第13-11話
翌日。
俺は玄関で苛々しながら真理を待っている。時刻は午後六時、花火大会が始まるまで約一時間といったところか。
昨日の天気予報の通り、昼間から全く雨の気配がしない怒濤のピーカンだったお陰で、夜は最高の花火日和。隣の家の家族も揃って花火見物に出かけるようで、心の弾むままにうろちょろ歩く子供を捕まえておくのに必死な両親の姿を見て苦笑し、苛々も少しは和らいだ。
……何だか前にもこんな事があったような気がする……そう、丁度一年前だ。真理に遊びに連れて行ってくれとせがまれて上野の動物園に行ったんだったな。その事を思い出すと自然に頬が緩んでくる。あの時は県大会の決勝で敗れた後だったが、今は全く立場が違う。
あと数日もすれば、俺等は甲子園に向かって旅立つ。去年までは手の届かなかった舞台にいよいよ足を踏み入れるんだ。それにしても何だか現実感がない。俺たちが甲子園の土を踏んで良いのかという気後れのようなものも少しだけあるし、またどんな強豪校との激闘が待ち受けているのか、またそんな強豪校と闘う為にどれだけの神経を使い、どれだけの球数を投げなければいけないのかを考えると……正直、気が重い。
でも……今の仲間達と、そしてカベと少しでも長く野球をやっていたいのだから、それは歓迎すべき事なんだな。ここまで来たら目標は一つ、真紅の大優勝旗のみ。それをカベと二人で持ち帰るんだ。
そう考えるとウキウキしてきた。……実に俺の思考は単純なものだが、それが俺という人間だ。開き直る以外どうしようもねぇや。
苛々していたのも束の間、気がつけば玄関のドアが開いていて、姉さんに支えられた真理が、下駄のせいかそれとも和服特有のタイトさのせいか、よちよち歩きに近いおぼつかない足取りで石段を下りてくる。
そして、
「お兄ちゃん、似合ってる……かな?」
はにかみながらもその場でくるっと一回転してみせた。……そう、真理は今まで姉さんに浴衣の着付けをして貰っていたのだ。
白地に赤い朝顔が染め抜かれていて、真理のイメージにぴったりだ。きちんと色を合わせた半幅帯を締めて背中に団扇を指している。それよりも……アップにしたうなじの後れ毛が何とも……こう……表現しがたいが、とにかく良いものだった。普段は常にロングヘアの真理だから、一層新鮮味がある。
「ああ……よく似合ってる」
素直に口から感想が出た。何を着ても似合う真理とはいえ、見慣れない衣装は余計に可愛く見える。
「良かったわね、真理」
姉さんが眩しそうに真理の肩に手を置く。
「うんっ!嬉しいなっ」
真理も本当に嬉しそうな笑顔を見せるよな……隠し事が一切出来ない正確のなのは分ってるけど、こうも正直に感情を出されたら心地良いに決まってるじゃないか。ああ、ダメだ。俺はこれ以上の可愛さを表す誉め言葉を知らない。その顔を見ただけで胸の中に甘酸っぱい感情が湧き出てくる。……どうしようもないな。
「お兄ちゃんも甚平似合ってるよ」
俺はと言えば、姉さんから無造作に渡された藍色の甚平を着ている。今まで和装をする機会などなかなか無かったから少々緊張するが、やっぱり日本男児が日本の夏のイヴェントに通うとなるとコレしかあるまい。しかも傍らにはとびきりの浴衣美少女まで居るのだから、合わせなきゃ粋な江戸っ子とは言えないだろう。……俺、山形育ちだけど。
「ありがと」
素直な誉め言葉にも関わらずぶっきらぼうな答えを返してしまうが、そんな返答を姉さんも真理も予想していたらしく特に何も言わなかった。
「そういえば姉さんは花火……見に行かないの?」
「私は友達と一緒に行くから、気兼ねしないで二人で行ってきなさいな」
どうしても姉さんが遠慮してるようにしか見えないのだが。去年は姉妹達みんなで見に行ったし、ひょっとしたら……と思ったけど。それでも、姉さんは大体のことを理解した上で俺と真理を送り出してくれたに違いない。そんなささやかで細やかな心遣いが嬉しかった。
「しかし姉さんも良く着付けまで出来るよな」
『絶好の花火鑑賞スポット』まで歩く道すがら、きっちりとした真理の浴衣姿を見て、もう一つの正直な感想が湧いてきた。
「だってお母さんがデザイナーなんだもん、教えられたりしたんじゃない」
「なるほど……じゃあお前が一人で着付けできない理由は何なんだ」
「……教わってないから」
「教わってない、じゃなくて知ろうともしなかったんだろう?」
「そうだけど……こんな風に浴衣を着る機会があると分ってたらきちんと教わってたもん」
そんなことを言いながら口を尖らせる。それも余りに可愛らしくて……本当にイカンな。これでは痘痕あばたも靨えくぼ状態じゃないか。
「どうしたの?」
「いや……何でもない」
気取られまいと顔を背ける。空を見上げると、都会らしく……と言うほど都会ではないけれど……少なめながらも綺麗な星が、夕焼けから夜の帳をゆっくりと降ろしてゆく空に瞬いていた。
「今日はお天気で良かったね」
「ああ……折角の花火なのに曇り空や雨模様じゃ勿体ないもんな」
多分に気分の問題だけど、やっぱり夏の風物詩は全て晴天の元に行われるべきだよなぁ。世の中晴天ばかりじゃ成り立たないことは分っているけど、日本の夏なんだから雨だけは勘弁して貰いたいものだ。今年の夏はどうやら水不足が懸念されるほどの晴天続きという長期予報だから、水不足の代償として安定した天候で野球が出来そうだ。
「……やっぱり、野球のこと考えているの?」
振り向くと、真理が心配そうにこちらを見ている。そして、多分に『私と一緒なのに野球のことを考えているの?』と暗に非難されるような目でもあった。無論、真理自身が本心から言いたいことではないだろうが……何しろ真理は素直だからな。
「いや、今日はそれにしても花火日和だなって考えてたのさ、真剣に」
「本当に?」
「ああ。俺と真理が出かけるのをお天道様がさも見ていてくれたかのように」
「……意味分らないよ??」
「俺も言ってて分らん」
「なぁにそれ?くすっ、お兄ちゃんらしいなぁ」
「おい、それじゃあ今まで俺がいかにも天然なヤツみたいじゃないか」
「違ったの?」
あまりにもきょとんとした顔をしてやがるから、本気で自分が天然系キャラだと思い込みそうになったぞ。それを晴らしてくれたのが
「……あはははははっ」
しばらくの沈黙の後の快活な笑いだった。
「ウソウソ。でも、少しは身に覚えがあるって事なんじゃないの?そんなに動揺するなんて」
「言われればそうかも、な」
まあ変人であることは間違いないだろうけど。自分は自分自身を全くおかしくない、普通だと思い込んでいても、世間の見た目は……なんて事実はいくらでもあるだろうし。
意外に素直に認めてしまった俺が珍しかったのか、真理はちょっと驚いたような顔をしながらもそれ以上のことは言わなかった。
その後しばらくは二人とも無言で、俺たちと同じ花火見物客の姿を見送りながら歩く。目的地に近づくにつれて人出が多くなり始め、チラホラと露店も見えてきた。
「おお……今年はけっこう露店が出てるな」
「去年は少ない方だったんだ」
「ああ……どういう風の吹き回しか知らないけどな」
わいわいという雑踏の声は、それ自体では聞き分けが出来ないはずの会話の集合体なのに、何故だかその一つ一つの会話が明確に楽しげなものとして耳に入ってくるかのようだ。
ここは五塚にほど近い、例の小高い丘にある神社の参道。その狭い場所に露店が軒を連ねている。ここまで来てしまうと、俺が主張し続けている『絶好の花火鑑賞スポット』がどこなのか真理には既に見当がついているのだろうが、あえて黙っていてくれてるんだろうな。
「お兄ちゃん、あれやりたい」
くい、と甚平の袖を引っ張るので、何かと見てみれば……
「何だこりゃ、スーパーボール……掬い?」
「うんっ」
「……仮に掬えたとして、スーパーボールをどうするつもりなんだ」
「真壁さんにバットで打って貰うの。どこまで飛ぶか試してもらいたいな」
「何だその願望は……」
つまらない、下らないと言ってしまえばそれまでだが、何故か極単純に好奇心が疼く遊びでもあった。ずっと前に、とあるテレビ番組でプロ野球選手を招いての同じような企画を見たことがあるが、あれは何メートル飛んだっけかなぁ。
「まあいいや、とにかく掬ってみろよ。お手並み拝見と行こうじゃないか」
「うんっ」
ヤケに楽しげな真理は、強面の露店のおっちゃんに三百円を渡した。おっちゃんも文字通り現金なもんで、金を手渡しされた相手がとびきりの美少女だと分ると強面が一気に蕩けてだらしがない表情に変貌してしまう。どんな特殊メイクよりも効果覿面てきめんだ。そうだ、真理には紛争地域にでも一人ぽつんと置いて来てみようか。たちまち真理の可愛らしさに撃たれて戦闘が止んじまうぞ。銃弾に撃たれるより美少女の笑顔に撃たれた方が良いのは明白だしな。
そんなアホ臭い妄想に浸っている間に、真理はほいほいと最中もなかにスーパーボール乗せ、そこからお椀の中に放り込んでゆく。……意外な才能だな。普段のどちらかというと鈍臭い姿を見ているから余計にそう感じる。
「それ位にしといた方が良くないか?」
「え~?まだまだイケるよ」
「そんなに掬ってどうするつもりなんだよ……それに見ろ」
露店のおっちゃんに向けて注目を促すと……可哀想に顔面蒼白だ。いくら単価がそう高くない品物とはいえ、こうまで見事にかっ攫っていかれるとショックだろうなぁ。
「……そろそろ止めとこうかな」
「そうしとけ……」
真理は掬ったものを半分以上お情けで水の中に戻し、大中小それぞれ一個ずつだけボールを貰っていた。それにしても、こうして露店の白熱灯に透かして見てみると、ただのゴム玉でも結構綺麗に見えるもんだな。
「お兄ちゃん、次はアレやろうよ」
「何だ何だ次は……」
真理に左手を再び引っ張られて来た先は射的。うーん、定番だな。
「あれが欲しいなっ」
こんなチンケな露店に真理の欲しいものがあるのかと指さす方向を見てみれば。
「バカやろ」
ハダカの女性がプリントされたライターだった。おいおいおっちゃん、子供も来るような露店でそんなもの売るなよ……
真理はくすくすと笑っている。こんなもんで動揺すると思ったら大間違いだってのに。
「行くぞ」
「ああん、待ってよぉ」
そろそろ花火が始まる時間だ。下らないシモネタに付き合っているヒマはない。あいつの性格から考えると、このテの冗談は非常に珍しい事だけは確かだが。ずかずかと進むと、慌てて真理が後ろから小走りで追い掛けて来るが……
「きゃっ」
ちょっと歩調が早かったらしい。振り向くと、真理が足をもつれさせたのか転んでいた。傍らには右の下駄が脱げて転がっている。
「大丈夫か?」
慌てて駆け寄ると、真理がお尻をさすって涙目になっていた。
「いたた……」
「悪い、ちょっと歩くのが速すぎた」
「ううん、私もまだ浴衣に慣れてないから……」
手を貸す前に下駄を拾ってやろうと思ったら……
「あ、鼻緒が……」
無惨にも新品の筈の鼻緒が切れちまっていた。真理はとても悲しそうな表情だ。まるで、子供が貰ったばかりの風船をお空に解き放ってしまった時のような。不吉とか以前に、姉さんが真理のために、真理に似合うと思い買ってくれたであろう品を台無しにしてしまったことが罪悪感をあおる。
「……ちょっと待ってろ。こんなものはな、本来の日本人の感覚から言ったら切れた内に入らないんだぜ」
「え?直せるってこと?」
「まあ見てろ」
真理に手を貸し、石段に座らせてから手持ちのハンカチでぱぱっと鼻緒の応急修理を済ます。小学生時代、縁日で同じように浴衣を着て、やっぱり鼻緒を切ってしまった時にじいちゃんがあり合わせの布で素早く直してくれたっけ。その見よう見まねだ。……大分昔の話ではあるけどな。
……ざっと五、六年は前の話だ。やっぱり、俺には田舎に対しての郷愁が少なからず存在するらしい。自分の過去と向き合うためにも、決別するためにも吹っ切るためにも……この夏が終わる前に山形に行ってみたい。そしてその時傍についていて欲しいのは……
「お兄ちゃん」
「ん?何だ」
「……履かせてくれないの?」
気がつくと、折角鼻緒を直した下駄を手に持ったままで物思いにふけってしまっていた。
「ああ、悪い……ほれ」
「ありがと」
真理は差し出された下駄を履くと、感触を確かめるように二、三回足踏みをしてから
「すごーい、本当に直っちゃった」
と、素直に感心した。
「大げさな奴だな……たかだかそれ位で」
「ううん……やっぱり、お兄ちゃんって物知りなんだね」
「別に……大した事じゃ無ぇさ」
真理に感心されるんだったら、あの時鼻緒を切ってすっ転んだ甲斐があるというもんだ。
照れ隠しにそっぽを向きつつ、手を差し出してやる。
「……?」
横目で見ると、差し出された手の意味を理解していないらしいらしくきょとんとしている。
「ほら。行くぞ」
言葉で促すと、ようやく察したのか
「うんっ」
と眩しすぎるくらいの笑みで俺の手を取って立ち上がった。ぎゅ、と温かい……というより熱く柔らかい小さな掌の感触が、何より心に優しく伝わってくる。
そして手を繋いだと同時に、
(……あれ?)
俺の心臓が有り得ないくらいのスピードと強さで鼓動し始める。
ばく、ばく、ばく、ばく。
普段から適度どころじゃない運動をしている俺だ、ちょっとやそっとでは息も乱れない筈、なのだが……つまり今はちょとやそっとではないって事だな。……何を俺は冷静に分析しようとしているんだ。
「お兄ちゃん、痛いよ……」
我に返ると、70キロの握力で真理の手を握りしめていた。ちなみに利き腕は80キロ近い。差し出したのはもちろん左手だ。
「あ、ゴメン……」
ぱ、とすぐに手を離したけど、思い直して掌の汗を甚平の裾で拭い、もう一度手を差し出す。真理は何事も無かったかのように再び握り替えして来た。驚いたことに、今度は心臓に妙な動きはない。じゃあさっきのは何だったんだ。
石段を登るとそこはいつもの見晴らしの良い神社だが、今日ばかりは人でごった返している。普段は人気のないこの場所も、まるで初詣の有名神社かと見紛うばかりの人だかりだ。
「お兄ちゃん、お目当ての場所はここ?」
「慌てなさんな。もう少し奥だよ」
こここそが絶好の場所と信じ込んでいる見物客を尻目に、途中で白猫のヴァイスをかまってやってから神社の境内の裏を抜ける。高台にある神社よりも更に上、殆ど林の中の獣道といった風情の坂を通り抜けることしばらく……急に視界が開けた。木々が割れたその先に広がっていたものは……
「わあ……」
夜景。
視界の上半分を覆い尽くす蒼い夜空と、下半分に闇に浮かび上がるような営みの灯火。
眼下に広がるその絶景を目の当たりにした瞬間、真理は大きく歓声を上げた。
「すごーい……江ノ島の灯台まで見えるね」
「だろ?ここが最高の見物席じゃなくて何なんだ」
適当に草むらの上に腰を下ろす。
「お前も座れよ。もうそろそろ……始まる時間だ」
「うんっ」
左側の地面をぽんぽん叩いて促すと、ごく自然に俺に寄り添うようにして腰を下ろした。
「夜景……かぁ。都会で唯一見られる綺麗なモノかもね」
「だな。実際あの明かりの中に入っちまったら何もかもが汚いって訳だ」
「何もかもが汚いとは思わないけど……少なくとも人が住んでいるようには見えないね」
苦笑しながら答えたその横顔をちらっと見るが、やっぱりとてつもなく綺麗だ。いつもとは違う浴衣という衣装と、花火大会デート……でいいのかな……というのもあるんだろうけど……そんないつもより少しだけオトナっぽい横顔を見つめていると、ふつふつとある想いが胸にこみ上げてきてしまう。
「なあ、真理」
「何ぁに?」
小首を傾げるその仕草も、いつも見慣れているはずなのに今日だけは何故か輝いている。お陰で踏ん切りを付けられそうだ。
「この夏……全てが終わったら山形に行かないか」
「山形?」
「ああ、俺の育った場所だ。小学生までのな」
「全てが終わった後って、甲子園が終わってから?」
「そういうことになるな」
いってから、ひょっとして田舎などには興味がないかと思ったのも束の間。
「うん、夏の最後にはいいかもね。行きたいな」
「そうか」
自分でも随分と安堵したことに驚きだ。真理が一緒に付いてきてくれることが帰省の第一条件だけにほっとしてしまった。つまり、俺にとって山形に行くって事はそれだけの難事業なのだ。
「ところで……山形に何しに行くの?やっぱり遊びに?」
「まあ夏だけにそれもあるが……」
そこまで言いかけて口を噤んでしまった。いったい何て言えばいいんだ。一人で帰省することが出来ないから一緒に付いてきてくれって?馬鹿な、言えるはずがない。
「暑い夏にちょっとは涼しい場所で、上手いものを喰って過ごすのも疲れを癒すには悪くないかなぁ、と。基本的には遅い盆だな」
と、もっともらしい言い訳に落ち着いてしまった。
「そうだね。でも、山形って盆地で暑いんじゃないの?」
「お盆を過ぎてからはそうでもなくなる。それに……やっぱりホテルか旅館に泊まることになるだろうから、寝苦しけりゃ冷房があるさ」
「そういえばそっか。暑くて嫌になるときなんて寝るときくらいしかないもんね」
呟きながら、さも納得したかのように頷く。
「でも、お姉ちゃんの都合はどうかなぁ?」
「え」
ちょっと考えてみれば至極当たり前の意見だが、真理は由紀姉さんも一緒だと思っているらしい。俺は間抜けにも真理と二人でという前提で話をしていたのだ。
「それが、その……」
「……?」
口ごもると、真理が不思議そうな視線で俺を見つめる。しかし迂闊だった。真理との二人旅行なんて姉さんが許してくれるはずがない。どうしたものかと大して回転の速くない脳みそをかき回しながら悩んでいると……
「……ちゅんっ」
妙な音が。目を閉じていたので分らなかったが、鼻をすすり上げているところからみるとこれが真理のくしゃみらしい。こんなに可愛い、しかも極上の美少女のくしゃみと来れば、ビデオに撮って売りさばけば結構な儲けになりそうだな。いやいやそんなことはどうでもいい。
「……風邪か?」
「ううん、ちょっと鼻がむずむずしただけ、大丈夫」
「それって結構ヤバイような気がするんだが……ひょっとしてお前、頑張りすぎて風邪引いたんじゃないのか?それなら早く帰って休んだ方が」
「大丈夫。大丈夫だから……最後までお兄ちゃんと一緒に花火を見たい」
まあ、真理が大丈夫だと言うんだから大丈夫だろう。それに、俺だって……
「あ」
真理が大きな瞳を更に丸くして驚く。
俺の左手が、真理の右手に重なっていた。
「お兄ちゃん……」
嫌がりも振り払いもしない。頬を染め、ただ俺を呼ぶだけだ。
「さっきの山形の件、な」
「うん」
拒否されないことで踏ん切りが付いた。やっぱり、俺は真理を……
「俺と真理だけで行きたい」
「えっ……」
……まあ、言葉の意味を咄嗟に飲み込めないのも無理はないよな。
「……」
言葉で細かく説明出来ないのがもどかしいが、それでもありったけの誠意を込めながら海よりも深い慈愛を湛えた瞳を見つめ続ける。
どんな返答が来ても言いように心の準備をしながら待った。それは一体どれ位の時間だっただろうか……俺の頭は相変わらず色々な状況を考えてフル回転していたから、ほんの一瞬にも数時間にも感じて……
ぎゅっ。
気がついたときには、真理は俺の手を握り返していた。
「……うん。見てみたいな、お兄ちゃんの育ったところ」
何とも言えない……優しく、ともすれば泣いてしまいそうになるほどの切ない笑顔。それは、俺の考えが受け入れられた確かな証しでもある。嬉しかった。
「ありがとう」
「ううん……」
見つめ合う。初めて本気で心が通じたような気がした。
どんっ!
花火が上がった。
綺麗だ。真理も、花火も。
真理の綺麗な横顔を花火の鮮やかな色が染めている。一種の幻想的な光景に息を飲んだ。気がつけば喉が張り付きそうなくらいにカラカラだ。考えてみれば、家を出てから一切水分を口にしていない。トイレの心配があるからな。もちろん、緊張も喉の渇きに一枚噛んでいることは間違いないだろうけど。
しかし不思議だ。
真理の顔を見つめられるのなんて数秒が限界だったのに……今はずっと見ていたい。真理以外の女ひとを見ていたくない。そして……真理の瞳にも俺以外の人間を一切住まわせたくない。
どちらからともなく顔を寄せ合う。花火をバックになんて良いセイシュンしているねぇ……と心のどこかで誰かが――誰、というならそれは俺自身の深層心理としか言えないだろうが――囁いた。そのお陰で、今一度冷静になる余裕が産まれた。物理的な距離ではなく、状況を短い時間で考える心理的余裕だ。何故って……もう俺と真理の顔は、互いの呼吸がはっきりと肌に感じられるくらいに接近していたから。
即ち、
(いま、俺が真理を欲しているのは、純粋に真理を愛しているからか?それとも、このシチュエーションに身を任せているだけか?)
と。
それを考え出してしまったら、もうだめだった。耐えられなくなって顔を逸らす。
「おにい……ちゃん?」
……そんな悲しそうな声を出さないでくれ。今のまま、考えが纏まらないままでは全てが上手く行かなくなりそうなんだ。そりゃ、キスをしてから考えるやり方だってあるかも知れないけど……少なくとも俺にはそんな不誠実をするわけにはいかない。
「綺麗だな、花火」
わざとらしかろうが何だろうが、今は気持ちを封じておく。自分の心に少しでも迷いがある内は、そっちに流されちゃいけない。だって、そんな迷った心で接していたら真理に失礼じゃないか。心の底から『真理を愛している、これからどんな障害があっても愛していける』と自分の中で決められるまでは……
「……うん、綺麗だね」
真理も、俺の葛藤を酌んでくれたんだかどうなんだか……しかしそうであると思いたい。何故なら、意外とさばさばした横顔だったから。
どん、
どどん。
遠くで揚がっている筈なのに、腹にまで響いてくるような炸裂音。火薬で爆発させるという恐ろしげな手法とは裏腹に、意外に心地良い振動でもあった。
俺たちは、それから……無言で花火大会が終わるまで空に揚がる色とりどりの花を観賞し続けていた。
だが、再び……手が重なることはなかった。




