第2話 海の匂いは、病院にはなかった
海は、見えたと思うと松林の向こうへ隠れ、次の曲がり角でまた現れた。
車の窓いっぱいに広がる青は、東京で見上げる空よりもずっと近い。道路の端には背の低い家や畑があり、ときどき「民宿」や「海鮮料理」と書かれた看板が流れていく。
窓を少し開けると、冷房とは違う風が頬に触れた。
涼しい、と認めるのは悔しいけれど、駅前よりも海へ近づくほど空気が軽くなる気がする。
「なあ、顔出しすぎっと頭ぶつけるぞ」
隣から湊が言った。
「出してないよ。犬じゃないんだから」
「犬のほうが賢い。窓から顔出しても、途中で疲れたとか言わねえし」
「犬と競わせないで」
「社長には負けっかもしれねえな」
「猫なんでしょ?」
「猫だけど、自分のことを猫だと思ってねえ」
「じゃあ何だと思ってるの」
「たぶん、宿の経営者」
運転席の夏海おばさんが大きな声で笑った。
「そりゃ違えねえな。あいつ、帳場の椅子に座って客を見てっから」
「衛生的に大丈夫なの?」
「凪、東京から来て最初に心配するのがそこ?」
母が助手席から振り返る。
「民宿なんだから大事でしょ」
「社長は厨房には入れないようにしてるよ。まあ、本人は納得してねえけどな」
「毎晩、裏口の前で料理長を辞めさせろって鳴いてる」
湊が真顔で言った。
「料理長って誰?」
「父ちゃん」
「猫に辞任を要求されてるの?」
「春からずっとな。支持率が低い」
「うちの料理は評判いいんだから、社長の評価なんてどうでもいいの」
夏海おばさんがそう言った直後、車は海沿いの道から細い坂道へ入った。
松の枝が窓の近くまで迫ってくる。道の向こうに古い木造の建物が見え、その軒先に紺色の暖簾が揺れていた。
白い文字で、潮待ち荘。
建物は写真で見るよりも大きかった。ただし、大きいというより、横へ長い。二階建ての母屋に、渡り廊下でつながった小さな離れがある。壁は白いところと、少しくすんだところがあり、玄関脇の植木鉢には朝顔が絡みついていた。
「着いたぞ。ほれ、凪。今日からここがおまえんちだ」
夏海おばさんが言う。
「夏休みの間だけでしょ」
「細けえこと言うな。家が増えたと思っとけばいいんだ」
わたしは返事をしないまま、車を降りた。
玄関前の砂利を踏んだ途端、ざあっという音が聞こえる。道路から海は見えないのに、波がどこか近くで崩れているらしい。
病院にいたころ、窓を開けても聞こえたのは車の音ばかりだった。
それとはまるで違う。
同じ音を繰り返しているのに、波は少しも同じには聞こえない。大きくなったり、小さくなったり、ときどき風にさらわれたりする。
「凪、玄関まで歩けそう?」
母が聞いてきた。
玄関までは十歩もない。
そんな距離まで心配されることに腹が立ち、「走れる」と答えそうになった。けれど、駅で転びかけたばかりでそれを言うと、さすがに自分でも間抜けだ。
「歩けるよ。普通に」
「そう。じゃあ、ゆっくりね」
「分かってる」
「急がなくていいから」
「分かったってば」
「靴を脱いだら、すぐ座って――」
「千春」
夏海おばさんが母を止めた。
「なによ」
「おめえ、心配すんのは分かるけど、玄関ぐらい一人で入らせろ。凪が靴を脱ぐ前に、靴下まで脱がせそうだぞ」
「そこまでしません」
「する顔してっぺ」
「どんな顔よ」
「世話焼きすぎて、本人より先に疲れる顔」
母は何か言い返そうとして、口を閉じた。
わたしは二人の横をすり抜け、玄関へ向かった。
夏海おばさんの言い方は乱暴だ。でも、わたしのために母を止めてくれたことは分かる。
だからといって、急に好きと言えるほど、わたしも素直ではない。
「ただいまー。凪、連れてきたぞー!」
夏海おばさんが引き戸を開けるなり、宿じゅうに響く声を出した。
「おばさん、今、お客さんいるんじゃないの?」
「いるよ」
「じゃあ、もう少し静かにしたほうが」
「うちの客は、この声込みで泊まりに来てっから」
「それ、ほんと?」
「半分くらいは」
「残り半分は、うるさいと思ってるってことじゃん」
「何だ、ちゃんと計算できんじゃねえか。夏休みの宿題も安心だな」
後ろから湊が笑う。
玄関には、海辺の宿らしくサンダルや子どもの靴がいくつも並んでいた。壁には古い浮き玉や、魚の絵が描かれた木札が飾られている。
少し奥から、低い男の人の声がした。
「夏海。廊下で騒ぐな。昼寝してる客がいる」
「ほら、残り半分」
湊が小声で言った。
厨房のほうから出てきたのは、白い調理服を着た大きな男の人だった。
佐伯直人さん。夏海おばさんの夫で、湊のお父さんだ。
前に会ったときも無口だったが、今は眉間のしわが増えて、さらに怖そうに見える。
直人おじさんは、わたしの前まで来ると、しばらく何も言わなかった。
顔色を見ているのだろうか。
腕の細さを見ているのだろうか。
それとも、入院前のわたしと比べているのだろうか。
何か気の利いた挨拶をしなければと思い、「お世話になります」と言いかけた。
「背、伸びたな」
先に言われた。
「……うん。少し」
「そうか」
それだけ言うと、直人おじさんは厨房へ戻ろうとした。
「父ちゃん、それだけ?」
湊があきれる。
直人おじさんは足を止め、振り返った。
「ほかに何を言う」
「久しぶりとか、よく来たなとか、元気そうでよかったとか、いろいろあんだろ」
「全部、顔を見れば分かる」
「分かんねえよ。父ちゃんの顔、ずっと怒ってるみてえだから」
「生まれつきだ」
「便利だな、その言い訳」
「湊。荷物を二階へ運べ」
「はいはい」
湊はわたしのボストンバッグを持ち直し、階段へ向かった。
直人おじさんも、今度こそ厨房へ戻る。
けれど、暖簾をくぐる直前に小さな声で言った。
「来てくれて、よかった」
振り返ったときには、もう背中しか見えなかった。
お礼を言う間もない。
そういうところが、少しずるいと思った。
◇
わたしが使う部屋は、二階のいちばん奥にあった。
六畳の和室で、低い机と座布団、小さな鏡台が置いてある。窓を開けると松の枝の向こうに海が見えた。
海は、遠くから眺めるよりも大きい。
窓枠の中へ入りきらず、その先にも、そのまた先にも続いている。
「どうだ。オーシャンビューだぞ」
湊が得意そうに言う。
「松で半分隠れてる」
「全部見えたら追加料金だ」
「親戚からも取るの?」
「世の中、ただほど怖いもんはねえ」
湊は荷物を部屋の隅へ置くと、窓の下を指さした。
「夜、波の音うるさかったら閉めろよ」
「わたし、ここに一人で寝るの?」
「そうだけど」
「別に怖いわけじゃないからね」
「まだ何も言ってねえ」
「今、顔に書いてあった」
「俺の顔に字が出るなら、まず宿題の答えを書いてほしい」
湊はそう言いながら窓辺に腰を下ろした。
立ったまま話すのに疲れていたわたしも、座布団へ座る。すぐに座ったと思われるのが嫌で、わざと鞄のファスナーを開けてから腰を下ろした。
そんな小細工をしている自分が、少し情けない。
「なあ」
湊が言った。
「何?」
「さっき、母ちゃんが今日は何もしなくていいって言ったとき、嫌そうな顔したべ」
「してない」
「した」
「見てたの?」
「隣にいたからな」
わたしは鞄の中を探るふりをした。
「別に。何もしなくていいなら、しない」
「でも、手伝いたいんだろ」
「自分だけ休んでるの、落ち着かないから」
「客だって休みに来てんぞ」
「わたしはお客じゃないでしょ」
「従業員でもねえよ。猫の監視係だけど」
「それもまだ引き受けてない」
「社長に直接断れ。たぶん聞かねえけど」
「猫に断るも何もないでしょ」
湊は少し笑ったが、すぐに真面目な顔へ戻った。
「無理して働く必要はねえと思うけど」
その言い方に、胸の奥がざらついた。
「やっぱり、わたしにはできないと思ってるんだ」
「そうじゃねえよ」
「じゃあ何?」
「できることと、今日やることは別だって話」
「同じでしょ」
「違う。俺だって百メートル泳げるけど、飯食った直後にはやらねえ」
「それはお腹が痛くなるからでしょ」
「凪だって疲れたら具合悪くなんだろ」
「一緒にしないで」
「何が違うんだよ」
「全部」
思ったより強い声が出た。
湊が黙る。
わたしは鞄の中へ視線を落とした。きれいに畳んできた服が、急に邪魔なものに見える。
「病気のこと、何も知らないくせに」
口から出たあとで、言わなければよかったと思った。
湊は入院中、ほとんど見舞いに来なかった。
最初のころに一度だけ来て、病室の入口で変な顔をし、十分もしないうちに帰ってしまった。そのあとは夏海おばさんに持たされたお菓子や手紙だけが届いた。
わたしがどんな検査を受けたのか、夜に眠れなかったことも、髪が抜けるのを怖がったことも、湊は知らない。
知らないくせに、分かったようなことを言われたくなかった。
「……そうだな」
湊が答えた。
言い返してくると思っていたから、拍子抜けした。
「俺、知らねえわ」
「だったら」
「だから教えろよ、とは言わねえ。言いたくねえこともあっぺ」
湊は窓の外を見た。
「でも、分かんねえから放っとくってのも、違う気がすんだよ。面倒くせえけど」
「面倒くさいって言わないで」
「人間はだいたい面倒くせえだろ。俺も、おまえも、母ちゃんも。おまえの母ちゃんは特に」
「本人の前で言わないでよ。長くなるから」
「そこは分かんだな」
少しだけ、笑いそうになった。
でも、さっき言った言葉が消えるわけではない。
「……ごめん」
わたしが言うと、湊は眉を上げた。
「何が?」
「知らないくせにって言ったこと」
「知らねえのはほんとだろ」
「そうだけど」
「じゃあ、謝んなくていい」
「でも、嫌な言い方した」
「俺もしてるから、おあいこだ」
「湊はいつもでしょ」
「おい、今の謝罪、もう撤回したくなってんだけど」
階下から夏海おばさんの声が響いた。
「湊ー! 凪を休ませろって言ったっぺ! いつまでしゃべってんだ!」
「ほらな。声でけえべ」
「聞こえてんぞー!」
「地獄耳まで持ってる」
「夕飯まで寝てろ! 二人ともだ!」
「俺まで?」
「おめえは朝から邪魔ばっかしてっから、少し静かにしてろ!」
湊は深いため息をついた。
「凪。これが潮待ち荘の女将だ。客の要望には応えるが、家族の要望は聞かねえ」
「東京のお母さんと似てるかも」
「姉妹だからな」
湊が部屋を出ていく。
襖を閉める直前、こちらを見て言った。
「夕飯、無理なら無理って言えよ」
「食べられるよ」
「量の話じゃねえ。魚の匂い、苦手になったって聞いたから」
わたしは顔を上げた。
「誰に?」
「おばさん。母ちゃんから聞いたんだろ」
勝手に話された。
そう思った瞬間、腹の底から熱いものがこみ上げた。
「余計なことばっかり」
「心配なんだべ」
「だからって、何でも話していいわけじゃない」
「それは、あとで本人に言え」
「言う」
「喧嘩すんなよ」
「無理かも」
「おまえら、似た者同士だな」
わたしが座布団を投げる前に、湊は襖を閉めた。
◇
夕食の時間、食堂には焼き魚の匂いが満ちていた。
長いテーブルの上に並んでいるのは、白身魚の唐揚げ、刺身、煮つけ、貝の入った汁物。名前の分からない料理もある。
見るだけなら、おいしそうだった。
直人おじさんが魚を焼く音も、宿泊客の子どもたちが「これ何の魚?」と騒ぐ声も、夏海おばさんが料理を説明する声も、全部にぎやかで楽しそうだった。
けれど、湯気と一緒に魚の匂いが鼻へ入った瞬間、食堂の景色が薄くなる。
代わりに浮かんできたのは、白い壁。
白いシーツ。
消毒液の匂い。
食べなければ薬が飲めないと言われ、冷めた魚を前に何十分も座っていた夜。
母が困った顔で、「一口だけでいいから」と言った声。
食べたくないのに、食べられない自分が悪いと思っていた。
「凪?」
母の声がした。
「どうしたの。顔色が」
「平気」
「でも」
「平気だって」
箸を持つ手に力を入れた。
食べなければ、みんなが心配する。
東京からわざわざ来たのに、初日から食べられないなんて言えば、母はやっぱり連れて帰ったほうがよかったのではないかと考えるかもしれない。
白身魚の唐揚げを一つ取った。
口まで運ぼうとしたところで、直人おじさんが横から皿を持ち上げた。
「なにするの」
「これは下げる」
「食べるよ」
「今日はやめろ」
「食べられる」
「食べられる顔じゃない」
食堂にいる全員が見ている気がした。
恥ずかしくて、腹が立って、目の奥が熱くなる。
「どうして、みんな勝手に決めるの」
直人おじさんは答えず、わたしの前から魚料理を一つずつ下げた。
代わりに、小さな塩むすびを二つ置く。
それから、魚の入っていない澄んだ汁と、薄く切ったきゅうりの漬物。
「魚は逃げない」
直人おじさんが言った。
「明日も、明後日もある。今日、食わなくても困らない」
「でも、せっかく作ってくれたのに」
「料理は、食べるやつを困らせるために作るもんじゃない」
「直人さん……」
母が何か言いかけると、直人おじさんは首を振った。
「千春さんも、今日は言うな」
「でも、凪は食べないと体力が」
「米を食えばいい。足りなければ、また握る」
直人おじさんは、わたしへ向き直った。
「匂いも嫌なら、別の部屋で食うか」
優しい声ではなかった。
眉間には相変わらずしわがあり、笑ってもいない。
だから、余計に助かった。
かわいそうだと思われている感じがしなかった。
「……ここで食べる」
「そうか」
「おにぎり、もう一個食べられるかもしれない」
「五個でも握る」
「五個は無理」
「じゃあ三個だ」
「どうして一個増やすの」
「料理人の意地だ」
湊が隣で吹き出した。
「父ちゃん、その意地、客には押しつけんなよ」
「おまえは黙って食え」
「俺には冷たくね?」
「おまえは魚の骨ごと食うから、心配がいらない」
「食わねえよ!」
食堂に笑いが起こった。
わたしも塩むすびを一口かじる。
温かい。
ただ塩がついているだけなのに、病院で食べたどの食事よりも、味がはっきり分かった。
母がこちらを見ていた。
心配そうで、申し訳なさそうで、何か言いたそうな顔だ。
わたしも、魚のことを勝手に話したのは嫌だったと伝えたかった。でも、今ここで言えば、せっかく静かになった食卓がまた重くなる。
だから、あとで話そうと思った。
病院にいたころは、言いたいことをいつも飲み込んでいた。
体調が悪い日に喧嘩をすれば、病気のせいだと思われる。元気な日に怒れば、せっかく元気になったのにと言われる。
でも、ここでは少しくらい面倒なことを言ってもいいのかもしれない。
人間はだいたい面倒くさいと、湊も言っていた。
そのときだった。
廊下のほうで、かりかり、と音がした。
「来たな」
湊が箸を置く。
「何が?」
「社長」
引き戸の下に、黒い前足が差し込まれた。
器用に左右へ動き、戸を少しずつ開けていく。
「ほんとに開けてる!」
「凪、仕事だぞ。侵入を阻止しろ!」
「初日から実戦なの!?」
「早く! 焼き魚が奪われる!」
開いた隙間から、大きな黒猫が顔を出した。
黄色い目で食卓を見回し、狙いを定める。
その視線の先には、湊の焼き魚があった。
「何で俺のなんだよ!」
湊が皿を持ち上げる。
黒猫――社長は、床を蹴って椅子へ飛び乗った。
「凪、止めろ!」
「どうやって!」
「説得しろ!」
「猫に通じるわけないでしょ!」
「おまえ、東京の言葉しゃべれんだろ!」
「猫は茨城弁なの!?」
社長はテーブルへ飛び移り、湊は魚の皿を持ったまま逃げる。夏海おばさんは腹を抱えて笑い、母は「食堂に猫を入れて大丈夫なの?」と青い顔をし、直人おじさんだけが無言で猫用の小皿を取り出していた。
静かに療養するために来たはずなのに。
どうやら、この民宿で静かに過ごすのは、病気を治すより難しいらしい。




