☆0-10☆世界の滅亡を企む青年
夜中、ノエルはふと目を覚ました。視界に広がるのは暗い天井と、窓の隙間から差し込む月明かりだけで、遠くでは宿場町テルムの夜番の鐘が静かに響いている。寝返りを打つと、隣の簡易寝台は空で、そこにいるはずのノクスの姿はどこにもなかった。
「……ん?」
ノエルは上体を起こし、枕元で小さく丸くなって眠っているソルとルナを見下ろしながら、声を潜めた。
「ノクス?」
返事はなかった。水を飲みに行ったのか、それとも外の空気を吸いに行ったのか。瘴気に侵された少女を助けた後も、ノクスはしばらくすると何事もなかったかのようにそこに立っていた。闇魔法を使い、特級相当の力を持つすごい人物であることは間違いない。
それでもノエルは、同時に“変な人だ”と思う。妙に無愛想で、妙に落ち着いていて、それなのに自分の知らない叔母のことを知っている。初めて出会った母方の親族。その事実が、ノエルには思っていた以上に嬉しかった。
『ノエル』
ルナがゆっくり身体を起こす。
「起こした?」
『起こされた…どこ行くの?』
「ノクスがいないんだ」
『探す?』
「ちょっとだけ」
『妾も行く』
ソルも目を覚ましてノエルの肩まで飛んだ。
「寝てていいのに」
『ノエル一人は危険』
「何で!?」
『迷子になる』
「宿の中だぞ!」
ルナも浮かび上がる。
『暗いから余計に危険』
「俺を子ども扱いするな」
小声で言い合いながら、三人は部屋を出た。
宿の廊下は静まり返っており、他の宿泊客はすでに眠りについているため物音ひとつしなかった。階段や食堂、玄関、さらには外まで確認しても、ノクスの姿はどこにも見当たらなかった。
「おかしいな」
ノエルは首を傾げると、ソルがふと上を見た。
『上…屋根のところに気配がある』
ノエルは耳を澄ませると、微かな音が確かにそこにある。
「……誰かと喋ってる?」
ノエルは宿の裏手へ回り、木箱や樽を足場にして二階の張り出し屋根へとよじ登った。さらに雨樋を伝って上へ進む。
『ノエル、気をつけて』
『落ちるから』
「落ちない!」
『油断したら落ちる』
『ノエル頑張れ〜』
「静かにして!」
ソルとルナの言葉に突っ込みながらも、ノエルは何とか屋根の上へと到達した。
そして、棟の向こう側には一人の男が立っていた。ノクスだ。月明かりに照らされ、黒髪が静かに風へ揺れている。その正面には一羽の梟がいた。灰褐色の羽を持ち、異様なほど鮮やかな桃色の瞳で男を見つめている。その光景を目にしたノエルは、反射的に身を低くした。
「……何だあれ」
《──ニグルム様》
ノエルの眉が寄る。
(…ニグルム?)
「報告しろ」
ノエルの心臓が強く鳴った。
《テルム周辺の配置は完了しております》
「学院は」
《先行して内部構造の調査を進めています。予定通り、潜入準備も整いました。ですが、一つ問題が》
「何だ」
《六芒獣に関する情報が想定より少ないのです》
(六芒獣…?)
《王立アストル魔法学院の地下資料庫にも、完全な記録は残っていない可能性が高いです》
「なら別の経路を探せ」
《承知しました。金糸雀挽歌の計画に遅延は許されませんので、全力でお探しいたします》
ノエルは息を潜めたままその会話を聞いていたが、学院への潜入、六芒獣、金糸雀挽歌、そして“ニグルム様”という呼び名など、次々と飛び交う知らない言葉はどれも繋がらず、頭の中で整理が追いつかなかった。
「……何それ」
『『静かに』』
「分かってる」
《世界終焉の儀式に必要な段階は───》
その言葉───“世界終焉”
ノエルの身体は一瞬、固まった。
冗談ではない。声の調子も、空気の重さも、ノクスの表情もそこには一切の遊びや誇張はなく、ただ事実としてそれが語られていた。
《ニグルム様あの少年についてはどうなされますか?》
ノエルの心臓が跳ねる。
(……俺?)
「手を出すな」
《しかし》
「命令だ」
ノクスの声はわずかに低くなり、短く冷たく、拒絶を一切許さない響きを帯びていた。夕方、市場を歩きお菓子を食べ、少女を助けていた男とは、まるで別人のようだった。
《……承知しました。ですが、もし彼が計画の障害になるようなら》
「ならない」
《断言できるのですか》
「俺がさせない」
《随分と特別扱いされるのですね》
「黙れ」
《失礼いたしました》
その瞬間、ノエルの足元で古い瓦がわずかにずれ、カッと小さな音を立てた。
ノクスは即座にその気配を捉え、こちらへ視線を向けた。
「誰だ」
『気づかれた』
『逃げる?』
ソルとルナの言葉に、ノエルは一瞬だけ迷った。逃げればいい。聞かなかったことにして部屋へ戻り、朝になったら何事もなかったように振る舞えばいい。そうすれば、すべては元通りになるはずだった。だが、それでもノエルは動けなかった。やがて小さく息を吐き、静かに立ち上がった。
「っ、俺だ!」
月明かりの下、ノエルは姿を晒した。ノクスの赤い瞳が、ほんの僅かに揺れる。
「……ノエル」
《おやおや…これは》
「お前は帰れ」
《ですが》
「今すぐだ」
《……承知しました》
梟の桃色の瞳が最後にノエルを一瞥し、やがて羽音とともに夜空へと消えていった。残されたのはノエルとノクス、そしてソルとルナだけで、夜風だけが静かに吹き抜ける中、沈黙が落ちる。その沈黙を最初に破ったのはノエルだった。
「ニグルムって誰?………金糸雀挽歌って何?」
「…………」
「世界終焉って…何なんだよっ……!」
ノクスはしばらく黙っていた。逃げる、誤魔化す、記憶を消す──選択肢はいくらでもある。ノエルは未熟で、今ならどうとでもできるはずだった。だが彼は、そのどれも選ばなかった。
「ノクスは偽名だ」
ノエルの瞳が僅かに見開かれる。
「……偽名」
「私の名はニグルム。金糸雀挽歌という組織を作ったのも私で、首領でもある」
「目的は…」
「聞いていたのだろう?…この世界の終焉だ」
「世界を…滅ぼすってこと?」
「ああ」
「本気で?」
「本気だ」
ソルとルナはノエルの両肩へと移った。ノエルの指先はわずかに震えている。恐怖を感じるのは当然だった。今日、道端で偶然出会ったばかりの従兄であり、母の姉カナリアの息子。強く、どこか優しさもあり、無愛想ながらも笑えば普通の人間に見えるその男が、世界を滅ぼすと言ったのだ。理解できるはずがなく、恐ろしくないはずもない。それでもノエルは、その事実から目を逸らさなかった。
「……なんで?なんで世界を滅ぼしたいんだ?」
「理由を聞いてどうする。こちらの話を聞けばそれだけ自信が危険なことに巻き込まれる可能性があるとは分からないのか?」
「分かってる」
「なら………怖くないのか」
一歩、ニグルムが近づく。ノエルは逃げなかった。
「怖いよ。普通に怖い」
「なら逃げろ」
「嫌だ」
「何故」
「だって理由も聞かずにお前が悪い奴だって決める方が嫌だ」
ニグルムの顔が固まる。
「……何を言っている」
「世界を滅ぼすのは駄目だ。それは止める。でも、お前まで全部悪いって決めたくない」
ノエルは震える声で、それでも逃げずにまっすぐ言った。
「今日の女の子だって、助けただろ。あれも嘘なのか?俺と市場回ったのも、お菓子を食べたことも全部演技だった?」
「………」
「俺にはそう思えない」
「お前は…馬鹿なのか」
「よく言われる」
「褒めていない」
「知ってる」
ノエルはほんの少し笑った。
「でも、俺たちは従兄弟なんだ。会ったばっかだけど……家族なんだろ」
胸の奥で、ニグルムの中の何かが強く軋んだ。家族──その言葉は、もう自分には縁のないものだと思っていた。
「私は…お前が思っているような人間じゃない。多くの人を殺した。これからもっと殺す。それでも…それでも話を聞くのか?」
「聞く」
「何故」
「知りたいから…お前のこと」
ニグルムは言葉を失う。
ノエルはあまりにも真っ直ぐで、眩しいほどに綺麗だった。本来なら鬱陶しいと感じるはずのその純粋さから、目を逸らすことができない。むしろ、手放したくないとすら思ってしまう。このまま何も知らない場所へ連れて行き、誰の目にも触れさせたくない。そんな独占欲にも似た、醜く歪んだ感情が、胸の奥で静かに形を持ち始めていた。
「……理由、か…全てを奪われ、失った。だから私は、この穢れに満ちた世界のすべてを憎んでいる」
ニグルムは夜空を見上げた。月と雲、その向こうには何もないはずなのに、遠い昔の光景がぼんやりと浮かぶ。塔、冷たい石壁、鉄格子、薬の匂い、白い指、そして弱っていく母。その記憶に触れた瞬間、彼の赤い瞳は深く暗く沈んでいく。
「王族も貴族も、何も見なかった者も、幸せそうに生きる人間も──全てが憎い」
その言葉の奥に、ノエルは怒りよりもさらに深いものを感じ取っていた。悲しみ、喪失、絶望、そして二度と戻らない何か。
「……誰か…大切な人、奪われたのか?」
ノエルが小さく問いかけると、ニグルムの瞳がわずかに揺れた。その一瞬の反応だけで、ノエルはそれ以上踏み込むのをやめる。今はまだ聞くべきではないと、本能的に感じ取ったのだ。
月明かりの下、出会ってまだ一日の従兄弟同士。世界を守ろうとする少年と、世界を滅ぼそうとする青年は、夜の屋根の上で静かに向き合っていた。
☆
宿場町テルムの朝は、まだ空が白み始めたばかりの時間帯からすでに動き出している。
夜明けを告げる鐘が鳴るよりも早く、馬小屋では落ち着きのない馬たちが鼻を鳴らし、蹄で床を叩く音が響いていた。通りに目を向ければ、商人たちが慣れた手つきで荷車へ商品を積み込み、今日一日の商売に備えて忙しなく動き回っている。
跳ね馬亭の食堂もまた例外ではなく、焼きたてのパンの香ばしい匂いと、香草をふんだんに使った温かなスープの香りが空間いっぱいに広がっていた。王都へ向かう旅人たちは、時間に追われるように席へ着き、急ぎ足で朝食を口へ運んでいる。
そんな活気に満ちた空間の中で、ひとつだけ異質な空気を纏った卓があった。
ノエルたちの席である。
周囲の喧騒とは対照的に、その卓だけが妙に静まり返っていた。
「…………」
「…………」
ノエルは手元のパンを無意識に千切りながら、向かい側に座る青年へ視線を向ける。
昨日までノクスと名乗っていた青年──ニグルムは、まるで何事もなかったかのように、静かに薄い茶を口へ運んでいた。
(…金糸雀挽歌の首領で、世界の滅亡を企む男)
昨夜聞かされた事実は、朝になっても夢へと変わることはなく、現実として重くのしかかっている。
「…………」
「…………」
『空気が重い』
沈黙を破ったのは、ノエルの肩に座るソルだった。小さな手で蜂蜜を塗ったパンを抱えながら、淡々とした口調で言う。
『パンまで重く感じる』
ルナも同じようにパンを見下ろしながら続けた。
「パンの重さは変わってないだろ」
『精神的重量』
『ノエルの視線が原因』
「俺のせいかよ」
『ずっと見ている』
『穴が開きそう』
そのやり取りを聞いていたのか、ニグルムが静かに茶器を卓へ置いた。
「言いたいことがあるなら言え」
「ある」
「なら言え」
「でも…朝から世界滅亡の話をするのもどうかと思って」
「夜中なら良かったのか?」
「良くなかったから寝不足なんだよ!」
ノエルは思わず声を張り上げてしまった。その声に、近くの卓で食事をしていた旅人が驚いて振り返る。ノエルは慌てて口元を押さえ、声を落とした。
「お前のせいで、ほとんど眠れなかった」
「寝台では目を閉じていた」
「眠ったふりだよ!」
「知っていた」
「知ってたのかよ!」
『狸寝入りは下手』
『寝息が不自然だった』
「お前たちまで気づいてたなら、もっと早く教えてくれ!」
『教えた』
『鼓動がうるさいと』
「それは助言じゃなくて悪口だろ!」
その時、厨房の奥から宿の主人が顔を出した。騒ぎに気づいたのだろう。
「朝から元気だな。喧嘩なら外でやれよ」
「喧嘩じゃありません!」
『家族会議』
『世界の命運について』
「余計なことを言うな!」
主人は一瞬だけ動きを止め、眉をひそめる。
「世界の命運?」
「今日、どの菓子を買うかという重要な話だ」
ニグルムが何事もないように答えた。
『世界より重要』
『選択を誤れば後悔する』
「二人とも話を合わせるな!」
主人は怪訝そうな表情を浮かべたものの、忙しさに追われているのか、それ以上は追及せず厨房へ戻っていった。
ノエルは深く息を吐き、肩の力を抜く。
「誤魔化すの上手いな」
「首領だからな」
「そこを誇るなよ」
ニグルムは表情を変えないまま、パンを一口かじった。昨日までほとんど食事を取ろうとしなかった男が、今日は最低限ながらも自分から口へ運んでいる。
ノエルはそれを見て、少しだけ安堵する。もっとも、世界を滅ぼそうとしている男の食生活を気にしている場合なのかという疑問は残るが。
ニグルムの赤い瞳が、真っ直ぐにノエルを射抜く。
「一応忠告しておく。学院へ潜入した者を探そうとするな、関わらない方が安全だ」
『する』
『無謀に近づく』
「話を聞くだけかもしれないだろ」
「正体が露見した相手へ、お前は『どうして悪いことをするんだ』と正面から尋ねそうだな」
「そんな子どもみたいな聞き方はしない!」
『似たようなことは言う』
『夜にも似たようなこと言った』
「昨日は必要だったんだよ!」
ニグルムは小さく息を吐いた。
「王都までは同行する」
「学院の中にも来るのか?」
「行かない」
「潜入者が誰かは教えてくれない?」
「教えない」
「どうしてだよ」
「組織の情報を敵へ渡す首領がいると思うか?」
「俺を敵だと思ってるのか?」
「敵になど思ってない。言葉の綾だ」
「そっか……」
ノエルの言葉が途中で止まる。昨夜からずっと、その矛盾に答えを出せずにいた。
(ニグルムは世界を滅ぼそうとしているし、学院へ仲間を潜入させている…危険人物だ)
放っておけば、大切な人たちが危険に晒されるかもしれない。
それでも、目の前の男をただの世界を滅ぼす敵として割り切ることができなかった。
少女を救った姿、子守唄を聞いた時の表情、カナリアの話をする時の苦しげな顔。それらが、ノエルの中で消えずに残っている。
「敵だけど、敵だけじゃない」
ノエルは慎重に言葉を選びながら口にした。
「意味が分からない」
「俺も上手く説明できない」
『ノエルは語彙が少ない』
『歌なら表現できるかもしれない』
「朝の食堂で歌い始めたら、もっと変な奴だろ!」
『元から変』
『だから問題ない』
「問題ある!」
ニグルムは額へ指を当て、わずかに眉を寄せた。
「君たちと話していると、重要な話が進まない」
『ニグルムも参加している』
『責任転嫁』
「二人は少し黙っててくれ」
『菓子をくれたら黙る』
『対価が必要』
「今、朝食を食べてるだろ!」
ノエルは蜂蜜の瓶を二人の前へ押し出した。
ソルとルナは満足そうにパンへ蜂蜜を追加し、ようやく静かになる。
「甘やかしすぎだ」
「うるさくなるよりいいだろ」
『聞こえている』
『後で抗議する』
「黙るって言ったばかりだろ!」
ノエルは肩を落とし深く息を吐くと、改めてニグルムへ向き直る。
「俺は、お前がしようとしてることを止めたい」
「昨日聞いた」
「でも、それだけじゃない」
「何だ」
「お前も救いたい」
その言葉に、ニグルムの手が止まった。
茶器の中で、薄茶色の水面がわずかに揺れる。
「今、何と言った」
「お前を救いたい」
「聞き間違いではないらしいな」
「何でそんな嫌そうな顔をするんだよ」
「理解できないからだ」
ニグルムは茶器を置き、椅子の背へ体を預けた。
「誰から私を救うつもりだ」
「分からない」
「世界を滅ぼそうとしているのは私自身だ」
「それも分かってる」
「ならば、救うべき相手ではない」
「それを決めるのはお前じゃないだろ」
「救われる側の意思を無視するつもりか?」
「救われたくないって言う奴を、無理やり引っ張る時も必要だ」
「傲慢だな」
「お前にだけは言われたくない」
『世界を滅ぼす首領』
『従兄弟を救う召喚士』
ルナが蜂蜜まみれのパンを持ったまま、二人を交互に見比べる。
『どちらも規模が大きい』
『朝食には重い会話』
「だから最初に言っただろ!」
ニグルムはしばらく沈黙した。やがて、目を伏せたまま静かに問いかける。
「私の何を救う」
「お前が世界を憎むようになった理由」
「知らないくせに」
「知らないから知りたい」
ノエルは卓の下で拳を握りしめる。
「俺は、お前がどうして世界を憎むのか、何も知らない。お前が誰かを傷つけたなら、その責任まで消せるとは思ってない。…罪をなかったことにするのが救うことじゃないだろ」
「では、何だ」
「もう誰も傷つけなくていいようにすること」
「綺麗事だ」
「そうかもしれない」
「私が望まなくても?」
「最後に決めるのはお前だ。でも、俺は諦めない」
「なぜ」
ニグルムの声が低くなる。
「出会ってまだ二日しか経っていない男へ、なぜそこまでする」
「従兄弟で家族だから」
「…昨夜も言っていたな」
「少女を助けたお前を見たから」
ノエルは迷いなく答えた。
「それに、子守唄を聞いた時のお前の顔を見てたら…泣きそうだった」
「泣いていない」
『泣きそうだった』
『かなり』
「二人とも昨日も言ってたな」
ニグルムの眉間にわずかな皺が寄る。
「人の顔を勝手に分析するな」
『正確』
『的確で完璧な答え』
「自分で褒めるなよ」
ノエルは小さく笑ったが、すぐに真剣な表情へ戻る。
「お前の中に、まだ大切なものが残ってるなら、全部壊れる前に止めたい」
「お前の優しさは、いずれお前自身を殺す」
ニグルムの赤い瞳が鋭く光る。
「救おうと差し伸べた手を掴み、奈落へ引きずり込む者はいる。善意を利用し、骨まで喰らう者もいる」
「お前も?」
「ああ」
迷いのない返答だった。
「私は、お前の優しさを利用するかもしれない」
「じゃあ、利用されないように強くなる」
「簡単に言うな」
「そのために学院へ行くんだ」
「力だけでは足りない」
「なら、心も鍛える」
「心は剣のようには鍛えられない」
「やってみないと分からないだろ」
ニグルムは長くノエルを見つめた。
その赤い瞳の奥で、苛立ちと困惑、そしてそれ以上に危うい感情が揺れている。
「本当に、母によく似ている」
「性格も?」
「ああ。忠告を聞かないところまで」
「叔母さんも頑固だったのか」
「自分の信じたものを、最後まで曲げなかった」
「良いところじゃないか」
「そのために死んだ」
その一言で、空気が一気に冷えた。
ノエルは言葉を失い、ニグルムは視線を卓へ落としたまま続ける。
「優しさが人を救うとは限らない。時には、善意そのものが死を招く」
「……それでも」
「それでも?」
「叔母さんの優しさで救われた人もいたはずだ」
ニグルムの指がわずかに震えた。
「お前も、その一人じゃないのか」
「私は救われていない」
「本当に?」
ノエルは問い返す。
「叔母さんの歌を今も覚えてる。優しかったって話してくれた。金糸雀を組織の名として残してる」
ニグルムの目が細くなる。
「偶然だ」
「嘘だな」
『ニグルムは嘘が下手』
『ノエルには見抜かれる』
「お前たち、どっちの味方だ」
『ノエル』
『いつでも』
「即答だな」
ニグルムは小さく溜息をついた。
「食事を終えろ。馬車に遅れる」
『あ、逃げた』
『首領が敗走』
「二人とも煽るな!」
ニグルムは何も言わずに立ち上がった。その背中からは、これ以上この話題を続けるつもりはないという強い意思が感じられる。それでも、彼はその場から立ち去ろうとはしなかった。
ノエルを置いて姿を消すこともなかった。
その事実だけで、今は十分だとノエルは思った。




