第5話 玄関を泳ぐ魚と、泣き虫だった湊
玄関へ飛び出した魚は、畳の上よりもよく滑った。
銀色の体を大きく曲げ、ばたん、ばたんと音を立てながら、まっすぐこちらへ向かってくる。
「凪、戸だ! 玄関の戸、閉めろ!」
湊に言われ、わたしは反射的に引き戸へ手を伸ばした。
けれど、戸までは三歩ほどある。
たった三歩。
昨日の駅で、帽子を追いかけたのと同じくらいの距離だった。
走ればすぐに届く。魚が外へ逃げる前に閉められる。
そう思った瞬間、膝の奥がひやりとした。
また転んだらどうしよう。
玄関の石に頭をぶつけたら、母へ連絡が行く。東京へ帰る話になるかもしれない。湊も夏海おばさんも、わたしに仕事をさせなくなるかもしれない。
「凪?」
湊がわたしを見た。
早くしろ、とは言わなかった。
代わりに、自分が魚の前へ回り込もうとする。
「待って」
わたしは走らず、玄関の戸まで歩いた。
急ぎたい気持ちを押さえ、足の裏が床についていることを確かめながら進む。魚がもう一度跳ねたけれど、湊が両手を広げて進路をふさいだ。
「そっち行かせんなよ、げんじい!」
「分がってる! 分がってっけど、魚は人の話聞がねえんだ!」
「当たり前だろ!」
「だったら命令すんな!」
言い争っている間に、わたしは戸へたどり着き、ぴしゃりと閉めた。
「閉めた!」
「よし!」
湊が振り返った。
その顔に「遅い」と書かれている気がして、先に言った。
「走らなかったからね」
「見りゃ分かる」
「遅かった?」
「魚、逃げてねえだろ」
「でも、湊が止めたから」
「二人でやったんだから、それでいいべ」
簡単に言われた。
走れなかった自分を、わたしは勝手に失敗へ数えかけていた。でも、湊の中では、戸が閉まった。それだけらしい。
「おめえら、話してねえで捕まえろ!」
げんじいの叫びで、現実へ引き戻された。
魚は玄関の隅まで滑っていき、置かれていた傘立てへ体当たりした。金属の傘立てが倒れ、中にあった傘が派手な音を立てて散らばる。
二階から、宿泊客の子どもが顔を出した。
「ママー! 玄関に魚いる!」
「海から来たの?」
「民宿って魚が歩いてるの?」
「歩いてねえ! 跳ねてんだ!」
湊が訂正したが、その違いはどうでもいい気がする。
宿泊客たちが次々と階段から下りてきた。
パジャマ姿の男の子に、髪へカーラーを巻いた女の人。昨日、窓際の席に座っていた老夫婦までいる。
「まあ、立派なお魚」
「朝食かい?」
「朝食になる予定だった!」
げんじいが答える。
魚は大勢に囲まれて、ますます激しく跳ねた。
「湊、タオル持ってこい! でっけえやつ!」
「どこにあんだよ!」
「風呂場!」
「風呂場まで行ってたら逃げっぺ!」
「戸は凪が閉めたから逃げねえ!」
「じゃあ、げんじいが捕まえろよ!」
「腰が痛えんだ!」
「都合のいいときだけ年寄りになるな!」
誰も魚を捕まえない。
大人たちは口だけ出し、子どもたちは楽しそうに応援し、魚だけが本気で命をかけている。
「どいて」
低い声がした。
いつの間にか、直人おじさんが厨房から出てきていた。片手に大きなザル、もう片方には濡らした布巾を持っている。
「直人、そいつ元気いいぞ。気ぃつけろ」
「見れば分かる」
「尻尾でひっぱたかれっと、けっこう痛えかんな」
「げんじい。箱を倒したのは誰だ」
「魚だ」
「箱を傾けたのは」
「……風だ」
「今日は風、入ってねえぞ」
玄関の戸は、わたしが閉めたばかりだ。
全員の視線がげんじいへ集まる。
「細けえことはいいんだ。魚が鮮え証拠だっぺ」
「鮮度の証明に宿を壊されちゃ困る」
直人おじさんは魚の前へしゃがんだ。
逃げようとする魚へ、いきなり手を伸ばすことはしない。濡れた布巾をふわりとかぶせ、動きが少し弱まったところで、頭側からザルを当てる。
魚が一度だけ大きく暴れた。
直人おじさんは慌てず、ザルごと持ち上げて、発泡スチロールの箱へ戻した。
蓋を閉じる。
終わりだった。
「すごい」
宿泊客の男の子が拍手する。
ほかの子どもたちも真似をして手をたたき、なぜか大人まで拍手を始めた。
直人おじさんは、ひどく嫌そうな顔になった。
「見世物じゃない」
「お父さん、格好よかったよ!」
宿泊客の女の子に言われ、直人おじさんは返事に困ったように黙る。
湊がわたしの隣で小声を出した。
「父ちゃん、子どもに褒められると動かなくなんだ」
「照れてるの?」
「たぶんな。顔がいつもと同じだから分かりづれえけど」
「聞こえてるぞ」
直人おじさんが言った。
湊はわざとらしく口笛を吹いた。
◇
玄関を掃除するあいだ、げんじいは食堂の椅子に座らされていた。
「お客さんの朝飯前に、なんて騒ぎ起こしてくれんだよ」
夏海おばさんが腰へ両手を当てる。
「魚が跳ねたぐれえで騒ぐな。海辺の宿らしくていいべ」
「海辺の宿でも、魚は玄関から入ってこねえ」
「今日は特別だ」
「特別料金、払ってもらうかんな」
「金取んのかよ。魚、ただで持ってきてやったのに」
「傘立て倒して、床を水浸しにした清掃代だ」
「じゃあ、魚、持って帰る」
「もう直人が朝飯に使うって決めた」
「だったら、こっちが金もらうほうだっぺ!」
二人の言い争いは、いつ終わるのだろう。
夏海おばさんは本気で怒っているように見えるし、げんじいも負ける気がない。それなのに直人おじさんは止めず、湊は「あれ、毎回だから」と傘を拾っている。
「喧嘩じゃないの?」
わたしが聞くと、湊は曲がった傘の骨を確認しながら答えた。
「喧嘩だよ」
「止めなくていいの?」
「止めると二人とも、もっと怒る」
「どうして?」
「どっちの味方だって話になるから」
「じゃあ、どっちの味方なの?」
「傘立て」
「物じゃん」
「いちばん被害受けたの、こいつだぞ」
確かに、傘立ては横が少しへこんでいた。
わたしは濡れた床を雑巾で拭いた。最初は湊がやると言ったけれど、魚を外へ逃がさなかったのだから、最後まで片づけたいと頼んだ。
しゃがんだまま動いていると、少しずつ太ももが重くなる。
まだできる。
もう少しなら平気だ。
そう思いながら雑巾を伸ばしたところで、昨日ノートへ書いた言葉が頭をよぎった。
『疲れたら疲れたと言う』
書いた翌朝から守れないのは、さすがに格好が悪い。
「湊」
「何だ?」
「少し疲れた」
言った途端、心臓が妙に速くなった。
湊がどんな顔をするのか怖くて、床を見たまま待つ。
「ん。じゃあ、それ置け」
返ってきたのは、それだけだった。
「怒らないの?」
「何で怒るんだよ」
「まだ半分しか拭いてない」
「残りは俺がやる」
「でも」
「『疲れた』って言ったやつに、頑張れって言ったら、あのノート作った意味ねえべ」
湊はわたしの手から雑巾を取った。
代わりに、廊下の端にある長椅子を指さす。
「座ってろ。朝飯始まるまでに片づけっから」
「見てるだけって、落ち着かない」
「だったら監督しろ」
「監督?」
「俺の拭き方が雑だったら注意すればいい」
「もう雑だよ。端まで拭けてない」
「まだ始めてもねえだろ!」
「監督だから、先に注意したの」
「最悪の監督だな」
湊は文句を言いながら床を拭き始めた。
わたしは長椅子へ座る。
胸の苦しさはない。ただ、脚の中に砂袋を入れられたような重さがあった。ほんの少し動いただけなのに、と悔しくなる。
げんじいがこちらを見た。
「疲れたんか?」
「少しだけ」
「そうか」
大げさに心配されると思ったのに、げんじいはそれ以上何も聞かなかった。
代わりに、夏海おばさんとの言い争いをやめ、卓上の麦茶を勝手に飲む。
「おめえ、千春ちゃんに似て頑固そうだな」
「母を知ってるんですか?」
「夏休みになると、よくこっち来てたかんな。夏海ちゃんと二人で、そりゃもううるせえ姉妹だった」
「今でもうるさいよ」
「昔はもっとだ。千春ちゃんなんか、湊ぐれえのころ、防波堤から落ちた夏海ちゃんを助けようとして、自分も落ぢた」
「何それ」
「二人そろって、腰まで海に浸かって喧嘩してたぞ。『お姉ちゃんが勝手に落ちた』『助けに来たほうが悪い』って」
「夏海おばさん、本当に?」
「げんじい! 余計なこと言うな!」
食堂から怒鳴り声が飛んできた。
げんじいは、ほれ見ろ、という顔をする。
「昔から変わんねえなあ」
「げんじいさんは、わたしにも前に会ったことがあるんですよね」
「あるぞ。三つか四つぐれえんときだ」
「浜で転んだって話?」
「そうそう。おめえ、波にびっくりして尻もちついてな。鼻水垂らして泣いでた」
「その話は忘れてください」
「無理だな。年取ると、昨日のことは忘れんのに、昔のことばっか覚えてんだ」
「便利なのか不便なのか分からない」
「両方だっぺ」
げんじいは麦茶のコップを両手で包み、湊へ目を向けた。
「そんとき湊は、ほんとに大泣きしてたぞ」
「まだ言うのかよ!」
床を拭いていた湊が顔を上げる。
「おめえが転んだだけなのにな、『凪が死んじゃう』って、俺の足にしがみついて離れねえんだ」
「いくつのときだよ! 覚えてねえよ!」
「五つぐれえだな」
「そんな昔のこと、今さら話すな!」
「でも、湊にも可愛いときがあったんだね」
「今も可愛いべ」
げんじいが言う。
「どこが!」
湊とわたしの声が重なった。
げんじいは腹を抱えて笑い出した。
「息ぴったりだな、おめえら」
「やめてよ」
「やめろって」
また声が重なった。
余計にげんじいが笑う。
湊は耳まで赤くし、雑巾を乱暴に絞った。
「もういいから、げんじい帰れよ!」
「朝飯食ってから帰る」
「何で客に混じって食う気なんだ!」
「魚持ってきた人間の特権だ」
「さっき持って帰るって言っただろ!」
「予定は変わるもんだっぺ」
昨日、わたしも同じようなことを言った気がする。
げんじいは声が大きくて、昔話を勝手にするし、どう考えても面倒なおじいさんだ。
でも、わたしが疲れたと言ったとき、拍手もしなければ、「かわいそうに」とも言わなかった。
その態度が、なぜか少し心地よかった。
◇
朝食が始まる前、わたしは五浦ゆっくり回復帳を開いた。
一番目の「民宿の手伝いを一つする」の横へ、丸をつけようとして、少し迷う。
箸は一本多かった。
魚を捕まえることはできなかった。
床掃除も半分で湊に代わってもらった。
全部、自分一人では終えられていない。
「何してんだ?」
湊が肩越しにノートをのぞき込んだ。
「丸をつけていいか考えてる」
「何で?」
「手伝い、最後までできなかったから」
「箸は並べただろ」
「一本多かった」
「母ちゃんだって、たまに三本多い」
「比べる相手がおかしいよ」
「魚が逃げねえように戸も閉めた」
「捕まえたのは直人おじさん」
「床も拭いた」
「途中まで」
湊は面倒そうに頭をかいた。
「おまえ、目標に『全部一人でやる』って書いたか?」
「書いてない」
「じゃあ丸でいいだろ」
「でも」
「丸が嫌なら、三角にすれば」
「逃げたね」
「こういうときは逃げていいんだよ。丸か×しかねえと疲れっから、三角も作っとけ」
そう言って、湊は自分の目標の横へ三角を描いた。
『凪が無理していたら、一回だけ止める』
「どうして三角?」
「今日は止める前に、自分で疲れたって言ったから。俺の出番なかった」
「それなら、できてないんじゃないの?」
「出番がないほうがいい目標もあんだよ」
湊の理屈は、分かるようで分からない。
でも、わたしは一番目の横へ丸ではなく、少し大きな三角を描いた。
その下に、今日やったことを書く。
『箸を並べた。一本多かった。魚を逃がさないように戸を閉めた。床を半分拭いた。疲れたと言えた』
書いてみると、思ったよりたくさんあった。
「なあ、最後のやつは丸じゃね?」
湊が言った。
「疲れたと言えた、ってやつ」
「目標三番だから、そっちにも丸つけていい?」
「誰に許可取ってんだよ。おまえのノートだろ」
わたしは三番目の横へ、小さな丸をつけた。
丸は思っていたより、きれいな形にならなかった。
少し横へつぶれて、端が途切れている。
それでも、最初の一個だった。
「凪ー! 飯食うぞー!」
夏海おばさんが食堂から呼ぶ。
「今行く!」
「今日は魚の味噌汁だが、匂いだいじか?」
わたしはすぐには答えなかった。
厨房から、だしと味噌の匂いに混じって、昨日よりも薄い魚の香りが届く。
胸の奥に白い病室が浮かびかけたけれど、今朝の玄関を跳ね回った銀色の魚と、顔を真っ赤にして怒る湊も一緒に浮かんだ。
「食べるかどうかは、見てから決める!」
「おう。それでいい!」
夏海おばさんの声は、朝の波より大きかった。
ノートを閉じて立ち上がる。
げんじいは、もう客の席へ座り、ご飯茶碗を手に持っていた。
「げんじいさん、どうして普通に食べてるの?」
「細けえこと言ってっと、飯が冷めっぺ」
「お金払ってくださいね」
「夏海ちゃんにつけとく」
「民宿側につけてどうするんですか!」
げんじいが笑い、湊があきれ、直人おじさんは黙ってご飯をよそう。
潮待ち荘の朝は、たぶん東京より早い。
そして、東京の朝よりずっと騒がしい。
わたしは自分の席に置かれた箸を持ち上げた。
今度は、一本も多くなかった。




