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☆0-11☆魔力の循環


 王都行きの乗合馬車は、まだ朝の空気がひんやりと残る時間帯、町の屋根を柔らかな朝日が照らし始める頃に、ゆっくりとテルムの門を出発した。

 御者が手綱を軽く鳴らすと、馬は慣れた様子で歩き出し、車輪が石畳を軋ませながら進んでいく。

 昨日と同じ御者だったが、乗客の顔ぶれはすっかり変わっている。馬車の中には、それぞれの事情を抱えた人々が静かに座っていた。

 薬草を詰めた籠を大事そうに抱えた老女は、時折中身を確認するように覗き込み、何かを呟いている。

 大きな盾を背負った若い冒険者は、座席に収まりきらない装備を気にしながらも、どこか余裕のある表情で周囲を見渡していた。

 王都へ商品を運ぶ商人は、膝の上に置いた荷物袋を何度も撫で、盗難を警戒している様子だ。

 そして、その中でひときわ目立つのが、窓側へ並んで座るノエルとニグルムだった。狭い長椅子の上で、肩が触れそうなほど近い距離に座る二人。ノエルはその距離感に違和感を覚え、少し身を引きながら隣を見上げる。


「どうして隣なんだ?」


 問いかけながら、ノエルはわずかに眉をひそめた。明らかに席は他にもあるのに、なぜわざわざここなのか理解できない。


「他が埋まっている」


 ニグルムは淡々と答える。その声音には一切の迷いがなく、当然のことを言っているかのようだった。


「向かい側に少し空いてるだろ」


 ノエルは向かいの席を指示す。確かに完全に埋まっているわけではない。


「盾がある」


 短く返された言葉に、ノエルは視線を向ける。向かい側では、冒険者の大盾が座席の半分ほどを占領しており、確かに座るには少々窮屈そうだった。


「詰めてもらえば座れそうだけど」


 ノエルはまだ納得がいかない様子で言うが、


「ここで問題ない」


 ニグルムはそれ以上話を広げる気はないらしく、あっさりと結論を出した。

 そのやり取りを、ノエルの肩に乗っていたソルとルナがじっと観察していた。二人は顔を見合わせると、同時に口を開く。


『ニグルムはノエルの隣が良い』

『顔に書いてある』


 淡々とした声で断言され、ノエルは思わず目を丸くする。


「書いていない」


 ニグルムは即座に否定するが、


『赤い瞳に書いてある』

『大きな文字』


 容赦なく追撃が入る。


「瞳に文字は書けないだろ!」


 ノエルは思わず声を上げた。周囲の乗客がちらりとこちらを見るが、すぐに興味を失ったように視線を戻す。ノエルは肩にいる二人を見上げ、ため息をつく。


「それに、俺の隣はソルとルナが狭そうだ」


『妾たちは頭へ移動する』

『場所を譲る』


 二人はあっさりと解決策を提示した。


「どうしてニグルムに協力するんだ?」


 ノエルが呆れたように問うと、


『監視しやすい』

『不審な動きをすれば髪を引く』


 極めて物騒な理由が返ってきた。


「私の髪を?」


 ニグルムがわずかに首を傾げる。


『『ノエルの髪』』


 即答だった。


「何で被害を受けるのが俺なんだよ!」


 ノエルの抗議が馬車の中に響く。

 そんなやり取りをしているうちに、馬車は町の門を抜け、石畳から土の街道へと移った。車輪が小石を踏みしめる音が変わり、車体が大きく揺れる。

 その衝撃で、ノエルの体がぐらりと傾いた瞬間、隣から伸びた腕が彼の腰を支える。


「危ない」


 低い声とともに、しっかりとした力で支えられる。


「ありがとう」


 ノエルは反射的に礼を言いかけたが、その直後、ソルとルナが無言でニグルムの手元を凝視していることに気づいた。


『接触』

『腰』


「転ばないように支えただけだ」


『長い』

『五秒を超えた』


 容赦ない指摘が続く。


「数えてたのか?」


 ノエルは呆れたように言う。ニグルムはゆっくりと手を離し、わずかに距離を取った。


「これでいいか」


『遅い』

『審査点を減点』


 厳しい評価が下される。


「何の点数だよ!」


 ノエルは思わず叫んだ。そのやり取りを見ていた向かいの冒険者が、楽しそうに笑い声を上げる。


「随分と賑やかな妖精だな」


『妖精王』

『敬意を要求する』


 ソルとルナは胸を張るようにして言った。


「すまんすまん。妖精王様か」


『菓子があれば許す』

『敬意は甘味で示すもの』


「王様の威厳が安すぎる!」


 冒険者は苦笑しながら荷物袋を探り、干した果物を少し取り出して差し出した。二人は嬉しそうにそれを受け取ると、満足げに頷きながらすぐにノエルの頭へ戻る。


『良い人間』

『盾も大きくて立派』


「菓子をくれた瞬間に評価が変わったな」


「単純で可愛いじゃないか」


 冒険者は楽しそうに笑った。


「可愛いだけならいいんですけど、口が悪いんですよ」


 ノエルは肩をすくめる。


『ノエルに似た』

『契約者の影響』


「俺はこんなに容赦なくない!」


 ノエルが抗議すると、馬車の中に小さな笑いが広がる。和やかな空気が流れる中で、ただ一人、ニグルムだけが静かに目を細めていた。その視線には、わずかだが分かりやすい不機嫌さが滲んでいて、ノエルはその様子に気づき、首を傾げる。


「ニグルム?」


 呼びかけると、ニグルムはゆっくりと視線を向けた。


「何だ」


「顔が怖いぞ」


「元からだ」


『嫉妬』

『知らない男と話したから』


「違う」


『怪しい』

『審査点をさらに減点』


 容赦ない評価が続く。


「私の評価を下げて何になる」


 ニグルムは淡々と問い返す。


『ノエルへ報告する』

『既に見ているけど念押しする』


「俺を巻き込むな!」


 ノエルの叫びが、再び馬車の中に響いた。

 テルムを出発して一刻ほどで町の気配は消え、石畳は土の街道へと変わった。馬車は乾いた音を立てながら進み、両脇には風に揺れる草原がどこまでも広がっている。遠くには低い丘が連なり、空は雲ひとつない青に染まっていた。穏やかな日差しが車内へ差し込み、揺れに合わせて柔らかな光が揺れる。その心地よさに、昨夜ほとんど眠れなかったノエルの意識は、ゆっくりと沈みかけていた。


「眠い」


 座席に背を預けながら、ぼんやりと呟くノエル。その頭上では、ソルが小さな手で干し果物をつまみ、無表情のまま口へ運んでいた。


『寝ればよい』


 淡々とした声で言いながら、ソルはノエルを見下ろす。隣ではルナも同じように頷き、静かに続けた。


『妾たちが見張る』


 その言葉に、ノエルは半分閉じかけていた目を開き、じとりとした視線を二人へ向ける。


「昨日、見張ってなかっただろ」


 疑いのこもった声に対し、二人はまったく動じる様子もなく、平然と返した。


『目は閉じていたけど聞いていた』

『動かなかっただけ』


「それは見張りじゃなくて寝たふりだろ」


 抗議するように言うと、ソルとルナはわずかに顔を傾け、同時に言葉を重ねた。


『ノエルと同じ』

『契約者の影響』


「何でも俺のせいにするな!」


 声を荒げるが、二人はどこ吹く風といった様子で、再び干し果物へ意識を戻していた。

 軽口を交わしながらも、ノエルの胸の奥にはわずかな迷いが残っていた。眠気は確かにある。しかし、隣には金糸雀挽歌の首領ニグルムが座っている。その存在が、完全に気を抜くことを許さなかった。


「寝ろ」


 短く、低い声が隣から落ちる。ノエルはちらりと横目でニグルムを見た。


「眠くない」


 即座に否定するが、その直後に小さく欠伸が漏れる。


「今、欠伸をした」


 ニグルムは淡々と指摘する。


「口の運動だ」


 苦し紛れの言い訳に、ソルとルナがすかさず反応した。


『苦しい言い訳』

『顎の準備運動』


 容赦のない追撃に、ノエルは顔をしかめる。


「お前たち、何でも拾うなよ…」


 やり取りを見ていたニグルムは、静かに外套を外し、それを丁寧に畳むと、ノエルと窓の間へ差し込んだ。揺れる馬車の中でも崩れないよう、位置を微調整する。


「寄り掛かればいい」


 その言葉に、ノエルは一瞬だけ動きを止める。


「お前に?」


 警戒を含んだ問いに、ニグルムはわずかに眉を動かした。


「外套にだ」


 即答だった。そのやり取りを見ていたソルとルナが、わずかに口元を緩める。


『本当は自分に寄り掛かってほしい』

『遠回しに伝えてる』


「違う」


 ノエルは二人を見上げ、呆れたように息を吐いた。


「二人ともからかいすぎだろ」


 結局、ノエルは観念したように外套へ身を預ける。柔らかな布が背中を支え、思った以上に心地よい。


「少しだけ寝る」


「ああ」


「勝手に触るなよ」


 警戒心を隠さない言葉に、ニグルムはわずかに首を傾げる。


「何のことだ」


「髪とか、頬とか」


 具体的に挙げると、ニグルムは淡々と返した。


「葉がついていれば取る」


「いや、馬車の中に葉はないだろ」


『ニグルムなら持ち込む』

『自作自演をする』


 疑いの目を向けられ、ニグルムはわずかに目を細めた。


「そこまで疑うのか」


 軽いやり取りの余韻が残る中、ノエルはゆっくりと目を閉じる。馬車の揺れと外套の柔らかさが、意識を深く沈めていこうとした直後だった。体内で何かが弾けるような感覚が走った。


「……っ?」


 突然の異変に、ノエルの身体が強張る。胸の奥から熱が広がり、呼吸が乱れる。


「何だ、これ」


 戸惑いの声が漏れると同時に、ソルとルナの姿がわずかに揺らいだ。


『ノエル?』

『供給が乱れている』


 普段は安定している魔力の流れが、明らかに異常をきたしている。


『魔力が来ない』

『急に多くなったり、途切れたりする』


 二人の輪郭が不安定に揺れ、光がちらつく。


「二人とも!」


 ノエルは慌てて手を伸ばすが、指先が震えてうまく力が入らない。


『力が抜ける』

『ノエルの魔力が荒れている』


 状況は悪化する一方だった。


「どうすればいい!」


 焦りが募るほど、体内の魔力は暴れ出す。抑えようとすればするほど、逆に押し出されるように溢れ出し、淡い光がノエルの身体から漏れ始めた。


「坊主、大丈夫か?」


 御者席から声が飛ぶ。


「魔力酔いか?」


 別の声も重なるが、ノエルは首を振ることしかできない。


「分からない……!」


 呼吸が浅くなり、視界が揺れる。


『押し出しすぎ』

『痛い』


 ソルとルナの声が弱々しくなる。


「ごめん!」


 謝ることしかできない自分に、さらに焦りが募る。その混乱の中で、ニグルムの声が静かに響いた。


「ノエル。私を見ろ」


 低く、落ち着いた声だった。


「呼吸を整えろ」


 命令ではなく、導くような声音。


「でも、二人が!!」


 ノエルは必死に言葉を返すが、ニグルムは遮るように続ける。


「焦れば悪化する」


「魔力が止められない!こんなこと初めてで…!」


「止めるな。押し出すことも考えるな」


「じゃあ、どうすれば」


「自分の内側へ境界を作れ」


「境界?」


 聞き慣れない言葉に、ノエルは眉を寄せる。


「目を閉じろ」


「この状態で?」


 不安が滲む問いに、ニグルムは静かに言い切った。


「私を信じろ」


 その一言に、ノエルは一瞬だけ迷い、そして目を閉じる。


「自分の中に、器を想像しろ」


「器って、どんな?」


「何でもいい。壺でも湖でも皿でも構わない。胸から腹へ、背へ、肩へ、腕を通り、また胸へ戻すことを繰り返し、外へ出そうとするな。お前の魔力はお前のものだ。形を与えろ」


「形……」


 ぼんやりとしたイメージが、少しずつ輪郭を持ち始める。


「魔力循環の円を描け」


「できない」


「できる」


「簡単に言うなよ!」


 思わず声を荒げるが、ニグルムは動じない。


「話す余裕があるなら平気だ」


 冷静な指摘だった。

 そのやり取りに、ソルとルナがかすかに反応する。


『ノエルは常に喋る』

『瀕死でも喋りそう』


「はぁ…二人とも弱ってるのに毒舌は元気だな」


『ノエルが心配』

『だから話す』


 その言葉は、静かで、しかし確かな温かさを持っていた。胸の奥に、わずかな落ち着きが戻る。

 ノエルは深く息を吸い、再び意識を内側へ集中させた。張り詰めた空気が漂い、ノエルの周囲には、目には見えない圧力のようなものが渦巻いている。額には汗が滲み、呼吸は浅く、明らかに余裕のない状態だった。


「そうだ」


 ニグルムの低い声が静かに響く。その声音には焦りも揺らぎもなく、ただ冷静さだけがあった。


「押さえ込むな、流れを止めるな」


 ノエルは歯を食いしばりながら、必死に魔力の流れを維持しようとする。しかし制御しきれない力が外へ溢れ出そうとしていた。


「でも、外に漏れそうだ」


 焦りを滲ませた声が漏れる。魔力は形を持たないが、確かに“溢れる”という感覚があった。


「漏れた分だけ戻せ」


 ニグルムは淡々と指示を出す。その言葉は簡単だが、実際に行うには極めて難しい。


「難しい……」


 ノエルの声が震える。制御しようとするほど、流れは乱れていく。


「当然だ。本来は数月かける」


 あっさりと告げられた事実に、ノエルは思わず顔を上げた。


「今それを言うのか!」


 思わず叫ぶが、集中を切らすわけにはいかない。すぐに意識を魔力へ戻す。


『ノエルは無茶を要求されている』


 ソルが淡々と呟く。その小さな身体はノエルの肩の上で揺れていた。


『いつものこと』


 ルナも同じ調子で続ける。


「俺の人生、いつからそんなに無茶ばかりになったんだ!」


 半ば叫びながらも、ノエルは魔力の流れを必死に追い続ける。


「昨日、道端の男を拾った時からだろう」


 ニグルムがさらりと言い放つ。


「原因はお前じゃないか!」


 ノエルは即座に反論するが、魔力の制御は一瞬たりとも気を抜けない。


「集中しろ」


 短く鋭い指示が飛ぶ。


「お前が話しかけたんだろ!」


「反応するお前が悪い」


『理不尽』

『教師に向いていない』


「黙れ」


 ニグルムの一言で、二人は静かになった。

 その瞬間、空気が変わる。ニグルムの魔力がゆっくりとノエルの中へ流れ込んできた。冷たく、それでいて確かな導きを持つ力だった。


「俺の魔力を追え」


 低く確実な声が響く。


「お前の魔力?」


 ノエルは戸惑いながらも、その流れを感じ取ろうとする。


「余計なことを考えるな」


 ニグルムの声が思考を切り捨てるように響いた。ノエルは目を閉じる。感じることだけに集中する。

 流れを追う。乱れていた魔力が、少しずつ整っていく。暴れていた力が一本の川のようにまとまり始めた。呼吸が落ち着き、身体の奥で何かが噛み合ったような感覚があった。


「……できた?」


 恐る恐る目を開ける。


「まだだ」


「厳しいな!」


「境界を維持したまま、ソルとルナへ繋げろ」


「また外へ出すのか?」


「循環の一部へ迎え入れる」


 その言葉に一瞬理解が追いつかないが、ノエルはすぐに呼びかける。


「ソル、ルナ」


『ここにいる』

『離れていない』


 ノエルは二人の存在を感じ取りながら、魔力の流れを繋げていく。


「戻ってくる……」


 流したはずの魔力が再び自分へ戻ってくる感覚に驚く。


「それが契約による循環だ」


「今まで全部渡して終わりだと思ってた」


 ノエルは目を見開く。


「だから不安定だった」


「最初に教えてくれよ!」


「今まで出来ないことを知らなかった」


 ニグルムは平然と答えた。


『ノエルが悪い』

『説明不足』


「何で俺が悪いんだよ!」


 ノエルは叫びながらも流れを維持し続ける。

 やがて魔力は完全に安定した。光が柔らかく広がり、ソルとルナの姿がはっきりと現れる。


『温かい』

『いつもより滑らか』


「もう少し流せるか?」


「やってみる」


 ニグルムの問いにノエルは頷く。


「無理に増やすな」


 釘を刺されながらも、ノエルは慎重に魔力を強めていく。するとソルとルナの姿がわずかに大きくなった。


「大きくなった!」


『少しだけ』

『本来の姿には程遠い』


「すごい……!」


 思わず立ち上がろうとした瞬間、頭を何かにぶつけた。


「痛っ!」


『集中が切れた』

『ノエルは馬鹿』


「成功直後に言うことか!」


 ノエルが抗議したその時、光がふっと消えた。魔力の流れが途切れたのだ。


「魔力の操作、初めて上手く行った!」


『四秒だけ。でも成功には変わりはない』

『魔力操作が苦手なノエルにしては凄いこと。とても偉い』


「二人とも……!」


『ご褒美が必要』

『王都で菓子を要求する』


「感動を返せ!」


 ノエルのツッコミに、小さな笑いが広がった。張り詰めていた空気がわずかに和らぐ。

 ノエルは息を整えながらニグルムへ視線を向ける。


「ニグルム、ありがとう」


「ああ」


「もっと嬉しそうにしてくれてもいいだろ」


「なぜ俺が喜ぶ必要がある?」


「俺の魔力の操作が上手くいったから!」


 少し誇らしげに言う。


『記念日』

『おめでたい』


「大げさだ」


 ニグルムは一蹴するが、それでもノエルは笑っていた。


「もう一回やってもいいか?」


「少し寝た方が良い。元々魔力が暴走したのは寝不足やストレスが原因だ。それに慣れない魔力循環に疲労が蓄積されたはずだ」


「……いや、寝不足とストレスの原因は主にお前のせいなんだけど……でも、また魔力の暴走とか嫌だし、素直に寝るよ」


 ノエルは渋々頷く。そのまま後ろへ倒れ込むようにして外套へ寄り掛かる。身体の奥からじわじわと疲労が広がっていくのを感じた。

 少し息を整えた後、ノエルはふと疑問を口にする。


「なあ、今の方法って一般的なのか?」


「基礎だ」


「村では聞いたことなかった」


「学院へ行けば習う…多分」


 曖昧な答えが返ってきた。ノエルは腕を組みながら、目の前に立つニグルムをじっと見つめる。


「お前、実はすごく偉い家の出身だったりする?」


 軽い調子で投げかけた問いだったが、その視線にはどこか探るような色が混じっている。ニグルムはわずかに眉を動かしただけで、表情を変えずに返した。


「なぜそう思う」


 その声は淡々としていて、感情の起伏を感じさせない。ノエルは肩をすくめながら、隣に浮かぶ小さな存在たちへ視線を向けた。


『顔が良い』

『偉そう』


 あまりにも雑な理由に、ノエルは思わず顔をしかめる。


「根拠が酷いな!」


 ツッコミを入れながらも、どこか納得してしまいそうになる自分がいるのが悔しい。ノエルは再びニグルムへ視線を戻した。


「違うのか?」


 問いかけに対し、ニグルムはすぐには答えなかった。代わりに、ゆっくりと視線を横へ流し、窓の外へ目を向ける。外には静かな景色が広がっているだけだ。

 

その仕草を見て、ノエルはすぐに反応した。


「また窓を見た」


 わざとらしく指摘すると、ソルとルナが同時に頷く。


『『図星』』


「違う」


 簡潔な否定。しかし、その言葉にはどこか説得力が足りない。ノエルはさらに追及しようと口を開きかけたが、その前にニグルムが遮るように放つ。


「眠れ」


「話を逸らした!」


 抗議の声を上げるが、ニグルムは気にした様子もなく、手を伸ばしてノエルの額へ軽く触れた。ひやりとした感触が伝わる。


「休め。命令だ」


 低く、しかし有無を言わせない声音だった。

 ノエルは一瞬だけ言葉を失い、それから眉をひそめる。


「…従兄弟として言っている」


 続けられた一言に、ノエルの表情がわずかに揺れた。


「ずるいな」


 小さく呟く。強く拒めない理由を、相手は分かっていて使っている。その様子を見て、ソルとルナが淡々と告げる。


『ノエルは家族に弱い』


 事実を突きつけるような声音だった。

 ノエルは肩を落とし、観念したように息を吐く。


「分かったよ。少しだけ寝る」


 渋々といった様子で了承する。だが、完全に警戒を解いたわけではない。ノエルはじっとニグルムを見上げ、念を押すように言った。


「……勝手に触るなよ」


 その言葉には、これまでの経験からくる不信感が滲んでいる。ニグルムはわずかに目を細め、短く答えた。


「善処する」


「約束しろ!」


 思わず声を荒げるノエル。その必死さに、室内の空気がわずかに揺れた。



            ☆



 馬車の揺れが一定のリズムを刻む中、ノエルの呼吸がゆっくりと整っていく。先ほどまでの緊張が嘘のように抜け落ち、身体の力が完全に抜けていた。

 ノエルの呼吸が規則正しくなる。

 木製の車輪が石畳を転がる音が、単調に響く。時折、馬の蹄が地面を叩く乾いた音が混ざり、車内には穏やかな振動が伝わっていた。

 馬車の中には車輪の音と、乗客たちの小さな話し声が響いていた。

 その中で、ニグルムは周囲の雑音など気にも留めず、眠るノエルを見下ろしている。


 つい先ほどまで、必死に魔力を制御し、騒がしく動いていた少年の顔は、今はすっかり緩んでいる。警戒も緊張もなく、ただ無防備な寝顔だった。

 額にかかるダークブラウンの髪が、揺れに合わせてわずかに揺れる。その隙間から覗く肌はまだ幼く、年相応のあどけなさを残していた。

 ニグルムの視線は、外見だけでなく、その内側へも向けられていた。ノエルの体内で流れる魔力は、先ほどの訓練の成果を示すように、整えられた魔力がゆっくり乱れなく巡っている。


「一度で形にしたか」


 誰にも聞こえないほど小さな声で、ニグルムは呟いた。その声音には、わずかな驚きと、確かな評価が混じっている。普通なら、内側の境界を認識するだけでも数週間を要する。魔力循環を安定させるには、さらに長い時間が必要だ。

 ましてや、二体の召喚獣を同時に循環へ組み込み、一時的とはいえ姿を成長させるなど、初回で成功する者はほとんどいない。その常識を、ノエルはあっさりと踏み越えた。偶然ではない。確かな資質と、異常な適応力の結果だった。

 その時、ノエルの髪の中がわずかに動いた。金色の小さな影が、そっと顔を出す。


『ノエルは優秀』


 ソルが髪の中から顔を出した。その反対側から、同じように小さな顔が覗く。ルナもまた、静かにノエルを見守っていた。


『もっと褒めてよい』


 ニグルムは視線だけを動かし、二人を見下ろす。眠っていると思っていたが、どうやら違ったらしい。


「起きていたのか」


 問いかけは淡々としているが、わずかに興味が混じっていた。


『ノエルが寝るまで見守っていた』

『妾たちは保護者』


 ルナも続けて言った。その声音には誇らしさすらあり、ニグルムはわずかに眉を動かす。


「契約者ではないのか」


 その言葉に、二人は一瞬だけ顔を見合わせた。


『両方』

『ニグルムは不審者』


 即座に返された評価に、ニグルムはわずかに目を細めた。


「従兄弟だ」


『不審な従兄弟』

『さらに危険』


 ニグルムは僅かに眉を寄せたが、その反応を見ても、二人はまったく気にする様子がない。


「声を落とせ。ノエルが起きる」


『ニグルムも話している』

『自分だけ棚に上げるな』


 ソルとルナの言葉に、ニグルムは小さく息を吐いた。


「お前たちは、本当に口が減らないな」


 呆れたような声音だったが、完全に拒絶しているわけではない。


『ノエルが好きだから』

『ノエルを困らせる者は警戒する』


 その言葉には、はっきりとした意思が込められていた。


「私は困らせているか?」


『非常に』

『世界を滅ぼすと言った』


「…それは否定できない」


 あっさりと認める。その態度に、ソルとルナはニグルムをじっと視線を向けた。

ソルとルナの普段の無表情は変わらないが、小さな体から漂う気配は鋭い。ただの軽口ではない。明確な警戒と意思がそこにあった。


『ノエルはお前を救いたいと言った』

『お前はどうする?』


 ソルとルナが問いに、ニグルムは一瞬だけ視線を逸らし、だがすぐに視線を戻した。


「どうもしない」


『嘘』

『嬉しかった』


「黙れ」


『顔に書いてある』

『赤い瞳に大きな文字』


 ニグルムはわずかに顔をしかめた。


「先ほども聞いた」


『ノエルを傷つけたら許さない』

『今の妾たちは弱いが、それでも戦う』


 その言葉には、揺るぎない覚悟があった。


「知っている」


 ニグルムは静かに答え、そのまま視線をノエルへ戻した。穏やかな寝顔。何も知らずに眠る少年。その存在が、妙に重く感じられた。


「私も、傷つけるつもりはない」


 ぽつりと呟く。


『お前自身がノエルの傷になる』

『ノエルはもう苦しんでいる』


 その指摘に、ニグルムは答えなかった。言葉を返す代わりに、ゆっくりと手を伸ばす。ノエルの頬へ触れようとしたその瞬間、ノエルの頬へ触れかけた手を、途中で止める。

 指先がわずかに震えた。少し前なら、迷わず触れていた。だが今は、ノエルが眠る前に告げた言葉が残っている。


 “勝手に触るな”幼い拒絶とも取れる一言。

 それでも、無視すればノエルの信頼を失う気がした。ニグルムはゆっくりと手を引く。


「面倒だな」


 小さく呟いた。


『ニグルムが?』

『その通り』


「お前たちのことだ」


 ニグルムは淡々と返し、そのまま完全に手を引くと膝の上へ戻す。


「眠っていろ」


『監視する』

『交代で』


「…好きにしろ」


 ニグルムはそれ以上何も言わなかった。

 ソルとルナは髪の中へ戻っていき、再び静寂が戻る。

 ニグルムはゆっくりと視線を窓の外へ向けた。広がる草原、遠くまで続く緑の海。その上空に、わずかな違和感があった。


 草原の遥か上空。雲の影に紛れるように、鳥が飛んでいる。…普通の鳥ではない。

 ニグルムの赤い瞳が僅かに冷える。

 オウルアイの使い魔、距離を取っているつもりだろうが、最初から気づいていた。


「懲りない女だ」


 低く呟く。影を飛ばして撃ち落とすことはできる。だが、ノエルの前で余計な騒ぎを起こすべきではない。それに、今の訓練を見られたところで、知られた情報は限られている。


 ニグルムはそう判断し、使い魔を放置した。

 




            ☆



街道から遠く離れた丘陵地帯は、風に削られた土と乾いた草が広がる、ひどく静かな場所だった。人の気配はまったくなく、耳に届くのはただ空を渡る風の音だけである。

 その荒れた風景の中に、ひときわ目立つ枯れた大樹が立っていた。葉はすべて失われ、幹には深いひびが刻まれている。その姿は、長い年月を耐え抜いてきたことを静かに物語っていた。


 その枝へ、一羽の黒い梟が音もなく降り立つ。


 羽ばたきの音すらほとんど立てず、影のように枝へ止まるその姿は、自然の生き物というよりも、どこか異質な存在を思わせた。

 桃色の瞳が、不気味な光を帯びている。その視線は、ただ周囲を見ているのではない。何かを探り、何かを測るような、明確な意思を宿していた。


 周囲に人影はない。


 それでも梟は警戒を解かず、首をゆっくりと巡らせ、空気の流れすら観察するように静止する。


 やがて、梟は首を真横へ傾け、嘴を開いた。


《オウルアイ様》


 その声は通常の鳴き声とは異なり、空気を震わせることも風へ溶けることもない。細い魔力の糸を通じて、遠く離れた場所へ直接送り届けられる術式による通信だった。

 テルムから遠く離れた場所。外界の光がほとんど届かない薄暗い部屋の中で、一人の少女が鏡の前に座っていた。部屋には最低限の家具しかなく、整然とした空間が広がっている。机の上にはいくつかの薬瓶と書物が並び、壁際には魔術式の刻まれた紙が貼られている。

 鮮やかなピンク色の長い髪が肩から背へと流れ、桃色の瞳が鏡に映る。細い銀縁の眼鏡をかけ、学院の制服を身につけたその姿は、どこにでもいる気弱な十六歳ほどの少女にしか見えない。


 しかし、その眼差しだけは明らかに異質だった。


 長い年月を生き、人の心が壊れる瞬間を幾度も見てきた魔術師の目。感情を読み取り、操り、壊してきた者だけが持つ、冷静で底の見えない視線である。


「聞こえていますよ」


 オウルアイは鏡に映る自分の顔を眺めながら、静かに答えた。声にはわずかな揺らぎもなく、淡々とした響きが部屋に広がる。


「報告なさい」


 その言葉と同時に、鏡の表面がわずかに波打つ。

 梟の見ている景色が、水面に映る映像のように浮かび上がり、遠ざかっていく乗合馬車と砂煙を上げながら街道を進むその姿は、すでに小さくなりつつある。

 ノエルは無防備に頭を揺らしながら、すでに深い眠りに落ちていて、その隣に座るニグルムは、静かに目を閉じてはいるが、その存在感は周囲の空気を支配しているかのようだった。


《召喚士ノエル・メレディスの魔力が一時的に暴走しました》


 梟の報告は簡潔だったが、その内容は決して軽いものではない。


「原因は?」


 オウルアイは鏡から視線を外さずに問いかける。指先は机の上を軽くなぞりながら、思考を巡らせていた。


《断定できません。ストレスによる心労、感情の乱れ、睡眠不足、契約している二体への不安定な供給が重なったものと推測されます》


 淡々とした分析が返ってくる。


「それで?」


 短く促す声には、余計な説明を求めない冷たさがあった。


《ニグルム様が魔力循環を指導されました》


 その報告を聞いた瞬間、オウルアイの指がぴたりと止まる。


「魔力循環を?」


 わずかに声の調子が変わる。興味と警戒が混ざった響きだった。


《はい。内的境界の形成を含む訓練法です》


 少女の姿をした女は、ゆっくりと眼鏡を押し上げた。


 レンズの奥で、桃色の瞳が細くなる。


「ずいぶんと気前が良いこと」


 その言葉には、皮肉と驚きが混ざっていた。内的境界とは、自分と外界を精神的に分け、魔力や意識への干渉を防ぐ高度な技術である。単なる魔力操作ではなく、精神そのものを制御する術であり、習得には長い年月と厳しい訓練が必要とされる。


 一般の魔術師が容易に学べるものではない。王族や宮廷魔術師、国家機密に触れる上級術者など、精神干渉への対策を必要とする限られた者だけが幼少期から身につける訓練法だった。

 ニグルムがそれを知っていること自体は不思議ではない。彼がどの血を引くか、オウルアイはよく知っている。問題は、その技術をノエルへ教えたことだった。


「成功したのですか」


 オウルアイは再び鏡へ視線を戻し、静かに問いかける。


《はい》


「時間は?」


《一度の指導で、魔力循環を安定。二体の召喚獣を四秒間ほど成長させました》


 その報告に、オウルアイの桃色の瞳が細くなる。


「四秒」


 その数字を反芻するように呟く。


《また、精神境界の形成も確認しました》


 続く報告に、空気がわずかに張り詰める。


「どの程度です」


《外部からの微弱な観察干渉を弾きました》


 その瞬間、オウルアイの笑みが消えた。


「私の使い魔であるアナタを?」


《完全ではありません。しかし、昨夜まで可能だった感情の読み取りが、現在は困難です》


 鏡の中で、眠るノエルの横顔が映る。

 世界を滅ぼそうとする首領へ、救いたいと告げた愚かなほど優しい召喚士。


「…ニグルム様が、御自ら守り方を教えた」


 オウルアイは小さく笑った。その笑みには、理解できないものへの興味が滲んでいる。


「優しく愚かな彼を檻へ閉じ込めたいほど執着しているのに、同時に檻を壊す術まで与えるとは」


《理解できません》


 梟の声には、わずかな戸惑いが混じっていた。


「ニグルム様のことを理解するなど烏滸がましいですよ」


 オウルアイは机の上に置かれた小瓶を手に取る。中では、鮮やかな桃色の液体がゆらゆらと揺れていた。

 若返りと外見変化を維持する錬金薬。学院へ入るために必要な仮面である。


「ノエル・メレディス」


 その名を確かめるようにゆっくりと口にする。


「召喚士という称号だけでも興味深いと思っていましたが……」


 鏡へ映るノエルの姿を、桃色の瞳がじっと見つめる。観察するように、分析するように。


「精神防御能力の成長速度が想定以上、ね」


《監視を継続しますか》


 梟が問いかける。


「ええ。ただし、これまでより距離を取りなさい」


 オウルアイは即座に答えた。


《ニグルム様には既に気づかれております》


 警告のような言葉。


「当然でしょう」


 オウルアイは微笑む。その笑みには、危険を楽しむような色があった。


「ニグルム様にとって、彼はどのような存在なのか…とても興味深いです」


《危険です》


 梟の首が不安そうに揺れる。


「使い魔の一羽や二羽、壊されても構いません」


 冷淡な言葉だった。命を軽く扱うことに、何の躊躇もない。

 梟の首がわずかに震える。


「それよりも、彼の成長を見逃してはいけません」


 オウルアイは小瓶の栓を開け、桃色の薬を一口飲んだ。液体が喉を通ると同時に、鏡に映る鮮やかなピンク色の髪が、ベージュブラウンへと変わっていく。


「王立アストル魔法学院で会える日が、楽しみです」


 少女の姿で、魔術師が笑う。その笑みは無邪気にも見えるが、内側には計算と欲望が渦巻いている。


「ニグルム様が見つけた宝物が、どんな音で啼くのか」


 遠い街道では、何も知らないノエルを乗せた馬車が王都へ向かって進んでいる。車輪の音が一定のリズムで響き、朝の光がゆっくりと景色を照らしていく。

 その上空を、黒い梟が一定の距離を保ちながら追い続けていた。見えない糸で繋がれた監視の目が、静かに、確実に標的を追っていた。



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