第7話 靴下を盗まれた人にも事情があります
社長は、白い靴下をくわえたまま坂道を駆け下りていった。
湊はすぐに追いかけようとしたが、三歩ほど進んだところで振り返った。
「凪、おまえは走んなよ」
「分かってる」
「ほんとか?」
「分かってるって言ってるでしょ。二回も止めたから、約束違反ね」
「今のは注意だ。止めたうちに入らねえ」
「都合のいいルールを増やさないでよ」
「とにかく、ゆっくり来い。社長はたぶん離れの下に入る」
「たぶんって、いつも盗んだものをそこへ隠してるの?」
「前に母ちゃんの手袋が出てきた」
「それ、泥棒猫じゃん」
「だから社長なんだよ。民宿のものは全部、自分のものだと思ってっから」
湊は坂道を駆けていった。
わたしもあとを追う。ただし、走らない。
そう決めて歩き始めたものの、目の前で人がどんどん遠ざかっていくのを見ると、置いていかれているような気持ちになる。
足を速めたい。
少しくらいなら大丈夫だと思いたい。
けれど、朝からもう何度も動いている。海を見に行った帰り道でもある。自分では平気だと思っていても、脚は少し重くなっていた。
わたしは大股にならないよう気をつけながら、坂道を上った。
「湊ー! どこ?」
「こっちだ!」
潮待ち荘の裏手から声が返ってくる。
母屋と古い離れの間には、草の生えた細い通路があった。日陰になっているせいで、地面が少し湿っている。
湊は離れの縁側に膝をつき、建物の下をのぞき込んでいた。
「いた?」
「奥にいる。靴下も持ってる」
わたしも少し離れた場所から腰をかがめる。
床下は暗く、すぐには何も見えなかった。やがて暗闇の中で、黄色い目が二つ光った。
「社長。返して」
「にゃあ」
「返事するなら返してよ」
「猫に正論言っても無駄だぞ」
「湊が説得しろって言ったんでしょ」
「昨日の話をいつまで覚えてんだよ」
「嫌なことは長く覚えるほうなの」
「知ってる」
社長は白い靴下を前足で押さえたまま、わたしたちを眺めていた。
反省している様子はまったくない。
「手を伸ばせば届かない?」
「俺じゃ無理だ。奥すぎる」
「わたしなら入れるかも」
離れの床下は、子ども一人が腹ばいになれば入れそうな高さだった。
服は汚れるだろうけれど、社長へ近づくことはできる。
わたしが縁側へ膝をつくと、湊に肩をつかまれた。
「入んな」
「どうして」
「狭いし、釘とかあったら危ねえ」
「見た感じ、何もないよ」
「見えねえから危ねえんだろ」
「でも、わたしなら体が小さいから」
「細いのを便利に使うな」
言葉が胸に引っかかった。
「便利に使ってない」
「じゃあ、何で入ろうとすんだよ」
「わたしにもできるから」
「できることを全部やらなきゃなんねえのか?」
湊は少し苛立った声で言った。
「靴下一枚のために、おまえが床下へ入る必要はねえだろ」
「でも、湊は入れないんでしょ」
「別の方法を考える」
「考えてる間に、社長がもっと奥へ行ったら?」
「靴下だぞ。魚じゃねえんだから、食われはしねえ」
「かじられたら困るじゃん」
「困るけど、おまえが怪我すんのとは比べられねえ」
まただ。
わたしが何かしようとすると、みんなはすぐに怪我や体調の話をする。
「病気じゃなかったら、入っていいって言うくせに」
口に出すと、湊の顔が変わった。
「言わねえよ」
「嘘」
「床下へ入ろうとしてるのが地元の友達でも止める。おまえだけ特別じゃねえ」
「でも、最初に怪我するって言った」
「床下に入れば誰だって怪我するかもしれねえだろ!」
声が大きくなった。
社長が驚き、靴下をくわえてさらに奥へ移動する。
「ああ、もう! 湊が怒鳴るから逃げた!」
「おまえが無茶言うからだろ!」
「何してんの、お二人さん」
背後から、のんびりした声がした。
振り返ると、夏海おばさんが洗濯物の入った籠を抱えて立っていた。
「母ちゃん、社長がまた靴下盗んだ」
「見りゃ分かる。そんで、何で凪と喧嘩してんだ」
「凪が床下へ入るって言うから」
「入れば取れると思っただけ」
「だから危ねえって」
「はいはい。どっちも声でけえ。お客さんに丸聞こえだぞ」
夏海おばさんは洗濯籠を地面へ置くと、縁側の下へ向かって呼びかけた。
「社長。飯だぞ」
黄色い目が動いた。
「母ちゃん、朝飯はもう食わせただろ」
「猫は飯って言葉に弱いんだ」
「嘘つくの?」
「交渉と言え」
夏海おばさんはポケットから、小さな紙袋を取り出した。
中には数粒の猫用おやつが入っている。
「どうして最初から持ってるの」
わたしが聞くと、夏海おばさんは胸を張った。
「女将は、何が起きてもいいように準備してんだ」
「猫がお客さんの靴下を盗むのも、起きる予定に入ってるの?」
「社長がいるかんな。予定っていうより日常だ」
おやつの袋を振ると、かさかさと音がした。
社長は迷っているようだった。
靴下を守るか。
おやつを食べるか。
猫にも猫なりの面倒があるらしい。
「ほれ、出てこい。今日だけ特別だぞ」
「にゃあ」
「そう言って、毎回食わせてるだろ」
「湊、交渉中に余計なこと言うな」
やがて社長は靴下をその場へ残し、慎重に床下から出てきた。
夏海おばさんが首の後ろをつかまえる。社長は抵抗もせず、当然の報酬という顔でおやつを食べ始めた。
残された靴下は、入口より少し奥にある。
夏海おばさんは物干し竿を一本取り、先端で器用に引き寄せた。
「はい、回収」
「最初からそれでよかったじゃん」
湊が言う。
「人間は困ってから知恵が出んだよ」
「女将は準備してたんじゃなかったの?」
わたしが尋ねると、夏海おばさんは少し考えた。
「大人の話は、半分ぐれえ聞き流せ」
「教育に悪いよ」
「全部信じるよりは安全だっぺ」
確かに、げんじいの話などを全部信じていたら大変そうだ。
拾い上げた靴下には土がつき、かかとのあたりが湿っていた。社長の歯形も少し残っている。
「これ、誰のだ?」
湊が靴下をつまみ上げた。
白い普通の靴下だと思っていたが、足首の内側へ青い糸で、小さく「ゆうと」と名前が縫われている。
「お客さんの子どものだね」
「ゆうとって、昨日から泊まってる三年生だな」
夏海おばさんが言った。
「サッカーやってる子。朝から片方ねえって、母親と探してたぞ」
「大事な靴下なのかな」
「靴下なんて、だいたい大事だろ。片方だけじゃ履けねえし」
「そういう意味じゃなくて」
わたしが言いかけたところで、母屋の裏口が開いた。
小学三年生くらいの男の子が、サンダルをつっかけて飛び出してくる。朝食のとき、げんじいのご飯がひっくり返ったのを見て大笑いしていた子だ。
「僕の靴下、あった?」
男の子は湊の手元を見て、すぐに駆け寄った。
「あったけど、社長が離れの下へ持ってってた」
「うそ! 汚れてる!」
「洗えば落ちるべ」
「今日、これ履こうと思ってたのに!」
男の子――ゆうと君は、湊から靴下を受け取ると、泣きそうな顔になった。
「ほかの靴下ねえの?」
「あるけど、これがいいの。これ履いた試合で、初めてゴール決めたから」
「片方だけで?」
「両方だよ!」
「分かってる。冗談だ」
「今、冗談いらない!」
ゆうと君は本気で怒った。
湊は「悪かった」と言いながらも、少し困った顔をしている。
慰めようとして失敗するところは、やはり親子だ。直人おじさんも言葉が少なすぎるけれど、湊は余計な言葉が多すぎる。
「洗えば、今日中に乾くんじゃない?」
わたしが言うと、ゆうと君は首を振った。
「お昼には帰るんだもん」
「乾燥機は?」
夏海おばさんが顔をしかめた。
「一台は客室のシーツでいっぱいだ。もう一台は昨日から調子悪くてな。乾くまで時間かかっぺ」
「じゃあ、ドライヤーで乾かす」
「熱くしすぎっと縮むぞ」
「タオルで水を取って、扇風機の前に置けば?」
病院では、洗面台で濡らしてしまったハンカチを、母がよくそうして乾かしていた。
「一時間くらいあれば、かなり乾くと思う」
夏海おばさんが、感心したようにうなずく。
「やってみっか」
「わたしが洗ってもいい?」
「洗うくらいなら、だいじだな。ただし座ってやれ。朝から歩いてきたんだろ」
「うん」
湊が何か言おうとしたので、わたしは先ににらんだ。
「今度は床下へ入らないよ」
「何も言ってねえ」
「言おうとした顔だった」
「俺の顔に字は出ねえって」
「宿題の答え以外は出るんじゃない?」
「便利なのか不便なのか分かんねえな」
ゆうと君は汚れた靴下を握ったまま、わたしをじっと見た。
「お姉ちゃん、さっき猫を追いかけなかったよね」
急な質問だった。
「湊お兄ちゃんだけ走ってた。お姉ちゃんは、ゆっくり歩いてた」
「ゆうと」
夏海おばさんが止めようとする。
けれど、ゆうと君に悪気はなさそうだった。ただ不思議に思ったことを、そのまま聞いただけだ。
大人は、わたしが走らない理由を知っていても聞かない。
子どもは、知らないから聞く。
どちらが楽なのかは、まだ分からない。
「走るの、今は休業中なの」
わたしは答えた。
「きゅうぎょう?」
「お店をお休みするみたいなこと。前に病気をして、まだ体力が全部戻ってないから、急に走ると転ぶかもしれないの」
「いつまで休み?」
「分かんない」
「ずっと?」
ゆうと君の顔が曇る。
心配されているのだと分かった。でも、「かわいそう」と言われる前に、わたしは続けた。
「ずっとかもしれないし、夏休みの途中で少し走れるかもしれない。でも、歩けるから、猫の逃げ道はふさげるよ」
「逃げ道、ふさいだの?」
「今日は玄関の戸を閉めた。今は靴下を洗える」
「じゃあ、お姉ちゃんも役に立ったんだ」
「おい、ゆうと」
湊が慌てる。
けれど、わたしは少しだけ笑った。
「そうだね。たぶん、少しは」
「じゃあ洗って。絶対、きれいにしてね」
「急に注文が多いなあ」
「大事な靴下だから」
「分かった。できるだけやる」
「絶対じゃないの?」
「絶対って言って、できなかったら困るでしょ」
ゆうと君は少し考えたあと、しぶしぶうなずいた。
「じゃあ、できるだけでいい」
「おまえ、凪と話が合いそうだな」
湊が言う。
「どうして?」
「面倒くせえところが」
「湊にだけは言われたくない」
「湊お兄ちゃん、さっきから余計なことばっかり言ってる」
ゆうと君まで味方についた。
湊は口を開けたまま、わたしたちを交互に見る。
「俺、靴下探すの手伝ったんだけど?」
「見つけたのは夏海おばさん」
「逃げ道をふさいだのは凪お姉ちゃん」
「俺、社長を追ったぞ!」
「捕まえてないじゃん」
「おまえら、急に仲良くなりすぎだろ!」
夏海おばさんが大声で笑った。
◇
靴下は、洗面所で丁寧に手洗いした。
洗剤をつけ、泥の部分を指で軽くもむ。強くこすると青い名前の糸まで傷みそうなので、そこだけ避けた。
ゆうと君は隣の椅子に座り、ずっと見張っていた。
「そんなに見られると緊張するんだけど」
「失敗しないように」
「監督なの?」
「うん」
「湊より厳しいね」
「湊お兄ちゃん、雑だもん」
「おい、聞こえてっかんな!」
廊下を通りかかった湊が叫んだ。
聞こえるように話したのだから、当然である。
洗い終えた靴下を乾いたタオルで挟み、上から何度か押す。水分が移ったところで、洗濯ばさみに留め、扇風機の前へ吊るした。
白い靴下が風に揺れる。
「これで待つだけ」
「何分?」
「一時間くらい」
「長い」
「大事なものは、時間がかかるの」
「お姉ちゃんが元気になるのも?」
また、まっすぐな質問が来た。
「たぶんね」
「待つの、つまんないね」
「そうなんだよ。すごくつまらない」
「早くならないの?」
「ならないみたい」
「じゃあ、待ってる間に遊べばいいじゃん」
ゆうと君は、当たり前のように言った。
わたしは扇風機の前で揺れる靴下を見た。
治療をしていたころ、元気になるまでの時間は、ただ待つ時間だと思っていた。
退院してからも、体力が戻るのを待ち、学校へ毎日行ける日を待ち、体育に参加できる日を待っていた。
でも、待っている間にも、箸を並べたり、魚を逃がさないよう戸を閉めたり、靴下を洗ったりはできる。
「何して遊ぶの?」
わたしが聞くと、ゆうと君は目を輝かせた。
「社長が隠したもの、ほかにもあるか探そう!」
「床下には入らないよ」
「棒で探せばいいじゃん」
学習が早い。
そのとき、離れのほうから湊の大声が聞こえた。
「母ちゃーん! 床下から財布出てきた!」
夏海おばさんが走っていく。
「誰のだ!」
「知らねえ! でも金入ってる!」
「げんじいのじゃねえだろうな!」
「何で最初にげんじいなんだよ!」
わたしとゆうと君は顔を見合わせた。
「行く?」
「走らないなら」
「僕も歩く」
「遅いよ?」
「待ってる間に遊ぶんでしょ」
ゆうと君は、わたしより少しだけゆっくり歩き始めた。
たぶん、わざとだ。
気を遣われるのは好きではない。
でも、今は注意する代わりに、その歩幅へ合わせた。
潮待ち荘の社長が盗んだのは、靴下だけではなかったらしい。
財布の持ち主が誰なのか。
中身を見た夏海おばさんが、どうして急に黙り込んだのか。
それを知るのは、もう少しあとのことになった。




