第1話 東京より涼しい町で、帽子が飛んだ
電車のドアが開いた瞬間、わたしの帽子は空へ逃げた。
「あっ」
白いつばの広い帽子は、まるで東京からずっと逃げ出す機会を狙っていたみたいに、駅のホームをころころ転がっていく。
わたしは反射的に追いかけた。
一歩。
二歩。
三歩目で、膝から力が抜けた。
まずい、と思ったときには遅かった。ホームの灰色の床が、ものすごい勢いで顔へ近づいてくる。
「何やってんだ、このごじゃっぺ!」
後ろから腕をつかまれた。
倒れる寸前で引き戻されたわたしは、そのまま知らない誰かの胸へ背中からぶつかった。
「いった……」
「痛えのはこっちだ。肘、入ったぞ」
「人を助けておいて、最初に言うことがそれ?」
「助けられといて、最初に文句言うやつも珍しいな」
むっとして振り返る。
そこにいたのは、日に焼けた男の子だった。
白いTシャツに、膝のあたりが少し色あせたハーフパンツ。前より背が高くなり、黒い髪も短くなっている。それでも、片方だけ少し上がる眉毛と、人をからかう直前の顔には見覚えがあった。
「……湊?」
「ほかに誰に見える」
「駅員さん」
「こんな格好の駅員がいるかよ」
「北茨城にはいるのかと思った」
「北茨城を何だと思ってんだ、おまえ」
一歳年上の従兄、佐伯湊は、心底あきれたという顔でわたしを見た。
最後に会ったのは、わたしが小学四年生の夏だった。
あのときの湊はわたしより少し背が高いくらいで、海辺の岩場を走り回っては、カニを見つけるたびに大声で呼んでくれた。今はもう、わたしが少しあごを上げないと顔が見えない。
なんだか腹が立つ。
「久しぶりなのに、ずいぶんな挨拶だね」
「久しぶりだから言ってんだ。着いた途端、ホームで転びかけるやつがあっか」
「帽子が飛んだの」
「帽子と自分と、どっちが大事なんだよ」
「お気に入りだったんだけど」
「命よりお気に入りの帽子って、どこの伝説の防具だ」
言い返そうとしたところで、湊の向こうから母がやって来た。
大きな旅行鞄を引きながら、ひどく青い顔をしている。
「凪! 転んだの!?」
「転んでない。転びかけただけ」
「それを転んだって言うのよ。どこか打ってない? 息は苦しくない? めまいは?」
「お母さん、順番。いっぺんに聞かれても答えられない」
「だって、あなたが急に走るからでしょう。主治医の先生にも、急に動かないようにって言われたじゃない」
ホームには、降りてきた人も、これから電車へ乗る人もいる。母の声はよく通るので、何人かがこちらを見た。
まただ。
病院を出てから、母はいつもこうなる。
わたしが少し咳をすれば顔色を変え、階段を上れば後ろに立ち、食事を残せば体温計を持ってくる。心配してくれているのは分かる。分かるからこそ、「もうやめて」と強く言えない。
「だいじだよ」
湊が口を挟んだ。
母がきょとんとする。
「何が大事なの?」
「違うって。だいじ、は大丈夫って意味」
湊はそう言ってから、わたしの顔をのぞき込んだ。
「なあ、ほんとにだいじか。顔、白いぞ」
「もともと白いの」
「東京の人間は全員、紙でできてんのか?」
「そうだよ。雨にぬれると溶けるから、海には近づけないの」
「じゃあ、五浦に来た時点で終わりじゃねえか」
ふっと、母が笑った。
さっきまで青かった顔が、少しだけゆるむ。
「湊くん、迎えに来てくれてありがとう。夏海おばさんは?」
「車で待ってる。駅前、混んでっから。俺が二人を呼んでこいって」
「そう。じゃあ、すぐ行きましょう。凪、荷物はお母さんが持つから」
「自分で持てる」
わたしは足元の小さなボストンバッグへ手を伸ばした。
すると、それより先に湊が持ち上げる。
「ちょっと。返して」
「やだ」
「それ、わたしの荷物なんだけど」
「見れば分かる」
「だったら返してよ」
「駅に着いて三十秒で倒れかけたやつに持たせられっか」
「倒れてないって言ってるでしょ」
「自分で立ってるから倒れてない、ってのは、橋から半分落ちてるやつが『まだ川には入ってません』って言うのと同じだかんな」
言い方が腹立たしい。
しかも少し分かりやすいのが、もっと腹立たしい。
「湊くん、荷物まで悪いわ」
「いいって。軽いし」
「軽くないよ。夏休みの宿題も全部入ってるから」
「だったら、中身の半分は空気だっぺ」
「どういう意味?」
「どうせ最後までやんねえって意味」
「やるよ。今年は七月中に全部終わらせる予定だから」
「毎年、夏休み前の人間は同じこと言うんだよ」
わたしは口を開きかけたが、急に息が浅くなった。
胸が痛いわけではない。ただ、さっきの三歩と、転びそうになった怖さと、湊に言い返し続けたせいで、体の中にある小さな電池が一気に減ったのだ。
こういうとき、周りに気づかれるのが嫌だった。
母に見つかれば、ベンチへ座らされる。水を飲まされる。もう一度、息は苦しくないかと聞かれる。そして、やっぱり来るべきではなかったのではないかという顔をされる。
わたしは母に背を向け、何でもないふうに歩き始めた。
「凪」
湊に呼ばれたが、振り返らなかった。
「何?」
「改札まで競走すっか」
思わず足を止めた。
「は?」
「俺がその荷物持って、おまえが手ぶら。どっちが先に改札に着くか」
「今のわたしに言う?」
「言う」
「最低」
「でも、先に着いたほうが勝ちとは言ってねえぞ」
湊はわたしの横に並ぶと、ずいぶんゆっくり歩き始めた。
お年寄りでも、もう少し速く歩くのではないかと思うくらいだった。
「何、その歩き方」
「競歩」
「競ってないじゃん」
「早く着いたほうが負けの競歩だ」
「そんな競技ないよ」
「今、できた」
湊は、こちらを見なかった。
わたしの息が整うのを待っていることも、口にはしなかった。
母も、少し後ろから黙ってついてくる。きっと全部気づいているくせに、珍しく「大丈夫?」とは聞かなかった。
わたしたちは三人で、世界一遅い競歩をしながら改札へ向かった。
途中、湊が急に「あ」と声を上げる。
「何?」
「帽子」
振り返ると、ホームの端を駅員さんがこちらへ歩いてきていた。その手には、逃亡に失敗した白い帽子がある。
「お客さーん。こちらの帽子ですか?」
「はい!」
わたしが答えるより先に、湊が大声で返事をした。
「こいつの命より大事な伝説の防具でーす!」
「余計なこと言わないで!」
駅員さんが笑いをこらえている。
母まで肩を震わせていた。
最悪だ。
北茨城へ着いて、まだ十分もたっていないのに、もう東京へ帰りたくなってきた。
◇
駅前へ出ると、風の匂いが変わった。
東京の夏は、地面や建物から熱が押し返してくる。息を吸うたびに、ぬるい空気まで体へまとわりつくようだった。
けれど、ここには少し湿った、遠い海の匂いが混じっている。
「どうだ。涼しいべ」
湊が得意そうに言う。
「暑いよ」
「おまえ、北茨城に何を期待して来たんだ。雪か?」
「東京より涼しいって聞いたから、冷蔵庫くらいかと思った」
「だったら魚と一緒に市場へ行け」
駅前に止まっていた銀色の車から、叔母の夏海さんが身を乗り出した。
「凪! こっち、こっち! いやあ、でっかくなったなあ!」
「おばさんも久しぶり」
「夏海おばさん、な。『おばさん』だけだと急に老けっから」
「夏海、駅前で大声出さないで」
母が注意すると、夏海さんはまるで気にせず笑った。
「何言ってんの。姉妹そろって声でけえべ」
「あなたと一緒にしないで」
「同じ腹から出てきたんだから、だいたい一緒だっぺよ」
「そういう問題じゃありません」
母は顔をしかめたが、久しぶりに姉と会えてうれしいのだろう。口元だけは笑っている。
湊が車の後ろへ荷物を積みながら言った。
「母ちゃん、凪、着いてすぐ転びかけた」
「言わなくていい!」
「なに、もうやったのか。早えなあ」
「何が早いの」
「夏の思い出づくり」
「転びかけたことを思い出に数えないでよ」
「だいじだ、だいじだ。潮待ち荘に着いたら、まず麦茶飲んで休めばいい。今日は何もしなくていいかんな」
その言葉に、胸の奥が少し固くなった。
何もしなくていい。
病院でも家でも、何度も言われた言葉だ。
みんなは親切で言ってくれる。でも、何もしなくていい人は、何の役にも立たなくていい人みたいで、わたしはあまり好きではない。
「何かする」
思わず言うと、夏海さんがまばたきした。
「ん?」
「民宿の手伝い。何かできることがあるなら、やる」
「凪、今日は移動だけでも疲れているでしょう」
母がすぐに止める。
「疲れてない」
「さっき息が上がっていたじゃない」
「上がってない」
「凪」
「もう平気だから!」
少し強く言いすぎた。
母の顔から笑みが消える。夏海さんも何も言わなくなり、駅前を通る車の音だけがやけに大きく聞こえた。
また、やってしまった。
心配されるのが嫌で怒って、怒ったあとで母を傷つけたことに気づく。入院していたころから、何度も同じことを繰り返している。
けれど、素直に謝るには、もう遅いような気がした。
すると湊が後部座席のドアを開けながら言った。
「じゃあ、民宿に着いたら仕事してもらうべ」
「湊くん」
母が責めるように名前を呼ぶ。
「大丈夫だって。凪でもできる、すげえ大事な仕事があっから」
わたしは警戒しながら尋ねた。
「何?」
「看板猫の監視」
「猫?」
「うちの夕飯、毎日狙ってんだ。特に焼き魚の日は手段を選ばねえ」
「そんなの、仕事って言わないでしょ」
「甘く見んなよ。あいつ、戸も開けるぞ」
「猫が?」
「網戸ならな。去年は客の部屋から靴下盗んで逃げた」
「どうして靴下を?」
「それが分かってたら、こっちも苦労してねえ」
母が、とうとう吹き出した。
「何、その猫」
「名前は社長」
「猫なのに?」
「民宿で一番偉そうだから」
わたしも、笑うつもりはなかった。
それなのに、頭の中で客の靴下をくわえて逃げる猫を想像したら、どうしても口元が緩んでしまった。
「……見張るだけなら、できるかも」
「だっぺ。逃がしたら罰金な」
「お客に払わせるの?」
「客じゃなくて従業員だろ」
「まだ働くって決めてないから」
「さっき自分で言ったべ」
湊はにやっと笑い、車の屋根を軽くたたいた。
「ほら、乗れ。海、見せてやっから」
車へ乗り込むと、夏海さんがエンジンをかけた。
駅前の景色が窓の外へ流れ始める。
知らない町。知らない道。聞き慣れない言葉。
少し怖い。
でも、それ以上に、海がどんな色をしているのか見てみたいと思った。
わたしの中に残っていた小さな電池が、ほんの少しだけ充電されたような気がした。
「凪」
隣に座った湊が、前を向いたまま言う。
「今度、帽子飛んでも走んなよ」
「うるさいな。分かってる」
「ほんとか?」
「次は湊に取りに行かせる」
「おい」
「従兄なんだから、それくらいしてよ」
「こき使う気満々じゃねえか」
車の窓の向こうで、松の木々の隙間に青いものが見えた。
空ではない。
もっと低くて、広くて、夏の日差しを細かく砕きながら光っている。
海だ。
五浦の夏が、そこから始まっていた。




