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『大病を乗り越えたわたし、夏休みは五浦(いづら)の民宿でゆっくり元気になります ~茨城弁のいとこと、海風・温泉・常磐もの~』  作者: Deresuke・ごじゃっぺ・太郎


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第6話 魚の味噌汁は、一口でも一杯ですか

 今朝の味噌汁に入っている魚が、さっき玄関を跳ね回っていた魚なのかどうか、わたしには聞けなかった。


 聞いてしまえば、銀色の体で床を滑っていた姿を思い出す。


 あの魚が切り身になって椀の中にいると考えたら、昨日までとは別の意味で食べにくくなる気がした。


 朝食の席へ着いてからも、わたしは味噌汁の椀を見つめていた。


 白い湯気の下に、大根とねぎが浮かんでいる。魚の身も入っているようだが、椀の底に沈んでいて、今のところは見えない。


 匂いは、昨日の焼き魚ほど強くなかった。


 味噌の香りの向こうに、少しだけ海のような匂いがする。


「凪ちゃん、それ食わねえなら俺がもらうぞ」


 向かいに座ったげんじいが、こちらの椀へ手を伸ばした。


 わたしは反射的に椀を引き寄せる。


「まだ食べないとは言ってません」


「さっきから見てるだけだっぺ。味噌汁は絵じゃねえぞ」


「分かってます」


「だったら、冷める前に食え。冷めた味噌汁なんて、味噌に失礼だ」


「勝手なこと言うな」


 厨房から直人おじさんの低い声が飛んできた。


 げんじいは、まったく気にする様子もなく、自分の椀をすすった。


「うまいぞ、直人。今日の魚、いい味出てんな」


「持ってきた本人が褒めるな」


「魚を褒めてんだ。料理人は半分だ」


「だったら、もう食うな」


「何だよ。大人げねえなあ」


「げんじいさんが言う?」


 わたしが口を挟むと、湊が隣で吹き出した。


「凪、もう扱い分かってきたな」


「失礼だな、おめえら。俺は客だぞ」


「お金を払わない人は客じゃないよ」


「魚で払った」


「さっき夏海おばさんに清掃代を請求されてたでしょ」


「子どものくせに細けえなあ。千春ちゃんそっくりだ」


「母の名前を出せば黙ると思ってません?」


「思ってねえ。もっと怒ると思ってる」


「じゃあ、どうして言うんですか」


「面白えから」


 この人は、たぶん注意されても直らない。


 夏海おばさんがげんじいの後頭部を軽くはたき、空いた茶碗へご飯をよそった。


「凪にちょっかい出してねえで食え。あんたがいるせいで、客用の米が減るべ」


「俺の一杯ぐれえでなくなんねえよ」


「今ので三杯目だ」


「朝は食わねえと力出ねえかんな」


「その力、今日はどこで使うんだ?」


「昼寝」


「米返せ」


 二人のやり取りを聞いているうちに、少し緊張がほどけた。


 わたしは箸ではなく、椀へ手を伸ばした。


 まずは汁だけ。


 魚の身を見ないように、端からそっと口をつける。


 熱い。


 でも、嫌な匂いはしなかった。


 味噌のしょっぱさのあとから、少し甘い味がする。魚の味なのだろうか。病院で出た薄い味噌汁とも、東京の家で母が作るものとも違っていた。


「どうだ?」


 湊が聞いた。


「まだ一口しか飲んでない」


「一口の感想でいいだろ」


「飲んでる途中で話しかけないでよ」


「まずかったら無理すんな」


「おいしかったら?」


「父ちゃんが見えねえところで褒めろ」


「どうして」


「本人の前で褒めると、昼飯のおかずが一品増える」


「いいことじゃん」


「その一品を作るために、俺が買い物へ行かされる」


「自分の都合だった」


 湊が何か言い返そうとしたとき、厨房の暖簾が動いた。


 直人おじさんが大きな炊飯器の釜を抱えたまま、こちらを見ている。


「味は」


 聞かれて、わたしは少し困った。


 おいしい、と言えば、湊が言ったとおり何か増えるのだろうか。まずいとは思っていない。でも、魚の身まで食べられるかは分からない。


「汁は、おいしいです」


 正直に答えた。


 直人おじさんは一度うなずいた。


「身は残していい」


「まだ残すって決めてません」


「そうか」


「でも、食べるとも決めてないです」


「それでいい」


 直人おじさんは、それ以上何も言わずに厨房へ戻った。


 げんじいが、感心したように眉を上げる。


「直人があんな長くしゃべんの、珍しいな」


「今のが長いんですか?」


「普段は『飯』『風呂』『寝る』で一日終わる」


「父ちゃんを原始人みたいに言うなよ」


「似たようなもんだっぺ」


「料理できる原始人って、すごいね」


「凪まで乗るな!」


 湊が箸の先をこちらへ向ける。


 その向こうで、食堂の隅から鈴の音が聞こえた。


 見ると、社長が戸の隙間から顔だけを出している。


 昨日と同じ黄色い目で、今朝はげんじいの焼き魚を見ていた。


「社長、来てる」


 わたしが小声で言う。


 湊は振り返らず、自分の魚の皿を両手で守った。


「俺のじゃない。今日はげんじいのだ」


「なあに、猫一匹ぐれえ、俺が追っ払って――」


 げんじいが得意そうに言った瞬間、社長が飛んだ。


「うおっ!」


 黒い体が椅子へ乗り、前足がげんじいの皿へ伸びる。


 げんじいは焼き魚を守ろうと皿を持ち上げたが、慌てた拍子にご飯茶碗をひっくり返した。


「ああっ、俺の飯!」


「魚じゃなくて、そっちなの?」


「四杯目だったのに!」


「まだ食べる気だったのかよ!」


 湊が社長を抱き上げ、夏海おばさんがこぼれたご飯を片づける。


 社長は不満そうに尻尾を振り、げんじいは畳へ落ちた米粒を一つずつ拾おうとして、夏海おばさんに手をたたかれた。


「食うな! 汚えだろ!」


「三秒以内だ!」


「もう三十秒たってっぺ!」


「時間は気持ちの問題だ!」


「衛生は気持ちでどうにもなんねえ!」


 朝から元気な人たちだ。


 わたしは笑いながら、もう一口、味噌汁を飲んだ。


 二口目は、一口目よりも魚の匂いが気にならなかった。


     ◇


 宿泊客の朝食が終わると、食堂は急に静かになった。


 さっきまで走り回っていた子どもたちは海へ出かけ、老夫婦は六角堂を見に行くと言って宿を出た。げんじいも、夏海おばさんに追い立てられ、空になった発泡スチロール箱を抱えて帰っていった。


「凪ちゃん、またな。今度はもっとでっけえ魚持ってくっかんな!」


「玄関で跳ねない魚にしてください」


「魚に言っとく!」


「通じるんですか?」


「海の男だからな!」


「絶対、通じてないよね」


 げんじいは笑いながら坂道を下りていった。


 わたしは食堂の端に座り、少し休んでいた。


 朝から箸を並べ、魚を追い、床を拭いて、母を見送った。まだ午前九時にもなっていないのに、一日分の出来事があった気がする。


 夏海おばさんは客室の掃除へ行き、直人おじさんは昼食の仕込みを始めている。


 湊は食器を載せた盆を運んでいた。


「手伝おうか?」


「休んでろ」


「もう休んだよ」


「三分しかたってねえ」


「三分も休んだ」


「カップ麺じゃねえんだから、三分で完成すんな」


「じゃあ、何分休めばいいの」


「知らねえよ。自分の体に聞け」


「聞いても答えないんだけど」


「面倒くせえ体だな」


「人間はだいたい面倒くさいんでしょ」


「その言葉、便利に使うようになったな」


 湊は空いた椅子へ腰を下ろした。


「足、重い?」


「少し」


「息は?」


「平気」


「頭痛くねえ?」


「平気」


「気持ち悪くは?」


「湊」


「何だよ」


「お母さんみたい」


 湊は露骨に嫌そうな顔をした。


「それはやめろ。今すぐやめる」


「どうしてそこまで嫌がるの」


「おばさん、昨日だけで同じこと十回ぐれえ聞いてたべ」


「それくらい聞くよ」


「おまえも数えてたのかよ」


「聞かれるほうは覚えるんだよ」


 わたしが言うと、湊は少し黙った。


 それから、自分の首の後ろをかきながら言った。


「じゃあ、一個だけ聞く」


「何?」


「今、何したい?」


 体調ではなく、やりたいことを聞かれた。


 急に言われると、答えが浮かばない。


 何でもいいと言われると、かえって困るものらしい。


「海を見たい」


「二階から見えんだろ」


「窓からじゃなくて、近くで」


「浜まで行くには、まだ早えな」


 すぐに否定され、わたしはむっとした。


「聞いたのに、止めるの?」


「今すぐ浜まで行きたいのか?」


「行けるなら」


「坂も階段もあんぞ。帰りは上りだ」


「ゆっくり行けばいい」


「朝から動いたあとだぞ」


「でも――」


「だから、一回だけ止めた」


 湊は人差し指を立てた。


 昨夜、回復帳へ書いた約束だ。


 一回は止める。二回目は本人に決めさせる。


「それでも行くって言うなら、連れてく。ただし、途中で帰るのもありにする」


「海まで着けなくても?」


「着けなかったら、今日はそこまでだったってだけだ」


「失敗じゃない?」


「何でおまえ、すぐ成功か失敗に分けたがんだよ」


「分かりやすいから」


「分かりやすいけど、しんどくねえ?」


 それは、少しだけ当たっていた。


 病院では、検査結果が良いか悪いか、薬が効いたか効かなかったか、熱が上がったか下がったか、いつも数字や結果で決められた。


 学校へ戻ってからも、何時間授業を受けられたか、何日休まず登校できたかを、わたし自身が数えていた。


 できた日は安心する。


 できなかった日は、前の日より悪くなった気がする。


「浜じゃねえけど、海の見える場所なら近くにある」


 湊が言った。


「歩いて五分くらい。たぶん、今のおまえなら往復できる」


「たぶん?」


「絶対って言うと、おまえが意地でも歩くから」


「信用ないね」


「昨日、駅で帽子を追って倒れかけたやつだぞ」


「まだ言う?」


「来年まで言う」


「来年も会うつもりなんだ」


 わたしが何気なく言うと、湊は一瞬だけ変な顔をした。


「親戚なんだから、会うだろ」


「東京へ行くんじゃなかったの?」


「今すぐ行くわけじゃねえよ」


「いつ行くの」


「知らね。高校か、その先か」


「夏海おばさんには言うんでしょ」


「そのうちな」


「回復帳には、この夏って書いてあった」


「おまえ、自分の目標だけ見てろよ」


「湊が勝手に同じノートへ書いたんじゃん」


「書かなきゃよかった」


「消したら負けだからね」


「何の勝負だよ」


 湊は立ち上がり、食堂の窓を指さした。


「十分休んだら行くぞ」


「五分じゃなかったの?」


「歩いて五分。休むのは十分」


「どうして」


「カップ麺より人間のほうが完成すんの遅えから」


「わたし、完成してない扱い?」


「完成した人間なんていねえべ。大人見てみろ。げんじいとか」


「たしかに」


 納得すると、なぜか湊が笑った。


     ◇


 十分後、わたしたちは潮待ち荘の裏口から外へ出た。


 細い道の両側には松や背の低い草が生え、木々の隙間から海の光がちらちら見える。


 朝の風は涼しかった。


 潮の匂いも、食堂で感じた魚の匂いとは違う。もっと広くて、どこから来ているのか分からない匂いだった。


 湊は、昨日の駅で歩いたときと同じように、ずいぶんゆっくり進んだ。


「わざと遅く歩いてる?」


「俺、いつもこれくらいだ」


「嘘。さっき社長を追いかけたとき、もっと速かった」


「あれは緊急時だ」


「わたしに合わせてるって言えばいいのに」


「言ったら怒るだろ」


「怒らないよ」


「ほんとか?」


「少ししか」


「怒んじゃねえか」


 道は緩やかに下っていた。


 行きは楽でも、帰りは上りになる。


 湊がさっき言った意味が、歩き始めて分かった。


 それでも、今はまだ足が動く。


 途中で古い石垣の脇を曲がると、目の前が急に明るくなった。


「着いたぞ」


 木々の切れ間に、小さな広場のような場所があった。


 その先は崖になっていて、安全のために木の柵が設けられている。柵の向こうには、青い海と岩場が広がっていた。


 岩へ白い波がぶつかり、細かな泡になって消える。


 もっと遠くには、海へ突き出した緑の岬が見えた。


 そして、その上に、赤い小さな建物が立っている。


「あれ、何?」


「六角堂」


 湊が答えた。


「あれが?」


「岡倉天心って人が建てたやつ。詳しいことは、あとで行ったとき教える」


「行けるの?」


「歩けるようになったらな」


「今でも行けるかもしれない」


「はい、一回止めた」


「さっきも止めたでしょ」


「あれは浜へ行く話。六角堂は別件です」


「ずるい」


「民宿の息子は、客の安全を第一に考えます」


「わたしは客じゃなくて従業員じゃなかった?」


「猫の監視係は契約を切られました」


「どうして」


「昨日、社長の侵入を許したから」


「最初から入ってきてたじゃん!」


 言い返した声が、海の上へ飛んでいく。


 波の音に負けて、自分の声が少し遠く聞こえた。


 わたしは柵の手前にあるベンチへ座った。


 ここまで五分。


 走らず、転ばず、自分の足で来られた。


 胸は少し速く動いているけれど、苦しくはない。


「どうだ?」


 湊が聞いた。


「何が?」


「海」


「大きい」


「小学生みてえな感想だな」


「中学生になって三か月しかたってないから、だいたい小学生だよ」


「開き直った」


「それに、ほんとに大きいんだから仕方ないでしょ」


 わたしは六角堂を見た。


 赤い建物は、海と崖の間に挟まれているのに、不思議と怖そうには見えない。ずっと昔から、そこで波を見ているようだった。


「夏休みの最後までに、あそこへ行きたい」


 そう言うと、湊はすぐには返事をしなかった。


「行けるかな」


「知らね」


「そこは行けるって言ってよ」


「俺が決めることじゃねえだろ」


「冷たい」


「でも、行くつもりなら付き合う」


「途中で疲れたら?」


「休む」


「歩けなくなったら?」


「迎え呼ぶ」


「格好悪くない?」


「誰に対して?」


 聞かれて、答えに詰まった。


 東京の友達。


 母。


 湊。


 それとも、病気になる前の自分。


「分かんない」


「じゃあ、今は考えなくていいべ」


 湊は海の向こうを見ながら、ぽつりと言った。


「帰れなくなるまで進むほうが、よっぽど格好悪いからな」


 たぶん、わたしのことだけを言っているのではなかった。


 でも、何についてなのか聞こうとしたとき、背後の草むらが大きく揺れた。


 がさがさという音が近づいてくる。


「何?」


「分かんね」


「動物?」


「たぶん」


「熊じゃないよね?」


「ここで熊は聞かねえけど――」


 湊がわたしの前へ出た。


 次の瞬間、草の中から黒いものが飛び出した。


「にゃあ!」


「社長!?」


 黒猫は口に何か白いものをくわえたまま、わたしたちの前を駆け抜けていく。


 白い布。


 見覚えのある形。


「あれ、宿泊客の靴下じゃない?」


「またやりやがった!」


 湊が叫ぶ。


 社長は六角堂とは反対方向の坂道へ走り去った。


「追うぞ、凪!」


「わたしは走らないよ!」


「分かってる! 逃げ道ふさいでくれ!」


「またそれなの!?」


 海を眺める静かな時間は、五分も続かなかった。


 五浦ゆっくり回復帳へ新しい目標を足すなら、こう書いたほうがいいかもしれない。


 ――社長が盗みをやめるまで、たぶん誰もゆっくりできない。

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