第8話 財布の時効は、何年ですか
離れの床下から出てきた財布は、ひどく古かった。
焦げ茶色の革は乾いて白っぽくなり、角には細かなひびが入っている。それでも金具は壊れておらず、留め具を外すと、ぱちん、と小さな音がした。
湊が財布を拾い上げたとき、夏海おばさんはすぐに取り上げた。
「勝手に中、見るんじゃねえ」
「でも、持ち主分かんねえだろ」
「だからって、人の財布を子どもが開けていいわけねえべ」
「母ちゃん、もう開けてるじゃん」
「女将だからいいんだ」
「さっきから女将って言えば何でも許されると思ってるよね」
わたしが言うと、夏海おばさんは財布を開いたまま、ぴたりと動きを止めた。
中から出てきたのは、何枚かのお札と硬貨。それから、折り畳まれた古い紙だった。
お札は見たことのない模様で、今使っているものとは少し違う。長い間、床下にあったせいか、紙全体が黄色っぽくなっていた。
「お金、入ってんじゃん」
湊が夏海おばさんの肩越しにのぞき込む。
「いくら?」
「近い。息かかっぺ」
「持ち主を探すなら確認しねえと」
「だからって顔くっつけんな。暑苦しい」
「母ちゃんが見せねえからだろ」
夏海おばさんは財布を胸元へ引き寄せた。
その動きが不自然だった。
湊も気づいたらしく、眉をひそめる。
「それ、誰のか分かったんだろ」
「……分かんねえ」
「今、分かった顔した」
「どんな顔だよ」
「まずいもの見つけたときの顔」
「魚を焦がしたときのお父さんと同じ顔だった」
わたしが付け足すと、夏海おばさんはわたしたちを交互に見た。
「おめえら、いつから人の顔読むのがそんな上手くなったんだ」
「母ちゃん、分かりやすいから」
「湊よりは分かりやすい」
「何で俺と比べんだよ」
少し離れた場所では、ゆうと君が扇風機の前の靴下を見張っていた。
「財布も社長が盗んだの?」
「たぶんな」
湊が答える。
「でも、ずっと前からあったみてえだ。ほこりだらけだし」
「社長、何歳?」
「三歳」
「じゃあ、社長じゃないじゃん」
「先代かもしれねえ」
「先代?」
「社長の前にいた猫。名前は会長」
「本当に?」
「母ちゃんが適当につけた」
「適当じゃねえ。ちゃんと役職順だ」
夏海おばさんが言った。
「会長の前は専務だった」
「順番がおかしいだろ!」
「そのころは何も考えてなかったんだよ」
「今は考えてるみたいに言わないで」
わたしがそう言うと、夏海おばさんは財布を握ったまま、わざとらしく咳払いした。
「とにかく、これはあたしが預かる。持ち主が分かったら連絡すっから、おめえらは靴下を乾かしてろ」
「持ち主、もう分かってるんでしょ」
「分かってねえ」
「じゃあ、その紙見せて」
「人の手紙かもしれねえだろ」
「さっき女将だから見てもいいって言ってたじゃん」
「それはそれ、これはこれだ」
「大人がそれ言ったら終わりだよ」
ゆうと君まで口を出した。
夏海おばさんは味方が一人もいないことに気づき、深いため息をついた。
「子どもが三人いると、面倒くせえなあ」
「俺を数に入れんなよ」
「湊も子どもだっぺ」
「中二だぞ」
「二十歳から見りゃ子ども。四十から見りゃ赤ん坊だ」
「母ちゃんの基準、雑すぎる」
夏海おばさんは財布の中から、折り畳まれた紙を取り出した。
紙は何度も開いたり閉じたりされたらしく、折り目が柔らかくなっている。
その紙の間から、小さな写真が一枚、畳の上へ落ちた。
わたしが拾う。
写真には、海辺に立つ二人の女の子が写っていた。
一人は中学生くらいで、日に焼けた顔で笑っている。もう一人は少し年下で、麦わら帽子を両手で押さえながら、隣の女の子をにらんでいた。
「これ、夏海おばさん?」
笑っているほうを指さす。
「……そうだ」
「じゃあ、こっちは」
「千春。おめえの母ちゃんだ」
写真の母は、今のわたしと同じくらいの年に見えた。
細い腕に白いワンピース。今より髪が長く、顔つきはわたしよりずっと気が強そうだ。
「お母さん、怒ってる」
「写真撮る直前に、あたしが帽子引っぱったからな」
「何でそんなことするの」
「姉だから」
「理由になってないよ」
「昔は姉ってだけで何でも許されると思ってたんだ」
「今も女将ってだけで何でも許されると思ってるよね」
夏海おばさんは返事をしなかった。
湊が財布の内側を指さす。
「ここ、名前書いてあんぞ」
革の内側に、青いペンで小さく文字が書かれていた。
――ちーちゃんへ。大事に使うこと。母より。
「じゃあ、これ、おばさんのじゃん」
湊が言った。
「凪のおばさんじゃなくて、千春おばさんな」
「分かってるよ」
わたしは夏海おばさんを見た。
「どうして、お母さんの財布が潮待ち荘の床下にあるの?」
夏海おばさんは答えない。
口を結び、古い財布をじっと見つめている。
普段はどんな質問にも大きな声で返す人が黙ると、それだけで空気が重くなった。
「まさか、母ちゃん」
湊が嫌そうな顔をした。
「盗んだの?」
「人聞き悪いこと言うな」
「違うの?」
「……借りただけだ」
「本人に言って?」
「言ってねえ」
「それを盗んだって言うんだよ!」
湊の声が離れに響いた。
扇風機の前にいた社長が驚き、靴下へ飛びかかろうとする。ゆうと君が慌てて靴下を抱きしめた。
「社長、これは駄目! もう一回洗うの嫌だから!」
「おやつ食ったばっかだろ! 何でも取ろうとすんな!」
夏海おばさんが社長を抱き上げる。
その姿を見ながら、わたしはもう一度尋ねた。
「どうして取ったの?」
「昔の話だ。もう三十年近く前になる」
「三十年たったら、盗んでもいいことになるの?」
「ならねえ。分かってるよ」
夏海おばさんは、さっきより小さな声で答えた。
「あのころ、千春が東京へ行くって言い出したんだ」
「旅行?」
「家出」
「お母さんが?」
信じられなかった。
今の母は、電車の時間を調べ、宿泊先を予約し、薬や保険証をきちんと用意してからでなければ、近所の買い物にさえ出ないような人だ。
その母が、中学生で家出をしようとした。
「あたしらの親と、すげえ喧嘩したんだ。進学のことだの、将来のことだの、細かい理由はいろいろあった。千春は昔から、黙って我慢して、急にでっけえことするやつだったからな」
「今もそうかも」
「だっぺ?」
夏海おばさんは少し笑ったが、すぐに表情を戻した。
「財布の中には、千春が貯めた金が入ってた。それ持って駅へ行くって言うから、あたしが先に財布を隠したんだ」
「止めたかったの?」
「まあな。口で言やよかったんだけど、そのころは姉妹でまともに話せなかった。何を言っても喧嘩になっちまうから、金がなけりゃ行けねえだろって思った」
「それで、どこに隠したの?」
「離れの縁側に置いといた。あとで返すつもりだった」
「床下じゃなくて?」
「そうだ。ところが戻ってきたら、財布がなくなってた」
全員の視線が社長へ向いた。
社長は夏海おばさんの腕の中で、何のことか分からないという顔をしている。
「そのころ、会長がいたの?」
ゆうと君が聞く。
「いた。何でも持ってく猫だった」
「じゃあ、会長が取ったんだ」
「たぶんな。千春は一晩じゅう財布を探した。あたしにも知らねえかって聞いた」
「知らないって言ったの?」
「……言った」
夏海おばさんは眉間を押さえた。
「財布を隠したって言ったら、もっと怒ると思ってな。次の日も言えなくて、その次の日も言えなくて、そうしてるうちに、今さら言えなくなった」
「お母さん、どうしたの?」
「ばあちゃんに金を借りて、結局、駅まで行った。ただし、東京までは行かなかった。途中で怖くなって帰ってきた」
「それなら、よかったんじゃない?」
湊が言った。
「家出しなかったんだろ」
「結果がよくても、やったことが消えるわけじゃねえ」
夏海おばさんはそう答えた。
それは、いつもの夏海おばさんらしくない、ずいぶん真面目な声だった。
「千春は長いこと、親に財布を捨てられたと思ってた。あたしが取ったってことは、今も知らねえ」
「電話しないと」
わたしは言った。
「今から?」
「今だからでしょ」
「三十年も前だぞ」
「だったら、三十年分、謝ればいいじゃん」
「簡単に言うなあ」
「簡単じゃないよ。お母さん、怒ると思う」
「だろ?」
「でも、怒られるのが嫌だから黙ってるって、わたしには隠さず話せって言ってる人がすることじゃないよ」
夏海おばさんは、ぐっと言葉に詰まった。
湊が小さく口笛を吹く。
「凪、そこまで言う?」
「湊だって同じこと思ってるでしょ」
「思ってるけど、母ちゃんに言うと飯減らされそうだから」
「減らさねえよ!」
「じゃあ、俺も言う。電話しろ」
「おめえまで」
「母ちゃん、俺に進路の話しろって言ってたよな。言いづれえことでも黙ってたら分かんねえって」
「それとこれは」
「それはそれ、これはこれ?」
湊が言うと、夏海おばさんは顔をしかめた。
「自分の言葉が返ってくっと腹立つな」
「だから、普段からちゃんとしたこと言ったほうがいいよ」
わたしが忠告すると、さらに嫌そうな顔をされた。
◇
母へ電話をかけたのは、その十分後だった。
夏海おばさんは、最初は「夜にする」と言って逃げようとした。
次には「仕事中だろう」と言った。
けれど、母へ短いメッセージを送ると、すぐに向こうから電話がかかってきた。
「もしもし、凪? どうしたの。具合が悪いの?」
予想どおりの第一声だった。
「わたしは平気。夏海おばさんに話があるって」
「夏海に?」
わたしはスマートフォンを夏海おばさんへ渡した。
夏海おばさんは、熱い鍋でも押しつけられたような顔で受け取る。
「……おう、千春。電車、着いたか?」
『もう会社よ。それより何。凪に何かあったの?』
「凪はだいじだ」
『何が大事なの?』
「大丈夫って意味だ。昔から聞いてるだろ!」
『いきなり方言を強くしないで。何か隠してるときの癖でしょう』
電話越しでも、母は母だった。
夏海おばさんは一度、天井を見上げた。
「財布、見つかった」
『財布?』
「昔、おめえがなくした財布」
電話の向こうが静かになった。
夏海おばさんは続ける。
「潮待ち荘の離れの床下から出てきた。金も写真も、そのまま入ってる」
『どうして、そこにあるの』
「それがな……」
『夏海』
声だけで、母が眉をひそめているのが分かる。
『あんた、何か知ってるの?』
「知ってるっつうか、何つうか」
『夏海』
「……あたしが隠した」
また沈黙が落ちた。
湊も、ゆうと君も、わたしも息を止める。
社長だけが暇そうに前足を舐めていた。
『やっぱり、あんただったのね』
母の声は、意外なくらい落ち着いていた。
「気づいてたのか?」
『ずっと疑ってたわよ。あの家で、私の財布を勝手に触る人なんて、あんたくらいしかいなかったもの』
「だったら、聞けよ」
『聞いたわよ! 知らないって言ったのは、あんたでしょう!』
母の声が急に大きくなり、夏海おばさんがスマートフォンを耳から離した。
「会社だろ。そんな怒鳴ってだいじか?」
『誰のせいよ! 私、あの財布をなくして、お母さんにどれだけ怒られたと思ってるの!』
「悪かった」
『お父さんには、物を大事にできないなら東京へ行っても暮らせないって言われたのよ!』
「だから、悪かったって」
『写真だって、ずっと探してたんだからね!』
「それも入ってる」
『お金は?』
「入ってる。たぶん全部」
『利息は?』
「は?」
『三十年分の利息』
「姉妹で利息取んのかよ!」
『当然でしょう。人のお金を三十年も床下へ預けたんだから』
「預けたのは会長だ!」
『会長って誰よ!』
「猫!」
『猫に責任を押しつけないで!』
思っていたより、母は元気に怒っていた。
夏海おばさんも負けずに言い返している。
これを謝罪と呼んでいいのか、わたしには分からない。
けれど、しばらく姉妹で怒鳴り合ったあと、母の声が少し低くなった。
『どうして隠したの』
「行ってほしくなかったからだよ」
夏海おばさんも、今度は言い訳をしなかった。
「あんとき、おめえが東京へ行ったら、もう戻ってこねえ気がした。止めたいって言やよかったのに、言えなかった。悪かった」
電話の向こうで、母が息を吐いた。
『本当に、今さらね』
「今さらだな」
『あのころ言ってくれたら、あんなに喧嘩しなかったかもしれないのに』
「それはどうかな。おめえ、何言っても怒ってたべ」
『あんたが余計なことばかりするからでしょう』
「ほら、今でも喧嘩すんじゃねえか」
『それでも、盗むよりはましよ』
「だから悪かったって」
また少し、沈黙が続いた。
『財布、取っておいて』
母が言った。
「送るぞ」
『夏休みの終わりに、凪に持たせて。写真は凪にも見せてあげて』
「もう見た」
『勝手に見せたの?』
「あたしが落とした」
『財布だけじゃなくて写真まで雑に扱わないで!』
「中学生の凪に、今の千春とそっくりだって言われたぞ」
「言ってないよ!」
わたしが横から叫ぶ。
『凪、そこにいるの?』
「ずっといる」
『全部聞いていたの?』
「うん」
『恥ずかしいわね……』
「お母さんも家出しようとしたんだね」
『夏海! そこまで話したの!?』
「隠さず話せって、凪に怒られた」
『それとこれとは別でしょう!』
母まで同じことを言った。
姉妹だと思った。
「お母さん」
『何?』
「家出しようとしたとき、怖かった?」
電話の向こうで、母はしばらく黙った。
『怖かったわよ。すごく』
「それでも駅まで行ったの?」
『行った。でも、途中で帰った。自分で決めたことを途中でやめるのは、負けだと思っていたけど……知らない町まで行って、戻れなくなるほうが怖かったから』
六角堂を見に行く話をしたとき、湊が言ったことと似ていた。
帰れなくなるまで進むほうが格好悪い。
『帰ってからも、しばらくは失敗したと思っていた。でも、今は帰ってよかったと思ってる』
「どうして?」
『帰ったから、ちゃんと話して、あとで自分の力で東京へ行けたもの。逃げるのと、選んで行くのは、同じ東京でも違うでしょう』
夏海おばさんが鼻を鳴らした。
「立派なこと言ってっけど、帰ってきたとき、駅前で三時間泣いてたかんな」
『夏海!』
「げんじいが背負って帰ってきた」
『もう切るわよ!』
「利息はまけてくれ」
『それとこれとは別です』
通話は切れた。
夏海おばさんは、しばらくスマートフォンを見つめていた。
「怒られたなあ」
「当たり前だよ」
「でも、電話してよかったんじゃね?」
湊が言う。
夏海おばさんは財布を握り、少しだけ笑った。
「まあな。三十年も黙ってたわりには、十分で済んだ」
「済んでないと思う」
わたしは言った。
「夏休みの終わりに、お母さんへ財布を返すんでしょ。そのとき、もう一回怒られるよ」
「凪、おめえ、東京へ持って帰る途中でなくしてくんねえか?」
「嫌だよ。自分で返して」
「千春に似て、融通利かねえなあ」
「夏海おばさんに似るよりはいい」
「言うようになったな」
夏海おばさんがわたしの頭へ手を伸ばす。
その瞬間、腕の中にいた社長がするりと抜け出した。
「あっ」
社長は床へ置かれていた古い財布をくわえ、離れのほうへ走る。
「こらあ! また隠す気か!」
「社長、返して!」
「湊、追え!」
「凪は走んなよ!」
「分かってるって!」
みんなの声が重なった。
会長が三十年前に隠した財布を、社長がもう一度隠そうとしている。
この民宿では、猫の役職だけでなく、悪い習慣まで代々受け継がれるらしい。
どうにか財布を取り戻した直後、玄関のほうから男の人の慌てた声が聞こえてきた。
「すみません! 今朝まであった財布が、部屋からなくなってるんですけど!」
全員が黙り、社長を見た。
社長は古い財布をくわえたまま、何も知らない顔で尻尾を振っていた。




