第16-02話
そういえば、真理から恒例の試合前通信が来なかったな……と思い出して、今はそれどころじゃないと頭を振りきる。
天気は快晴。夏なのにやけに澄み渡った青空が逆に不気味だ。
時刻は午後十二時五十九分。試合開始まであと一分という心地良い緊張感の中、藤間からの返球を受け取る。これから俺が最後の投球練習をすれば試合が始まるのだ。
スタンドを見回してみると、マスゴミが望み、煽り立てた筋書き通り『高校No.1バッターVSピッチャー』に事が進んだのもあってか超満員に膨れあがっていた。見渡す限り人、人、人……白い衣服に身を包み、団扇をぱたぱたやりながら観戦している姿は、紛れもなく日本の夏以外の何物でもない。ちょっとした勝負のアヤで、俺たちがスタンドでかち割りを啜っている状況もあり得たかと思うと……本当に良くここまで来られたよな。
感覚的に無数とも思える人の中に見知った顔が居ないのは当たり前だが、やっぱり……これだけの期間真理の顔を見られないのは寂しいな。俺という奴は、電話での定期連絡だけじゃ物足りなくなってきてる。あれだけの美貌だから当然といえば当然だが……優しくも存在感のある笑顔は何よりのココロへの栄養だ。
ぶんぶんと首を振って未練を振り払って最後の練習球を投げると、藤間は惚れ惚れするようなフォームで二塁へ送球。コントロールも申し分なく、二塁ベース手前に差し出される屋久のグラブに吸い込まれてゆく。
……俺の18メートル強向こうに座っているのがカベではないという、俺にとっては決して小さくはない変化は、自分の中で意外なほど冷静に受け止められていた。試合中じゃないし、実際にカベとの違いを感じている最中ではないからかも知れないが。
しかし代役を務める藤間は、掛け値なしに捕手としての技術はカベに遅れを取らない。問題はリードだけだが……何処まで再現……おっとと、藤間は藤間、カベはカベ。比較するのは良くないよな……と理屈では分かっていても、やはり構えるミットの色が違うと、マウンドからでも投手が受ける印象は大分変わってくる。それがピッチングにどれだけ影響するかなんて今判別のしようもないけど。何しろ、俺はほとんどカベ相手に投げ続けて来たんだからな。藤間とのバッテリーを練習で数試合経験した現状では藤間との相性は悪くはなかったと記憶してるけど、さてどうなりますことやら。
あの耳障りなサイレンが鳴り響き、主審の右手が挙がった。運命の幕開け、プレイボールだ。
相手の一番は、ちょっと前の横浜学院グラウンドでの練習試合と多分同じバッター。俺のこれまでの武勇伝は耳にタコができるほど聞いているだろうから、何か策を弄してきてもおかしくはない……思うが早いか、
端っからバントの構えをして来やがった。これはつまり、俺に対する『バント責めの刑』を執行する』という宣告なんだろうな。俺から早いイニングに点を奪うのは望み薄、だったら長期戦で痛めつけていこうという陰険かつ消極的極まりない戦略だろう。が、そんな下らない作戦に屈するなどあってはならない。テレビの前で固唾を飲んで戦況を見つめて居るであろう良い子のみんなの為にも。『所詮は個人の我は姑息で周到な手段に優る』などと、現在の日本が抱えている問題そのものを肯定するような結果にだけはしてはならない。
しからばどうするか?
答えは簡単、俺が一人相撲を取らなければいいのだ。捕手の仕事は全て藤間に任せる。それ以外に何があるというのだ。幸いなことに、藤間の捕手としての実力は甲子園に来て以来全く露出がないから、盗塁の一つでもすぱっと刺してやれば、横浜学院は攻める手段の一つをあっさりと失ってしまうだろう。それまでひたすら耐えるしかない。
第一球。
サインは……外角低めのストレート。そうそう、それでいい。一番素直だが一番打ちにくい球、それが力のある速球だ。ここで何か色気を出したりして変化球でも要求しようものなら相手の思う壺だ。変化球はスピードが遅い分バントがやりやすいらしいからな。何故『らしい』なのかというとだな……俺は向かってくる球が変化球だろうが速球だろうがマトモに転がせた試しがないからだ。うう、我ながら情けない。
俺はいつもの様に、相手に最大限の威圧を与えるべく100パーセントの力でモーションを起こし、力む寸前に入魂の一球を投じる!
どかん!
何事もなくボールはミットに突き刺さった。
一応ダッシュした俺を後目に、バッターはバントの構えを解いてボールを見逃す。投球そのものはストライクだが、奴らの狙いはダッシュを強要することによる体力の消耗だ。かといってダッシュしなければあっさりピッチャー前にバントを決められるだろう。そもそも俺のフィールディングが良くないだけに、好投手攻略の常道といえどもシンプルイズベストと言える戦略だ。
しかし……困るな横浜学院の諸君、俺のスタミナを侮ってもらっては。こちとら、投球ごとのダッシュなんて慣れっこなんだぜ?一試合に平均して放る更に上を行く球数分のダッシュをこなしたことさえあるんだ。無駄無駄。……そう思いこんで自分に暗示を掛けなければ、きっとイライラで独り相撲を取って自滅への道を歩むだろうからな。この試合は延長上等、15イニングトータルで考えていかなければならない。俺にはその長丁場を戦えるだけのスタミナが蓄蔵されているんだ。
……そうだろ、カベ?
カベは起きてるかな。過労って言うくらいだから眠っていてもおかしくないけど、出来たらラジオででも戦況を聞いていてもらいたいものだ。そして窮地に陥ったらアドヴァイスをくれ。カベが思っていることは必ず俺に通じるから。
二球目、高めのストレート。
打者はバントの構えを崩さない。ひょっとしたらバットを引いてバッティングに転じてくるかとも思ったが、それこそ小細工に過ぎないことは相手も良く分かっているらしい。三球三振してもいいから、その都度俺にダッシュさせてスタミナを削ることが目的のようだ。
仮に9イニングを27人全員三振で切り抜けられたとしても、最低でも81本分はダッシュしなけりゃならない計算か。数字だけで見ると嫌気が差しかねないから止めておこう。もう遅いかも知れないけど。
三球目。サインは……ストレート。やるねぇ、藤間。俺のやりたいことがきちんと分かって……いるのか?
三度マサカリ。もはやこの投法なしで俺という存在を説明することなど成し得ない。なにしろ俺に野球という途方もない広大な世界を教えてくれたものだから。野球をやらなければ人の波に埋もれていた俺という人間を掘り起こしてくれたということでもある。
だからさ……バットを振らねぇで何が野球だってんだ、
よっ!
『よっ!』の部分でボールをリリース。ボールの切れ味、サイコー!……かと思いきや……ちょっとした違和感を覚えるが、いや、気のせいだと思い直す。その証拠に、
「ストライーク、バッターアウッ!」
大歓声。
打者が手も足もバントも出ずに三振しちまったじゃねぇか。バントしてるはずなのにボールがその上をくぐる、投手をやってこれ以上の快感なんて無いぜ?
バットを確かめながらベンチに下がる敵の一番打者。バットのせいにするなんてスポーツマンらしくないぜ?一体何年野球をやって何を学んでるんだ。
それから……相手の二番・三番とも同じようにバントの構えから三振(二番はスリーバント失敗だ)。三者三振という最高の滑り出しで一回の裏を終えた。相手に与えるインパクトとしては上々だろう。練習試合をパスしちまった時の俺はもう何処にも居ないぜっていうか忘れてくれると有り難い、心の底からそう思うぞ。
大歓声に迎えられてベンチへ下がる。我が五塚は意気軒昂、雰囲気的に一分の隙もない。最後の試合に最高のモチベーション、望むところじゃないか。
ベンチの中では、やはり決勝戦という舞台を迎えながらも楽しげなチームメイトの姿が見える。一球も彼らに打球を飛ばしていないのもまた好影響か。打球は飛んでこなくとも、守備位置に付いているだけで場に慣れるだろうし……今まで甲子園で何試合こなしているんだって話だけれどもね。
……そして攻撃は五塚に移る。
打順はもちろん一番の屋久から。俊足である屋久がどうにかして塁をかき回してくれれば少しは突破口が開けるのかも知れないが……
きっちり三球でベンチに帰ってきた。
一、二球目にカーブとスライダーをぽんぽん小気味よく放られ、三球目の外角低めのストレートをあっさりと見逃して三振だ。相手のお株を奪うセーフティー攻撃を仕掛けるヒマもない。
返ってきた屋久は項垂れながらも何かしらの収穫はあったらしく、次打者の尾曽になにやら耳打ち。よし、これで攻略のヒントでも掴んだかな?と思うより早くセカンドゴロでベンチにご帰還だ。もう少し球を良く見ろと俺が言っても全く説得力が無いが、初球から手を出すとなるとそれなりの『打ち頃の球』は見つけたのかも知れない。
三番は昨日までなら藤間が座っていたのだが、今日は規定通り黒沢が入っている。こうしてみると、一、二年だけで練習をやっていた新チーム成りたての頃を思い出すな。……思えば、俺とカベとの『特訓』はあの頃から続いてたんだよな。
それにしても、相手投手の田原は『スライダーマシン』の異名が示すとおり、投球の半分以上を切れ味鋭いスライダーが占めると聞いたのだが、今のところスライダーを多投しているといった印象は無いな。伝家の宝刀を軽々しく抜く相手でもないと見たのか、それとも後でピッチングの組み立てをがらりと変えてこちらの目くらましをするつもりなのか。どちらにせよ小憎らしいくらいの配慮だな。
さて、黒沢はというと……カウント1-1からの直球に詰まってサードへの内野フライ。どうやら藤間以外の打撃は期待薄。皆には悪いが、藤間に何とか好機で打席を回して欲しいところだが……とりあえず目が慣れる一巡目は駄目そうだな。
そして遂に奴との対決がやってきてしまった。
「二回の表、横浜学院の攻撃は」
ぶんぶんと調子コイて素振りをくれながら打席に入ってくるその男。
長身。
整った顔立ち。
脚、長ぇ。
何もかも恵まれた、しかし唯一恵まれていないのは出自だけと専らの噂、更には出自自体が己の全てを鍛え上げる源となったと公言してはばからない、
「四番、センター、伊東くん」
その名前がコールされた瞬間、球場内が一斉に沸いた。一塁側も三塁側も関係なく、ただ観客全体が対決をひたすらに待ち侘びていたらしい。
伊東 光。
『宿命のライバル』だそうだ、伊東曰く。もちろん俺は一度も認めたことはない。第一、中学時代の対戦から僅かに一、二本だけしかヒットを打たれていない相手を何故、好敵手扱いせにゃならんのだ。
しかし周囲の見方は全くの正反対と言い切れる様だ。準々決勝後のインタビューに
『加藤くん、伊東くんとのライバル対決が迫ってきましたが、何かメッセージやエールは』
思想も知識も何もない、どっかのライターが間抜け面下げて聞いて来やがるから、
『無いですよ、そんなもん。あいつはライバルなんかじゃないです』
とバカ正直に言っちまったぜ。もちろん、翌日のスポーツ紙の一面が『待ってました』とばかりそりゃあ楽しい文面になってたけどな。
何も伊東を持ち上げる取材を受けたのはあの時が初めてじゃない。俺の思惑など露知らず、実際の力関係などロクに推し量ろうとせずに、
『伊東=善、これからの日本球界をリードする天才』
『加藤=悪、伊東に立ち塞がる、しかし仕舞いには打ち砕かれる体の良いやられ役』
という単純な図式に押し込もうとしてるのは見え見えだった。そのイライラが高じてあんな暴言に近い言葉を吐いたわけだが……別段後悔してる訳じゃない。その代わり、新聞社やテレビを通じての俺への非難は相当数に上ったらしいが。曰く、
『高校生が言う台詞じゃない』
『生意気だ』
『相手を尊重する気持ちはないのか』
等々、反吐ヘドの出るような良い子ちゃんな意見ばかりのようだ。何故これを俺が知っているのかというと、やっぱりスポーツ新聞が面白可笑しく『こんな投書や電話があった』って取り上げやがったからだ。
それにしても……高校生らしくないとか何とか……それだったら、公共の電波で敵意を剥き出しにしてる伊東の方はどうなるって言うんだろうねぇ。そりゃ言葉は『ライバル』に留まってはいるが、言葉の節々から伝わってくるのは『加藤憎し』だからなあ、健気なくらいに。これだけ憎まれてるなんて、俺は自分の知らないところであいつの両親でも殺めてないと納得できないぞ。
……つまり、あいつにとってはそれと同等な程の屈辱だった訳だ、あの時……中学時代の四打席連続三振は。参るよなぁ、全ては自分が冷静さを失っただけだっていうのに。しかし、伊東がここまで周囲を味方に付けてしまえば俺の言葉に耳を貸す者など皆無だろうからな。俺の方が悲劇のヒーローを名乗っても良さそうなもんだ。
その伊東は、知り合いであるらしい藤間とは一瞥もせずにバットを構えた。流石に試合中というのをわきまえているらしいが……不気味だな。何故なら。
常に去年の県大会や今年の練習試合で見せつけられた、憎悪に凝り固まった背筋も凍るような視線が俺に届いて来なかったからだ。よほど余裕があるのか、それとも俺の気のせいか。いや、視線もバッターにとって重要なバッティングの武器だとカベに聞いたことがあるから、気のせいなんかじゃないだろう。……しかしその余裕はどこから来るのか?
背中にうすら寒いもの感じながら伊東に相対する。
伊東の使っているバットは、マウンドから見たかぎりやや短めのものをチョイスしている模様で、伊東の恵まれた体格から相対的に短く見えるというのでもなさそうだ。直球の球威とスピードに負けないように少しでも振りやすい形状を選択したのだろう。
さあ、そんな涙ぐましい努力をしている伊東くんはどんなバッティングを見せてくれるのだろうか。藤間のサインは……
常道とも言える外角低めへの速球、だそうだ。初球からこの球を打たれる事はまずない。投手の生命線、初球でファーストストライクを取れるかどうか。その日のピッチングの組み立てが容易になるか苦心するかの分かれ道だ。
第一球目。この一球で伊東にどれだけのインパクトを与えられるかが問題だ。あいつの増長したモノの考え方を少しは是正してやるインパクトが。特に伊東を抑えるに当たってのカギになるだろうそれは、他の並の選手に投げる一球とは訳が違う。伊東を抑えることによって、他の三下バッターには手も足も出ないと思わせる崇高な指名さえ持っているのだから。
野球を始めてから一体何回繰り返したか知れないマサカリのモーションを起こす。最早俺の身体に馴染んだそれは、ミリ単位の軸のブレをも許容しない。
ぶわっ、
と空気が渦巻く。
蹴り出された軸足に噛んだ砂が舞う。その散る様が激しければ激しいほど俺のピッチングのダイナミックさが弾けている証拠。
びしっ、と指先からリリース音。その音も俺の調子を量るバロメーターだ。それらすべてから導き出される総合的な自己診断の最終結果は。
今日の調子も最高だぜっ!
に尽きる。
……少なくとも俺はそう思った。実際、放たれたボールはキレもコントロールも申し分なく、狙い通りに藤間の構えた場所に突き進んでゆく。
だが、伊東はそのボールを読んでいたかのように……いや、実際読んでいたんだろう、一塁側に脚を踏み出して捉えやがった。
思わず、敵ながら天晴れと言ってやりたくなってしまう華麗な流し打ち。打球は一塁線ギリギリを破ってゆく。急いで尾曽が追いかけるが、二塁を回ったところで貪欲にも三塁を伺う伊東を牽制するのが精一杯。悠々と所謂スタンディングダブルを許してしまった。それにしても初っ端から俺の配球を読まれているとは思いもしなかった。藤間は絶対に振ってこないであろうボールを考えたんだろうに。前の試合の菅生といい、甲子園という環境は人に説明の付かない力を与えてくれちゃうらしいな。
しかし不思議なのは、長年憎んでいた俺からヒットを打ったというのに、当の伊東本人は何故か不満顔だったって事だ。どうやらホームランでなければ満足にはほど遠いということのようだ、強欲な奴め。
さてその後はというと。五番バッターまでもがバント責・めに邁進する。ここまでバントに固執していると、却って攻めどころを放棄しているように見えるのは気のせいか?バントは確かにランナーを進める点では確実だが、同時に守備側にアウトをくれてやって攻撃側の選択肢を狭めるというデメリットも併せ持つんだぜ。
結局の所、五番打者はセーフティーをやるつもりがサードの真ん前に転がし、結果送りバントに。ワンナウト三塁。状況は不利だな、一応。
相手が相手だけにいきなりスクイズのセンも考えられるが、そうなってくると俺らにはツラい。守備の乱れも考えられるし、もしそうなったら取り返しが付かなくなる。守備の乱れからの失点なんて最悪だ。必然的に俺たちバッテリーの採る手段は限られる。藤間も同じ思いのようだ。何故なら、サインは高めのストレート一本に集約されていたから。
つまりはこういうことだ。
全力のストレートを高めに投げ込むことによってバントの小フライ化を狙う。もしスクイズしてくるにしても、小フライなら御の字で空振りだったらランナーも殺せて万々歳。見逃されてフォアボールになっても満塁になるまでは我慢する。……つまり、俺の速球をまともに弾き返せないと決めてかかっての作戦なんだ。もし満塁になったら多少は慌てるかも知れないが、それでも俺を打ち崩す可能性があるのは伊東だけだし。
さて、どう出てくる。セットポジション時に三塁に視線をやると、伊東はちょろちょろ俺をからかうような動きをしてやがる。非常に鬱陶しい。ホームスチールをやらない以上出しゃばらないでくれ。
……投げる。
一球目、真ん中高めのストレート。コースは微妙だが、スピードのせいか打者はバントをしようとするが空振り。
二球目、同じコースにストレート。これも空振り。空振りする度にダッシュしようとする伊東が踏みとどまるのがおかしかった。
三球目、またもやストレート。打者も他に投げる選択肢がないのは分かっている筈なのに、やっぱりバントの構えのまま。俺のボールをストレートと読めていても弾き返せない、その事もちゃんとわきまえているらしい。仮にも全国的に名前を知られた高校の打者がこれではなぁ。本人はもっと屈辱だろうが。
で、結果はもちろんというかバックネット裏へのスリーバント失敗。もちろん三振だ。 ツーアウトになってしまえばこちらに恐いものなどなにもない。いつものように自由気ままに投げるだけだ。藤間のリードは変化球が少なめなのが特徴といえば特徴だが、俺の長所を最大限に生かして居るという事でもある。デメリットとして、変化球自体のキレが球数不足でイマイチ確認しづらいというのはあるが、今は考えなくても良いだろう。
次の六番打者もファーストへの内野フライに仕留めて二回の表の攻撃は終了した。打ち上げた瞬間のスタンドの溜息といったら……『溜息』と辞書にサンプルとして載りそうなくらいに揃ってたぞ。つまり、スタンド中、観客の殆どが俺の敵な訳ね。よーく分かりました。逆に言えばめっちゃ注目されてるって訳だもんな。それならそれで燃えますよ、俺は。
マウンドを降りながらそのスタンドに目をやる。白い衣服を着た沢山の人間を眺める振りをしながらも、心の奥底ではたった一人の人間を求めていた。来るはずがないと分かっては居ても、ひょっとしたらという思いを断ち切れない俺は、集中力散漫と非難されたりするのだろうか。
それでも……優しい三姉妹と出会って以来、こんなにも長い間離ればなれになったことはないからな。心が必然的に彼女らの姿を求めてしまう。普段一緒に生活しているときは意識なんてしたことがなかったのに、離れてみて初めて自分の環境が如何に恵まれていたかを理解できたなんて、遅すぎるにも程がある。
そう自分の気持ちに自分で納得がいった瞬間、視線の片隅に信じられない人物が垣間見えた。今し方否定したばかりの光景なのに、再び、しかも今度は現実にその姿を確認した瞬間、俺の心臓が浮き上がったような気さえした。自分の目がおかしくなってしまったのか?いや、現実を直視しろ。でも、こんな現実なら万々歳の大歓迎だ。
「どうした?加藤」
三塁側スタンドを見上げたまま動かない俺を訝しがったのか、黒沢が声を掛けてきた。黒沢は、俺の視線を追いかけて……ある一点で止まった。
「ははぁ、なるほどね。こりゃびっくりするわ」
と、一瞬驚きながらも、直後にさも合点がいったかのような面持ちで頷き、俺の背中をグラブで軽く叩いてから
「とにかく、炎天下に突っ立ってたら身体に毒だぜ」
そうニヤニヤ意地悪く笑いながらベンチへ下がる。言われなくても分かってるさ。名残惜しいが、ベンチに下がる。もちろんダグアウト裏へ下がり物理的に視線が遮断されるその瞬間まで対象を捉えたまま。
でも、クールなフリをするのもそこが限界。ダグアウト裏に行くと自然と頬が緩む。隠れてニヤケるのも大変だ。俺の環境をあまり知らない一年生が、ベンチ裏に縮こまり丸くなっている様はそりゃ奇妙に見えるだろうなぁ。
……嬉しかった。
電話で声を聞いているだけでは物足りなかった。ほんの少しだけ姿を見ることが出来ればそれで良かった。今、それが叶ったんだ。勇気百倍、元気溌剌!……まるでどっかの飲み物の宣伝文句みたいだが、俺にとってそれ以上の効力があるのも確かだ。
結局二回五塚の攻撃も、頼みの綱の藤間まであっさり倒れて三者凡退に終わったが、もうどうでも良い。これ以上点を取られる気なんてしなかったから。それにこれからはイニングの変わり目ごとに元気をもらえる。
走ってマウンドへ向かう途中、ベンチに例の影を追い求めた。その元気の源は、もちろんさっきと同じ位置、スタンドの中に居る。
……由紀姉さん。
……美奈津。
……そして、真理。
全員白系統の爽やかな夏服に身を包んだ、夏の妖精と見紛うばかりに美しい三姉妹がそこには座っていた。
俺の視線に気付いていた三人はそれぞれ、はにかんで、苦笑いして、優しく微笑んでいる。誰がどの笑みだったかは言わずもがな。
そう言えば、自宅への取材攻勢に悩む真理に『甲子園に来い』と提案したら言葉を濁していたっけ。多分、あの時から……ひょっとするとそれ以上前から観戦にに来ることは決まっていたんだな。で、今まで隠していたと。最初からあからさまに俺に伝えて居たら、腕が縮こまってしまうとでも思ったのか。それは彼女らの優しさと思って、有り難くその想いを受け取っておこう。
見ててくれよな、みんな。
今まで世話になった分、今ここでその集大成を見せるから。
マウンドに立つと、そこにはまるで別世界が広がっているようだった。広大な敷地に、詰め込まれた人間達。でも、何万人の名も知らぬ人々よりも三人の姉妹。
……そして、その中の一人の女の子。
その存在が俺にどれだけの力を与えてくれるのか。
計り知れない予感を胸に抱きつつ、投球練習を始めるのだった。




