第13-10話
「えーと、それでは……我が五塚高校の県大会突破を祝して」
壇上のマイクの前。カベが溢れんばかりに烏龍茶が注がれた透明なプラスチックのコップを右手に持ち、全員に飲み物が行き渡ったか周囲を見渡して確認している。こういった仕切りのいかにも不得意そうなカベらしく壇上に上がることすら遠慮していたのだが、この度の快挙の多くはカベの力に因るものであることは周知の事実だから、勧められて渋々音頭を取ることになった。
「それでは、かんぱーい!」
そう叫ぶと同時にコップを控えめに掲げた。
「かんぱーい!」
同調して、館内にいる者が全員叫びコップを、それこそ中身が零れて体育館の床が濡れてしまうほどに勢いよく掲げてから中身を一気にあおる。一応俺もそれに倣った。試合が終わった後に水道の蛇口に直に口を付けるくらいの勢いで纏めて水分を補給したのに、それでもまだ烏龍茶が喉に身体に染み渡っていくような気さえする。
祝勝会が始まった。
体育館内がわいわいと賑わっている。二階建ての二階に講堂のある作りだから、階下にはそれ程喧噪は聞こえないだろうが……しかしムリもない、去年の県予選前まで単なる弱小県立高だった五塚が甲子園出場を決めたというのだから。高校野球にあまり明るくなくとも、それがどれだけ困難な道のりかは想像がつくというものだ。特に神奈川はね。しかし今年は神奈川は東西で代表校を出す方式だから、制度に救われた感は大いにあるけど。
……しかし、折角の祝杯が烏龍茶とはね。手に持っているコップに代わりに何が注がれていれば嬉しいのかなんて野暮な事は言わないけど……ところで、どうして『その代用品』というと烏龍茶なんだろうな。やっぱり色がそれっぽいからかな?
……などと、歓喜に沸き立つ周囲とはまるで違った事を考えている俺。カベは……と見ると、流石に中心人物だけあって校長……多分。何かの集会でしか見かけないし、その集会でも好きこのんで校長の顔など見ないし……やら非公認応援団の団長やらと談笑している。カベの場合はむしろ談“苦”笑か。これもカベらしいや。
そんな俺はというと、一人目立たないように隅っこの壁にもたれて喧噪を見物している。何しろ、部員も応援団員も球場から直で五塚に帰ってきてからの祝勝会だから、本格的な飲み食いなど期待できるはずもなく、極慎ましやかなパーティーだから、こうしてお茶で腹を誤魔化す事しかできない。……そう、俺は腹が減ってるんだよ。いっそ家庭科室に忍び込んでつまみでもこさえてきてやろうかと思った矢先、
「お兄ちゃん」
制服姿の真理が小首を傾げて俺の顔を覗き込んでいた。球場でのチアコスチュームとのギャップもあって、何だか安心するが……基本的にスカートの中身が見えて困るのはこっちの方だろうな。
「どうしたの?あんまり面白く無さそうな顔しちゃって」
「いや……ちょこッとばかし疲れた」
「そうだよね、延長戦だったんだもんね」
そう言って心配そうな顔をする。しかし真理のその顔が赤くて、今日一日でかなり日焼けしたことを物語っている。
「お前……日焼け対策してきたか?」
むしろそっちの方が心配だ。
「うん、日焼け止め沢山塗ってたよ。でもあの陽射しだからあんまり役に立たなかったみたい」
「そうか……それに、疲れたのはお前の方も一緒だろ?只でさえあのクソ暑いのに動き回ってたんだから」
「それなんだけど、実を言うとね」
「何だ」
「一回倒れそうになっちゃって、五塚の攻撃中なのにイスに座ってた回もあったんだよ」
と、ぺろりと小さく赤い舌を出す。関係ないが非常に可愛い。
「お前……そんなにまでして、全く。最近帰りが遅いと思ってたら練習に参加してたんだな?全然知らなかったぞ」
「え〜?全然?」
「ああ、全然」
「こっちはいつバレるかと思いながら練習してたのになぁ。ひょっとして、バレてるけどお兄ちゃんが知らない振りしてくれてるのかと思った」
「まぁ……その甲斐あってか多少は驚いたけど……な」
「やったぁ、成功してたんだね」
にっこりと微笑む。他愛もない事で喜ぶ真理が、疲れた身体と頭には何故か心地よい。……多分今だったら、どんな下らないジョークでも笑えるような気がするぞ。
真理は何が楽しいのかにこにこしながら俺の顔を見つめている。あんまり見つめられると照れるな。
「お兄ちゃんも日焼けで真っ黒だね」
「それは今に始まった事じゃないけどな……まともに練習してるのになまっ白い野球部員が居たら恐いぞ」
「日焼け止め塗ってたりして」
「お肌に気を遣う野球部員か?ありえねぇ〜」
うはは、と笑ってから、こんなネタで笑う自分に自己嫌悪。さっきの予感は本物だ。ひとしきり笑いあってから、
「良かった……今のお兄ちゃん格好いいよ」
真理がとびきりの微笑みを見せながら、しみじみと言った。その表情があまりにも慈愛に満ちていて……目を逸らしてしまう。……だから、何で目を逸らさなきゃいけないんだ。いや、真理の視線が余りに真っ直ぐで純すぎるからだな。
「今頃気付いたのかよ、俺が格好良かったって」
「ううん、初めて合った時から格好良いとは思ってたよ。でも、今改めてそう思っただけ」
そうか、初めて合った時からかぁ……
……ん?
格好良い?
今、とんでもなくさらっととんでもないことを言わなかったか?
慌てて真理を見るが、何処か別の方向を向きながらオレンジジュースを啜っている。……照れ隠し、なのかな。
「真理」
「何ぁに?」
「ありがとうな」
「お礼を言ってくれるって事は、私でも役に立てる事があったって事だよね。良かった……今まで何にもしてあげられないと思ってたから」
「何にも、なんて。お前が居てくれるだけでどれだけ心強かったか」
言ってから、余りにも素直な言葉で自分の気持ちを伝えてしまった事に狼狽しかける。しかし今はそんな雰囲気だった。疲れているし、一仕事やり終えて充実した気分だし。いいや、真理がどう受け止めようがこれは真実だ……と腹を決めた。
が。
「私も」
再び真理が振り向いたとき……その瞳は潤んでいた。
「私も、お兄ちゃんが居てくれたから今まで頑張れたんだよ」
ともすれば、今すぐにでも涙が零れそうになる瞳を堪えるように拭いながら真理が無理矢理微笑んだ。
「おいおい……何で泣く?それにお前が泣いてどうするんだよ」
「泣いてなんかないもん。目にゴミが入っただけだもん」
「ベタな言い訳は良いから……な?」
ぽん、と真理の頭に手を置く。まるで小さな子供をあやすような仕草だったかも知れないが、薄暗い体育館の中でもくすぐったそうに笑う愛らしい真理の姿がはっきりと、そして神々しく見える。……なんだこりゃ。
滅茶苦茶破壊力でけぇじゃねえか。
要するにだな、とてつもなく可愛いってことだ。
「加藤くんっ」
「どわぁ」
その雰囲気を、陽気で豪気で能天気な声が粉々にぶち壊した。
「あれぇ?ひょっとしてお邪魔だったかな?」
真理の右肩と俺の左肩とを馴れ馴れしく抱き、白々しく宣うのは予想通り河村だ。コイツも俺との間にあんなこと(るび・・・・・)があった割りには随分と親しげに話しかけてくるな……と思ったが、どうやら俺に対してではなくどちらかというと真理に対して茶化しているらしい。
「何言ってるんだよ……まったく」
軽く手を振り払って咳払いなぞしてみるが……真理の頬は真っ赤だ。何よりも雄弁に『そんな雰囲気』だったことを伝えちまってる。
「それより、何の用だ?」
「あら、随分と邪険にするのね。真壁くんが困ってるから助けに行ってあげてって言おうとしたんだけどな」
「カベがどんな困り方をしてるって?」
背伸びをして辺りを窺うと、向こうの方に人だかりが出来ている。人垣の中から頭一つ飛び出たカベの顔が確かに困惑しているように見えた。しかし何しろ俺の背丈が故にそれ以上のことは見通せないが……
「なんだ、ありゃ」
「さぁ……気になるなら行ってみれば?」
河村は、そう言うと真理の手からコップを取り上げテーブルに置き、そのまま手を引いてどこかに行ってしまった。まるで俺を一人にさせたいかのように……いや、真理を独り占めしたかったんじゃないか?あいつ、真理のことをいたく気に入っているようだが、まさか友情以上のものを感じちゃったりしてないだろうな。……なんにせよ空気を読まない奴だな……と毒突いてみるが、あのままの雰囲気だったら俺の口からどんな言葉が垂れ流されるか分ったものじゃない。少しくらいは河村に感謝してやるか。
人だかりの状況を見つつカベの方に近づくと……取り囲んでいたのはオッサン連中ばかりだった。さっきようやくその顔を思い出したばかりの校長や、校長や、校長……えーと、要するに校長以外は顔を見たこともない怪しいオッサンだ。いったいカベとどういう繋がりがあるのか……と首を捻ってみるが、よくよく考えてみれば簡単に分るじゃないか。
例を挙げてみると、宝くじが当たったときは急に名前も知らぬ親戚縁者と、貧乏人には関係のない銀行員の知り合いが激増する……それならば、野球の無名校が急に甲子園に出場することになったらどんな人物が増える?
……OBとか、市長とか……かな。
俺が野球部に在籍していたこの一年間、OBが顔を見せに来ることもなければ、後輩連中の指導に来てくれたことも勿論無い。つまりは全く関係が切れている人間なのだ。それが何を今更。ヘドが出るぜ。
そう考えると段々腹が立ってきた。カベだってああいう愛想だけの輩を相手にするのは疲れるだろう。何せ、『これから』があるカベに擦り寄り、少しでも『同校出身の先輩』という肩書きを作っておきたいに決まっている。そうだな、仮にカベがここで一人のオッサンと少しでも会話したとしよう。しかしそのオッサンは、たったそれだけの事実を元に自分の良いように話を膨らませ、『俺はあの真壁大成とはツーカーなんだ』と言いふらして悦に入るんだ、そうに決まってる。そしてそれを会社での接待のネタにでも使っておしまいだ。
そんな道具にされてたまるか。
俺はズカズカと輪の中に押し入ってカベの太い手首を掴んだ。突然の行動に、カベばかりではなく周囲のオッサンまでも狐につままれたようなマヌケな顔をしてやがる。そのまま衆人環視の中にも関わらず手を引っ張り続け、即物的な輩の輪から救い出した。
体育館と校舎を繋ぐ通路まで出ると、カベがその手を振り解く。
「何をするんだ」
すると、カベがいかにも『余計なことをしてくれた』といわんばかりに口を尖らせた。『やっと助け出してくれたか』とでも言って感謝されるかと思ったから、意外な反応が残念に思うと共に少々面白くない気持ちもあった。
「何……って、カベを助けてやったんじゃないかよ」
「要らぬ世話だ」
「何でだよ」
「……じゃあ逆に聞くが、聖は俺がどういう状態だと思ったんだ?」
問い詰めるような口調益々持って面白くない。
「それは……カベが下らないオッサンどもに手を焼いてるように見えたから」
「確かに下らないオッサン共だ。だがな」
一旦言葉を切り、目を閉じて肩をぐるぐる回すフリをしながら
「それでも必要なんだよ、これからはな。特にお前は」
とだけ言った。
「必要って……どんな意味で」
「……」
カベはそれを聞いてしばらく考えたような素振りをした後、外を見渡せる手すりに身をもたれさせ、
「とにかく『これから』さ」
と、意味深に呟いた。
「お前はどう考えたって万人受けするキャラじゃない。どっちかというと憎まれ役だな。只でさえ完全ベビーフェイスの伊東が、しかもライバルとしてお前をご指名なんだから。例え直接対決があっても、伊東に声援を送りこそすれ聖に感情移入をする方が少ないだろうな」
「で、俺が打ち取ったら更に俺がヒールになる、と」
「そういうことだ」
「でも、何でそれと周囲との付き合いが関連するんだよ」
「分らないのか?」
「……」
何で逆に問われなきゃならん。俺はただカベを救い出したというだけなのに。
「じゃあ教えてやる。マスコミでも何でもいいが、そういった奴らが将来必ずお前のように弄りやすいキャラを求めて集まってくる。その時に誰が助け船を出してくれるか分ったもんじゃないだろ?」
……そう、いずれはそういうことが必要になるかも知れないのは分っていたが、しかしどうでも良いとも思っていた。何しろ、去年まではマスコミに追い掛けられる日々が来る、注目される身分になるとは思っても見なかったから、まずその実感が湧かないし、またなったらなったで俺の人生というか生活に土足で入り込まれるようなマネをして欲しくなかったからだ。でも今は……
「もし、お前が仮に世間から攻撃を受ける立場になっても、それを多少なりとも理解してやれる人間が必要だろう。そして……お前がその立場になる確立は残念ながら低くないと言わざるを得ない」
「そんな……」
「世の中にはムカつく事ながら他人への悪意でメシを喰っている連中が居る。そんな奴らにいい食い物にされないようにも、ここで俺とお前の関係を少しでも良い方にもっていってやらにゃならんのだ。解るな?」
「……ああ」
何故祝宴でここまで言われなければならないのか……でも、カベの言ってることは常に正しい。俺が反論を挟む余地などこれっぽっちもないんだ。
「解ればいいんだ。頷いたんなら自分に少しでもそういう自覚があるんだろうしな」
「……」
それはしかし、一応カベも俺の行く末を心配してくれているという事に他ならない訳で、しかし釈然としない気持ちなのもまた正しくて。俺の脳内はカベの言葉を噛み砕こうと必死で回転している……が、所詮は披露しきった肉体だ、それにも限度がある。俺は自分で解っている、全て理解していると思い込んでしまった。冷静に考えれば、カベの言ったことにどれだけ深い意味があるのか解りそうなものだったが……
「お兄ちゃん」
そんな小難しい話について考える努力は、真理の甘い声の前には全く無力だった。例えば空腹時に甘いものを摂ると脳が生き返ったようにスッキリするように、急に意識が冷めてゆく。振り返ると、真理が夕日のオレンジ色をバックに微笑んでいた。……本当に、何度も繰り返すが、こいつは最強の女の子だ。誰も敵わない、誰にも口を挟む余地の無い。
「さっきは一体何処に行っちまってたんだ」
こんがらがった頭に助けに船、と歓喜をなるべく表に出さないよう、いつもと同じく気だるい様子を演出しようとして思わず噴き出した。……馬鹿か俺は。
「ケーコちゃんに呼ばれて応援団のみんなと話していたの。応援団の人たちも、応援した甲斐があったって喜んでたよ」
応援した甲斐……ねぇ。成果なんて目に見えるわけでもないのによくそんな判断が出来るもんだ。いや、問題はそこじゃない。
「ケーコ?」
「え?あ、河村さんのこと……そう呼ばれた方が自分の名前だってしっくり来るからって言ってた」
一つ一つ俺の顔色を確かめながら話す。
「お兄ちゃんだって、河村さんのファーストネームは知ってたんでしょう?」
上目遣いでおずおずと尋ねる真理は、どうやら俺と河村が未だに微妙な関係だと思っているようだ。
「真理、言っておくけどな、俺と河村は今は何の関係もないんだ。あいつとは単に中学時代の知り合いってだけで」
「……私、別にそんなこと聞いてないけど」
「う……」
これって……カマ、掛けられてんのか?いいや、真理がそんなこすっからいわけがない。俺の疚しい想いが自然と出てしまっているに過ぎないんだ。かつて由紀姉さんには自分の過去の一部を話した事はあるが、その内……自分の中のこのもやもやを振り払う為に、真理に全てを伝えた方が良いのかも知れない。
「そ、そうだ、確か今週の土曜日、花火大会があったよな?」
多少どころかかなり強引な話題の転換だったが気にしない気にしない。
この街で毎年開かれている花火大会は街の規模から言ったら桁外れの総打ち上げ数で、近隣の街からも大勢見物客がやってくる。その財源の殆どは競輪だろうけど……ともかく、加藤家から少し歩けば絶好穴場見物ポイントが有るものだから、毎年みんなでそこに繰り出している。それは真理も解っているはずだ。
「見に行こう、一緒に」
「え?でもそれはみんなで」
「お前と一緒に見たい。今年は二人で」
はっきりと言うことで、自分への覚悟を決めたつもりだった。全てを振り払う。……いや、正確に言うと……全ての一部、だな。全てなどとてもさらけ出すことは無理だから。
「……うん」
呆気に取られた様に目を見開いていた真理だが、俺の言葉の真意に気がついた途端に頬を真っ赤にしてかっくりと頷いた。うう、カワエエなぁ。最近、俺の心の歯止めが利かなくなっている。真理への好意を隠さない、その事が自分に対する覚悟でもあると思ってるから。
遠くでは、再びカベが接待攻撃を受けている。その苦労も俺のため……と思えば、ますます申し訳ない気持ちが盛り上がるんだけど……今は任せておこう。
青い空と入道雲を見上げながら軽く溜息を一つつくと、真理が眩しそうに微笑むのだった。……良いよなぁ、夏って。




