第106話 憎む相手のいない罪
これ、どうすればいいんだよ。
その問いに、私は、すぐには返せなかった。
答えを持っていなかったからではない。持っている答えが、この朝の彼に届く形をしていなかったからだ。
湯を沸かした。
庫の隅の小さな炉で、鉄の器に雪を入れて溶かし、それを沸かした。茶葉はない。ただの白湯だ。
二つ、器に注いで、一つを彼の前に置いた。
ヨナは、それを両手で持った。
しばらく、湯気を見ていた。
「ヨナ」
「……ああ」
「憎む相手が見つからないのは、あなたが不運だからではありません」
彼が、顔を上げた。
「この国の断罪が、そういう作りだからです」
自分の器を置いた。
「昨日、五万件を数えました。告げた者が、いずれ告げられる。落ちた者の子が、また誰かを落とす。あの渦の中に、始めた人はいません」
「じゃあ、誰の罪なんだ」
「様式の罪です」
ヨナが、眉を寄せた。
「紙の?」
「紙の」
私は、器を脇へ寄せた。
「先に告げた者は問われない、と決めた者がいます。それだけで、人は急ぐようになりました。疑う前に告げる。親しいほど早く告げる。ハルドどのは、悪人だから告げたのではないと、私は思います」
「じゃあ、なんで」
「怖かったからです」
声を、落とした。
「そして、怖がらせる仕組みを作った者は、一枚も紙を書いていません。ただ、決まりを一行、置いただけです」
ヨナは、器を握ったまま、動かなかった。
「……それ、卑怯じゃないか」
「ええ」
「刃を振るってねえのに、いちばん殺してる」
「ええ」
私は、初めて、はっきりと言った。
「それが、この国でいちばん強い者のやり方です」
庫の外で、雪が屋根から落ちた。
ヨナが、器の湯を一口飲んだ。
しばらくして、彼は言った。
「……あんたの国では、どうだった」
「私の国では、断罪は上から降ってきました」
私は、少しだけ昔の話をした。
「殿下がいて、証言があって、大勢の前で読み上げられて。私は、弁明しました。届きませんでした。届かないと分かってから、追放されるまで、三日でした」
「三日」
「ええ。私は、その三日を、いまでも覚えています」
白い光の朝。
誰も私を見なかった、あの広間。
「王国の断罪は、分かりやすかった。憎む相手がいました。私を陥れた人も、信じてくれなかった人も、名前と顔がありました」
「憎んだのか」
「憎みました」
隠さずに、言った。
「憎んで、それから、憎むのをやめました。やめられたのは、憎む相手が生きていて、その人たちが変わるところを、見られたからです。幸運でした」
ヨナが、私を見ていた。
「あなたには、その幸運がありません」
「ハルドどのは、変わるところを見せずに死にました。あなたは、赦すことも、憎み続けることも、選べない」
「……ああ」
「だから、私は、あなたに赦せとは言いません。言う資格がない」
ヨナが、うつむいた。
器の中の湯が、揺れていた。
「じゃあ、俺は、どうすりゃいい」
机の上の写しの束に、手を置いた。
昨日の夜、二人で写した分。まだ、三十年分の百分の一にも届かない量だ。
「終わらせましょう」
「憎む代わりに」
ヨナが、こちらを向いた。
「あなたの家族を告げた人は、もういません。ですが、あの人を怖がらせた決まりは、まだ生きています。今日も、どこかの村で、誰かが隣の家を急いで告げている」
私は、束を、彼のほうへ少しだけ押した。
「憎む相手はいなくても、終わらせる相手はいます」
ヨナは、しばらく束を見ていた。
それから、器を置いた。
湯は、まだ半分残っていた。
「……三十年分だぞ」
「ええ」
「冬が終わるまでに、終わらねえ」
「ええ。二年かかるかもしれません」
「二年」
「一人でやれば、五年です」
ヨナが、鼻から短く息を吐いた。
笑ったのだ、と気づくまでに、少しかかった。三度目だった。
「……変えたい」
ヨナは、そう言った。
初めて、その言葉を口にした。
「俺は、これを、変えたい」
昼過ぎ、テオが庫に来た。
配給の用で来たのだ。彼は何も知らない。ヨナが去年、記録で自分を救ったことは知っているが、その先のことは、何も。
ヨナが、立ち上がった。
止めなかった。
彼は、テオの前に立って、しばらく黙っていた。
それから、言った。
「テオ」
「はい」
「……お前んちの麦、去年の冬、足りてたか」
憎む相手ではなく、終わらせる相手。第二部のテーマが、ここでヨナの側に渡ります。
ヨナがテオに何を言うのか、次回まで少しだけ引っぱらせてください。




