第4話 箸は一本多くても困ります
翌朝、わたしは目覚まし時計が鳴る前に起きた。
眠れなかったわけではない。むしろ、久しぶりに夢も見ずに眠った気がする。
ただ、目が覚めた瞬間、自分がどこにいるのか分からなかった。
天井は木の板で、障子の向こうがぼんやり明るい。耳を澄ますと、一定ではない波の音に混じって、遠くからカモメらしい鳴き声が聞こえる。
東京の部屋ではない。
病室でもない。
潮待ち荘だと思い出したところで、隣の布団から母の寝息が聞こえた。
母は横を向き、片手を頬の下へ入れて眠っている。その姿が妙に疲れて見えて、わたしはしばらく起こせなかった。
昨日の夜、母は明日の朝八時ごろに宿を出ると言っていた。
午前中の電車で東京へ戻り、午後から仕事へ行くという。もっとゆっくりすればいいのにと思ったけれど、口には出さなかった。そんなことを言ったら、自分も帰りたいと思っているようで悔しい。
枕元のスマートフォンを見ると、まだ午前五時四十分だった。
起きるには早い。
もう一度眠ろうと布団へ入ったが、目を閉じた途端、頭の中に昨日作ったノートが浮かんだ。
『五浦でやってみること』
一、民宿の手伝いを一つする。
今朝の仕事は、朝食の箸並べだ。
湊は「それだけをちゃんとやる」と言っていた。
箸を並べるだけで、わざわざ目標の一つに数える必要があるのだろうか。東京の家でも、夕食の箸を出したことくらい何度もある。
そんな簡単な仕事で「できました」と喜ぶのは、赤ちゃんみたいで嫌だった。
だからといって、勝手に難しい仕事をすれば、また母や湊に止められる。
考えれば考えるほど腹が立ち、結局、眠れなくなった。
わたしは音を立てないように着替え、部屋を出た。
◇
一階へ下りると、民宿はすでに起きていた。
厨房から包丁の音が響き、廊下の奥では洗濯機が回っている。食堂の窓は開け放たれ、朝の涼しい風が白いカーテンを揺らしていた。
夏海おばさんは、食堂のテーブルを布巾で拭いていた。
「あら、早えな。まだ寝ててよかったのに」
「起きたから」
「夜、眠れなかったか?」
「眠れたよ。お母さんより先に寝たと思う」
「千春は昔っから、寝つくまでが長えんだ。寝たら地震でも起きねえけど」
「そうなの?」
「子どものころ、夜中にあたしが布団から転がしても起きなかった」
「どうして転がしたの」
「寝相が悪くて、あたしの場所まで取ったから」
「おばさんも大概じゃない?」
「夏海おばさん、な」
昨日と同じ訂正をされ、わたしはわざとため息をついた。
「湊は?」
「まだ寝てる。あいつ、起こしても一回じゃ起きねえから、今は放っとく」
「朝の手伝いは?」
「六時半から」
「あと三十分しかないよ」
「三十分もあれば、夢の一個ぐれえ見られっぺ」
「民宿の息子として、それでいいの?」
「よくねえけど、毎朝怒鳴るのも疲れんだよ。子どもを立派に育てる前に、親が倒れちまう」
夏海おばさんは布巾をすすぐと、わたしの顔をじっと見た。
「体、だいじか?」
「大事?」
「大丈夫かって意味だ。昨日、湊に教わんなかったか?」
「教わった。でも、まだ慣れない」
「そうか。んじゃ、腹は減ってっか?」
「少し」
「眠くは?」
「ちょっと」
「立っててふらつかねえ?」
「それは平気」
「よし。仕事できるな」
あまりにも普通に言われたので、わたしは一瞬、返事が遅れた。
「やらせてくれるの?」
「やりに来たんだろ?」
「そうだけど、お母さんに聞かなくていいの」
「おめえの仕事を、いちいち千春に聞くのか?」
「昨日までは、そういう感じだったから」
「ここは病院でも学校でもねえ。働いてもらうときゃ、本人に聞く」
夏海おばさんは食堂の隅に置かれた木箱を指さした。
「箸、あそこ。今日は大人十一人、子ども四人。うちの家族と凪たちの分を足して、全部で何膳だ?」
急に問題を出され、頭の中で数える。
客が十五人。
夏海おばさん、直人おじさん、湊。そこへ母とわたし。
「二十膳」
「正解。テーブルごとに人数が違うから、名札見て並べてくれ。割り箸じゃなくて、色のついた箸は家族用な」
「簡単だね」
「おう。簡単だから、間違えんなよ」
「それ、間違えたら恥ずかしいやつじゃん」
「簡単な仕事ほど、間違えると目立つんだ」
夏海おばさんはにやっと笑い、厨房へ消えた。
急に緊張してきた。
箸を並べるだけだと思っていたのに、「間違えると目立つ」などと言われたら、一本置くたびに不安になる。
木箱を開けると、同じ長さの箸が何十膳も入っていた。客用は茶色、家族用は青や赤の塗り箸らしい。
わたしはテーブルの名札と人数を確認し、一本ずつ並べていった。
大人二人と子ども二人の家族には四膳。
大人三人のグループには三膳。
窓際の席には老夫婦二人。
最後に、民宿の家族が使う端のテーブルへ五膳を置く。
完璧だ。
数え直しても二十膳ある。
わたしが満足していると、後ろから眠そうな声がした。
「何してんだ?」
振り返ると、湊が髪をあちこちにはねさせたまま立っていた。
「仕事」
「見れば分かる。何でそんな得意げなんだよ」
「全部並べ終わったから」
「そうか。んじゃ、一本多いな」
「え?」
湊は家族用のテーブルから、青い箸を一膳持ち上げた。
「どうして? 二十人でしょ」
「母ちゃん、父ちゃん、俺、凪のおばさん、凪。五人じゃねえか」
「合ってるでしょ」
「凪のおばさんって、おまえの母ちゃんだろ」
「そうだけど」
「おばさんは朝飯食う前に帰るって、昨日言ってたぞ」
「八時に出るんじゃなかったの?」
「駅まで送るから、七時半には出る。電車の中で食べるおにぎり、父ちゃんが作ってる」
知らなかった。
母は、朝食も一緒に食べないのだ。
「聞いてない」
「おばさん、言ったつもりだったんじゃねえの」
「言ってないよ」
「本人に聞けば?」
「寝てる」
「もう起きてっぺ。さっき廊下で会った」
わたしは反射的に階段のほうを見た。
そこへ、着替えを済ませた母が下りてきた。髪を結び、仕事用の鞄を肩へかけている。
もう帰る人の格好だった。
「あら、凪。早いのね」
「朝ごはん、食べないの?」
「時間が少しぎりぎりなの。直人さんがおにぎりを持たせてくれるって」
「どうして言わなかったの」
「昨日、話さなかったかしら」
「聞いてない」
「ごめんなさい。夕食のあとに言おうと思って……喧嘩して、そのまま忘れてしまったのね」
母は困った顔をした。
いつもなら、わたしは「別に」と答える。
本当は別にではないのに、平気な顔をする。そのあと母が帰ってから、一人で腹を立てる。
でも、昨夜の約束を思い出した。
嫌だったら、できるだけ言う。
「一緒に食べると思ってた」
「そうよね。私も食べたかったけど、今日は会社で外せない打ち合わせがあって」
「それなら、もっと早く起きて食べればよかったじゃん」
「凪」
母の声が少し硬くなる。
言いすぎたかもしれない。
けれど、ここで引っ込めたら、また何も言えなくなる。
「だって、お母さんは今日帰るんでしょ。わたしは残るのに、朝ごはんくらい一緒に食べたかった」
母はしばらく黙っていた。
忙しい朝の食堂で、洗濯機の音と、厨房から聞こえる鍋の音だけが続く。
湊は気まずそうに箸を持ったまま立っている。逃げてもいいのに、なぜか逃げなかった。
「ごめんね」
母が言った。
「時間を変えられないか、ちゃんと考えればよかった。凪が平気だと思い込んでいたわ」
「平気だよ」
「今の話を聞いたあとで、それを信じるほど鈍くないわよ」
「じゃあ、言わせないで」
「言ってくれたほうがいいの。困るけど」
「困るんだ」
「そりゃ困るわよ。あなたの希望を全部かなえられるわけじゃないもの」
母は少し笑った。
「でも、困ることと、聞きたくないことは別でしょう。言われたら何とかできないか考えられる。言われなければ、何も考えられないから」
「今から朝ごはんは無理?」
「駅へ着くのが少し遅くなるけど……五分なら」
「五分で食べられるの?」
「あなたとお味噌汁だけ飲むくらいなら」
「味噌汁じゃなくて、澄まし汁だ」
厨房から直人おじさんが言った。
いつから聞いていたのだろう。
大きなお盆を持って現れ、その上から小さな椀を二つ、家族用のテーブルへ置く。
「魚は入ってない。豆腐と三つ葉だけだ」
「直人さん、でも電車が」
「五分で飲める」
「熱くない?」
「少し冷ました」
母は椀と直人おじさんを交互に見た。
「ありがとうございます」
「礼はあとでいい。冷める」
「冷ましたって言ったのに」
湊が口を挟むと、直人おじさんは無言で息子の寝ぐせを片手で押さえつけた。
「いででで! 何すんだよ!」
「客の前へ出る頭じゃない」
「頭は全員同じだろ!」
「髪の話だ」
「それなら最初から髪って言えよ!」
わたしと母は顔を見合わせ、同時に笑った。
◇
母と並んで飲んだ澄まし汁は、豆腐が少し大きすぎた。
母は急いで食べようとして三つ葉を喉に引っかけ、わたしに笑われた。
「笑わないで。時間がないのよ」
「無理して急ぐと危ないよ」
「誰のために急いでいると思ってるの」
「自分が寝坊したからでしょ」
「そうだった。反論できないわ」
たった五分だった。
それでも、一人で見送るだけよりはよかった。
夏海おばさんの車に母の鞄を積み、玄関前へ出る。朝の空気はひんやりしていて、東京の早朝よりずっと涼しい。
母は車へ乗る前に、何度もわたしを見た。
「薬、忘れないでね」
「分かってる」
「疲れたら休むのよ」
「分かってる」
「夜、電話するから。出られなかったら、あとで折り返して」
「うん」
「具合が悪くなったら、我慢せず夏海に――」
「千春」
夏海おばさんが運転席から呼んだ。
「何よ」
「このままじゃ電車より、おめえの注意事項のほうが長くなるぞ」
「だって、言っておかないと」
「昨日、努力するって言ったんだろ?」
わたしが言うと、母は目を丸くした。
それから、少し恥ずかしそうに笑う。
「そうね。努力するんだった」
「わたしも努力する」
「じゃあ、今日は何をするの?」
「箸を並べた」
「もう仕事したの?」
「一本多かったけど」
「それは失敗したってこと?」
「違う。食べると思ってた人が、食べなかっただけ」
「言い方に、すごくとげがあるわね」
「誰のせいだろうね」
「私ですね。はい」
母は肩をすくめた。
そして、急にわたしを抱きしめた。
強くはない。
壊れ物を扱うようでもない。
ただ、子どものころにしていたみたいに、腕を回して背中を一度たたいた。
「行ってくるね」
母は「大丈夫?」とは聞かなかった。
だからわたしも、「大丈夫」とは答えなかった。
「行ってらっしゃい」
車が坂道を下り、見えなくなるまで手を振った。
胸の奥が、少しだけ痛かった。
病気の痛みではない。
寂しいときの痛みだった。
それなら隠さなくてもいい気がした。
「泣くか?」
横で湊が聞く。
「泣かない」
「泣いてもいいぞ」
「泣かないって」
「じゃあ、その顔は何だよ」
「朝の風が目に入ったの」
「両目にか?」
「五浦の風は器用なんだよ」
「東京の紙人間よりは器用だな」
「うるさい」
湊のすねを軽く蹴る。
「いてっ。病み上がりの蹴りじゃねえぞ」
「病み上がりを言い訳にしたら怒るからね」
「褒めたんだよ」
「蹴られて喜ぶなんて変なの」
「喜んでねえ!」
玄関の中から、夏海おばさんの声が飛んできた。
「二人とも、いつまで外でいちゃついてんだ! 客が起きてくっぺ!」
「いちゃついてない!」
わたしと湊の声が、ぴったり重なった。
それがおかしくて、二人とも一度黙る。
「ほら、仕事戻んぞ」
湊が先に玄関へ入った。
わたしも続こうとして、ふと食堂のほうを見る。
一本多かった箸は、まだ家族用のテーブルの端に置かれていた。
わたしはそれを片づけようと手を伸ばした。
そのとき、背後で玄関の引き戸が勢いよく開いた。
「夏海ちゃん、朝っぱらから悪いなあ! ちっと頼みあんだけどよ!」
大きな声と一緒に、麦わら帽子をかぶったおじいさんが入ってきた。
両手には、銀色に光る魚の入った発泡スチロール箱を抱えている。
「おう、げんじい。何だ、また余計なもん持ってきたのか」
「余計とは何だ。朝獲れだぞ、朝獲れ! ……ん? そっちの細っこい娘っこ、千春ちゃんとこの凪か?」
おじいさんは箱を持ったまま、わたしを頭から足まで眺めた。
「でっかくなったなあ。前に会ったときゃ、浜で転んで鼻水垂らして泣いてたっぺ」
「覚えてません」
「そうかあ? そんとき湊のやつ、凪が死んじまうっつって、凪よりでっけえ声で泣いてたぞ」
「げんじい!」
湊の顔が真っ赤になった。
「それ、いつの話だよ! 言うなって!」
「何だ、本人に話してなかったのか」
「話すわけねえだろ!」
初めて聞く話だった。
わたしは湊を見る。
「わたしが転んで、湊が泣いたの?」
「泣いてねえ」
「げんじいさんは泣いたって」
「このじいさんの話、半分は作り話だ!」
「残り半分は?」
「もっとひどい作り話!」
「全部じゃん」
げんじいは大きな口を開けて笑った。
その拍子に、抱えていた箱が傾く。
中で魚が跳ねた。
跳ねたというより、まだ生きていた。
銀色の大きな魚が箱から飛び出し、玄関のたたきへ落ちた。
「うわっ!」
「凪、そっち行った!」
「どうすればいいの!」
「捕まえろ!」
「無理だよ!」
「おめえら、騒いでねえで戸を閉めろ! 外へ逃げっちまうべ!」
魚は濡れた床で激しく跳ね、こちらへ向かってくる。
わたしは逃げようとして、昨日の駅でのことを思い出した。
急に走らない。
でも、魚は待ってくれない。
五浦ゆっくり回復帳の二日目は、どうやら箸を一本多く置いたくらいでは終わらないらしい。




