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FASTEST!!  作者: サトシアキラ
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第16-03話


 ……それからイニングは進んで四回の表ツーアウト、再び伊東との対決を迎えることとなった。その他の打者はというとだな。正直に申し上げれば……俺の前に立ち塞がるような大したタマは居なかった。

 もっとも、それを分からせてくれる様なバッティングはしてこないし、第一バットを一回も振らないって言うんだから徹底している。『チームの勝利』という錦の御旗の為には、個人の欲望などは一切合切無視されるんだ。『チーム優先』と『子供のため』という二つの理念を都合の良いようにその都度すり替えるやり方は、何も今更突っ込む様なことではないのだろうけど。

 俺はといえば、伊東を迎えるまで完全に抑えてやっている。三回から四回ツーアウトまで四奪三振のおまけ付きだ。怯えていやがるのが丸わかりなんだよ。万が一、一発でも頭部に当てられたらどうなるか、自分の行く末が簡単に予測できる球威だけに、じっくりとボール見定めが可能なはずのバントでさえまともに転がせていない。お陰でスリーバント失敗が増え、一塁カバーに入らずとも事が済むこっちには有り難い限りだ。

 姑息な手段を使う輩に屈してたまるか、と意気込んだはいいが、それを貫くのもまた困難な道のりだ。自分が一度決めたことを曲げない、というのは人間にとって非常に大事な、しかし誰にも認められない代わりに自分しか判断基準のないあやふやなものだけど、曲げるなんて出来ないしな。曲げたときは、特殊能力を与えられた俺というアスリートとしての人間が消え去る時だ。

 大歓声の中、伊東がまた素振りをくれながらバッターボックスへ入った。それがヤケにもったいぶっていやがる上に、端正なマスクにニヤけた薄ら寒いばかりのほほえみをこびりつかせていやがるから見ていて苛つくぜ。審判さん、遅延行為で警告をしてもいいんですよ?

 さて、と。

 前の打席は外角のボールをあっさりと右方向へ運ばれたからな……コースはそこそこだったが、球威が伴っていなければスタンドへ運ばれてもおかしくないくらいの思い切った読みだった。それを踏まえた上で、藤間は一体どういうボールを要求するのか。このリードの善し悪しで捕手としての真価が問われるだろう。

 伊東の眼光は、相変わらず大して鋭いとは言えない。万物を理解してしまったと思いこんでいる、しかし実際にはその知識が半端な識者のような、濁った目だ。去年の県大会決勝戦では、まるでこの世のあらゆる人間から裏切られたかのような暗い目つきだった。そしてこの前の練習試合の時はというと……やっぱり、どこかしらに余裕がある瞳をしていたな。憎たらしい。悦に入るほど自分の発達した技量がお好みかい。だったら、一発でその慢心を消し去ってやらないとな。

 サインは、今度は外へのスライダーから入る。コースは限定せず、ボールになってもいいらしい。俺のピッチングの組み立てはストレートから入るのが当たり前というか、そうしてくれた方がテンポを掴むのは簡単だ。故に読まれる可能性も増すのだが。そこで敢えて初球に変化球で外すのか。確かに頷く代わりにマサカリのモーションを起こし、スライダーを投げるっ!


 このボールも、キレ・コントロール共に上々だった。見惚れるような角度で鋭角にえぐれるのがマウンド上からでも確認出来たから。ただ、やや外に外れすぎてボール。それよりも驚いたのは、裏をかいたはずのこの一球も、伊東は一塁方向に一歩踏み込んでいた事だ。この外し方も読まれてるっていうのか?

 伊東は何食わぬ顔でバットを構え続ける、さっさと投げてこいと言わんばかりに。スピードを由とする俺だ、その位の挑発には乗ってやらないこともない。

 サインは、内角低めへの速球。外を見せた後に内を付くボールだ、まず対応できないだろう。

 俺も藤間もそう思ったから投げたのだというのに、伊東の奴にはそれすらもお見通しだと言うのか、投げた瞬間に今度は三塁側に身体を開きやがった。だが、開きすぎたせいか打球は三塁側を大きく外れてファウルグラウンドを転々とした。打球そのものは痛烈で、転がったボールは遙か外野のフェンスにまで到達し、跳ね返ってレフトの黒沢が抑えるまで勢いを失わなかった。ジャストミートはされてるってわけだな。

 二打席目までに伊東に投じた三球、全てが奴の読み通り。これはピッチングの組み立てを変えるしか無さそうだが、藤間はどう考えている?

 三球目のサイン、ストレート。もう一球内角の厳しいところ。二球連続して厳しいコースに来るとは流石に思わないだろう。例え読まれたところで球威でねじ伏せてやる。……しかし、二球目のストレートを読まれていたとはいえ完全に弾き返されていたのは気になるな。スウィングスピードもパワーも以前より格段に増している。甘いボールが真ん中に入ったらどうなるかは言わずもがなだ。

 止みそうもない、また止める気もない応援という喧噪の中、暑さのせいで上手く働かない頭を必死に巡らせる。ここは俺の感性で投球を組み立てた方が良いのか、それとも今まで通り藤間に全てを託すか。

 考えるまでもないか。

 ……もとより俺に他の選択肢なぞ存在しないじゃないか。

 藤間が俺のボールを受けてくれる以上、疑うことなど許されない。自分が信じるのは自分のボールのみ。言い方を変えれば『配球のせいで打たれた』という言い訳に転じる事も出来ようが、それは即ち自分の心を折ることに他ならない。

 覚悟を決めよう。

 俺は、藤間に全てを託す。自分のピッチングに集中することだけを考えよう。

 そう、カベに投げているときと同じように。

 三球目!

 キレもまたもや申し分なし。どうやら今日は絶好調の部類に属する。球数は少ないながらも変化球の曲がりやコントロールだって抜群だ。

 伊東はこのボールを落ち着き払って見送り、ストライク。追い込まれたというのに余裕の表情を崩さない。さっきは手を出したボールなのだから、想像したとおり虚を突かれたのかと思いきや……やっぱり身体を内角球用に開き気味に構えていた。……妙だ。ここまで読まれているとなると、投球フォーム的な欠陥から球種とコースが漏れている可能性がある。しかし解せないのは、球種だけならまだしもコースまで読まれている点だ。今のボールだって、手を出したら飛ばなかったりファウルになるかもと分かっているからこそ見送ったのだろう。くそ、こんなことがあってたまるか。といっても、自分でフォームの欠陥が思い当たらない以上ここは耐えるしかない。

 つまり、速球しか結局頼るものはない。

 分かっていても打てない、当たっても前に飛ばない、そんな理想的な速球を俺は持っている。やるしかないだろ。しかし、藤間の四球目のサインは……

 カーブ。バッターにぶつかろうとする軌道から内角ギリギリに入る、例の奴だ。

 ……これが伊東でなければ、多分問答無用で見逃すか空振りするか、いずれにせよ凡退の目処が付くのだが。ええい、迷いはミー最大のエネミーね!訳の分からないテンションで無理矢理迷いを振り切り、モーションを起こす!

 びしっ、と指が鳴った。

 いつものように上空高く舞い上がるかに見えたボールは、その後急激にコースを変えて弧を描き、伊東の足下を襲う。……襲うには襲ったが、ボールが手を離れた瞬間、俺にはある種の確信が走った。

 そしてその確信の通りに……


 がっ、きぃいいいいぃぃぃいん……


 と、喧噪の中でも響き渡るほどの清々しいミート音を残し、打球は白い航跡となって左翼スタンド目がけアーチを描いた。

 不思議なもので、あまりに良い当たりの打球ほどボールが舞い上がった瞬間に歓声が消える。決して『打球がホームランになるかフェアゾーンに落ちるか』を固唾を飲んで見守っているのではない。


 ……一目見ただけでホームランと分かる打球が何処まで飛ぶかに固唾を飲んでいたんだ。

 数秒経ち、白球はレフトスタンドで楽しげに一回跳ね、それから白い衣服に埋め尽くされた中に溶け込んでしまい見えなくなった。


 伊東が晴れ晴れとした顔でダイヤモンドを一周している間、藤間がマウンドまでやってきていた。その表情は、俺に一体どんな言葉を掛けたらショックを払拭出来るかと迷っているようだったが、そんな藤間に

「心配すんな」

 と、機先を制するように言ってやった。

「でも……」

「カーブを打たれたくらいでクヨクヨしてられっかよ。……ストレートをスタンドまで持って行かれたら流石にどうか自信がないけどな」

 茶化してみせるが、藤間は巨体を縮こまらせて済まなさそうに項垂れている。

「リードを気にしてるのか?」

「……」

「お前の方こそ気にすんなよ。たまたま裏の裏をかいたつもりが表になっちまったってだけだろ?多分。ま、俺の何らかの癖を見破られた可能性も否定できないけどな」

 照れ隠しに……多少の強がりも含んでいたことは否めないが、一応は頼もしい態度を取りつつ……満員のスタンドを見つめる。立錐の余地もないとはこの事を表すのか、といったら言いすぎだけど。だって、そうなったら売り子さんが通れないじゃないか!

 ……うーん、我ながら強がりの矛先を捜すのも大変だ。

「だから、お前も何か気付いたら……って、おい、どうした?」

 視線を戻すと、何と。

「目にゴミが入ったとかっていうありがちなオチじゃないよな?」

 藤間のマスクの隙間から見えるものは、涙。

「おいおい……どうしたんだよ、この世の終わりが来ちまった様なツラして」

 理由も分からずに泣き腫らす藤間をあやす様は、まるで夜泣きする赤ん坊を宥めるが如く……もちろん実際に経験したことなどない。

「加藤、さん」

「何だよ、打たれたのがそんなに悔しいか?そりゃ確かにホームランは痛いが」

 藤間に責任は無い。奴のリードは少なくとも俺が疑念を挟めるようなもんじゃ……いや、正直に告白すれば多少はあったが、最初から藤間に組み立て任せると言った以上言い訳にするつもりはない。

「違うんです」

「何がだよ」

「……とにかく、違うんです」

 しゃくり上げながら涙声で話す巨体はハタから見れば奇妙極まりないが、さんざ体育会系で精神を鍛えられてきたであろう藤間が涙するほどなのだ。よっぽどの事情があると見て間違いない。というか無かったら困る。

「違うのか」

「はい」

 しゃくり上げながら肯定する藤間。つまり、藤間には打たれる原因が分かっていた、そういうことなのか?

「説明してくれるか……と言いたいところだが、今は時間がない。この回が終わったら、でいいか?」

「分かりました」

 とは言ったも鎧のの、次のイニング、二人目に俺の打席が回ってくるな。どうやら話を聞く時間はなさそうだ。

「とりあえず、この回を抑えちまおうぜ。じゃなきゃ落ち着かねえ」

「はい」

 マスクを取って顔を拭うこともせずにホームへと戻る藤間。気になるな、男臭いくらい男な藤間の涙なのだから。

 しかし、今はそれを振り払って投げる。なーに、伊東を除けばあとは全員雑魚も一緒だ、言葉は悪いが。とっとと片付けるとするか。

 藤間のサインは、やはりそれからもストレート主体の強気一辺倒だった。そういえば、変化球を多投するのは伊東の打席だけだな。変化球を混ぜて攪乱するのは分かるのだが。




 想像通り、伊東以外の打者は鎧袖一触で恐れるに足らず。伊東の次のバッターも、ついでに五回の表、横浜学院の攻撃もヒットを許さず一気に片を付けた。

 相手はバカの一つ覚えとしか言いようのないバント戦法を崩すことはないが、ここまでくると戦法というより偏執狂か何かの類にしか見えないのは笑えるな。その証拠に、俺に『バント責めでダッシュさせようキャンペーン』を強要したところで、ちっとも効果が上がらない事に気付き、明らかに動揺し始めている。相手ベンチの動きと、ベンチの中の人間の浮かない顔を見りゃ分かる。

 しかし、一点を先制された五塚の攻撃も……正直に表現するなら手も足も出ないという方が正しい。スライダーと速球のコンビネーションに頼みに藤間もまるで手が出ていないのだ。マジで延長15回でトータルで試合を組み立て直さなきゃならんようだな。

 そして。

 結局、藤間に話を聞く機会を逃したまま回が進んでしまったのは誤算だった。白状してしまうと、そろそろ俺の方にも余裕が無くなってきたからだ。集中を切らすと即ボールがあらぬ方向に飛んでいったり球威が激減したりするもんだから、表面上は余裕そうに振る舞うのが精一杯。藤間の頬を濡らす理由を聞く心構えがないのだ。

 

 回は進んで七回の表。三度の伊東との対決。気が重いが、スタンドの湧き上がり具合から察して、群衆は待ちに待ってましたという感じか。俺に立ち向かうには他の打者があまりに力不足な事は周知の事実なのだろう。まあ打者一巡の時点でどんな野球の素人にもどちらが格上か判別が付くような、分かりやすいピッチングを展開していたつもりだからな。それにしても、観衆の皆々様には楽しみにしている伊東との対決が少なくて申し訳ございませんね、と嘯うそぶきたくなる。何しろ相手が打てないもんだから打順の進みが遅いのよ。

 ……さて、一応は宿敵を迎えた藤間の反応は、と見ると。

 やっぱり、藤間は伊東に対して何らかの複雑な感情を抱いていることは疑いようのない事実のようだ。何故なら、藤間は伊東から一瞥を貰う度に顔を逸らすんだ。しかも伊東の奴と来たら、悪趣味にもその光景を見てニヤつきやがるんだぜ。弱みを握っている上で完全に弄ばれていると言った方が正しいだろう。何だって言うんだ、一体。

 伊東はそりゃもう自信満々にバットの先をこっちに突きつけ、いかにも『打ってやるぞ!』というアピール。大仰なことこの上ない。パフォーマンス巧者も度が過ぎると鼻に突くよな……伊東に関しては今更言うまでもないけど。

 さあ藤間、サインを出せ、その伊東を手もなく捻り潰してしまうお前の選択を!

 初球は……ストレート。しかもど真ん中!藤間ほどのキャッチャーが出すど真ん中のサインだ、つまりは俺の速球を『どんな変化球よりも鋭く、どんな変化球よりも打たれない』と判断してくれてのことなんだ。

 やるぜ。

 マサカリのモーションに入った瞬間、球場内が固唾を飲んだ。それまで熱気に膨張していた空気が、凍り付くような緊張感を含んだ空気で一気にグラウンド内に収縮された様な気がする。

 放たれたボールは、俺の見た目からは地面に叩き付けられそうになるほど低い軌道を描いたかと思いきや、ホームベースとの中間当たりから急激に浮き上がる。……あくまでそういうイメージだぞ。自分としては叩き付けるような感覚で放って丁度いいって事だ。

 だが……伊東はそのボールをあっさりと見逃しやがった。微動だにせず。つまり癖を見抜かれているのはどんなボールでも変わらないらしい。俺の方も、どのモーションのどこの部分をどのように修正していいか対策を施していないのだから読まれて当然か。だからこそ藤間は速球を選択しているのだろうが。

 伊東の瞳は、相変わらずというか見飽きたくらいにクドい蔑さげすみの色を湛えている。仮にも勝負の世界に生きようという男の目がそれでは、迫力も説得力もあったもんじゃないと思うけどな。

 カウント1-0からのサインはまたもやストレート、コースは真ん中高め。相手の反応を見つつ、手を出してくれれば儲けものという一球。おおよそ最善の選択だ。取り合えず打たれることのない速球でカウントを整えられればそれで良い。

 伊東はその渾身の二球目も余裕を持って見逃した。これもストライク。相手の反応を見ることが出来たという点からもカウント的に追い込んだ点からも非常に有意義な一投ではある。……結局伊東は何もしなかったんだけどね。

 大体のカラクリが読めてきた俺は、ここで一計を案じた。自分の名案に内心ほくそ笑みながらもあくまで心の中に止めておき、表情で悟らせないようにマサカリのモーションを起こす。

 伊東は前の打席の再来を信じて疑わないのか、やっぱり余裕綽々しゃくしゃく。俺にとってはそんな表情が癪癪しゃくしゃく。端正なおすまし顔を歪めるべく投じる!

 瞬間。

 伊東の両目が驚愕に見開かれる。

 何故なら……俺が投じたのは、ハエの止まる様なという古典的な表現がぴったりマッチする超スローボールだったからだ。盛大に身体を前方に突っ込ませていた伊東は、そのボールにつんのめりながらも手を出し、


 がつ。


 と、鈍い音を響き渡らせ何とかかんとかカットで逃げた。俺のおちょくった様な大胆極まりないスローボールに、スタンドはざわめきに包まれている。大騒ぎもせず、かといって沈黙もせず。このボールの意義そのものが分からないようだ。

 しかし伊東は、伊達に高校球界で浮き名を流しているわけではない。今の一球、完全にタイミングをずらしたと思ったのに。ミート技術だけは悔しいが誉めるしか無さそうだ。

 伊東はというと、何故か藤間に恐ろしいほど険悪な目を向けている。まるで視線で人を射殺せると信じているかの様な、吐き気を催す程の憎悪に満ちた、そしてドブの様に濁った瞳だった。おちょくられたとでも思ったんだろうな。実際、それに近いものを乗せて放ったわけだけれども。

 ……しかし、今放ったスローボールによる収穫は非常に有意義なものだった。大体のカラクリが把握できてしまったからな。

 何故かというと。

 今のスローボールは、ストレートを投げるのと全く同じモーションで投げたからだ。腕をテイクバックしてからボールをリリースするその直前まで、速球を投げると身体に予めすり込まれた全力のフォームで放ろうとしていた。その時点から、手首のスナップを全く利かせずに……そうだな、手で押しだそうとするようなと表現した方が良いかな。とにかく、様子を見たのだ。

 これによると、伊東は純粋に飛来するボールを見極めているのではなく、ワインドアップからボールをリリースするまでの時点で球種を判別している事がはっきりした。今の一球、奴のタイミングが速球に的を絞っていたことからも、またこれまでの投球、内角球に身体を開いたり外角球に脚を踏み込んだ辺りでも伺える。

 藤間のリード云々ではない、明らかに俺の方に非があるのだ。

 となれば、やはり変化球は危ない。ストライクゾーンに入るボールを読まれていたら確実に……もともと、打者は次に来る球種を予想できれば高い確率で芯に捉えることができるという。その常識を唯一破れる方法が、つまりは速球、しかも俺の放るスピードボールしかないのだ。

 だが、予想に反して次のサインは……スライダー。やや早め、小さく外角に逃げてゆくバージョン。このボールは直球と全く同じ腕の振りながら指を僅かにずらして投げる為に、もし伊東が俺のフォームの欠陥から球種を読んでいるなら効果的な筈だった。

 振りかぶってモーションを起こす!

 またもや、指先で感じる限りキレは絶好調だ。伊東が本当にフォームの癖を見抜いているなら、この一球にも引っかかるはず。

 果たして、ボールは俺の意志を乗せて走っているかと錯覚するほど正確にイメージ通りの軌道をトレースした。

 そして……結果から言うと、伊東は予想通り反応した。紛れもなく手を出した。だが、予想通りだったのはそこまで。

 一瞬身体を開いたように見えた伊東は、そこから外角のスライダーを右手を押し込むように捉え、


 グわ、きぃん。


 という、野球を嗜たしな)んでいる人間なら何度聞いても惚れ惚れする程の快音をグラウンドに轟かせ、歓声と不快指数最大値をミックスした空気を切り裂く、鉄板をも撃ち抜く様な打球を、熱気で霞んだ右翼方向へ運んだのだった。




 その回の裏。

 後続をぴしゃりと抑えた俺は、藤間に呼び出されてベンチ裏へと赴く。藤間は回が終わると、こうべを垂れながら俺をベンチ裏へと誘いざなった。とうとう『何か』を話してくれる気になったらしい。

「藤間」

 薄暗いベンチ裏にやってきたはいいが、俯いたままでなかなか喋ろうとしない藤間を見かねて声を掛ける。それで藤間はやっと顔を上げたが、案の定というかまたもや頬を涙で濡らしていた。ベンチ裏にやってくる直前までマスクを外さなかった所を見ると、かなり前から泣き腫らしていたらしい。よく見ると瞳が真っ赤に充血している。それにしてもよくそんな状態で俺のボールを捕れてたな。

「話してくれないか、全てを。何がお前をそこまで追い詰めてるのか」

 今度こそ、俺は大方を悟ってしまった。前々から、特に甲子園こっちに来てから腑に落ちない事象はいくつもあったけど、今日で殆ど分かっちまったんだ。

「……」

 しゃくり上げる藤間。このままでは埒が明かない。だが……掛ける言葉もない。藤間が自発的に喋ってくれるのを待つだけだが……藤間の打席が迫っている。

「藤間。正直に言って欲しい。具体的に聞きたいのはだな……お前と伊東の関係、かな」

 巨体がぴくりと動いた。やはりカギはそこか。

「前々から奇妙だとは思ってたんだ。伊東と面識があってもそりゃ不思議はないが、本当に不思議なのは二人の接触だったんだよな。お前も人に見られて不思議がられないとは思ってもなかっただろ?でも、多分お前自身が考えている以上に違和感有りまくりだったから気がついたんだけどな」

 藤間は何も言わない。身動き一つしない。俯いたまま、生きてるのか死んでるのか……は流石に分かるが、意識があるのかどうかすら疑わしいほど微動だにしなかった。かろうじて呼吸で生じる肩の上下動だけが藤間をこの世の住人と認識させている。

 さて、ここからどう切り出すか。仮にも18年間生きてきた俺だ、ちょっとはオブラートに包んだ物の言い様を習得していて当然の筈なのだが、これまで遠慮というものをおおよそ考えたこともなかったからな。

「だから、さ……」

 グラウンドの方で大歓声が上がった。今は確か一番の屋久が打席に入っているはずだが、何らかの動きがあったらしい。もちろん、奥に引っ込んでいる俺らにはどんな動きか知る由もないが。とにかく、早く片付けないと藤間の出番が来ちまう。

「お前と伊東は」

「加藤さん」

 ようやく顔を上げた。その真っ赤な瞳に宿るもの、それは多分、決意。他人のこんな真剣な表情、今までに見た記憶がない。……いや、正しくは一度だけある。その時の経験から言って、決意だろう。

「そこからは自分に言わせてください」

 『いかにも体育会系』な一人称が藤間の生い立ちを物語っているような気さえした。少なくとも、『野球選手』としての歩みは俺以上の存在であることに異論を挟む人間は居ないと信じている。

「……良いんだぞ、皆まで言わなくても」

「言わせてください。自分は……懺悔したいんです。加藤さんにも、チームのみんなにも」

「……」

 俺の予想通りなら、一体どれだけの衝撃が走るか分からない。決勝戦という大事な舞台に影さえ落としかねない。

「じゃあ、まずは俺に言ってくれるか。皆に話すかどうかはそれから決める」

 いきなり大告白をして動揺を誘うより、まず懺悔を聞いてみよう。それ位のクッションを置く余裕くらいはある。

「はい」

 未だに真っ赤に充血した藤間の瞳に、しかしもはや迷いはなかった。澄んだ瞳が眩しくて、今度は俺がその告白を受け止めてやれるかどうかが不安だった。

「自分は、自分は……」

 ……。



「横浜学院と通じています」



 予想通りとはいえ、頭を金槌で殴られたような衝撃だった。予めヘルメットを被っていても、重い金槌で殴られれば意味がない首が折れちまうか、脳みそが損傷するか。

「……」

「正確には伊東さん本人です」

「なるほど」

 全てのピースが繋がった。今まで、伊東がことごとく俺のボールに対応していた理由が。ここまで三打数三安打二本塁打、完璧に打ち込まれていたカラクリが。

「なるほど……って、分かってたんですか?」

「まぁな。この俺が、しかもお前のリード通りに投げてんのにぽこぽこ打たれる方がおかしいだろ、どう考えても」

「加藤さん……」

 絞り出すように俺の名前を呼ぶと、また俯いてしまう。確かにスパイの自白は辛いだろうな。結局、どうして良いか分からずに立ちつくすのみ……と思ったが、藤間の決意は堅かった。

「自分には、横浜学院の系列中学に通っている弟がいるんです」

「うん」

「弟の学費・生活費と、それに……奨学金諸々の都合を受ける事を条件に、自分が五塚に送り込まれたんです。……伊東さん本人に頼まれて」

「……随分と金持ちなんだな」

 弟の学費。奨学金。両の親がいない筈の伊東が出すには莫大すぎる額の筈だが。その金の出所は聞かないようにしよう。

「スパイをするため……か。にしても、どうしてスパイなんて?俺がこんな舞台まで勝ち進んできたから良いようなものの、予選で負けてたら、その労力はどうするつもりだったんだ」

「そうなったらそうなったでいいと。しかし、出来るだけ五塚に貢献して、甲子園にまで引っ張ってこいと」

「……」

 呆れた。詳しい事情は後で聞くにせよ、そこまでして俺を討ち取りたいとは……随分な執念の持ち主に目を付けられちまったもんだな、俺も。ここまで行くと、怒りを覚えるどころか関心するな。

「……今打ち明けてくれたって事は?」

 それが聞きたかった。まさか伊東に荷担してくれ、なんて言い出さないだろうなと不埒にも考えたが、

「自分は、束縛から……伊東さんから……決別します」

 と、実に潔い言葉を聞くことが出来た。

「俺は良いんだぜ……と言いたいところだが、何しろチームに迷惑が掛るからな。それがいい。でも……いいのか?弟さんは」

「構いません。自分の野球選手としての本能と誇りに掛けて伊東さんを討ち取ってみたいですし、何より、血の滲むような努力をしてきた加藤さんを騙し続ける事なんて出来ませんよ。弟もきっと『正々堂々とした勝負が見たい』と言ってくれると思います。それに」

「それに?」

 藤間は更に真摯な、そして何か懐かしいような、苦しいような、複雑かつ真摯な瞳で俺を見つめ、

「加藤さんの本気の勝負を見てみたいんです」

 自らの気持ちに嘘はつけなかった、か。それにしても良く言ってくれた。自分の根底を揺るがしかねない、そしてこの事が外に漏れたらどれほどの騒動になるか分からない重大な事を良く俺に打ち明けてくれた。そんなことをされたら……後輩が可愛くならない訳が無いじゃないか。

「……怒らないんですか?」

「そんな事情まで話されちゃ怒るわけにもいかねぇな。例えどんな方法だとしても家族を想うのは良いことだぜ。ま、これがもし自分の小遣い欲しさとかだったらそれこそ大変な目に遭わせてやるつもりだったけど」

 ……腕力ではとても叶いそうにないから、順調に暴露方面だろうか。俺ってひょっとして腹黒いのかもな。今頃気が付いたのかと言われそうだけどね。

「家……はっきり言っちまって悪いけど、苦しい……んだよな?」

「え……はい」

 だろうなぁ。俺は、家庭の事情、つまり貧しくて、シニアへの道はおろか進学への道も閉ざされた人間を知っている。そう、カベだ。

「とりあえず、今はそんな話をしてるどころじゃ無いらしいぞ」

「え?」

 アゴでベンチ方面を示してやると、愛沢が大あわてで藤間を手招きしている。尾曽の打席が終わり、ネクストバッターズサークルに入らなきゃいかんらしい。

「続きは後で、だな」

「……はい」

 藤間は軽く一礼をすると、踵きびすを返してベンチへと戻ってゆく。

 その後ろ姿を見送りながら、ふーっと大きな溜息を一つ付いて通路の壁にもたれかかった。

 ……スパイ、か。

 はっきり言って、伊東との対決の時には『それらしい感じ』はしていたんだ、あれだけ配球をズバズバ当てられたら誰だって不審を抱くだろうし。しかし確信なんてものはもちろん無かったから、このまま疑心暗鬼状態で投げているよりどれほどマシなことか。

 さっきも言ったように、俺一人が屈辱にまみれたフリをしていれば弟さんも道を失わずに済んだろうが、投手が投げるというのは野球の始まりであるだけに、チーム全体を崩壊させてしまうことに他ならない。……天秤に掛けて、チームのことを選んだ俺を……誰かは理解してくれるだろうか。


 しばらく深呼吸を繰り返すと、だんだん頭が落ち着いてきた。これまでの状況を思い返して……

「やっぱり腹が立つな」

 リスクを犯してまで俺に勝利することを望んだ伊東。逆に言えば、自分のリスクでチームはおろか自分の所属している高校にまで被害を及ぼしかねない手段を選んだ奴に、ふつふつとした怒りがこみ上げてきた。スパイを使うなんてそれ自体が許されざる行為だというのに。そこまでの怨恨を売りつけた覚えが無いこともないが、それにしてもまさか。

 しかしこれで伊東に容赦しない理由が出来た。残りの打席は……このまま進めばあと一打席か。アスリートとしての威信も誇りも捨てて『加藤聖に勝利』という形のない欲望と名誉のみにこだわった哀れな大男を、俺は許さない。『どんな手段を用いても勝てば官軍』と言う現在の日本の象徴をこの手で、このピッチングで捻り潰してやる。


 拳を強く握りしめると、グラウンドから再びの大歓声が届いてきた。また動いたか。では、そろそろ行きますかいね。



 ゆっくりと歩を進め、再び戦場へと舞い戻るべく薄暗いベンチ裏を後にした。




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