第3話 元気になるって、何点からですか
社長は、結局、湊の焼き魚を奪えなかった。
直人おじさんが猫用の小皿に、味のついていない魚をほんの少しだけ入れたからだ。
社長はそれを食べ終えると、まるで最初から自分のために用意されていた夕食だったような顔で、食堂の真ん中を堂々と横切っていった。
「待って。あれで終わり?」
わたしが聞くと、湊は魚の皿を胸元へ抱えたまま答えた。
「何が」
「見張りの仕事。わたし、何もしてないよ」
「社長を発見しただろ」
「発見したの、湊じゃん」
「でも、驚いて大声出したべ。あれでみんなに危険が伝わった」
「それを仕事に数えたら、世の中のほとんどの失敗が仕事になるよ」
「民宿なんて、だいたいそんなもんだ。失敗を笑ってごまかして、客に見つかる前に片づける」
「湊。お客さんの前で本当のこと言うな」
夏海おばさんに頭を軽くたたかれ、湊は「いてえ」と大げさに首をすくめた。
笑い声の残る食堂で、わたしは二個目の塩むすびを食べた。
魚料理にはまだ手をつけられなかったけれど、思っていたよりお腹は空いていたらしい。直人おじさんが無言で差し出した三個目にも手を伸ばすと、湊が目を丸くした。
「食うんじゃねえか」
「おにぎりは食べられるの」
「さっき三個は無理って言ってたべ」
「予定は変更されるものなの」
「宿題も八月三十一日に予定変更されそうだな」
「それはしない」
「毎年、夏休み前の人間は――」
「同じこと言うんでしょ。もう聞いた」
言い返したら、湊はなぜか少しうれしそうに笑った。
その顔が気に入らなくて、最後の一口を大きめにかじった。
◇
夕食のあと、母と二人でわたしの部屋へ戻った。
母は明日の午前中に東京へ帰る。仕事を何日も休めないし、父も家で待っている。
分かっていたことなのに、部屋の隅に置かれた母の小さな旅行鞄を見ると、胸のあたりが落ち着かなくなった。
「お風呂、どうする?」
母は自分の服を畳みながら尋ねた。
「今日は入らない」
「汗をかいたでしょう。部屋のお風呂を借りてもいいのよ。大浴場じゃなくても」
「疲れたから、明日の朝にする」
「そう。でも、体を冷やさないようにしてね。夜は東京より気温が下がるみたいだから」
「うん」
「薬は?」
「自分で飲む」
「飲み忘れないでね」
「分かってる」
「朝の分は、この袋。何かあったときの連絡先は、机の上に置いたから。それから、診察券と保険証のコピーは夏海に渡して――」
「お母さん」
「何?」
「わたしのこと、何を話したの」
母の手が止まった。
「何って?」
「魚の匂いが苦手になったこと。夏海おばさんに話したんでしょ」
「ああ……そのこと」
「そのこと、じゃないよ。どうして勝手に言うの」
「だって、食事を用意してもらうんだから、伝えておかないと困るでしょう」
「わたしが自分で言えた」
「今日も言えなかったじゃない」
母は責めるつもりで言ったのではないと思う。
けれど、その言葉はわたしの一番痛いところへ、きれいに刺さった。
「言おうとしてた」
「無理して食べようとしていたでしょう。直人さんが気づかなかったら、また気分が悪くなっていたかもしれない」
「だからって、何でも先に話さないでよ」
「何でも話したわけじゃないわ。食事や体調に必要なことだけよ」
「どこまでが必要なの?」
「それは……」
「夜に何回起きるとか、傷がまだ気になるとか、学校で体育を見学してるとかも?」
「凪」
「わたしのことなのに、わたしの知らないところで、みんなが相談して決めてるじゃん」
声が大きくなった。
襖の向こうにまで聞こえているかもしれない。それでも、一度出た言葉は止められなかった。
「夏休みにここへ来ることだって、お母さんと先生と夏海おばさんで先に決めたでしょ。わたしには、決まったあとで『どうしたい?』って聞いた。もう答えが一個しかないのに」
「そんなつもりじゃなかった」
「じゃあ、どんなつもりだったの」
「あなたに元気になってほしかったのよ!」
母も声を荒らげた。
言った直後、自分でも驚いたように口元を押さえる。
しばらく、波の音だけが聞こえた。
母は畳んでいた服を膝の上へ置き、低い声で続けた。
「ごめんなさい。怒鳴るつもりじゃなかった」
「わたしだって、怒鳴ってない」
「怒鳴っていたわよ」
「お母さんもでしょ」
「そうね。二人とも怒鳴った」
そこは否定しないらしい。
母は小さく息を吐いた。
「怖いのよ」
「何が?」
「あなたがまた具合を悪くすることも怖いし、私が見ていないところで無理をすることも怖い。元気そうに笑っている日でも、あのころのことを思い出すの。夜中に熱が出た日や、検査の結果を待っていた時間を」
「治療は終わったよ」
「分かってる。頭では分かっているの。でも、体のほうが、まだ分かってくれない」
母は自分の胸を軽く押さえた。
「あなたが少し咳をしただけで、ここが勝手に苦しくなるの。だから、先に準備してしまう。先に誰かへ頼んでしまう。たぶん私は、あなたが元気になる速さより、ずっと遅いのよ」
そんなことを言われるとは思わなかった。
母はいつでも、わたしより先に答えを知っている人だと思っていた。薬の時間も、病院までの道も、先生へ聞くことも、全部きちんと決めてくれた。
その母が、分からないと言っている。
「でも、嫌だった」
わたしは言った。
「うん」
「魚のことを話されたのも、今日は何もしなくていいってみんなに言われるのも」
「うん」
「全部やめてとは言えないけど、先にわたしへ言って。ほかの人に話してもいいか、聞いてほしい」
「分かった。これからはそうする」
「ほんとに?」
「努力する」
「そこは約束するって言わないの?」
「約束して破ったら、あなたはもっと怒るでしょう」
「怒る」
「だから、努力する。すぐに完璧にはできないと思うけど」
少しずるい答えだ。
でも、できない約束をされるよりはいい。
「じゃあ、わたしも努力する」
「何を?」
「具合が悪いとき、隠さないように」
「約束してくれる?」
「努力する」
母が困ったように笑った。
「そういうところばかり似るのね」
「誰に?」
「私によ」
「それは嫌かも」
「私だって嫌よ」
言い合ってから、二人で少し笑った。
仲直りと呼べるほどきれいではない。まだ言い足りないこともあるし、明日になれば母はまた「無理しないで」を何度も言うかもしれない。
でも、家族の喧嘩は、たぶんそれくらいでいい。
全部すっきり解決したら、そのほうが気持ち悪い。
◇
母が先に眠ったあとも、わたしはなかなか寝つけなかった。
網戸の向こうから、波の音と虫の声が入ってくる。
東京の自分の部屋なら、壁の向こうで父がテレビを見ている音や、道路を走る車の音がする。ここには、慣れた音が一つもない。
枕元の時計を見ると、午後十一時を過ぎていた。
明日、母は帰る。
わたしだけが残る。
昼間は平気だと思っていたのに、夜になると急に、胸の中へ小さな穴が開いたようだった。
わたしは布団から抜け出し、スマートフォンを持って廊下へ出た。
母を起こさないように階段を下り、誰もいない玄関脇の休憩所へ向かう。窓際に古い長椅子があり、その向こうは暗い庭だった。
父へ電話しようと思った。
明日、母と一緒に帰りたい。
そう言えば、きっと父は反対しない。母も、本当は安心するだろう。
電話の画面に父の名前を出し、あとは押すだけになったとき、暗がりから声がした。
「夜逃げか?」
「うわっ!」
心臓が飛び上がった。
休憩所の端にある一人掛けの椅子で、湊が麦茶を飲んでいた。
「何してるの!?」
「麦茶飲んでる」
「どうして電気つけないの」
「社長が寝てたから」
見ると、湊の足元で黒い塊が丸くなっている。社長は片目だけ開け、迷惑そうにこちらを見た。
「猫より人間を驚かせないことを優先してよ」
「夜中にこそこそ歩いてるやつが悪い。で、誰に電話すんだ?」
「関係ないでしょ」
「おじさん?」
「どうして分かるの」
「母親が隣で寝てんのに、母親へ電話はしねえべ」
湊は隣の長椅子を顎で示した。
「座れば」
「帰る」
「東京に?」
「部屋に!」
「声でけえ。社長が怒ってっぺ」
「起きてるじゃん」
「猫は起きてても寝てるふりすんだよ。人間より賢いからな」
わたしは帰ろうとしたが、階段まで戻るには湊の前を通らなければならない。今逃げたら、図星だったと認めるようで嫌だった。
仕方なく長椅子の端へ座る。
「帰りたくなった?」
湊が聞いた。
「なってない」
「じゃあ、その電話かければ」
「……お父さんが起きてるか確認しようとしただけ」
「電話したら起きるだろ」
「だから、起きてるか確認するの」
「どうやって?」
「電話で」
「その確認方法、意味ねえべ」
自分でも分かっている。
わたしは画面を消し、膝の上へ置いた。
「初日だぞ」
湊が言った。
「だから何?」
「初日で帰りたくなるの、普通じゃねえの。俺だって、知らねえ家に一人で泊まったら帰りたくなる」
「ここ、湊の家じゃん」
「だから、俺は帰りたくても帰る場所がここなんだよ」
「何それ。自慢?」
「逆」
湊は麦茶のコップを両手で持ち、しばらく黙った。
「俺は東京に行きてえ」
「遊びに?」
「住みに」
思わず湊の横顔を見た。
「どうして?」
「どうしてって言われても、いろいろ。学校もあるし、やりてえこともあるし。写真とか映像とか、ちゃんと勉強できるとこ行きてえんだ」
「ここ、嫌いなの?」
「すぐそういう話にすんなよ」
「だって、出ていきたいんでしょ」
「出ていきたいのと、嫌いなのは別だ。凪だって東京の家が嫌いだから、ここに来たわけじゃねえべ」
「わたしは自分で決めてない」
「それは悪かったって」
「湊が決めたわけじゃないでしょ」
「でも、うちに来るんだから少しは関係あんだろ」
湊は面倒そうに前髪をかき上げた。
「みんな勝手に決めんだよ。俺は民宿を継ぐんだろうとか、地元の高校に行くんだろうとか。まだ何も言ってねえのに、『湊がいれば安心だ』って」
「夏海おばさんたちに話してないの?」
「話したら、母ちゃんはたぶん『行ってこい』って言う」
「じゃあ話せばいいじゃん」
「父ちゃんが何も言わなくなる」
「いつもあまり言わないよ」
「今より言わなくなんだよ。あの人、反対のときほど黙るから面倒くせえんだ」
「人間はだいたい面倒くさいんでしょ」
「そうだけど、家族は特に面倒くせえ」
その言い方が妙に納得できて、わたしは笑った。
「でも、東京って夏はすごく暑いよ」
「知ってる」
「人も多いし、電車も混む」
「知ってるって」
「海もこんなに近くない」
「おまえ、東京から逃げようとしてたくせに、急に観光大使みてえになるな」
「逃げようとしてない」
「電話、貸せ。おじさんに聞いてやる」
「絶対に嫌」
スマートフォンを胸へ抱えると、湊が笑った。
しばらくしてから、わたしは小さな声で聞いた。
「元気って、どこからなんだろう」
「は?」
「学校へ毎日行けたら元気? 体育に出られたら? 走れたら?」
「知らねえ」
「考えてよ」
「急に難しいこと振んな。俺、夏休みの宿題もまだ見てねえんだぞ」
「自慢しないで」
湊は天井を見上げ、真剣に悩むふりをした。
「飯を三杯食えたら元気」
「わたし、おにぎり三個食べた」
「じゃあ元気」
「でも、駅で転びかけた」
「じゃあマイナス十点」
「何点満点なの?」
「百点」
「今、わたし何点?」
「知らねえよ。最初の点数決めてねえもん」
「雑すぎる」
「だったら自分で決めろ」
湊は立ち上がり、帳場の引き出しを勝手に開けた。中を探り、使いかけの大学ノートと鉛筆を取り出す。
表紙には大きな文字で「仕入れ帳」と書かれていた。
「それ、使っていいの?」
「古いやつだ。半分余ってる」
「確認しなくて大丈夫?」
「だいじだ」
「その『大丈夫』、信用できないんだけど」
湊はわたしの前へノートを置いた。
「この夏にできるようになりてえこと、書けば」
「走るとか?」
「走りたけりゃ書けばいいけど、今すぐ無理なのを書いて毎日落ち込むのも、ごじゃっぺだっぺ」
「じゃあ何を書くの」
「明日、できそうなやつからでいいんじゃねえの。玄関まで一人で行くとか」
「それはもうできる」
「荷物を一個運ぶ」
「重いのは無理」
「麦茶を一杯飲む」
「簡単すぎる」
「難しいと怒るし、簡単でも怒る。面倒くせえなあ」
「湊に言われたくない」
わたしは鉛筆を取った。
ノートの空いているページへ、最初に日付を書く。
その下へ、
『五浦でできるようになりたいこと』
と書いた。
けれど、少し考えてから線を引いて消した。
「何で消すんだよ」
「できるようにならないと、失敗みたいになるから」
「じゃあ、何にすんの」
わたしは書き直した。
『五浦でやってみること』
一、民宿の手伝いを一つする。
二、海が見えるところまで歩く。
三、疲れたら疲れたと言う。
四、魚を一種類食べてみる。
五、夏休みの宿題を七月中に終わらせる。
五番目を見た湊が、盛大に鼻で笑った。
「何」
「いや、夢はでかいほうがいいと思って」
「絶対に終わらせるから」
「じゃあ俺も書く」
湊は鉛筆を奪い、下へ乱暴な字を並べた。
『湊がこの夏にやること』
一、凪を倒れさせない。
二、社長から夕飯を守る。
三、母ちゃんに進路の話をする。
四、宿題を八月三十日までに始める。
「始めるだけ?」
「最初の一歩が大事だかんな」
「遅すぎるよ」
「おまえの五番より現実的だ」
「それと、一番目」
「何だよ」
「わたしが倒れるかどうかを、湊の目標にしないで」
「じゃあ何て書くんだ」
「勝手に守るみたいで嫌」
湊は少し考え、一番へ線を引いた。
その横へ書き直す。
『凪が無理してたら、一回だけ止める。二回目は本人に決めさせる』
「これなら?」
「一回は止めるんだ」
「駅のホームみてえなことされたら止めるに決まってっぺ」
「じゃあ、わたしも追加する」
自分の三番目の隣へ、小さく書いた。
『ただし、湊に命令されたら少し考える』
「何でだよ」
「何でも言うことを聞くと思われたくないから」
「ほんっと面倒くせえな、おまえ」
「お互いさま」
ノートの表紙を閉じる。
「名前、どうする?」
「何の」
「このノート。仕入れ帳のままじゃ変でしょ」
湊はしばらく悩み、言った。
「五浦根性回復特訓帳」
「嫌。根性でどうにかする話じゃないから」
「じゃあ、五浦完全復活への道」
「それも嫌。怪獣みたい」
「注文が多いな。おまえが決めろよ」
わたしは表紙の「仕入れ帳」の下へ、ゆっくり書いた。
――五浦ゆっくり回復帳。
「回復って入ってんじゃん」
「ゆっくり、が大事なの」
「地味だなあ」
「毎日見るものだから、地味でいいの」
湊は表紙を眺めてから、仕方なさそうにうなずいた。
「まあ、いいんじゃね」
「明日から始める」
「明日の最初の仕事は、朝飯の箸並べだな」
「それだけ?」
「それだけをちゃんとやんだよ。うちの箸、客の人数より一本多かったり少なかったりすっから」
「それ、民宿として大丈夫なの?」
「犯人はだいたい母ちゃんだ」
「本人に言わないの?」
「言うと長えから」
二人で笑ったとき、足元の社長が急に起き上がった。
前足を長椅子へかけ、ノートの表紙をじっと見る。
「何?」
次の瞬間、社長は湊の手から鉛筆をくわえ、暗い廊下へ走り去った。
「あっ、こら! 返せ!」
「社長、文房具まで盗むの!?」
「追うぞ、凪!」
「夜に走らない!」
「じゃあ、俺が追う! おまえは逃げ道をふさげ!」
湊が廊下を駆けていく。
わたしはその背中を見送り、少し遅れて立ち上がった。
東京の父へ電話する画面は、もう消えていた。
帰りたい気持ちがなくなったわけではない。
明日の朝になったら、また不安になるかもしれない。
それでも、今夜は電話をかけなくてもよさそうだった。
「湊! 右に行った!」
「どっちから見て右だ!」
「わたしから!」
「分かるか、そんなもん!」
暗い民宿の廊下に、わたしたちの声と、社長の鈴の音が響く。
五浦ゆっくり回復帳の最初の一日は、猫に鉛筆を盗まれるところから始まった。




