第9話 盗まれた財布と、疑われた社長
「すみません! 今朝まであった財布が、部屋からなくなってるんですけど!」
玄関から駆け込んできた男の人は、ゆうと君のお父さんだった。
朝食のときは眼鏡をかけていたのに、今は外している。髪も片側だけ寝ぐせが残り、ずいぶん慌てているように見えた。
「財布ですか?」
夏海おばさんは、さっきまで母の古い財布を社長と奪い合っていたとは思えないくらい、急に女将の顔になった。
「色と形を教えてもらえますか。最後に見たのは、いつです?」
「黒い二つ折りです。魚の形をした小さな飾りがついていて……朝、部屋で見ました。いや、朝食へ行く前だったかな」
男の人の視線が、社長のくわえている古い財布へ落ちた。
「その猫、財布を持ってますよね」
「これは三十年前にうちの猫が隠した財布です」
「三十年前?」
「説明すると長えんですが、少なくともお客さんの財布ではありません」
「でも、財布を運ぶ猫なんでしょう?」
「そこは否定できねえな」
「母ちゃん、正直すぎるだろ」
湊が頭を抱えた。
社長は夏海おばさんから古い財布を取り上げられ、不満そうに「にゃあ」と鳴いた。状況だけ見れば、まったく反省していない犯人にしか見えない。
男の人の表情が険しくなる。
「中には現金だけじゃなくて、クレジットカードと免許証も入っています。今日、車で帰らないといけないんです」
「分かりました。すぐ探します。ただ、客室へ入る必要があるので、ご本人にも立ち会ってもらいます」
「もう自分たちで探しましたよ。布団の下も、鞄の中も」
「人間、慌てると目の前のものまで見えなくなっかんな。もう一度、順番に確認しましょう」
夏海おばさんは落ち着いていた。
いつもの大声は同じなのに、さっき母へ謝っていたときとも、げんじいと喧嘩していたときとも違う。相手が怒っているからといって言い返さず、かといって必要以上に頭を下げてもいない。
民宿の女将というのは、猫用のおやつを持ち歩くだけの仕事ではないらしい。
「湊、社長を帳場の奥へ入れろ。直人には、玄関と廊下を確認するように言ってくれ」
「分かった」
「凪とゆうと君は、ここで待ってろ」
「僕も探す!」
ゆうと君がすぐに言った。
「僕のお父さんの財布だよ」
「だからこそだ。みんなで動き回っと、どこを探したのか分からなくなる」
「でも――」
「ゆうと」
男の人が息子を呼んだ。
「お母さんと部屋にいなさい。大人が探すから」
ゆうと君は口を閉じた。
大人が探す。
その言葉が嫌なのだろう。さっき大事な靴下を洗うときには、あれほど注文をつけていたのに、今は下を向いてしまった。
「わたし、ここで何をすればいい?」
夏海おばさんへ尋ねる。
「凪も休んでろ。朝から働いたんだし」
「休むのは分かった。でも、座ってできることはない?」
「うーん……」
「最後に財布を見た場所とか、書いておくのは?」
病院で先生や看護師さんに何度も同じことを聞かれたとき、母はノートへ時間と出来事を書いていた。
何時に熱が出た。
何を食べた。
薬を飲んだ。
あとで思い出そうとしても、人間の記憶は案外あてにならない。さっき母の財布を三十年も隠していた人が、ここにはいる。
「それ、いいな」
夏海おばさんは帳場から紙と鉛筆を持ってきた。
「お客さん。悪いけど、凪に今朝の行動を話してやってくれますか」
「この子に?」
「座って聞くだけなら、足手まといにならねえ。あと、この子、しつこいんで思い出すまで聞きます」
「紹介の仕方が悪いよ」
「頼んだぞ、調査員」
「いつから調査員になったの?」
「今から」
勝手に役職を増やされた。
社長だけでなく、潮待ち荘では人間の役職もずいぶん簡単に決まるらしい。
◇
わたしとゆうと君は、食堂の端に座った。
ゆうと君のお父さん――中村さんは、向かいの椅子へ腰を下ろしたものの、何度も廊下のほうを振り返っている。
「今朝、財布を最後に見たのは、何時ごろですか?」
「七時くらいかな。朝食へ行く前に、部屋でスマートフォンを充電して、その横に財布があったと思う」
「思う?」
「いや、あった。たぶん」
「お父さん、たぶんばっかり」
ゆうと君が言った。
「今、思い出してるんだ。黙ってなさい」
「でも、朝ごはんのあと、自動販売機でコーヒー買ってたじゃん」
中村さんが動きを止めた。
「そうだったか?」
「買ってたよ。僕にもジュース買ってって言ったら、お母さんに朝から駄目って言われた」
「財布を使いました?」
わたしが聞く。
「いや、あれはスマートフォンで払ったはずだ」
「ほんとに?」
「……たぶん」
「また、たぶん」
「ゆうと、お父さんだって焦ってるんだ」
「焦ってるなら、怒らないでよ」
ゆうと君の声が少し強くなった。
中村さんも言い返しそうになったが、途中で口を閉じた。
「悪かった」
「僕、何もしてないのに部屋にいろって言われた」
「盗られたものが財布だから、子どもを巻き込みたくなかったんだよ」
「もう巻き込まれてるよ。僕の靴下だって社長に盗られたんだから」
「靴下と財布は違う」
「大事なものってところは同じだよ!」
二人とも自分の言っていることは正しいと思っている。
たぶん、少しずつ本当に正しい。
だから話が面倒になる。
「喧嘩するなら、あとにしてください」
わたしが言うと、二人同時にこちらを見た。
「今は財布を探す話です。中村さんは、自動販売機のあと、どこへ行きました?」
「玄関の外でコーヒーを飲んだ。それから部屋へ戻って、荷物をまとめた」
「そのとき財布は?」
「見ていない」
「鞄には入れなかったんですか?」
「妻が荷物をまとめていて、私は車へ荷物を運んだから……」
「お父さん、途中で電話してた」
ゆうと君が言う。
「駐車場で?」
「ううん。廊下。財布をお尻のポケットに入れてたと思う」
「見たの?」
「魚がぶらぶらしてたから」
「魚?」
わたしが聞くと、中村さんが説明した。
「財布に魚の飾りがついているんです。金属じゃなくて、布でできた小さなやつで」
「社長、魚が好きだよね」
ゆうと君がつぶやいた。
三人で顔を見合わせた。
社長が財布そのものに興味を持たなくても、魚の飾りには興味を持つかもしれない。
「電話していた場所はどこですか?」
「二階の廊下です。窓の近くで」
「そのあと?」
「部屋へ戻った。いや、その前に……」
中村さんは眉間へ指を当てた。
「妻に、車の鍵を持ってきてくれと言われて、一度階段を下りた」
「財布を持ったまま?」
「たぶん」
「また、たぶん」
「ゆうと」
「事実だから言っただけ」
ゆうと君は口をとがらせた。
けれど、父親を困らせたいわけではないらしい。紙へ書かれた時間を横からのぞき込み、何かを必死に思い出そうとしている。
「そのとき、誰かと会いました?」
「直人さんと、宿泊しているご夫婦に会いました。それから……猫もいたな」
「社長?」
「黒かったので、たぶん」
「この宿に黒猫は社長しかいねえぞ」
廊下から戻ってきた湊が言った。
腕には、容疑者の社長を抱えている。
「離せって暴れっから連れてきた。こいつ、何か知ってるかもしんねえ」
「猫に取り調べするの?」
「目を見れば分かる」
「分かるの?」
「分かんねえ」
「じゃあ言わないでよ」
湊は社長をテーブルへ載せた。
社長は中村さんの前へ座ると、首をかしげる。
中村さんが少し身を引いた。
「この猫、私の部屋にも入ったんでしょうか」
「客室には入れねえようにしてます。ただ、戸が開いてりゃ入ることはある」
「やっぱり猫が持っていったんじゃ」
「まだ決めつけないほうがいいです」
思わず口を挟んだ。
中村さんが不満そうにわたしを見る。
「でも、現に昔の財布を隠していたんでしょう?」
「隠したのは先代の猫かもしれません。それに、社長が持っていったなら、床に跡が残ると思います」
「跡?」
「今朝、魚を玄関へ落としたから、床が少し濡れてました。社長もそこを歩いたから、前足が汚れてる」
言いながら社長の足を見る。
黒い毛なので分かりにくいが、肉球の間には少し白っぽい砂がついていた。
「財布をくわえて二階から運んだなら、廊下に足跡があるかも」
「でも、もう掃除したぞ」
湊が言った。
「全部?」
「一階は。二階はまだ」
わたしたちは二階へ向かった。
◇
廊下の床には、はっきりした猫の足跡は残っていなかった。
けれど、窓の近くへ行くと、隅に小さな白い糸が落ちていた。
拾い上げる。
魚の尻尾のような形をした、布の切れ端だった。
「財布の飾りと同じだ」
中村さんが言った。
「やっぱり猫じゃないですか!」
「待ってください」
わたしは床を見回した。
糸は窓際に一つだけ。
そこから階段や部屋へ続くものはない。
「社長が引っぱったなら、飾りが切れたあと、財布はここへ落ちたかもしれません」
「でも、ここにはない」
「誰かが拾ったんじゃねえか?」
湊が言う。
「朝、ここ通った人は?」
「お父さんと、お母さんと、僕。それから清掃の人?」
ゆうと君が指を折る。
そのとき、一階から直人おじさんの声がした。
「夏海。これか」
全員で階段を下りる。
直人おじさんの手には、黒い二つ折りの財布があった。
魚の飾りは、尻尾の部分がちぎれている。
「どこにあったんです?」
中村さんが駆け寄った。
「洗濯籠の中」
「どうしてそんな場所に」
「分からない。タオルの下へ入っていた」
中村さんは財布を開き、中身を確認した。
「現金もカードもあります。よかった……」
肩から力が抜ける。
しかし、財布が見つかった喜びより先に、今度は別の疑問が浮かんだ。
「社長が洗濯籠へ入れたの?」
ゆうと君が言う。
「籠の高さ、社長じゃ届かねえぞ」
湊が答える。
「飛べば届くよ」
「財布くわえたまま、そんな器用なことすっかな」
わたしたちが考えていると、階段の途中から女の人の声がした。
「その財布……」
ゆうと君のお母さんだった。
青い顔で、手すりを握っている。
「あなた、どこで見つけたの?」
「洗濯籠です」
直人おじさんが答える。
女の人はしばらく黙ったあと、目を伏せた。
「私が入れました」
「え?」
中村さんの声が裏返った。
「どうして?」
「廊下に落ちていたのよ。魚の飾りを猫が引っぱっていたから、取り返して……あなたに渡そうと思ったの」
「だったら、どうして洗濯籠に?」
「その直後、ゆうとが靴下を盗られたって騒ぎ始めたでしょう。財布を手に持ったまま手伝いに行って、濡れたタオルを籠へ入れたとき、一緒に置いたの」
「それで忘れたの?」
「忘れたわよ。朝からあなたは車の鍵がないって騒ぐし、ゆうとは靴下がないって騒ぐし、帰る準備は私一人でしてたんだから!」
「鍵は鞄に入ってただろ」
「入れたのは私です!」
「二人とも、今は――」
「凪ちゃんは黙ってて」
ゆうと君のお母さんに言われ、わたしは口を閉じた。
少しむっとしたけれど、今は夫婦の喧嘩だ。
他人が入ると、もっとこじれることもある。
「でも、財布を見つけたって言ってくれればよかっただろ」
「あなたが探しているって知らなかったの。部屋へ戻ったら、もう夏海さんのところへ行ったあとだったもの」
「電話すれば」
「私のスマートフォンは、あなたが荷物と一緒に車へ持っていったでしょう!」
「あ……」
「その『あ』で済ませないで!」
中村さんは何も言えなくなった。
ゆうと君が、わたしの袖を引く。
「大人も面倒くさいね」
「家族は特にね」
「聞こえてるぞ」
湊が小声で言った。
◇
中村さんは、潮待ち荘の人たちへ何度も頭を下げた。
「猫が盗ったと決めつけてしまって、すみませんでした」
「財布がなくなりゃ、慌てんのは当たり前です。ただ、見つかってよかった」
夏海おばさんは笑って答えた。
「財布は見つかったけど、夫婦喧嘩はこれからですね」
わたしが言うと、中村さんは困った顔になった。
「凪、余計なこと言うな」
湊に注意される。
「ほんとのことでしょ」
「ほんとのことほど、言わないほうがいい場合もあんだよ」
「夏海おばさんは、隠さず話せって言ってたよ」
「それとこれとは別だ」
「みんな、そればっかり」
ゆうと君の靴下は、昼前にはほとんど乾いた。
少しだけ湿っていたので、直人おじさんが厨房の風通しのよい場所へ吊るし、最後の仕上げをしてくれた。
帰るとき、ゆうと君は靴下を履き、靴を履いた足を何度も見せてきた。
「ほら、ちゃんと乾いた」
「よかったね」
「凪お姉ちゃん、ありがとう」
「夏海おばさんと直人おじさんも手伝ってくれたよ」
「でも、最初に洗ってくれたのはお姉ちゃんだから」
ゆうと君は少し考え、声を低くした。
「お父さん、社長のこと疑ってたけど、嫌いにならないでね」
「どうして、わたしに言うの?」
「凪お姉ちゃん、社長の部下なんでしょ」
「猫の監視係。しかも昨日、契約を切られた」
「じゃあ、また雇ってもらえばいいじゃん」
「誰に?」
ゆうと君は、玄関の座布団で眠っている社長を指さした。
「社長に」
本人ならぬ本猫は、大きなあくびをした。
財布を盗んだ疑いをかけられたことなど、少しも気にしていないようだった。
中村さん一家を見送ったあと、わたしは回復帳を開いた。
今日の欄には、すでにいくつも書いてある。
『魚の味噌汁を二口飲んだ』
『海の見える場所まで歩いた』
『靴下を洗った』
その下へ、新しく書き足した。
『走らなくても、財布を探す手伝いはできた』
「それ、何の目標だ?」
湊がのぞき込む。
「今日分かったこと」
「財布を見つけたのは父ちゃんだぞ」
「分かってる。でも、最後に見た場所を整理したから、廊下に落としたって分かったでしょ」
「まあな」
「丸をつけてもいい?」
「だから、誰に聞いてんだよ」
「調査員を任命した人の息子」
「母ちゃんの許可なら、本人に聞け」
「夏海おばさんは何でも丸にしそう」
「そうでもねえぞ。母ちゃん、人の仕事には厳しいから」
「自分のことには?」
「すげえ甘い」
食堂から布巾が飛んできて、湊の後頭部に当たった。
「聞こえてっかんな!」
「母ちゃん、客が帰った途端に投げんなよ!」
「家族しかいねえからいいんだ!」
「凪もいる!」
「凪は家族だっぺ!」
夏海おばさんは、何でもないように言った。
わたしは鉛筆を止めた。
家族。
昨日までは、ここへ預けられた客のような気持ちだった。
でも、客なら布巾は飛んでこないし、財布探しの調査員にも任命されないだろう。
「凪、どうした?」
「何でもない」
わたしは今日の欄へ、少し形の悪い丸をつけた。
すると、玄関で寝ていた社長が目を覚まし、ゆっくりこちらへ歩いてくる。
そして回復帳の上へ、どっかりと座った。
「見えないんだけど」
「にゃあ」
「社長、どいて」
「おまえ、再雇用の面接されてんじゃね?」
湊が言う。
「採用条件は?」
「毎日、魚を一切れ納めろ」
「そんな職場、こっちから断るよ」
社長は返事の代わりに、わたしの鉛筆を前足で床へ落とした。
どうやら不採用なのは、わたしのほうらしかった。




