、何もできない。名前を書き留めて、それで何かをした気になっている。それがいちばん、たちが悪い」
私は、帳面の上に、手を置いた。
言いたいことが、いくつかあった。
この十年は無駄ではない、とか。これは立派な仕事だ、とか。
――言わない。
この人に、慰めは要らない。かつての私が、それを要らなかったように。
「アルミンさま」
「なんだ」
「この帳面を、私に読ませてください」
彼が、こちらを向いた。
「……読んで、どうする」
「読みます。あなたは、これは動かないと言いました。ですが、動くかどうかは、書いた人ではなく、読んだ人が決めます」
アルミンが、目を見張った。
「私は、いま、読みました。これで、この帳面は、動いたことになります」
書いた人ではなく、読んだ人が決める。この作品の記録観の、いちばん芯にある考え方です。
アルミンの十年は、リリアーナの修道領の夜と、同じ形をしています。




