☆0-7☆宿場町テルム
馬車は街道を進み続けていた。
揺れは一定で、車輪が石を踏むたびに小さな振動が伝わってくる。窓の外では、夕暮れへ向かう空がゆっくりと色を変え始めていて、ノクスの顔色も幾分戻っていた。老婦人から渡された薄い毛布を膝へ掛け、窓際の席に静かに座っているその姿は、つい先ほどまで倒れていた人物とは思えないほど落ち着いていた。
(…結局、食事はほとんど口にしなかったな)
差し出されたパンにも手をつけず、水もほんの僅かに口へ含んだだけだ。それでも体調が悪化した様子はなく、むしろ時間が経つほどに、倒れていたこと自体が嘘だったかのように平静を取り戻していった。
「本当に食べなくて平気か?」
ノエルが果物を差し出す。
「必要ない」
「倒れた人が言っても説得力がないぞ」
「空腹で倒れたわけではない」
「じゃあ、何で倒れてたんだ?」
「少し、力を使いすぎた」
「魔法を使ったのか?」
「まぁ、似たようなものだ」
ノエルはその言葉に興味を示した。
「どんな魔法を使ったんだ?」
「闇属性の魔法だ」
ノクスは迷いなく答えた。その一言で、ノエルの表情がわずかに止まる。向かいに座っていた行商人も、ほんの少しだけ顔を上げた。
【闇属性】それ自体が禁じられているわけではない。影を操る術や光を遮断する術など、一部の魔法は公的にも利用されている。しかし、その一方で、精神や生命へ干渉する危険な術も多く含まれているため、王国では厳しく管理されている属性でもあった。
「珍しいな」
ノエルは率直に言った。
「怖いか?」
「何が?」
「闇属性を使ったんだぞ」
「え?そんなの使い方次第だろ」
ノクスがわずかに目を細める。
「そう考える者は少ない」
「火だって家を暖められるし、村を焼くこともできる。剣だって同じだって、父さんに言われたばかりなんだ」
ノエルは腰に差した剣へ軽く触れた。
「大事なのは、何のために使うかだろ」
「剣を抜く理由を、自分で決めろということか…君の父親が言いそうな言葉だ」
「父さんを知らないのに?」
「セキレイの選んだ男なら、そういう人間だろう」
ノクスの言葉には、不思議な確信が込められていた。
「母さんに会ったことがあるのか?」
「ない。だが、母からどんな人物だったかは聞いたことがある」
それ以上、ノクスは詳しく語ろうとはしなかった。代わりに、ノエルは自分のことを話し始める。
村のこと、鍛冶屋を営む父のこと、穏やかで、時々大胆な母のこと、生意気だが優しい妹のこと、そして顔なじみの村人たち。
召喚士の称号を得てからの失敗や三年前に起きた魔物の襲撃、レオンへの憧れ。
そして、学院へ入学する理由。ノクスはほとんど口を挟まず、ただ静かに耳を傾けていた。一つ一つの言葉を取りこぼさないように、丁寧に受け止めているようだった。
特に、セキレイやカナリアに関係する話になると、質問は自然と細かくなる。
「セキレイも歌うのか」
「家事をしながらよく歌ってる」
「何を?」
「子守歌とか、村に昔から伝わる伝承歌。十二曲あって、俺が一番好きなのは、冒険の歌だな」
「冒険……」
「知ってる?」
「歌ってみてくれ」
「今?」
「ああ」
「馬車の中で?」
「嫌か」
「嫌じゃないけど、急だな」
『ノエルは歌いたがり』
『頼まれなくても歌う』
「そこまでじゃない!」
ソルとルナの言葉に、ノエルは思わず反論する。そのやり取りを見ていた老夫婦も、どこか期待するような視線を向けてきた。行商人も腕を組んだまま、興味深そうにこちらを見ている。
ノエルは少しだけ照れたように頭をかいた。
「じゃあ、少しだけ」
姿勢を整え、ゆっくりと目を閉じる。
車の揺れに呼吸を合わせると、胸の奥から自然と旋律が浮かび上がってくる。
それは子守歌とは違う、もっと軽やかで、胸を弾ませるようなリズムだった。
幼い頃、母が笑いながら歌ってくれた、あの歌。
ノエルはゆっくりと口を開いた。
弾むようなテンポで、軽やかな音が車内へ広がっていく。まるで草原を駆け抜ける風のように、明るく、自由で、どこまでも伸びていく旋律。腕白な強さと、未知へ踏み出す勇気を後押しするような歌。足取りが自然と軽くなるような、ポップで親しみやすい響きが、馬車の中の空気を一変させた。
それまでどこか重かった空気が、ゆっくりとほどけていく。老夫婦の表情が柔らぎ、行商人も思わず口元を緩める。
ソルとルナも、いつの間にか小さく身体を揺らしていた。
ノエルの歌声は、ただ優しいだけではない。聴く者の胸をくすぐり、前へ進みたくなる衝動を呼び起こす。
“遠くへ行きたい”
“まだ見ぬ景色を見たい”
そんな気持ちを自然と芽生えさせる、不思議な力を持っていた。
ノクスは動かなかった。ただ、じっとノエルを見つめている。その瞳に映っているのは、歌っている少年だけではない。
もっと遠く、もっと昔の記憶
歌が終わり、余韻だけが静かに車内へ残る。
老夫婦が小さく拍手をした。
「綺麗な声だねえ」
「ありがとうございます」
行商人も感心したように頷く。
「学院じゃなく、王都の劇場でも食っていけそうだ」
「さすがにそれは」
『ノエルは顔と歌だけは良い』
『料理をせず、歌って生きるべき』
「褒める時くらい料理から離れろ!」
軽口が交わされる中で、ノクスだけは何も言わなかった。
「ノクス?」
呼ばれると、ようやく我に返ったように瞬きをする。
「どうだった?」
「……同じだ」
「何が?」
「母と」
掠れた声だった。
「母と、同じ歌い方をする」
ノクスの指が、膝の上でわずかに震えている。
「そうなんだ」
「最後の音を、少しだけ長く伸ばす癖も」
「母さんに習ったから。母さんは叔母さんから習ったって言ってた」
「そうか」
ノクスはゆっくりと目を閉じ、そして長く息を吐き出すと、何事もなかったかのように、いつもの穏やかな表情へ戻った。
「もう一度、いつか聞かせてくれ」
「いいよ」
「約束できるか」
「歌くらい、いつでも歌うよ」
「約束を」
その声は、わずかに強かった。ノエルは少し不思議に思いながらも、素直に頷く。
「約束する」
「……ありがとう」
ノクスは視線を窓の外へ移した。その横顔は静かで、落ち着いているように見える。
けれど、膝の上に置かれた手は強く握られていた。爪が掌へ食い込み、手袋の下で薄く血が滲むほどに。
☆
御者の話によれば、このまま順調に進めば日が沈む前には宿場町へ到着するらしい。馬車の前方から聞こえてきたその声は、乾いた風に乗って車内へと流れ込み、乗客たちの間にわずかな安堵をもたらしていた。
朝が早かったこともあり、ノエルは馬車の揺れに身を任せながら、何度も欠伸を繰り返していた。窓の外では、ゆるやかに流れる景色が単調に続き、揺れは一定で心地よく、意識を保つには少しばかり優しすぎる。まぶたは重く、視界は何度もぼやけては戻るを繰り返していた。
「眠いなら寝ろ」
向かいに座るノクスが、腕を組んだまま静かに口を開いた。その声音は簡潔で、余計な感情を含まない。
「でも、誰かが見張ってないと」
ノエルは欠伸を噛み殺しながら答える。目をこすりつつも、どこか気を張ろうとしている様子だった。
「御者がいる」
ノクスは視線を外へ向けたまま、短く返す。
「ノクスが急に倒れるかもしれない」
ノエルは冗談めかして言うが、その声にはわずかな心配も混じっていた。
「もう倒れない」
ノクスは即座に言い切る。その返答には迷いがなく、断定的だった。短いやり取りだったが、その言葉の重みは軽くなかった。
『ノエルは眠ると重い』
肩に乗っていたソルが、ノエルの耳元で淡々とした声を落とす。小さな身体を揺らしながら、じっとノエルを見下ろしていた。
『もたれかかられると潰れる』
続けてルナも同じ調子で言葉を重ねる。二人とも表情は変わらないが、わずかに距離を取ろうとしている様子が見えた。
「お前たちは肩から退けばいいだろ」
ノエルは半分閉じかけた目で抗議する。
『ノエルの頭で寝る』
『先に場所を取る』
ソルの言葉にルナも続けて宣言した。
「俺より早く寝る気か!」
ノエルは軽く声を上げるが、その勢いはすぐに失われる。すでに瞼は重く、意識はゆっくりと沈み始めていた。
ノエルは剣を抱えたまま、座席の背へ体を預けた。革張りの座席が軋み、揺れに合わせて身体がわずかに揺れる。
「少しだけ寝る」
ぼんやりとした声でそう言う。
「そうしろ」
「宿場町に着いたら起こして」
ノエルは目を閉じかけながら頼む。
「ああ」
「置いていくなよ」
「置いていかない」
「絶対に」
「そこまで強く言わなくても」
ノエルは小さく笑い、そのまま目を閉じる。
やがて呼吸はゆっくりと整い、規則正しい寝息へと変わっていった。肩の力が抜け、完全に眠りへ落ちたことが分かる。
ソルとルナも、ノエルの髪の中へ半分埋もれるようにして身を寄せ、そのまま静かに眠りへ落ちていく。小さな身体がわずかに上下し、穏やかな寝息が重なった。
車内の他の乗客たちも、いつの間にか口数が減り、静寂が広がっていた。誰もがそれぞれの疲れを抱え、揺れに身を任せている。
馬車は車輪を軋ませながら、夕暮れの街道を進んでいく。窓の外では、沈みかけた太陽が森の輪郭を赤く染め、長い影が地面へと伸びていた。
ノクスは、眠っているノエルをじっと見つめていた。
無防備な寝顔と頬へ落ちる柔らかな髪。
呼吸に合わせてわずかに上下する胸元。その服の内側には、家族から渡されたお守りの膨らみが見えている。
ノクスはゆっくりと手を伸ばした。指先がわずかに震える。今度は途中で止めることはなかった。指先で、ノエルの頬へかかっていた髪をそっと払う。触れた瞬間、柔らかな感触が伝わる。
「似ている」
誰にも届かないほど小さな声で呟く。
「母上」
眠るノエルは当然ながら反応しない。穏やかな寝息だけが続いている。ノクスの指が、そのまま頬の輪郭をなぞろうとするほんのわずかな距離。しかし、触れる直前でぴたりと止まった。
「違う」
自分に言い聞かせるように、低く呟く。
「この子は母上ではない」
それでも、伸ばした手はすぐには引かれなかった。迷いが残るように、空中で静止している。
「ノエル」
確かめるように名前を呼ぶ。その存在を、自分の中へ刻み込むように。
「私の……」
続く言葉は、喉の奥で飲み込まれた。唇がわずかに動くだけで、音にはならない。ノクスはゆっくりと顔を窓の外へ向ける。視線を逸らすように。
夕日はすでに森の向こうへ沈みかけていた。赤い光が、ノクスの横顔を静かに照らす。
その瞳に宿っていた鮮血のような赤が、一瞬だけ消えた。代わりに広がったのは、光を一切映さない闇。底も境界も存在しない、すべてを呑み込むような漆黒だった。
「見つけた」
ノクスは静かに笑う。その笑みは、誰にも見られていない。次の瞬間には、その瞳は元の赤へと戻っていた。何事もなかったかのように。
何も知らないまま眠り続けるノエルを乗せ、馬車は王都へと続く街道を進み続けていく。
☆
「ノエル。起きろ」
低く落ち着いた声が、眠りの奥深くへ沈み込んでいたノエルの意識を、ゆっくりと現実へ引き戻した。
「……あと少し」
まだ夢の余韻を引きずるように、ノエルはぼんやりとした声で応じる。
「到着する」
「宿場町は逃げない……」
半ば寝言のように呟きながら、ノエルは再び眠りへ戻ろうとする。
「このままだと通り過ぎるぞ」
「それは困る!」
その一言で、ノエルの意識は一気に覚醒した。勢いよく顔を上げた拍子に、頭の上で眠っていた二つの小さな体が、ふわりと宙へ放り出される。
『危ない』
ソルは空中でくるりと体勢を整え、何事もなかったかのように浮かび直した。
『乱暴な目覚まし』
ルナも羽を広げてゆっくりと降下し、いつものようにノエルの肩へ戻る。
「悪い。いたの忘れてた」
寝起きのまま謝るノエルに、二人は淡々とした声で返す。
『妾たちは三年間、毎晩ここで寝ている』
『存在を忘れられた』
「寝起きなんだから仕方ないだろ」
『愛が足りない』
『菓子で補償を要求する』
「結局それが目的か!」
軽くツッコミを入れながら、ノエルは目元を擦り、ようやく周囲の状況を確認するために窓の外へ視線を向けた。
そこには、夕暮れの柔らかな光に染まった街道が広がっていた。
その先には、高くそびえる木造の門が見える。門の上には、馬車の車輪と麦の穂を組み合わせた紋章が掲げられており、この町が交易と旅人の往来によって栄えていることを示している。門の向こう側には、赤茶色の屋根を持つ建物が幾重にも連なり、整然と並んでいた。
煙突からは夕餉の支度を知らせる煙が立ち上り、門へ続く道には旅人や商人、荷車を引く馬たちが絶え間なく行き交っていた。
「見えてきたぞ。テルムだ」
御者が振り返り、大きな声で告げる。
「王都へ向かう西街道じゃ、一番大きな宿場町だ。今夜はここで泊まる」
「思ってたより大きいな」
ノエルは素直な感想を口にした。故郷であるルーベ村とは、規模がまるで違う。
村の家々をすべて集めたとしても、この町の一角に収まってしまいそうなほどだった。
興味を引かれたノエルは、さらによく見ようと窓へ顔を近づける。その動きに反応するように、向かい側に座っていたノクスがわずかに身を引いた。
「落ちるぞ」
「大丈夫だよ」
『昨日も同じことを言っていた』
『問題がある者は、問題ないと言う』
「俺の言葉を覚えて利用するな!」
ノエルは軽く抗議しながら、ようやく座席へと体を戻した。向かいに座るノクスへ視線を向ける。彼は、道端で倒れていた時の弱々しい姿とはまるで別人のようだった。血色はまだ完全とは言えないものの、姿勢は安定し、視線にも迷いがない。むしろ、周囲の乗客たちよりも落ち着いており、旅慣れているようにさえ見える。
「体調は本当に平気なのか?」
「ああ」
短く答えるノクスに、ノエルは少し眉を寄せる。
「宿へ着いたら、ちゃんと食べろよ」
「必要になれば食べる」
「必要だから言ってるんだ。さっきから、ほとんど何も食べてないだろ」
「君は私の母親か?」
「従兄弟だよ」
ノエルは胸を張って言い切った。
「年下の従兄弟として、年上の従兄弟の不摂生を注意してる」
『余計に格好がつかない』
『ノエル、拾ったばかりなのに世話を焼きすぎ』
「拾ったって言うな!」
ノエルが反論する中、ノクスは一瞬だけ視線を落とし、ほんのわずかに口元を緩める。
「分かった。宿で何か口にする」
「約束だぞ」
「ああ」
「食べたふりはなしだからな」
「そこまで信用がないのか」
『顔が良い男は信用するな』
ソルが断言するように言った。
『ノクスは特に顔が良い』
ルナも真剣な調子で続ける。
「まだその評価を続けるのか?」
ノクスは二人へ冷静に問いかける。
『継続審査中』
『ノエルへの接触が多い』
「接触?」
『髪に触った』
『寝ている時も見ていた』
その言葉に、ノエルはすぐにノクスへ振り向いた。
「寝てる時?」
ノクスの表情は変わらず、落ち着いたまま淡々と説明する。
「寝相が悪く、剣が座席から落ちそうだった。見ていただけだ」
「そうだったのか」
納得したように頷くノエル。
『誤魔化された』
『やはりノエルは騙されやすい』
「何でだよ! 普通に説明されただけだろ!」
ノエルが抗議すると、ソルとルナは揃って小さく溜息をついた。その様子を見ていたノクスの瞳に、一瞬だけ冷たい光が浮かぶ。
しかし、ノエルがノクスへ視線を向けた時には、その気配はすでに消えていた。
☆
夕暮れの光がゆっくりと町の外壁を染めていく中、乗合馬車は石畳の道を軋ませながら進み、やがて町の入り口に設けられた検問所の前でゆっくりと停止した。
門の前には数人の門番が立っており、槍や剣を携えながら行き交う人々を厳しく見張っている。旅人や商人たちが順番に列を作り、通行の許可を待っていた。御者が手綱を軽く引いて馬を落ち着かせると、一人の門番が歩み寄り、慣れた手つきで通行証を受け取る。そのまま荷台へ視線を移し、簡単に中身を確認する。
「王都へ向かう乗合馬車か」
門番は書類を確認しながら、御者へ問いかける。
「ああ。今夜はテルムで一泊だ」
御者は気軽な調子で答え、肩をすくめた。
「最近、北の森で魔物が増えている。夜は町の外へ出るなよ」
門番は声を少し低くし、注意を促すように言った。
「魔物が?」
その言葉に反応したノエルが、馬車の中から身を乗り出すようにして聞き返す。門番は腰に差した剣へ自然と手を置いたまま、ゆっくりと頷いた。
「狼や猪の魔物が街道近くまで下りてきている。妙に気が立っていてな。猟師が何人か怪我をした」
その口調には、ただの噂ではない現実の危険が滲んでいた。
「原因は分かってるんですか?」
ノエルは少し眉を寄せながら問いかける。
「調査中だ。王都へも報告を送った」
門番は短く答え、再び書類へ視線を落としたが、ふとノエルの肩へ視線を移す。そこには小さな二つの影──ソルとルナがちょこんと座っていた。
門番はわずかに目を丸くする。
「妖精連れとは珍しいな」
『陽の妖精王、ソル』
『陰の妖精王、ルナ』
誇らしげとも無表情とも取れる声音で、二人は名乗った。
「王様なのか?」
門番は半ば冗談のように問い返す。
『とても偉い』
『菓子を献上してもよい』
「菓子を要求するな!」
ノエルがすかさずツッコミを入れる。
「ははっ。生憎、勤務中は菓子を持ってない」
門番は肩を揺らして笑った。
『残念』
『次の門番に期待』
「そもそも門番を菓子の配給係だと思うな!」
軽口を交わしながらも、検問は滞りなく進み、やがて通行の許可が下りる。馬車は再びゆっくりと動き出し、重厚な門をくぐって町の中へと入っていくと外の世界とはまるで別物のような、圧倒的な音と匂いが一気に押し寄せてきた。
石畳を叩く蹄の音が絶え間なく響き、荷物を運ぶ商人たちの掛け声が飛び交い、店先では客を呼び込む威勢の良い声が重なり合う。
焼いた肉と香辛料の香ばしい匂いが鼻をくすぐり、果物の甘い香りがその隙間を埋める。
さらに、馬小屋から漂う藁と獣の匂いが混ざり合い、町全体が生き物のように息づいていた。
それは、ルーベ村の静かな夕方とはまるで違う光景だった。
「すごいな……」
ノエルは思わず声を漏らし、馬車の中から身を乗り出すようにして左右を忙しなく見回した。道の両側には宿屋、酒場、武具店、雑貨屋が隙間なく並び、どの店も活気に満ちている。
軒先には色鮮やかな布や果物、旅道具が所狭しと並べられ、異なる地方の服を着た人々が絶えず行き交っていた。
その中には、人間だけではない。
獣の耳を持つ商人が客と値段交渉をしている。小柄ながら筋骨隆々としたドワーフの職人が金槌を振るっている。
「ノクス、見ろよ。あの人、尻尾が二本ある」
「見える」
「こっちには角が四本ある人がいる」
「見える」
「驚かないのか?」
「珍しくない」
ノクスは淡々と答え、視線を動かすこともない。
「都会の人みたいだな」
「君が田舎者らしく驚きすぎているだけだ」
「田舎者なのは否定しないけど、初めて見るものは楽しいだろ」
笑いながら言ったノエル。ノクスは町並みではなく、ノエル自身へ視線を向けて見つめていた。
「そうだな」
「何で俺を見て言うんだ?」
「楽しそうだと思っただけだ」
『観察が細かい』
『視線が重い』
ソルとルナが淡々と評価する。
「お前たちはノクスを疑いすぎだろ」
『ノエルが疑わなすぎる』
『妾たちが均衡を保つ』
「俺たちの関係を天秤みたいに言うな!」
そんなやり取りをしているうちに、乗合馬車は町の中央にある広い馬車置き場へと到着した。周囲には同じように旅を終えた馬車が並び、御者たちが馬の世話をしている。
ノエルは御者と行商人、そして同乗していた老夫婦へ礼を告げ、荷物を下ろし始めた。
村人たちから持たされた包みや、ソルとルナ専用になりつつある菓子袋などをまとめると、思った以上の量になる。
「多いな」
ノクスが荷物を見下ろしながら呟く。
「ほとんど菓子だよ」
『旅の必需品』
『減らすことは許さない』
「二人が自分で持てばいいだろ」
『妾たちは小さい』
『ノエルは大きい』
「普段身長を馬鹿にしてるのに、こういう時だけ大きい扱いするな!」
ノエルが抗議する中、ノクスは何も言わずに大きな鞄を一つ持ち上げた。
「え?」
「宿まで運ぶ」
「いいよ。倒れてたばかりだろ」
「もう問題ない」
「問題がある人は──」
「問題ないと言う、だったな」
ノクスが先回りして言葉を重ねる。
「覚えてるなら使うなよ!」
「では、従兄弟へ荷物を任せておけない」
「俺の荷物なんだから俺が持つ」
「君の体格に対して重すぎる」
「体格は関係ない!」
『ノエルは小さい』
『潰れる可能性がある』
「お前たち、どっちの味方なんだ!」
結局のところ、大きな荷物はノクスが持つことになり、ノエルは不満そうな顔をしながらも残りの鞄を背負った。
新しい町の空気と、これから始まる旅の予感を胸に抱きながら、夕暮れの賑わいの中、二人と二匹は宿を目指して歩き出した。




