☆0-8☆子守唄
馬車置き場のすぐ近くに建てられたその宿屋は、旅人たちの出入りが絶えない場所にありながら、どこか古びた落ち着きを感じさせる佇まいをしていた。木造の外壁は長年の風雨に晒されて色褪せているが、それでもしっかりと手入れされている様子がうかがえる。
その宿の名前は、『跳ね馬亭』という。
入口の上に掲げられた看板には、宿の名前にちなんだ馬の絵が描かれていた。しかし、その馬は軽やかに跳ねているというよりも、どう見ても前のめりに転びかけているようにしか見えない。前足は妙な角度で地面に突き刺さり、後ろ足はなぜか三本あるように見え、さらに尻尾まで二本に分かれているという、なかなかに独創的な構図だった。
ノエルはその看板を見上げ、しばらく無言で観察した後、ぽつりと呟いた。
「この絵、少し不安にならないか?」
その言葉に、ノエルの肩に乗っていたソルとルナも同じように看板へ視線を向ける。
『転倒する直前の馬』
『旅の安全を願う宿には見えない』
淡々とした評価が続き、ノエルは苦笑しながら肩をすくめた。
「名前は立派なんだがな」
その時だった。宿の入口の扉がぎい、と音を立てて開き、中から中年の男が顔を出した。どうやら宿の主人らしい。腕を組み、明らかに不満そうな表情でこちらを睨んでいる。
「馬は跳ねてるんだ」
低い声でそう言い放つ主人に、ノエルは思わず言葉を返してしまう。
「前足が地面に刺さってません?」
「芸術だ」
即答だった。ノエルは一瞬言葉に詰まりながらも、さらに指摘を重ねる。
「後ろ足が三本あります」
「勢いを表現してる」
まったく揺るがない返答に、ソルとルナも容赦なく追撃する。
『尻尾も二本…魔物?』
『新種の生物…魔物?』
主人のこめかみに青筋が浮かんだ。
「お前ら、泊まるのか、看板を批評しに来たのか、どっちだ!」
怒鳴り声が通りへ響き、近くを歩いていた旅人がちらりとこちらを振り返る。ノエルは慌てて姿勢を正し、深く頭を下げた。
「泊まります!」
「なら中へ入れ。看板の悪口を言ったから、夕食の肉を一枚減らすぞ」
さらりと告げられた仕返しに、ノエルは思わず顔を上げる。
「宿泊客への仕返しが小さい!」
その横で、ソルとルナがひそひそと話す。
『妾たちの肉は?』
『菓子の方が良い』
主人はちらりと二人を見て、肩をすくめた。
「妖精は無料だ。飯は自分たちで用意しろ」
その言葉に、ソルとルナは満足そうに頷く。
『良い宿主』
『後で菓子を分ける』
「俺の肉を減らして二人に好かれるの、納得いかない!」
ノエルの抗議は、軽く流された。
宿の中は外観よりも広く、木の香りが漂う落ち着いた空間だった。受付で簡単な手続きを済ませると、主人は無愛想に鍵を渡してくる。
どうやら王都へ向かう旅人が多い時期らしく、空いている部屋は一つだけだった。
二階へ上がり、案内された部屋は、寝台が二つ並んだこぢんまりとした空間だった。窓を開けると、町の中央市場が見渡せる。夕暮れに差しかかっているにもかかわらず、人の流れはまだ途切れていない。
ノエルは荷物を床へ下ろし、軽く肩を回した。
「二人部屋で良かったのか?」
振り返りながら尋ねると、ノクスは静かに鞄を壁際へ置いた。
「何がだ」
「ノクスは一人の方が落ち着くかと思って」
「問題ない」
「さっきから問題ないばっかりだな」
ノエルは苦笑する。
ノクスは少しだけ視線を逸らし、それから静かに言った。
「君と同室なら構わない」
その言葉に、ノエルは少しだけ照れたように頭をかく。
「俺、寝相が悪いらしいぞ」
すると、すかさずソルとルナが口を挟む。
『とても悪い』
『夜中に回転する』
「回転?」
ノクスがわずかに眉を上げるとソルが淡々と続ける。
『一度、寝台の頭と足が逆になっていた』
『妾たちは避難した』
「覚えてないから嘘かもしれないだろ!」
ノエルが反論すると、ソルとルナがさらに追い打ちをかける。
『リーナも目撃した』
『フォーガスも証言した』
「家族ぐるみで俺の寝相を記録するな!」
ノエルが声を上げると、ノクスの肩が小さく揺れた。ほんのわずかだが、確かに笑っている。その様子を見て、ノエルは胸の奥が少し軽くなるのを感じた。
道端で倒れていた時の無表情と比べれば、今のノクスはずっと柔らかい。
「夕食まで時間があるな」
ノエルは窓辺へ歩み寄り、外の様子を眺める。市場にはまだ多くの人が行き交い、活気に満ちている。
「少し町を見て回らないか?」
振り返って提案すると、ノクスは静かに問い返した。
「疲れているのではないか」
「馬車で寝たから平気」
ノエルが軽く答えると、ソルとルナがまた口を挟む。
『寝足りないと機嫌が悪くなる』
『夕食前に泣くかもしれない』
「俺は赤ん坊じゃない!」
ノエルが即座に否定すると、ノクスは小さく頷いた。
「なら行こう。…俺も、君と話したいことがある」
そう言って外套を整えながら、そう告げるとノクスは静かに扉へ手をかけた。
☆
夕暮れの市場は、濃密な熱気に包まれていた。西へ傾いた太陽が石畳を赤く染め、その光を受けて並ぶ屋台や露店が、どこか幻想的な色合いを帯びている。人々の足取りは一日の疲れを感じさせながらも、同時に最後の買い物を楽しもうとする活気に満ちていた。
一日の終わりに品を売り切ろうとする商人たちは、声を張り上げて客を呼び込んでいる。その声は重なり合い、まるで市場全体が一つの大きな生き物のようにざわめいていた。
「西方産の林檎だ! 今なら五個で銅貨三枚!」
「旅用の香草はいらないかい! 魔物除けにも腹痛にも効くよ!」
「焼き串、焼きたてだ! 肉が何かは訊かない方が美味いぞ!」
様々な呼び声が飛び交う中、ノエルはふと足を止めた。焼き串屋の前から漂ってくる香ばしい匂いに、自然と視線が引き寄せられていた。
「最後の店、怖くないか?」
ノエルは眉をひそめながら、串を焼く店主の手元と、その奥に掲げられた看板を交互に見た。
「肉の種類を訊くべきだと思う」
慎重な口調でそう言いながらも、鼻をくすぐる香りに抗えない様子が見て取れる。
『食べれば分かる』
ノエルの肩に乗ったソルが、淡々とした声で言いながら、焼き串へ視線を固定した。その瞳には、すでに食べることを前提とした期待が宿っている。
『妾は毒見をしてもよい』
ルナもまた同じ方向を見つめながら、静かに続けた。その声音には、わずかながら楽しげな響きが混じっている。
「さっき菓子を食べてただろ」
ノエルは呆れたように肩をすくめる。
『菓子と肉は別の場所へ入る』
「胃袋は一つだ!」
『妾たちは妖精』
『構造が違う』
あまりにも当然のように言い切る二人に、ノエルは一瞬言葉を失った。
「本当か?」
疑いの目を向けると、ソルとルナはぴたりと動きを止める。二人は無言のまま、ほんのわずかに視線を逸らした。
「今、適当に言ったな?」
『焼き串を二本』
『ノエルは話が長い』
「買うって言ってない!」
結局、押し切られる形で、ソルとルナに一本ずつ、さらにノエルとノクスにも一本ずつ焼き串を買うことになった。ノエルは串を受け取り、まだ熱を帯びた肉へ慎重に歯を立てる。じゅわりと肉汁が広がり、香辛料の効いた味が口いっぱいに広がった。
「美味い」
思わず素直な感想が漏れる。
「何の肉だろうな」
隣でノクスが静かに呟き、店の看板へ視線を向けた。そこには、牙の生えた鳥とも、羽の生えた猪とも取れる、奇妙な生物の絵が描かれている。
「訊かない方が美味いって、正しかったのかもしれない」
ノエルは苦笑しながら、もう一口齧った。
『美味なら問題ない』
『追加を要求する』
「一本で我慢しろ!」
そんなやり取りを交わしながら、二人と二匹は再び市場の中を歩き始めた。
市場を進むにつれ、ノエルは珍しい品を見つけるたびに足を止めては、興味深そうに手に取って眺めていた。
折り畳み式の鍋は、旅人にとって便利そうだと感心し、遠くの大陸から運ばれたという青い香辛料には目を輝かせる。魔力を流すと温かくなる石や、眠気を覚ますという強烈な香りの茶葉など、見慣れない品々に触れるたび、その表情は子どものように生き生きとしていた。
一方でノクスは、特別興味を示す様子もなく、その隣を静かに歩いている。それでも、ノエルが何かを手に取るたび、その視線だけは確かに追っていた。
「ノクスは、こういう町に来たことがあるのか?」
ノエルは振り返りながら尋ねる。
「何度も」
「旅をしてたの?」
「各地を歩いたことはある」
「どんなところへ?」
「北の雪原、天空の島、砂漠や海にも行ったことがある。」
「すごいな!」
ノエルは目を輝かせ、思わず声を弾ませた。
「海を見たことがあるのか?」
「ああ」
「どれくらい大きい?」
「端が見えないほどだ」
「魚も大きい?」
「人を丸呑みにするものもいる」
「本当に?」
『ノエルなら丸呑みにされる』
『食べても美味しくない…案外美味しいかも』
「食べられる前提で話すな!」
軽口を交わす中で、ノクスは小さく笑みを浮かべた。
「いつか見に行くといい」
「学院を卒業したら行ってみたいな」
「その時は私が案内しよう」
「本当か?」
「ああ」
ノクスの返答には迷いがなかった。その声音は穏やかでありながら、どこか確かな意志を感じさせるものだった。
「君が望むなら、どこへでも」
その言葉は静かに紡がれたが、ノエルの胸に妙な重みを残した。
「さすがに世界中を案内してもらうのは悪いよ」
「悪くない」
「ノクスにも都合があるだろ」
「君より優先するものはない」
ノエルは思わず目を瞬いた。
「会ったばかりなのに?」
その問いに、ノクスの歩みが一瞬だけ止まる。
「血の繋がった家族だからだ」
「従兄弟って、そんなに重いものか?」
「俺には重いものだ」
それ以上の説明はなかった。
夕日の赤が、ノクスの瞳へ差し込み、その表情にわずかな陰を落としている。ノエルには、その横顔がどこか寂しそうに見えた。
「ねぇ、カナリア叔母さんってどんな人だった?」
「優しい人だった」
「母さんもそう言ってた」
「誰に対しても、分け隔てがなかった。自分を傷つけた相手にさえ、憎しみを向けられないほどに……それは美徳ではない。少なくとも、私はそう思っている」
その言葉には、わずかな冷たさが混じっていた。
「優しすぎたってこと?」
「ああ」
ノクスは正面を見つめたまま答える。
「自分を守ることを、最後まで知らなかった」
「ノクスは、叔母さんを守りたかったんだな」
その言葉に、ノクスの足音が止まった。
少し先を歩いていたノエルも振り返る。
「どうして、そう思う」
「怒ってるように聞こえたから」
「怒っている?」
「叔母さんを傷つけた人にじゃなくて、守れなかった自分に」
ノクスの赤い瞳が、まっすぐにノエルを射抜く。周囲の喧騒が、遠くへ引いていくように感じられた。
「君は時々… 気づかなくてもいいことへ気づく」
「ごめん」
「責めているのではない」
ノクスは再び歩き出した。
「その通りだ。俺は母を守れなかった」
「子どもだったんだろ?」
「それは言い訳にならない」
「なるよ」
「ならない」
その拒絶は強かった。
ノエルは歩調を合わせて隣へ並ぶ。
「俺も三年前、村を守れなかった」
「レオンという男が救ったという事件か」
「うん。俺は剣を持ってたのに、何もできなかった」
「君は十三歳だった」
「それでも悔しかった」
ノエルは腰の剣へ手を置き、静かに続ける。
「でも、あの時の自分を責め続けても強くはなれない。だから学院へ行く」
「前へ進むために?」
「そう」
ノエルはノクスを見上げた。
「ノクスも、叔母さんを守れなかったことを忘れなくていいと思う。でも、それだけで自分を全部決めなくてもいいんじゃないか」
「君は何も知らない」
「知らないよ」
ノエルは素直に認める。
「だから、話したくなった時に話してくれればいい」
ノクスは答えなかった。ただ、ほんのわずかではあるが、ノエルと並んで歩くため歩調を緩めた。
☆
市場の中央には、小さな噴水広場があった。
石造りの円形の広場の中央には、澄んだ水を湛えた噴水があり、夕暮れの光を受けてきらきらと反射している。周囲には簡素なベンチや石の縁が設けられており、旅人や商人たちが足を止めて休息を取る場所として賑わっていた。笑い声を響かせる子どもたちと、それを見守る大人たちの穏やかな空気が、喧騒の中にもどこか安らぎを感じさせていた。
ノエルは噴水の縁へ腰を下ろす。長時間歩き続けた足を休めるように、軽く息を吐きながら石の縁へ体重を預けた。ひんやりとした感触が、じんわりと疲れを和らげていく。
「あと少し休もう」
そう言って肩の力を抜いたノエルの頭上で、小さな気配が動いた。
『焼き菓子を食べる時間』
ソルがノエルの肩から降りる。軽やかに跳ねるようにして石の縁へ降り立ち、当然のように両手を腰に当てて宣言する。
『夕食前の補給』
ルナもソルの言葉に同意するように頷きながら、静かに腰を下ろす。
「焼き串を食べたばかりだろ」
ノエルは呆れたように眉をひそめる。
『焼き串は肉』
『焼き菓子は菓子』
ソルとルナは一切の迷いなく言い切る。
「同じ胃袋に入るんだよ!」
ノエルが思わず声を上げるが、二人はまったく気にした様子もない。そのやり取りを横目に見ながら、ノクスが静かに隣へ腰を下ろした。
無駄のない動きで石の縁へ座り、周囲の様子を一瞥する。その仕草には、常に周囲を警戒している者特有の緊張感があった。
ノエルは村人から持たされた袋を開け、焼き菓子を二つ取り出す。素朴な布袋の中から取り出された焼き菓子は、ほんのりと甘い香りを漂わせていた。手作りらしい不揃いな形が、どこか温かみを感じさせる。
ソルとルナへ一つずつ渡そうとしたところで、ノクスの視線に気づいた。赤い瞳が、ほんのわずかに焼き菓子へ向けられている。
「食べる?」
「必要ない」
ノクスは即座に答える。その声音には迷いがなく、いつものように淡々としていた。
「またそれか」
ノエルは苦笑する。
「甘いものは好まない」
『人生の半分を損している』
『信用度が下がった』
ソルとルナが容赦なく評価を下す。
「甘いものを食べないだけで信用を失うのか?」
ノクスがわずかに眉を寄せる。
『当然』
『重大な欠点』
二人は一切の躊躇なく断言した。
「二人の審査基準、偏りすぎだろ」
ノエルは呆れたように肩をすくめ、そのまま焼き菓子を一口齧った。外側はさくりと軽く、中はしっとりとしている。蜂蜜の優しい甘さと、刻まれた木の実の香ばしさが口いっぱいに広がった。
「これ、村のおばさんが作ったやつだ。美味いぞ」
「なら、君が食べればいい」
ノクスは視線を逸らしたまま答える。
「一口だけでも」
「必要ない」
「従兄弟からの初めての贈り物なのに?」
身長差ゆえに自然と上目遣いになるノエルとその一言に、ノクスの眉が僅かに動いた。ほんの一瞬だけ、表情に揺らぎが生まれる。
「……一口だけだ」
短い沈黙の後、ノクスはそう言った。
『陥落した』
『ノエルは時々ずるい』
ソルとルナが淡々と評価する。
「何がだよ」
ノエルは苦笑しながら焼き菓子を差し出した。ノクスはそれを受け取り、慎重に一口だけゆっくりと咀嚼し、味を確かめるように飲み込む。
「どう?」
ノエルが期待を込めて尋ねる。
「甘い。だが、悪くはない」
『気取っている』
『本当は美味しいと思っている顔』
ソルとルナが容赦なく指摘する。
「顔に出ているか?」
ノクスがわずかに眉を寄せる。
『全く出ていない』
『妾の勘』
二人は平然と答えた。
「適当じゃないか」
ノクスが呆れたように言い、ノエルが思わず笑った。その笑いにつられるように、ノクスの口元も僅かに緩んだ。ほんのわずかな変化だったが、それは確かに柔らかなものだった。噴水の水音に市場の喧騒、そして沈みかけた太陽。橙色に染まり始めた空の下で、時間はゆっくりと流れているように感じられた。
不思議な出会いから始まった関係だったが、こうして隣へ座っていると、本当に昔から知っていた家族のような気がしてくる。
ノエルは無意識に、母から教わった旋律を口ずさんだ。馬車の中で歌った時よりも小さく、鼻歌に近い。けれど最初の旋律が流れた瞬間、ノクスの指が止まった。
「ノクス?」
ノエルは歌を止めた。ノクスは焼き菓子を持ったまま、動かなくなっている。赤い瞳はノエルを見ているが、その向こうに別の光景を映しているようだった。
「その歌を…もう一度、聞くことができるとは思っていなかった」
ノクスは視線を落とした。その声音には、これまで感じたことのない重さがあった。
「……叔母さんが歌ってくれてたのか」
ノエルは静かに問いかける。
「眠れない夜に… 母と俺の部屋は寒かった。冬になると、窓の隙間から風が入った。暖炉へ入れる薪も、十分には与えられなかった」
ノクスの声は、これまで聞いたことがないほど弱かった。淡々と語られる言葉の裏には、過酷な環境が静かに滲み出ている。ノエルは何も言わず、その続きをただ待った。
「それでも母は、俺を抱きしめて歌った。寒くないように、怖くないように」
その記憶は、確かに温かいものだったのだろう。
「叔母さんとノクスは、どこで暮らしてたんだ?」
ノエルが慎重に尋ねるとノクスの表情が僅かに硬くなる。
「…話せない」
短く、しかしはっきりとした拒絶だった。
「分かった」
ノエルはそれ以上追及しなかった。その代わりに、もう一度ゆっくりと歌い始めた。
村に伝わる12の曲のうちの一つ、子守唄。
幼い鳥は、闇の森で道を失う
空は雲に閉ざされ、星も見えない
それでも月は、雲の向こうから鳥の名を呼び続ける
帰る場所はここにある
決して一人ではない
ノエルの澄んだ声が、夕暮れの広場へ流れていく。その歌声には、子どもの頃の記憶や、もう戻らない時間を思い出させるような、胸が締め付けられる響きがあった。
同時に、不安な気持ちを優しく包み込み、心のざわめきを鎮めてくれるような温かさも宿している。まるで、見えない手がそっと背中を撫でるような、神秘的な空気が広場全体を満たしていく。通り過ぎる人々が足を緩め、遊んでいた子どもたちも声を潜める。
ソルとルナは焼き菓子を食べる手を止め、静かに耳を傾けていた。
ノクスは目を閉じ、強く握られた拳が僅かに震えている。歌が終わっても、しばらく誰も口を開かなかった。余韻だけが、静かに広場へ残っていた。
「母と……本当に同じだ」
「母さんから教わった歌い方だからな」
ノエルは少し照れたように笑う。
「母からセキレイへ伝わり、君へ伝わった」
ノクスは目を開けた。赤い瞳には、深い悲しみと、それ以上に強い執着が浮かんでいる。
「失われていなかった」
その言葉は、どこか安堵にも似ていた。
「歌はなくならないよ。覚えている人がいる限り」
ノエルは穏やかに言う。
その言葉は、単純でありながら確かな真実だった。
「ならば、君も失わせない」
ノクスが低く呟く。
「え?」
ノエルが聞き返すと、ノクスはいつもの穏やかな表情へ戻った。
「歌を忘れないでほしいと言っただけだ」
何事もなかったかのように言い直す。
「忘れないよ。俺も好きな歌だから」
ノエルは素直に答えた。
「そうか」
ノクスは焼き菓子をもう一口食べた。今度は、先ほどより少し大きく。
『美味しいと思っている』
『完全に陥落した』
ソルとルナが小声で囁く。
「二人とも、まだ見てたのか?」
ノクスが訊く。
『審査は継続している』
『甘党なら信用度が少し上がる』
「私は甘党ではない」
『強がり…ノエルと同じ』
『血縁関係を感じられる』
「何で俺まで強がり扱いなんだ!」
ノエルが思わず声を上げた、その時だった。
市場の入り口から、切迫した叫び声が響いた。
「道を空けてくれ!」
「治癒術師を呼べ!」
それまで穏やかだった空気が、一瞬で張り詰める。人々が一斉に振り返る。噴水広場へ向かって、二人の男が簡易担架を運んでくる。担架の上には、十歳ほどの少女が横たわっていた。服は泥と血に汚れ、右足には深い傷がある。
だが、ノエルの目を引いたのは傷そのものではなかった。傷口の周囲から、黒紫色の細い筋が皮膚の内側へ伸びている。まるで何かが体内へ侵食しているかのような、不気味な光景だった。少女の呼吸は浅く、唇は青ざめていた。
「何があったんだ!」
広場にいた男が駆け寄る。
「北の森だ! 魔狼に襲われた!」
担架を運ぶ男が叫ぶ。
「町の近くまで来たのか?」
周囲から驚きの声が上がる。
「普通の魔狼じゃない! 目が黒く濁って、体から変な霧を出していた!」
その言葉に、ざわめきが広がる。
担架を運んでいた男は、血に濡れた手で少女の肩を押さえた。
「この子は逃げ遅れた。何とか魔狼は倒したが、噛まれた傷が……!」
焦りと恐怖が滲む声だった。
「治癒院へ運べ!」
「術師はもう呼んだ!」
人々が騒然となる。
少女の母親らしい女性が担架へ縋りつき、何度も娘の名を呼んでいた。
「ミナ! しっかりして!」
涙声で叫ぶ。
「お母……さん……」
少女の声は、ほとんど聞き取れないほど弱々しかったが、ノエルはその瞬間、反射的に立ち上がっていた。迷いはなかった。
「行こう」
ノエルはノクスの腕を掴む。
「君が行って何をする」
「分からない。でも、何か手伝えるかもしれない」
『ノエルは治癒魔法を使えない』
『邪魔になる可能性が高い』
ソルとルナが現実的な指摘をする。
「分かってる。でも、人手が必要かもしれないだろ」
ノエルはそれでも引かなかった。ノクスはノエルに腕を掴まれたまま、担架の少女を見つめた。
赤い瞳が傷口へ向けられる。その視線は鋭く、何かを見極めるようだった。
「……瘴気か」
「分かるのか?」
「ああ」
ノクスの声が低くなった。その表情には、先ほどまでの穏やかさはない。
「既に血へ入り込んでいる」
ノクスはゆっくりと立ち上がり、担架へ向かって一歩踏み出した。




