第16-04話
……イニングは更に進み、九回の表ツーアウト。
言うまでもなく、四回目の伊東との対決を迎える。
得点は2-2、同点。
七回の裏に藤間のツーランホームランで試合を振り出しに戻したはいいが、やはりその後が続かずに同点止まり。予想されたとはいえ厳しい展開だ。しかしここは仲間を信じるしかない。反撃してくれると信じ、俺に出来る最高の仕事……つまり伊東を抑えるしか術は無いのだ。
藤間は俺に全てを打ち明けてくれた後の打席で見事に結果を出してくれた。俺も、もうサインを読まれる可能性が無い以上負けるわけにはいかない。いや、負ける訳がないんだ。
俺たちの間で起こった出来事を知らない伊東は、やはり鼻につくような澄まし顔で打席に近づいてきた。これから起こる悲劇を知らずにお目出度い奴だ。
とは言ったものの、これまで県予選・甲子園本戦と一人でずっと投げ続けていた疲労の蓄積は、もはやごまかしが利かない所にまで迫ってきている。如何にカベとの特訓が過酷だろうが、炎天下の、しかも全力投球というものは容赦なく体力を削り取って行きやがる。
目立つ疲労具合を挙げるとするなら、まずそろそろ握力が怪しくなってきた。絶好調故の、身体の中心に一本意識の芯が通った様な感覚も鈍りつつある。頭がぼーっとしかけてきているし怠い。眠い。腹減った。真理の膝で居眠りしたい。
……中に一つ不純なものも混じっているような気がするが、ともかく疲労困憊という文字が着実にのし掛かって来やがるぜ。こりゃ、全てが終わったら一週間はグッタリするな。全国数千校の頂点を争うという名誉の代わりに折角の夏休みが殆ど吹っ飛んじまうから、せめて最後の一週間くらいは夏を満喫したいものだが。
満喫するためにも、せめてこの打席くらいは一泡吹かせてやらにゃならん。俺の今まで積み上げてきたものの為にも、そしてこれから行く末の為にも。
球場内が固唾を飲んだように静まり返る。そうそう、あんた達は単なる傍観者だ。どちらかが勝つなんて予想は無粋も良いところ。第三者の予測の入り込む余地など、俺と伊東の勝負の間には微塵もない。
行くぜ、藤間。
このイニングが始まる前、藤間とはある取り決めをしていた。その取り決めとは、この打席に限りノーサイン。俺の速球一本で貫くことにしたのだ。無謀とも言える賭けだが、下手に変化球を投げるより打たれないし、身体への負担も少ないと踏んだ上での選択だ。カーブもスライダーもちょいと甘く入れば、即歓声を乗せてスタンドに運ぶ大飛球へと変貌しちまう。速球なら……まだまだイケる。少なくとも、そう思っている間は実際にキレてくれる。『気持ちが乗る』ってやつかな。
伊東が打席に入った。
その瞬間!
俺はサイン交換の時間も取らずにマサカリのモーションに入る。伊東が慌てふためくのがあまりにも滑稽で、ワインドアップ中に笑い出さないようこらえるのが大変だったぜ。多分、これまではサイン交換が終わった時点に何らかの方法でコースと球種を伝えていたのだろう。伊東はタイムを掛けるのも忘れ、急ぎバットを構えるが……
「すっとらーいく!」
間に合うはずもなく、為す術もなく見逃してストライク。
俺は心の中でガッツポーズだ。伊東はと言えば、しばらく呆然として自体の把握に努めているかと思えば、数秒後に凄まじい、それこそ憤怒の形相で藤間を睨み付けるが……当の藤間は素知らぬふりをして返球して寄越す。積年の鬱憤を全て晴らしたかのような表情は、まさしく『憑き物が落ちた』のだろう。非常に喜ばしい良いことだ。自分に嘘を吐いて生きるのは、自分を論理的に殺すこととイコールだから。藤間ほどの漢を、抜け殻のまま野辺に晒すには余りに惜しすぎる。
しかし、伊東は全てを悟ったのか……まるで顔芸の様に表情を一片。慢心が消え、去年までの俺が見知った様な、おおよそ人間が顔面の筋肉を動かして作りうる表情という表情が全て抜け落ちた。正直に言って恐い。端正な顔立ちだからこそ、底冷えのするような冷気を放っているような気さえする。
だけどな。
俺はもう騙されねぇぞ。
その卑怯な仮面を脱ぎ捨て、何処まで迫ってこられるかな?最初から面と向かって俺と勝負していなかったそのツケを、今すぐ、全部、一切合切、そしてこれからの分も払ってもらおう。
それだけの事をコイツはやらかしてくれたのだ。俺一人の鉄槌で済むなら安いもんだろう。
二球目。
伊東がついに牙をむいた。
と言っても、前の打席にスローボールをカットした実績もあるし、そもそもバッティングというものはマグレでもスタンドには放り込めないようになっている。例え力自慢のマッチョマンでも、まぐれ当たり以外はスタンドインの打球をコンスタントに飛ばすことなど出来ない。それが野球であり、また野球人として探求しなければならない永遠の秘法なのだ。
つまり何が言いたいのかというと、
伊東はただ者じゃ無いって事さ。それ位認めてやらんでもない。
……俺が素直に人を誉められないのは分かってるさ。特に相手は、散々俺をコケにしてくれた輩だし。
サインはもちろん無し。
構えたと同時にマサカリのモーションを起こしたと認めた伊東は、まさかそれが何を意味するのか分からないほど愚かではあるまい。とりあえず、藤間が自分の元を離れ完全に敵となった事実を飲み込んだのだろう。
だとしたら、俺も本気だ。いや、今までふざけてやっていたという意味ではなく、本気も本気、力まないようにして力を入れる(・・・・・・・・・・・・・・)一球だ。
分からせてやるよ、伊東。お前がスパイなどを使って打ち込もうとした、その浅ましさを。そして、スパイを使おうが使うまいが、元よりお前など相手にしていないと。
気合いが乗った。体調的にも疲れてきたがまだまだ。それらが繋がり合い、導き出される事象とは!
即ち。
「すっとらいくつー!」
球場内が静まり返った。
伊東はと言えば、ドが付くぐらい真ん中のボールを空振りした格好のまま固まっていた。
あまりの技量の差。伊東の想像した遙かに上を行くボールだったろう。俺も今気がついたが、今までにない感触が指の先に残っている。一体、テレビ中継のスピードガンは何キロを示しただろうか。
……各種マスコミが伝えるところでは、準決勝まで記録された真っ直ぐの平均球速は150㎞後半を記録していたらしい。今大会はおろか、この甲子園というしばしば伝説の生まれ得る舞台に於いても、恐らくは俺に比肩する投手は居ない。
伝説。
俺は、どうやらその域にまでたどり着けたようだ。
板東英二。
江川卓。
松坂大輔。
尾崎行雄。
池永正明。
後日、それこそ俺の子供の世代、孫の世代……伝説となっている各氏に並べて俺の名前を挙げてもらえるだろうか。
自分の功名心など大して気にする事もなかったが、こうして数々の伝説に触れていくと、その中に自分が加えられるかも知れないという事実は、夜布団に入ってからもしばらく寝付けないほどの興奮をいつの間にか俺に植え付けていた。
第三球。
藤間のマスク越しの瞳は語る、『遊び球は要りませんよ』と。俺も同じ考えだ。
伊東に立ち直らせるヒマを与えず、モーションを起こす。伊東はパニックに陥っているようだ。俺の速球の豹変にか、それとも自分のバッティングが通用しないことにか。
……かくして、伊東は速球にかすりもせず三振。高慢ちきで鼻持ちならない見下げた下衆野郎に裁きの鉄槌を!
伊東は、いつしかのように呆然とした面持ちで、そして審判に促されるままに打席を立ち去るその姿からは精気が消え失せている。どうした、伊東?お前の怨念というのは一打席討ち取られただけで萎えちまうような代物なのか?……でも俺の憤りはまだまだ晴れてねぇからな。
……
……
試合はとうとう延長戦に入り、そして入ってからもしばらくは淡々と時間とイニングが流れてゆく。
どうして淡々としてたのかって?そりゃ、九回の裏、五塚の攻撃もサヨナラ期の見せ場を作ることなく終了しちまったからさ。逆に、横浜学院の勝ち越し期も同時に俺が摘んでやったけどな。
回は進みに進んで15回の表、横浜学院本日の最後の攻撃。延長制限が15イニングまでとなった現在の甲子園では、一試合に限界の記録だ。限界と言えば……俺にもそろそろその時が近づいている。認めたくないけど、体中が怠い。それでも構わず相手打線を封じているのは、一体どんな奇跡によるものか、それともこれが俺の潜在能力とでもいうのか。それとも、決勝戦で熱戦を繰り広げているという精神的な充実の賜か。俺にとって理由はどれでも構わないが、とにかく最後まで持ってくれればそれでいい。
しかし……
最後のイニングに最大のピンチが訪れるとは。運命の神様とやらは病的にドラマチックな展開がお好きらしく、人に試練を与え、人が悶え苦しむ様を見ては悦に入っているとしか思えない。
状況はノーアウト満塁、迎えるバッターは三番の八代某。
参ったねぇ。
如何に俺のコントロールが絶妙だからといったって、狭いストライクゾーンの中に18.44メートル彼方からボール一個出し入れしろ何て言う方がおかしい。
つまり、フォアボールとエラー絡みでこんな状況を引き起こしてしまったわけだ。元々悪いのは、この回の先頭打者にフォアボールを与えて守りのリズムを崩してしまった自分にあるのだろうが、それにしても……
お空は太陽が燦々(ぎらぎら)と照りつけ、地上からは午前中に蓄えられた熱気と湿気が放出され、グラウンドを見渡せばぐるりとランナーが取り囲む。天地人全てが俺に立ち塞がっているのだ。俺って孤独ぅ。とは言ったものの、相手投手も同じ条件だけどな。ま、相手は三枚エースを擁し、しかもその三人全員がプロからの引く手あまたという近年希に見る投手層の厚さだから、こちらが守備力的にも不利なのは否めない。最初から有利な点など見えてなかったのも確かだけど。
「ほ、本当ですかっ?」
「平静を装えよ。奴ら、表情から事態を察する事なんて朝飯前なんだからな」
「でも、でも……」
藤間をマウンドに呼び寄せ、グラブで口元を抑えてナイショの会議。前の打者に投げ終わった直後、ある踏ん切りを付けるために話がしたかったんだ。藤間の顔はスッキリ晴れやか、俺をしっかり引っ張っている仕事人の顔になっていた。
「はっきりと言うぞ」
これ以上ない絶好機に、ここぞとばかり熱の入る横浜学院の応援の喧噪の中でも、
ぐびり。
という藤間が生唾を飲み込む音がはっきりと聞こえた。
「もう握力が保たねぇ」
「……!!」
藤間もさるもの、一瞬大きく目を見開きながらも努めて平静を装おうとしている。横浜学院の手腕だ、これっぽっちでも判断材料をくれてやる訳にも行くまい。
「握力、ですか」
「そうだ」
だんだんとボールを握る力が弱くなってきている。そのせいか、少々ボールのキレが減少している気がするし、弊害としてコントロールも微妙にズレ始めている。他の打者相手になら多少コントロールが甘くなったところでどうと言うことはないが、とうとう最後の伊東との対決が控えている。それに、狙った通りの所に投げられなければ悪循環として余計に級数が増える。つまりロクな事がない。平時は70数㎏を数え、少しは自信のあった握力が尽きつつあるというのはちょっとしたショックだが、逆に言えばそこまで自分を追い込む甲子園の舞台というのもかなりのものだ。
「後どれくらい保ちますか?」
藤間が不安そうな顔で訊いた。リードの組み立てに関わってくる事だからか心配そうだ。「そうだな、あと……」
「あと?」
「五球ってところだな」
「ご……」
たったの五球ですか?という言葉を飲み込んでしまう。それだけ衝撃的だったのか。
「自分で満足の行くボールを投げるとするなら、な」
そうフォローを入れたつもりだが、フォローになりきれていない。これからの組み立てをどうしたものか、藤間の脳細胞がフル回転し始めたようだ。
「後ろには伊東も控えてる。その五球は伊東をねじ伏せるのに使うとして……問題は前後の打者をどう抑えるか、か」
「……」
藤間はしばらく考えたいようだが……審判がこっちを見てイライラしている。
「ほれ、時間がないぞ……手っ取り早く決めてくれ。俺は全面的にお前を信頼するから」
急かすと、心持ち頬を紅潮させ、顔を上げる。
「……方策はあります。でも、真壁さんに何て言われるか」
「え?」
「自分は真壁さんの代わりに加藤さんの投球を受けています。だから、なるべく真壁さんのリズムに合わせて」「藤間」
言葉を遮るよう強めに名を呼ぶ。藤間は驚いたのか、細い目を今まで見たことも無いくらいに見開いた。
「お前、自分が何様だと思ってるんだ?」
「は……」
俺の行った言葉の脈絡が無いように受け止めたのか、只戸惑うばかりだ。しかし俺は言ってやらねばなるまい。
「お前がカベの代わりになるわけないだろ?カベの代わりは誰にも務まらない。カベの代わりなんてカベ以外に居ないんだ」
そう言ってやると、藤間は案の定涙目になって俯いた。少々強く言いすぎたのは分かっている。きちんとフォローを入れておいた方がいいだろうな。
「おっと、勘違いすんなよ。何も藤間がカベの代わりにならないほどヘボいってのを言いたかった訳じゃないんだ」
藤間は顔をあげた。コイツ、そんな顔で瞳を潤ませても可愛くとも何ともないから止めろ。でも、その瞳に希望の色が浮かんだのは即座に読み取れた。
「つまりだな、その……」
「……」
「お前はお前のリードをすりゃ良いんだ。他人の目なんか気にするんじゃねぇ。カベのリードはカベのもの、藤間自身のリードは藤間のものだ。誰が何と言おうと、な。カベだってきっとそう思ってる。カベはお前に全てを任せ、そして一人前と……ひょっとしたら自分のライバルだとさえ思ってるかも知れない。だから、気にするな。周りに惑わされず自分のリードをしてみろ。俺はそれに従うだけだ。……どうだ、やれるか?」
時間がないからやや早口に、しかし出来るだけ藤間というキャッチャーへの尊敬を含めて言ったつもりだ。
「……はい。やらせてください」
そして藤間は、鋭い眼差しでしっかりとそう言った。
「良し」
「……では、行きますよ」
二人で顔を見合わせ、頷き合う。心は決まった。
俺はマウンドに残り、藤間は本塁へ。二人の身体は分かれたが、心は一つ。それが心強い。藤間とは、練習試合で数試合、そして甲子園で今日組んだだけだが、不思議と安心感の様なものを感じていた。ひょっとするとカベよりも強く。
カベと組んでいる時は、どちらかというと『見られている』『従わなければいけない』といった意識が強すぎたことも一因だと思う。一応は年下の藤間となら、年齢だけは対等で居られる、そのほんのちょっとの安心感が大きな差を生んでいるのかとも思えた。
ようやく掛ったプレイ再開。
あと五球と自らに縛りを入れなければ、この極限の状況を乗り切るボールを投げるなど出来ないだろう。では、それまでどんな投球で三番と五番を討ち取るか?
実際に藤間と意見交換をしたわけでもないが、俺の気持ちは固まっていた。残りのツーアウトを奪う(もう一つのアウトは伊東から三振を奪うと決めつけている)ボールはと言うと……
一、負担が掛らない
二、コントロールが有る程度定まること
そしてこれが一番重要かも知れないが、
三、打者を打ち取れること。
これら全ての都合の良すぎる要求を兼ね合わせる球種とは。
藤間のサインが答えの全て。無論ああ言った以上俺に依存など無い。
相手は三番打者だ、甘く入れば一気に持って行かれる。だが、俺には少なくとも裏をかける自信はあった。
特別に頷き、セットポジションを長めに取ってからクイックで、マサカリのモーションを起こさずに(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・)投げる!
ふわっ、と球が上空を舞った。瞬間、球場内の空気が激変する。観客、審判、選手、そしてテレビで観戦している全員が息を飲んだんだろう。
宙を舞ったボールは、もちろん物理法則に則り、放物線を描いて落下し、
「ストラーイク!」
上手い具合に低めに決まってストライクワン。
打者は全く反応出来なかったようだ。無理もない、山なりというしかないノロノロのボールだもんな。相手は速球のタイミングで待ってたと思うし、もしも振ったら身体が二回転するような空振りをすることうけあいだ。
俺たちバッテリーが選択したボールとは、
ナックル。
魔球と言われて久しい、憧れから隠密裏に特訓していたボール。
本格的に実戦投入するのは初めてだったが、キレ……マウンドから見てはっきりと分かるような変化ではないから、『キレ』という言葉に語弊があるなら少なくとも感触と言っておこうか……みたいなものは十分。しかしここまで上手くストライクゾーンに放れるとは予想外。
魔球、ナックル。
速球と共に、投手として一度は投げてみたかった球種。そして、これを操る事こそ投手としてのもう一つの理想だった。
……どうやら、俺は投手としての理想を二つも叶えてしまった幸せ者らしい。それならば、あと一つだけ贅沢なお願いを叶えてもらえないだろうか。
それは。
このイニング、あと一回、スリーアウト分だけ俺に力を。
第二球。
スタンド内は湧き上がったり静まり返ったりで忙しいことこの上ないが、選手も観客も決勝戦ということで、これが最後とばかりに精を出しているんだろう。そういう雰囲気がこの場所にはある。
サインはもちろんナックル。
打者は、次に俺がどんな球を選択するのか全く分からない、怯えに近い瞳で俺を見つめている。睨んでいる、ではない。ただ見ているんだ。その証拠に気迫が全く感じられない。せっかく強豪校の三番を打っている打者なんだから、もうちょっと自信を持って掛ってきてくれなくては張り合いがないんだけどなぁ……俺にも余裕がない今の状況ではそれで結構なんだけれども。
クイックで……投げる!
流石に二球目ともなると打者も予想していたようで、タイミングを遅めにとって低めのボールを思い切り振り抜く!
しかし打球は、一見大飛球ながらも大きく左へ切れてゆく。場外ファウルだ。十分に溜めて打ったように見えるが、それでもまだまだタイミングが早かったらしい。ナックルの特色でもある、『揺れる』という球質もまた有利に働いているのかも知れない。
可愛そうに、打者はすっかり疑心暗鬼に陥っている。ま、仮に俺が打席に入っていたとしても打てる気がしないけどね。150㎞以上の速球にナックルやスローカーブのコンビネーション……考えただけでもまともに打席に立つのがイヤになるな。
そして、フィニッシュの三球目のサインは……へへ、そうこなくっちゃぁ。
三球目。
ランナーのリードも大きい。ナックルを放ると思っているんだろう。只でさえ俺のモーションは大きい。ここでポテンヒットの一本でも喰らえばたちまち試合が終わっちまう。
だからこその藤間の選択だ。
ワインドアップで……投げた!
速球を!
哀れ、ナックルが来ると思っていたのかバッターは反応することも出来ずに見逃しの三振だ。俺の払った『五球しか放れない全力投球』という対価は決して大きくはないが、見返りも確実なアウトを奪えたという点で非常に大きい。
球場内が異様に重苦しい空気に包まれ出した。もちろん醸し出しているのは、これから打席に向かおうとする一人の男。夏の爽やかな(一般的にはそう思われているだろう)大舞台に似つかわしくない、どす黒い殺伐空気発生機。
伊東光。
それまでに見られた大仰な素振りは影を潜め、只々ひたすらに俺を打ち崩さんと復讐に燃える瞳だけがぎらぎらと輝いていた。そう、まるで獲物を仕留めようと間合いを計る肉食獣のように。ヤツの野性味を引き出したのは俺に他ならないが、本当に執念には恐れ入る。逆に言えば、俺が伊東に敬意を払う箇所など、バッティング以外にはそこだけしか存在しないって事だけど。
……しかし、ホームランを打たれた後から今まで二打席、連続して三振を奪っている。その二打席もまぁ……中学時代の対戦を思わせるような、それこそクソボールを振り回して頭に血が昇ってるもんだから始末に負えない。伊東の執念が空回りした格好だが、本人はそれに気がついているのだろうか。これからの野球界を背負わせるには、随分と危うい存在のような気がする。
いよいよ最後の大勝負、で有ることには変わりはないが……果たして、伊東本人は気がついているのかな?
俺を打ち崩すことなどもはや不可能だということを。
自分で言うのも何だが、俺は気がついている。俺と伊東の間には、技量的にも『繋がり(・・・・)』的にもとてつもなく深い溝が横たわっているということを。
一球目、もはやサインなんか見なくたっていい。事実、藤間もサインを出さない。それを見た伊東が更に目をむく。頭に血が昇っていても、コケにされてることだけは理解できるらしいな。
やや小さめのマサカリを始動。
そして……投じる!
ぶわっ、と砂塵が舞い上がった。
その僅かに後……伊東は無様な格好で空振りしていた。あわててバットで身体を支えようとするが、失敗して尻餅をつく。緊迫した空気からか、失笑こそ漏れなかったが伊東にとっては堪えただろう。顔色が見る間に変わって真っ赤っかだ。
二球目。球場内の空気は一変して、俺と伊東の勝負よりも全体的として期待感に包まれるようになった。観客は最後の最後まで俺が打たれることを望んでいるらしい。不思議なことに、甲子園という場で長らく主役級を続けていると、そんな空気まで読めてしまうようになる。それが良いか悪いかは善し悪しだが、世間体を気にしすぎる伊東には悪いことだろう。
二球目も『ど』が付くくらいの真ん中の球なのに、伊東は擦ることさえ出来ずに空振り。哀れ、初球よりもスウィングが力みで堅くなっている。こうなってしまったら結果は同じだ。
相手ベンチからはタイムが掛る兆しすらない。きっと、監督やらがアドヴァイスしたところで伊東の耳と心に届きはしないというのが分かり切っているからなんだろう。とことん扱いにくいというわけだ。世論から伊東を養護する人間は数大けれど、その実は人間的には何にも尊敬すべき所がない。伊東は……それにすら気付いていない。
三球目。
『好敵手』なんて言葉をこの場で死語にすべく、最後の一球だけマサカリのワインドアップを起こし、投げる!
……感触は最高。それが何を表すか?
明白。
伊東の、空振り三振。
茫然自失、という表情。このたった一試合で尊大~驚愕、そして崩壊への道を辿った伊東は、見る間に存在感を消失させてベンチへと下がってゆく。彼を見る敵チームメイトの目は、そりゃあ厳しいのなんのって……どれだけの特権を享受しているのかは知らないが、それは伊東が活躍してこそのものだ。ワンナウト満塁の好機に三振、しかも三打席連続を喰らっては、存在意義そのものが問われてもおかしくない。常に結果を残すことこそ正義、それが特権階級に居座る者の宿命だ。
しかし、俺には伊東を気にしている暇などない。
五番打者を迎える。ツーアウトながらも満塁、少しでも気を抜けばそこでジ・エンドだ。俺に残された速球ワクはあと一球。これを確実にストライクを取れる球と定義するなら、あとの二球はやっぱりナックルしかない。不思議なもので、最初から『速球は五球まで』と決めつけてしまったからか、いよいよ体力的に余裕が無くなってきた。球数制限を設けることで、精神的に踏ん切りを付けようと無意識上で切り替えていたのかも知れない。
サインを伺う。
やはりナックル。
一球目、さっきと同じく、ふわりと浮き上がる球。ある程度予想していたとはいえ、タイミングを完璧に合わせて打てるかどうかは怪しい。事実、打者は低めに決まったボールを空振りしていた。
……頭がぼーっとしてきた。これが緊張の糸が切れたってヤツなのかな。ワンストライクを奪って安心しちまったのか、急に身体の力が抜ける。あと二球、あと二球も残っているのにこれではマズいだろう……と思っているが、脚の踏ん張りが利かない。
二球目、サインはナックル。もう、それ以外に術はない。あと一球、決め球の速球も投げられるか分からない。
このまま投げるか、ワンクッション置くか……迷ったら、一呼吸置けるときなら置くと決めている。プレートを外すと、球場内の緊張した空気が一気に抜けた。溜息まで聞こえてくるようだ。
異変を認めて、タイムを掛けつつ藤間が走り寄ってくる。黒沢も、影屋も、浦永も、新堀も、屋久も。みんな、極限の状況な筈なのに何故か揃いも揃って表情が明るい。
「加藤さん」
「藤間……」
「加藤」
「加藤」
「加藤さん」
「加藤」
「加藤さん」
カトー×6。あはは、なんだかエコーが掛っているように聞こえるな。
「おい、加藤っ!」
気がつけば、黒沢の大きな身体に支えられていた。
「あ、あれ?俺……何やってるんだ?」
「……!!」
全員が息を飲んだ。……そうか、どうやら俺は記憶が飛び、倒れかけたらしい。参った、これは。体力には自信があるはずだったのに、とっくに自分の限界は超えてたんだ。自分を極限まで追い込んだことなんかなかったからな。
「……はは、悪い。ぼちぼち限界みたいだ」
悪びれずに、そしてなるべく言い訳がましくなく、さらりと言った。藤間なんて涙ぐんでやがる。
「一気にがっくりと来ちまったみたいだ。ごめん、みんな。あと少ししかマウンドに立ってられねぇ」
みんな、言葉もなく俺の顔を見つめている。どうせ見つめられるなら、スタンドに座っている真理が良いのにな、などと出来もしない駄々を頭の中でこねると、不思議に笑いがこみ上げてきた。
「俺たち……何も思い残すことはないよ」
黒沢が言った。しみじみと。
その言葉にいささかの偽りもないのは瞳を見れば分かる。この短い間、人の瞳が何を語ろうとしているのか大体分かるようになってしまった。これもカベとの修行の一環……といったらいいのか。
「だから、さ」
そこまで言うと、黒沢の瞳に一気に水分が溢れてきた。慌てて目を拭う。
「好きな球、投げてくれよ」
……
…………
………………
「有り難ぇが、選択の余地なんか無い。どんな結果になっても俺を恨まないでくれよな」
「誰が。ここまで来たのは加藤の力が全てだ。だから……この辺で良いだろ」
影屋が言った。控え投手の筈なのに、交代しろとも言わず。そして影屋は続ける。
「俺には、この舞台は重すぎる。最後まで、好きな球を投げてくれ……こんな俺を、加藤は笑うか?なじるか?マウンドを引き受ける度胸のない臆病者だと」
「まさか。要するに、だ。最後までこのマウンドで責任を取るのは俺しか居ないって事なんだろ?」
みんなが頷いた。この試合を諦めたわけではないが、何が起こっても笑顔でいよう、そう誓ったんじゃないかな。
……不思議だ。
人の心が一つになるなんて絵空事でしかないと思ってたのに、甲子園という大舞台はそれすらも真実に変えてしまうのか。
「みんな、ありがとう」
俺の一言で会議は終了。内野手が散ってゆく。
……全ては、無言の内に。
俺が満足の行く投球が出来ない以上、影屋が投げて然るべきなのだろうけど……譲ってくれた以上、全てのケリは自分で付ける。それだけ。
……終わっちまうのか。
……終わりたくないよ。
俺の身体、もう少しだけ保ってくれ。
最後の残りカス、気力の燃えかすを掻き集めて、
最後の一球を……投げた。
球種は……ナックル。
最後の速球を投げる気力・体力、共に俺には残されていなかった。




