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☆0-9☆闇の魔法

 少女は広場近くにある治癒院へと運び込まれた。石畳の上を駆ける複数の足音が重なり合い、担架を担ぐ者たちの呼吸が荒く響く。揺れる担架の上で少女の身体はかすかに震え、その後ろをノエルとノクスが追いかけていた。

 白い石壁で造られた治癒院の建物へ足を踏み入れると、乾いた薬草の匂いが鼻腔を強く刺激する。廊下の奥、治療室の前にはすでに人だかりができており、不安げなざわめきが空気を満たしていた。


「関係者以外は外へ!」


 助手の鋭い声が響くが、それを押し切るようにノエルは人の隙間を縫って前へ出る。


「街道で魔物の話を聞きました。手伝えませんか?」


 焦りを滲ませながら問いかけるノエルに、助手は苛立ちを隠さず言い返した。


「今は治癒術師が必要だ!」


 その言葉の先、治療室の奥では中年の女性が少女の足へ両手を当て、集中した様子で魔力を流し込んでいた。


「《治癒》」


 柔らかな緑の光が傷口を包み込み、裂けていた皮膚がゆっくりと閉じていく。母親が安堵の息を漏らした、その直後だった。少女の皮膚の下に浮かび上がった黒紫の筋が、まるで生き物のように一気に広がる。


「うっ……!」


 少女の身体が跳ね上がり、苦しげに口を開いた瞬間、黒い霧が吐き出された。


「ミナ!」


 母親の悲鳴が響く。


「下がって!」


 治癒術師が声を張り上げ、さらに魔力を強める。しかし、黒い筋は消えるどころか、より濃く広がっていく。


「どうして……」


 困惑する治癒術師の声に、静かに割り込むようにノクスが口を開いた。


「中に入ったものを除かない限り、逆効果だ」


 その落ち着いた声音に、周囲の視線が一斉に集まる。


「あなたは?」


 警戒を含んだ問いに、ノクスは淡々と答える。


「ただの通りすがりだ」


「なら口を挟まないでください!」


 助手が強く遮るが、ノクスは一歩も引かない。


「傷を塞いで瘴気の逃げ道を閉じた。このままでは全身に回る」


「瘴気……?」


 その言葉に、治癒術師の顔色が明らかに変わる。


「時間がない」


 ノクスが前へ進もうとした瞬間、助手が腕を広げて立ちはだかった。


「勝手に入らないで下さい!」


「その子を死なせたいのか」


 低く放たれた言葉に、室内の空気が一気に張り詰める。


「ノクス、待て」


 ノエルが慌てて間に入り、二人の間を遮る。


「説明しよう」


「その間に死ぬ」


 即座に返される冷たい言葉に、ノエルは歯を食いしばる。


「でも力ずくじゃ余計に遅れる」


 そう言ってから、ノエルは治癒術師へと向き直った。


「この人は闇属性に詳しい。瘴気も分かる」


「闇属性……?」


 その単語に、周囲の人々がざわめき始める。


「危険じゃないのか」

「禁じられた魔法では」


 疑念と恐れの視線がノクスへと集中する。


「やはり無駄だ」


「待ってくれ」


 ノエルは少女へ視線を向ける。呼吸は浅く、顔色は青白く変わっていた。


「助けられるのか?」


「可能性はある」


「絶対じゃない?」


「瘴気は心臓に近い。だが私以外には除けない」


 その言葉を聞いた母親が、震える身体で前へ出て深く頭を下げた。


「お願いします。娘を助けてください」


「闇魔法かもしれないんですよ!」


 助手がなおも反対する。


「それでも!」


 母親は娘の手を強く握りしめる。


「助かるなら関係ありません!」


 その必死な声に、治癒術師も迷いを見せ、やがてゆっくりと一歩退いた。


「……お願いします」


「ああ」


 短く応じたノクスが少女へ近づく。


「光を落とせ。人も減らせ」


 低く的確な指示が飛び、室内の灯りが落とされる。人払いが行われ、最終的に残ったのは母親と治癒術師、そしてノエルだけだった。その静まり返った空間に、ソルとルナがふわりと浮かび上がる。


『瘴気が深い』

『このままでは危ない』


「分かるのか?」


『近づけば』

『除く力はない』


 ノクスが少女へ手をかざす。


「ノエル、何が見えても近づくな」


「分かった」


 その瞬間、空気が変わった。影が濃くなり、室内のすべてがノクスの手へと引き寄せられるような感覚が広がる。


「《黒蝕浄化(こくじょうじょうか)》」


「この魔力量……まさか……特級か!?」


 治癒術師の声がわずかに震えた。


「特級?」


 ノエルが首を傾げると、治癒術師は冷や汗を浮かべながら説明を始める。


「この世界では、種族に関係なく魔法や剣術の実力は《下級》《中級》《上級》《特級》《伝説級》の五段階で評価される」


「へぇ」


「《伝説級》は神話や御伽噺の領域だ。三大英雄のような存在がそれに当たる。そして特級はその一歩手前。現代における最高到達点で、到達者は世界でもごく一握りしかいない」


 治癒術師は一度言葉を切り、慎重に続けた。


「さらに魔法は、神が創ったとされる《ひら》《カタ》《漢字》という三種の古代文字体系を基盤にしている。これらが組み合わさって古代語となり、現在の呪文の原型になった」


「それは知ってます。父さんから教えてもらいました」


 ノエルが即答すると、治癒術師は小さく頷く。


「古代語は意味の理解、正確な発音、そして明確な意思が揃って初めて真価を発揮する。だが実際には発音の難度が高く、上級魔導師でさえ正しく扱える者は少ない」


 その視線が自然とノエルの隣へ向かう。そこではニグルムが指を振るい、黒い闇が静かに形を成して闇が肌を伝っている。


「……そして特級レベルとなると、その古代語を完全に理解した上で扱い、世界でもひと握りの者だけしか到達できない領域だ」


 治癒術師の声はわずかに震えていた。治癒術師の説明を聞きながら、ノエルはニグルムを見る。ノクスの低く紡がれた呪文でできた闇はゆっくり傷口があった場所へと入り込む。



「うああっ!」

「ミナ!」


 少女が激しく叫び、母親が駆け寄ろうとする。


「動かすな!」


 ノクスの鋭い声がそれを止める。黒い筋が逆流し、霧となって引き出されていく。そのすべてを、ノクスの闇が飲み込んでいく。

 ノエルは息を呑んだ。確かに救いの力だが、その奥にあるものは底知れない。


『この闇……』

『知っている気がする』


 ソルとルナが小さく呟く。


「本当か?」


『思い出せない』


 引き出された黒い塊が、やがて獣のような形を取る。


「消えろ」


 ノクスがそれを握り潰すと、霧は跡形もなく消え去った。濃くなっていた影が元に戻り、室内に光が戻る。


「……終わった」


 静かな声が落ち、少女の顔色がゆっくりと戻っていく。


「安定しています」


 治癒術師が安堵の息を吐く。


「瘴気もありません」

「ミナ……!」


 母親が涙を流しながら娘を抱きしめるその一方で、ノクスの身体がわずかに揺れた。


「ノクス!」


 ノエルは慌てて駆け寄り、その身体を支えた。


「近づくなと言ったはずだ」


「もう終わっただろ」


「問題ない」


「顔色が悪い」


『顔が白い』

『いつもよりさらに白い』


 ソルとルナも心配そうにノクスを見上げる中、ノクスは離れようとするものの足に力が入らなかった。


「魔力切れか?」


「問題ない」


「その台詞は禁止!」


 ノエルは肩を貸しながら、必死にその身体を支えた。しかし圧倒的な身長差──ノクスはノエルより頭一つ以上高く、体格も良く筋肉もしっかりとついている。そのためノエルは顔を真っ赤にしながらぷるぷると震え、なんとか支えるのが精一杯だった。


「重い!」


「なら離せ」


「倒れるよりましだ!」


『ノエルが潰れる』


『圧倒的な体格不足』


「手伝え!」


『小さくか弱い妾たちには無理』


『心の底から応援してる』


「役に立たない!」


 ノエルは歯を食いしばりながらも、必死にその身体を支え続けていた。一方でノクスは、肩を預けられたまま僅かに視線を落とす。普段なら即座に距離を取るはずの近さだが、今はそれすらできない。ノエルの体温と、必死に支えようとする力が、直接伝わってきていた。

 顔を真っ赤にして、震えながら、それでも必死に支えてくれている。


「……無茶をするな」


「無茶してるのはどっちだよ」


 ノエルは息を切らしながらも、軽く笑って返す。


「いいから。困った時はお互い様だろ?」


ノエルの言葉と笑顔に一瞬息を呑み、ノクスは支えられたまま静かに目を閉じた。

 その温かさがじわりと胸の奥へ染み込んでいく。キラキラと眩しく輝くノエルを手放したくないという本能が疼く一方で、理性はこの光に触れれば自分が穢してしまうから離れろと警鐘を鳴らしていた。それでも本能はただひたすらにその光を取り込もうとし、理性と本能の狭間で揺れながら、ノクスは結局その手を振り払うことができなかった。

 そんな騒がしいやり取りの中、治癒術師が深く頭を下げた。


「ありがとうございました」


「礼は不要だ」


「詮索はしません。ただ……あの術は」


「忘れろ」


 ノクスの声が冷たく落ちる。


「見たことも、私のことも」


 その横でノエルが顔をしかめる。


「脅すなよ」


「知られれば面倒だ」


「助けたのに?」


「何をしたかではなく、何を使ったかを見る者が多い」


 ノクスは小さく笑う。


「闇を恐れる者には、救われた命など些細だ」


 その言葉を聞いた母親が振り返る。


「私は忘れません」


 涙を拭いながら、真っ直ぐに言い切る。


「あなたが助けてくれたことを」


「……勝手にしろ」


 ノクスは視線を逸らしたが、その声にはほんのわずかな柔らかさが混じっていた。




           ☆



治癒院の重たい扉を押し開けた瞬間、外の空気が一気に流れ込んできた。静まり返った夜の街は、ひんやりとした風をまとい、その冷たさがノエルの頬を優しく撫でていく。灯りの落ちた窓や、遠くで揺れる街灯の光が、静かな余韻を残していた。

 つい先ほどまで騒然としていた市場の騒ぎも、すでに収まりつつある。人々のざわめきは遠ざかり、代わりに夜特有の静寂がゆっくりと街を包み込んでいた。

 少女が無事に助かったという知らせは、どうやら町中に伝わったらしい。心配そうに集まっていた町人たちも、安堵の表情を浮かべながら、それぞれの家へと帰っていく姿が見える。誰もが胸を撫で下ろし、日常へと戻ろうとしていた。

 そんな中、ノエルはノクスの腕を自分の肩へ回したまま、ゆっくりと宿へ向かって歩いていた。ノクスの体重がわずかにかかるたび、彼の足取りがまだ完全ではないことが伝わってくる。


「もう一人で歩ける」


 ノクスは淡々とした声で言うが、その足元はわずかに揺れていた。


「さっき二回ふらついた」


 ノエルは即座に言い返す。視線は前を向いたままだが、しっかりとノクスの様子を気にしている。


「石畳が悪い」


「道のせいにするな」


 軽口の応酬が続く中、ノエルの肩の上では小さな影が動いた。


『ノクスは強情』

『ノエルも強情』


 ソルとルナが、いつもの調子で淡々と評価を下す。


「俺は心配してるだけだ」


 ノエルは少し不満そうに言い返すが、その声にはどこか優しさが滲んでいた。


『強情な者は、自分を強情だと思わない』

『つまり二人とも同類』


 容赦のない指摘に、ノエルは思わず顔をしかめる。ノクスはそんなやり取りを横目で見ながら、ふとソルとルナへ視線を向けた。


「君たちは、いつもこれほど喋るのか」


 その問いには、純粋な疑問が含まれていた。


『静かな時もある』

『真面目な話の時と菓子を食べている時』


「つまりほとんど喋ってるじゃないか」


 ノクスは小さく息を吐き、呆れたように言うと、ノエルも同じように肩をすくめた。

 やがて、宿へと続く通りへ差し掛かる。人通りはさらに少なくなり、足音だけが石畳に響くようになった。ノエルは周囲を一度見回し、声を少し落とす。


「さっきの魔法」


 その言葉に、ノクスの足がほんのわずかに止まった。


「何を訊きたい」


 振り返らずに答える声は、いつもより低い。


「闇魔法なんだよな」


「ああ」


「王国で禁じられている術なのか?」


 ノクスはすぐには答えなかった。夜風が二人の間を通り抜ける。


「使い方によっては」


「今日の使い方も?」


「瘴気を喰わせ、消滅させる術だ。本来は生命力や魂さえ対象にできる」


「それって……」


「人間へ向ければ、治癒とは逆の結果になる」


 その説明に、ノエルの喉が小さく鳴った。

 あの時、少女の身体を覆っていた闇。それが命ではなく瘴気だけを呑み込んだのは、ノクスが極めて精密に制御していたからだ。一歩でも誤れば、救うどころか命を奪っていたかもしれない。


「怖いか?」


 ノクスが静かに問いかける。ノエルは少しだけ考え込む。歩みを止めることなく、視線を前へ向けたまま。


「怖かった。でも、ノクスが怖いとは思わない」


 その続きに、ノクスの赤い瞳がわずかに揺れる。


「なぜだ」


「あの子を助けたから」


「結果だけで判断するのか」


「違う」


 ノエルは胸元に手を当て、小さなお守りへ触れた。


「ノクスは、自分が疑われるかもしれないって分かってた。それでも助けた」


「母親が望んだからだ」


「頼まれても、嫌なら断れただろ」


「……君が見ていた」


「俺?」


「君の前で、見捨てることはできなかった」


 その言葉に、ノエルは首を傾げる。


「俺がいなかったら助けなかったのか?」


「分からない」


「そこは助けるって言ってくれよ」


「嘘は言いたくない」


「真面目だな」


「そう評価されたことはない」


 ノエルは小さく笑った。夜の静けさの中、その笑いは柔らかく響く。


「今日助けたなら、それでいいよ」


「君は甘い」


「よく言われる」


「その甘さはいずれ、君を傷つける」


「それでも、人を疑ってばかりよりはいい」


 ノクスの表情がわずかに険しくなる。


「世界は君が考えるほど優しくない」


「知ってるよ。魔物にも襲われたし、何もできない自分が悔しいって思ったこともある」


 ノエルは腰に差した剣へ手を伸ばし、その柄を軽く握る。


「だから、強くなりたい」


「君の優しさを守るために?」


「自分だけじゃなくて、他の人のも」


「他人の優しさまで守るつもりか」


「できたら格好いいだろ」


『顔はもう十分可愛いから』

『中身だけ格好いいギャップを狙っていく』


「顔も格好いいと言え!」


 ノエルの抗議に、ノクスは思わず吹き出した。ほんの一瞬の笑いだったが、それだけで張り詰めていた空気が少しだけ緩む。

 夜の冷たさの中に、わずかな温もりが戻ったようだった。


「ノクス」


「何だ」


「闇魔法を見たことは、誰にも言わない」


「……そうか」


「でも、危険な使い方をしようとしたら止める」


「君に俺を止められると?」


「今は無理でも、いつか」


 ノエルは剣の柄をしっかりと握りしめる。


「剣を抜く理由は、自分で決める。でも、家族が間違った時に止めるのも、家族の役目だと思う」


「家族」


 ノクスはその言葉を、ゆっくりと噛みしめるように繰り返した。


「ああ。従兄弟なんだろ」


「君は、それを疑わないのだな」


「何回訊くんだよ」


「何度確かめても、足りない」


 小さな呟きが、夜の空気に溶ける。


「何か言った?」


「いや」


 ノクスは前を向いたまま答える。


「君が秘密を守るなら、私も約束しよう」


「何を?」


「君の前では、この力を無闇に使わない」


「俺の前だけじゃなくて、どこでも無闇に使うなよ!」


『条件が狭い』

『ノクスは抜け道を作るタイプ』


「お前たちの審査、少し役に立つな」


『ようやく理解したか』

『菓子を要求する』


「そのすぐ報酬を求めるのはやめろ」


ノエルは肩の上の二人を軽く指でつつきながら苦笑し、ノクスはその様子を横目で見て小さく息を吐いた。やがて二人は歩調を合わせ直し、静かな夜道を並んで進んでいく。


           ☆



跳ね馬亭へ戻ると、すでに夕食の時間はほとんど終わりかけており、広間には食事を終えた客たちの名残だけが静かに漂っていた。木製のテーブルには片付け途中の皿が残り、厨房からは遅れて片付けをする音がかすかに聞こえてくる。そんな中、遅れて戻ってきたノエルとノクスの姿は、どうしても目立ってしまう。

 宿の主人は帳場の奥から顔を上げると、二人をじろりと睨みつけた。だが、その視線には単なる不機嫌さだけでなく、どこか事情を知っているような色も混じっている。


「少女を運び込んだ連中と一緒だったそうだな」


 低く抑えた声でそう言われ、ノエルは肩をすくめながら軽く答えた。


「少し手伝っただけです」


 あくまで軽い調子で返すノエルに対し、主人はしばらく無言で見つめていたが、やがて短く息を吐いた。


「そうか」


 それ以上は深く追及することなく、主人は厨房へと引っ込み、しばらくしてから温め直された煮込み料理を二人の前へと無造作に置いた。湯気の立つ器からは、肉と野菜の香ばしい匂いが立ち上る。


「肉は減らさないんですか?」


 ノエルは器を覗き込みながら、少し意外そうに尋ねる。


「怪我人を助けた奴から肉を減らしたら、宿の評判が悪くなる」


 主人は腕を組みながら、ぶっきらぼうに答えた。


「看板の悪口は?」


「芸術を理解できない子どもの言葉は忘れてやる」


「誰が子どもだ!」


 ノエルが即座に反論すると、その頭上から淡々とした声が落ちてきた。


『器が小さい宿主』

『肉は大きい』


「お前らは無料で食わせてもらってるんだから黙れ!」


 主人は思わず声を荒げたが、それでも手は止めず、小さな皿に煮込んだ野菜を取り分けてソルとルナの前へ置いた。


『良い人間』

『看板以外は良い宿』


「まだ看板を言うのか!」


 主人の怒鳴り声が響く中でも、どこか温かい空気が流れていた。

 夕食を終える頃には、ノクスも最低限の料理を口にしていた。最初はほとんど手をつけようとしなかったが、ノエルが一口食べるたびにじっと見張るように視線を向けていたため、観念したらしい。


「もう満足か」


 ノエルが問いかけると、ノクスは淡々と答える。


「少なすぎる」


「私はこれで足りる」


「だから体が細いんだ」


「君に言われたくない」


「俺はこれから伸びる」


 ノエルが胸を張ると、すぐさま頭上から冷静な声が降ってくる。


『毎年言っているけど変わらない』

『リーナに身長抜かされる方が早いかも』


「変わってる!去年より三センチは大きいだろ!」


 ノエルの抗議が虚しく響いた。

 食事を終え、部屋へ戻ると、ノエルは剣と荷物を寝台の脇へ丁寧に置いた。旅の疲れがじわりと身体に広がる中、彼は胸元から小さなお守りを外し、慎重に枕元へと置く。

 その動作を、ノクスは静かに見つめていた。深緑色の小袋へと視線が吸い寄せられる。


「それは?」


 短く問われ、ノエルは少し嬉しそうにそれを手に取った。


「家族からもらったお守り」


 柔らかな声でそう言いながら、小袋を軽く揺らす。


「魔除けの香草と、家族全員の髪が入ってる」


「髪」


 ノクスの赤い瞳がわずかに細められる。


「セキレイのものも?」


「もちろん」


「見せてくれ」


 その言葉は、思った以上に強く、切迫した響きを帯びていた。ノエルは少し驚きながらも、お守りを差し出す。


「開けるなよ。リーナに一生許さないって言われてるから」


「開けない」


 ノクスは両手で小袋を受け取り、慎重に扱う。その指先が、表面に刺繍された丸い金糸雀をなぞった。


「これは鳥か」


「母さんは金糸雀だって言ってた」


『太ったヒヨコ』

『焼き菓子』


「本人の前でも言ったけど、もう言うなよ!」


 ノエルが慌てて止めるが、ソルとルナは気にした様子もない。ノクスは刺繍を見つめたまま、しばらく沈黙した。


「母が好きだった鳥だ」


「知ってる。母さんが言ってた」


「カナリアという名も、そこからつけられた」


「そうなのか?」


「ああ」


 ノクスの手が、ほんのわずかに震える。布越しに感じるセキレイの髪。その存在を確かめるように、指先に力がこもる。


「ノクス?」


 ノエルに呼ばれ、ノクスははっと我に返った。


「すまない」


 静かにお守りを返す。


「大切にした方がいい」


「当然だよ」


 ノエルはそれを再び枕元へ置いた。


「なくしたら、リーナが王都まで追いかけてくる」


『剣を持って』

『ノエルを斬る』


「妹を危険人物にするな!」


 ノエルが抗議する中、ノクスはふと問いかける。


「君の妹も、セキレイに似ているのか?」


「どっちかというと父さんかな。でも動物や精霊に好かれるんだ。森の鳥まで肩に乗る」


「……そうか」


 ノクスの返答は、ほんのわずかに遅れた。その赤い瞳の奥に、一瞬だけ何かを測るような光が浮かぶ。しかし、それはすぐに消え、いつもの無表情へと戻った。


「俺たちも寝よう。明日も馬車だ」


「ああ」


 ノエルが伸びをしながら言うと、ソルとルナがすぐに反応する。


『妾は窓側』

『妾は枕の中央』


「寝る場所を先に決めるな!」


 当然のようにノエルの枕へ降り立つ二人を見て、ノエルは慌てて手を伸ばす。しかし、端へ寄せようとした瞬間、着物の袖でぴしりと指を叩かれた。


『早い者勝ち』

『ノエルは端』


「俺の枕だぞ!」


 騒ぐノエルを横目に、ノクスが静かに口を開く。


「私の寝台を使えばいい」


「ノクスはどこで寝るんだ?」


「椅子で構わない」


「怪我人でもないのに椅子で寝かせられないよ」


「私は寝なくても問題ない」


「その問題ないも禁止!」


 ノエルが即座に却下すると、ソルとルナがまた口を挟む。


『ノクスと同じ寝台』


『従兄弟だから問題ない』


「寝台が狭いだろ!」


 ノクスは一瞬、本気で寝台の幅を確認した。


「詰めれば入る」


「考えなくていい!」


 結局、あれこれと揉めた末に、ソルとルナを枕の両端へ移動させ、ノエルが中央に寝ることでようやく決着がついた。


『狭い』


『横暴』


「持ち主に対する言葉じゃない!」


ノエルが抗議しながらも布団へ潜り込むと、ソルとルナは不満げに小さく身じろぎしながらも、それぞれ枕の端へと収まった。ノクスはその様子を静かに見つめた後、結局は椅子ではなく、寝台の端に腰を下ろし、壁にもたれかかるようにして目を閉じる。部屋の灯りが落とされると、外から聞こえる夜の気配だけが静かに満ちていった。





            ☆



 夜のテルムは、すべての音を飲み込んだように静まり返っていた。夕方の喧騒は跡形もなく消え、石畳の街は眠りの底へ沈んでいる。月は雲間に隠れ、かすかな光だけが街の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 宿の屋根の上に、一人男が──ノクスが立っていた。黒髪は夜に溶けるように揺れ、風に乱れることもない。まるで彼自身が闇に縫い留められた存在のようだった。ノエルと共にいた時に見せていたわずかな柔らかさはそこには一切残っておらず、表情は削ぎ落とされ、感情の気配すら消えている。ただ赤い瞳だけが、冷えた刃のように夜を見下ろしていた。

 風が吹き、屋根瓦を撫で、衣の裾を揺らし、街の隙間を抜けていく。それでもノクスは微動だにしない。まるで世界の風すら彼を避けて流れているかのように。

 やがて夜空の奥から、音もなく影が降りてきた。一羽の梟。羽ばたきの気配すら希薄で、存在そのものが夜に紛れ込むようにして屋根の端へ舞い降りる。灰褐色の羽は月光を受けても色を持たず、ただ静かに揺れるだけだった。しかしその瞳だけは異質で、闇の中で切り取られたように鮮やかな桃色が静かに光っていた。


「……来たか」


ノクスは低く呟いた。それに応じるように梟が首を傾げる。桃色の瞳の奥で微かな魔力が静かに揺らいだ。そして次の瞬間、その梟から人の声がはっきりと響いた。


《──ニグルム様》


 夜の空気が、一瞬で張り詰めた。

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