☆0-12☆ 野営
昼前の穏やかな時間帯、馬車の揺れに身を任せながら、ノエルはゆっくりと目を覚ました。まぶたの裏に残る眠気を振り払うように何度か瞬きを繰り返し、ぼんやりとした意識を少しずつ現実へ引き戻していく。
乗合馬車は、なだらかな草原地帯を抜け、左右を深い森に挟まれた街道へと入っていた。窓の外には、どこまでも続く緑と、その奥に広がる濃い影が見える。頭上には青空が広がっているものの、背の高い木々が日差しを遮り、石混じりの道には薄暗い影が落ちていた。木漏れ日が揺れながら、断続的に馬車の中へ差し込んでいる。
車内では、規則正しい車輪の音に合わせて乗客たちの体が小さく揺れていた。荷物の擦れる音や、誰かの小さな咳払いが、静かな空間に自然と溶け込んでいる。
目が覚めたノエルは早速、教えてもらったばかりの魔力循環の特訓を始めていた。
「……三十二、三十三、三十四」
ノエルは窓際の座席で目を閉じ、背もたれに軽く体を預けながら、胸の奥を巡る魔力の流れを数え、呼吸を整え、意識を内側へ集中させる。
胸から腹へ、腹から背中へ、背中から肩へ。そして腕を通り、再び胸へ戻す。
今朝、ニグルムから教わったばかりの魔力循環は、まだぎこちなさは残るものの、確かに体の中を何かが巡っている感覚があった。
『三十五』
ノエルの頭の上で、ソルが当然のように代わりに数えた。小さな体を揺らしながら、指を一本折る。
『三十六』
ルナも続けて同じように指を折る。
「自分で数えてるから、二人は黙っててくれ」
ノエルは目を閉じたまま、わずかに眉をひそめて抗議する。
『三十七』
『三十八』
しかし二人は止まらない。淡々とした声が、ノエルの集中を乱していく。
「聞いてる?」
ノエルが片目を開けて頭上を見ると、二人は無表情のまま指を折っていた。その妙に真剣な様子が、かえって腹立たしい。
『ノエルは途中で数を忘れる』
『妾たちが補助する』
ソルとルナは当然のように言い切る。
「忘れてない。今、三十……いくつだっけ」
言いかけて、ノエルは言葉に詰まった。
『忘れた』
『妾たちの正しさが証明された』
「話しかけられたからだろ!」
ノエルが声を上げた瞬間、胸の奥で整えていた魔力の円がわずかに歪むのを感じ、慌てて目を閉じ、呼吸を整え直す。
「また乱れた」
『集中力不足』
『菓子を食べれば改善する』
「どうして二人の集中力まで菓子頼みなんだよ」
ノエルが呆れたように肩を落としたその時、向かい側に座っていた盾持ちの冒険者が腕を組んだまま豪快に笑った。
「さっきからずっと熱心だな、坊主」
低く響く声に、ノエルは顔を上げる。
「今朝が初めて魔力の循環が上手くできたので、感覚を忘れる前に訓練しようと思って!」
少し誇らしげに答えると、冒険者は感心したように頷いた。
「へえ。それで学院へ着く前から訓練か」
「入学してからの授業でも失敗したくないので」
ノエルは真面目な表情で言う。
『失敗したら村へ手紙送る』
『リーナに笑われる』
ソルとルナがすかさず横から口を挟む。
「笑わない! たぶん励ましてくれる!」
ノエルは慌てて否定するが、声には少し自信がない。
『その後、毎日鍛える』
『夜更かしして朝がさらに弱くなる』
二人は淡々と未来を予測する。
「それはありそうだから怖い!」
ノエルは思わず顔をしかめた。
妹リーナの姿が頭に浮かぶ。優しく笑いながらも容赦なく鍛錬を課してくる手紙が送られてくる未来が、容易に想像できた。
気合を入れ直すように、ノエルは背筋を伸ばし、再び呼吸を整える。
隣に座るニグルムは、そんなやり取りには特に反応せず、静かに窓の外へ視線を向けていた。森の奥を観察するように、じっと目を細めている。
「なあ」
ノエルは横目でニグルムを見ながら声をかける。
「何だ」
「俺、魔力の循環ちゃんとできてる?」
少し不安そうに尋ねると、ニグルムは視線を外さないまま答えた。
「先ほどよりは安定している」
「先ほどって、いつ?」
ノエルが首を傾げる。
「二十七回目に崩した時よりは出来ている」
「数えてたのかよ!」
『妾たちより細かい』
『ノエルをずっと見ていた』
ソルとルナが感心したように言う。
「監視されてるみたいで嫌なんだけど」
「実際に監視している」
「堂々と言うな!」
ノエルが即座にツッコむ。
ニグルムは視線を窓の外へ向けたまま、静かに続けた。
「魔力の流れが崩れれば、ソルとルナへの供給にも影響する。見ていなければ危険だ」
その言葉には、わずかながら真剣さが滲んでいる。
「そういう理由なら仕方ないけど」
ノエルは納得したように頷いた。
『表向きの理由』
『本当はノエルを見たいだけ』
しかしソルとルナが余計なことを言う。
「違う」
「否定が早いな」
ノエルがにやりと笑う。横目で見ると、ニグルムは何事もなかったように森を眺めている。しかし耳元の髪の隙間から見える肌が、ごくわずかに赤い気がした。
「照れてる?」
ノエルが顔を近づける。
「いない」
『照れている』
『貴重』
二人が淡々と追い打ちをかける。
「お前たちは少し黙れ」
『命令された』
『首領らしい』
「馬車の中で組織の話をするな!」
ノエルが慌てて声を落とした、その瞬間だった。馬車の下から、硬いものが砕けるような音が響いた。がきん、と金属が跳ねる鋭い音が響いた直後、車体が大きく右へ傾いた。
「うわっ!」
ノエルの体が浮き上がる。
「掴まれ!」
御者の怒鳴り声が外から飛び込んできた。
馬たちが驚いて嘶き、蹄の音が乱れる。座席から荷物が滑り落ち、乗客たちの体が一斉に傾いた。ノエルは咄嗟に窓枠へ手を伸ばしたが、指が届く前に体が宙へ浮いた。
「ノエル」
低い声と同時に、ニグルムの腕が腰へ回る。
次の瞬間には、ノエルはその胸元へ引き寄せられていた。馬車は大きく二度揺れ、ぎしりと軋む音を立てながら、道の端へ斜めに止まった。荷物袋が床へ落ち、干し果物がいくつか転がっていく。
数秒の静寂が訪れる。
「……止まった?」
ノエルはニグルムの胸元へ顔を押しつけたまま、小さく呟いた。
「ああ」
『接触』
ソルが床へ転がった干し果物の上に座りながら告げる。
『非常時なので保留』
ルナも別の干し果物を抱えながら言った。
「二人とも無事か!」
『妾たちは無事』
『食料も無事救助した』
二人は誇らしげに答える。
「拾っただけだろ!」
ノエルは立ち上がろうとしたが、腰へ回されたニグルムの腕が離れない。
「もう止まったぞ」
「確認している」
ニグルムは真面目な声で答えた。
「何を?」
「怪我がないか」
「ないよ」
「頭は打っていないか」
「打ってない」
「腕や足は…」
「だから全部平気だって!」
ノエルは少し強めに言った。
『長い』
『非常時を利用している』
二人がぼそりと呟く。
「利用していない」
ニグルムが即座に否定し、ようやく腕が離れた。ノエルは服の裾を整えながら、傾いた床を慎重に進む。他の乗客にも大きな怪我はないようだった。盾持ちの冒険者は老女を支え、商人は散らばった商品を必死に拾っている。
「俺の薬草が!」
商人が悲鳴を上げる。
『可哀想に…踏まれた』
『香りが強くなった』
ソルとルナが冷静に報告する。
「商品だぞ!」
商人の悲鳴が馬車内へ響く。
御者が外から扉を開けると、外の光が一気に差し込んできた。
「全員、怪我はないか!」
御者が声を張り上げる。
「こっちは大丈夫だ!」
冒険者が力強く答える。
「何があったんだ?」
「車輪の軸が割れた!予備の部品で直せるが、今日はもう日が暮れる。街道脇に旅人用に整備された野営場所があるからそこで夜を明かすことになりそうだ」
「ここで夜を明かすのか?」
ノエルが窓の外を見ると、森の切れ目に草を刈った小さな広場があり、中央には石で囲われた焚き火跡と、雨を避けるための簡素な屋根が見えた。
「王都へ着くのは遅れる?」
ノエルが少し心配そうに尋ねる。
「いや、今日中に車輪は直せるから、早朝に出発すれば昼前には到着できるよ」
御者は安心させるように言い、その言葉にノエルは胸を撫で下ろした。
『良かった』
『遅刻する理由が一つ減った』
「遅刻する前提なのか!」
ノエルは思わず声を張り上げ、両手を広げて抗議した。乗客たちは馬車の周囲に集まり、それぞれの荷物を手際よく下ろしていく。夕暮れが近づき、空は橙色に染まり始めていた。やがて全員が街道沿いに設けられた野営地へと移動し、今夜の休息の準備に取りかかる。広場の片側には小さな泉があり、澄んだ水面が静かに揺れていた。その周囲には石積みの低い塀が巡らされており、簡素ながらも整えられた空間が広がっている。
さらに、魔物除けの簡易結界も張られているらしく、塀の上には青白く淡い光を放つ魔石が等間隔に埋め込まれていた。その光は周囲をぼんやりと照らし、夜の訪れに備えているようだった。
御者と冒険者たちは、破損した車輪の状態を確認、修理するために馬車の方へ向かい、商人と老女は手際よく夕食の準備を始める。野営地にはそれぞれの役割に応じた動きが生まれ、穏やかな忙しさが漂っていた。
そんな中、ノエルも何か手伝おうと周囲を見回し、薪を拾うために森の方へ向かおうとする。しかし、その一歩を踏み出した瞬間、後ろから襟を掴まれて動きを止められた。
「どこへ行く」
低く落ち着いた声に振り返ると、そこにはニグルムが立っていた。
「薪拾い」
ノエルは当然のように答えるが、ニグルムの表情は変わらない。
「一人で森へ入るな」
短く、しかし強い口調で制止される。
「すぐ近くだから大丈夫!」
ノエルは軽く肩をすくめて言い返すが、ニグルムは首を横に振った。
「北の森で、瘴気に侵された魔物が出たばかりだ」
その言葉には、ただの注意ではない確かな警戒が含まれている。
「ここは北の森じゃないだろ」
「同じ異変が起きていない保証はない」
淡々とした言葉だが、その裏には確かな危機意識があった。
「じゃあ、一緒に来る?」
ノエルは半ば冗談のように言うが、ニグルムは即座に答える。
「そのつもりだ」
あまりにも迷いのない返答に、ノエルは一瞬言葉を失った。そのやり取りを見ていたソルとルナが、いつものように淡々と口を挟む。
『過保護』
『ノエルは迷子になる』
容赦のない評価に、ノエルは即座に反論する。
「迷子にはならない!」
しかし、二人はまったく動じない。
『幼い頃、村の裏山で迷った』
『三時間泣いた』
過去を容赦なく暴露され、ノエルは顔を赤くする。
「何で知ってるんだよ!」
思わず声を荒げると、ソルとルナは当然のように答えた。
『見ていた』
『上から』
あまりにもあっさりとした返答に、ノエルはさらに混乱する。
「助けてくれた記憶がないんだけど!」
抗議するように言うと、二人は淡々と続けた。
『フォーガスを呼んだ』
『直接助けるより早かった』
その言葉に、ノエルははっとする。
「そうだったのか……」
幼い頃、父が異様なほど早く自分を見つけてくれた理由。その真相を、ノエルは十年近く経って初めて知ることになった。
その様子を見ていたニグルムが、静かに問いかける。
「二人とも、契約するよりも前からノエルを見ていたのか」
ソルとルナは迷いなく答えた。
『産まれた時から』
『ずっと』
「産まれた時から?俺と契約したのは三年前だろ」
疑問をぶつけると、二人はあっさりと事実を告げる。
『契約前から村にいた』
『ノエルは知らなかった』
「どこに?」
ノエルが問い詰めると、返ってきた答えはあまりにも自由だった。
『屋根』
『窓の外』
「それ、見守ってたんじゃなくて覗いてただろ!」
『保護観察』
『健全』
「健全な妖精は寝室の窓から見ない!」
ノエルの抗議をよそに、ソルとルナは無表情のままふわりと浮かび上がり、そのままノエルの頭へと降り立った。
『幼いノエルは女の子みたいで可愛かった』
『今も十分女顔、可愛い』
さらりと告げられた言葉に、ノエルは顔をしかめる。
「格好いいって言え!」
そんなやり取りを見ながら、ニグルムが再び静かに口を開いた。
「ノエルの幼い頃は、どのような子どもだった」
興味を含んだ問いに、ソルとルナは即座に答える。
『泣き虫』
『木から降りられなくなった』
「それは五歳の時だ!」
ノエルは慌てて訂正するが、二人は止まらない。
『料理で鍋を爆発させた』
『七歳の切ない思い出』
「火加減を間違えただけだ!」
必死に弁解するノエルに、さらに追い打ちがかかる。
『幼少期のカナリアと同じ』
『台所への立ち入りを禁止された』
「叔母さんまで巻き込むな!」
ノエルの叫びに、ニグルムの口元がわずかに緩んだ。
「母の手料理は食べたことがなかったが…母からは料理は得意と聞いていた」
ぽつりと漏らされた言葉に、ソルとルナがすぐに反応する。
『カナリアは料理が下手だったけど、ノエルと同じく料理下手を認めなかった」
『血は争えない』
「俺は普通だ!」
ノエルは強く言い返すが、二人は容赦しない。
『鍋を爆発させる料理人は普通ではない』
『危険物製造者』
「今は薪を拾う話だっただろ!」
話題が完全に逸れていることに気づき、ノエルは頬を膨らませながら森の縁へと歩き出す。
その背中を見ながら、ニグルムは何も言わずに当然のように、その後ろをついていく。
森の中は、街道から数歩入っただけで空気が変わった。
踏みしめる土は柔らかく、湿り気を帯びている。鼻をくすぐるのは、雨を含んだような土の匂いだった。頭上では枝葉が重なり合い、風に揺れるたびにざわりと音を立てる。遠くでは鳥の鳴き声が響き、静けさの中にわずかな生命の気配を感じさせていた。
夕方の森の中は薄暗い。木々の影が深く落ち、地面には細い光が斑に差し込んでいるだけだった。
ノエルは足元に落ちている乾いた枝を拾い上げ、腕の中へと重ねていく。折れやすく、火付きの良さそうなものを選びながら、手際よく束を作っていった。
「これくらいで足りるだろう」
ニグルム軽く持ち上げて量を確かめながら言うと、すぐ隣に立つノエルが少し首を傾げる。
「一晩だぞ、まだ少ないんじゃないか?もう少し奥まで──」
そう言って一歩踏み出そうとした瞬間、ニグルムの声が鋭く割り込む。
「行くな」
ノエルは足を止め、振り返る。
「本当に過保護だな」
「お前に警戒心がないだけだ」
「俺だって剣は持ってる。魔物が出たら戦える」
ノエルは腰に差した剣の柄を軽く叩き、わざとらしく見せる。
「精神へ干渉する相手なら?」
ニグルムの問いに、ノエルは一瞬だけ言葉を詰まらせる。
「一度試してみるか」
あまりにも自然な流れで出てきた言葉に、ノエルは思わず瞬きをした。
「ここで?」
「ああ」
「薪拾いの途中なんだけど」
困惑したように言うノエルの肩の上で、ソルとルナが同時に口を開く。
『訓練』
『薪拾いより重要』
「二人とも、いつの間にニグルム側についたんだ?」
ノエルが呆れたように言うと、二人は淡々と答えた。
『ノエルを強くする側』
『報酬があれば協力する』
「また菓子か!」
思わず声を上げるノエルをよそに、ニグルムは周囲へ視線を巡らせる。
野営地からは十分に離れているが、声を張れば届く距離だ。訓練を行うには、ぎりぎり問題のない位置だった。
「精神防御は、平静な状態で境界を作れるだけでは意味がない」
静かに言いながら、ニグルムは足元に落ちていた枝を拾い、ノエルの抱えている薪の束へと加える。
「どういうことだ?」
「敵は、お前が落ち着いている時を選んでくれない」
その言葉には、経験に裏打ちされた重みがあった。
「恐怖、怒り、悲しみ、焦り。心が最も乱れた瞬間へ入り込む」
「その時でも境界を保てってことか」
「ああ」
ノエルは腕の中の薪を見下ろしながら、ゆっくりと頷く。
「どうやって練習する?」
「私が幻影を見せる」
その一言で、ノエルの表情が固まった。
「闇魔法で?」
「精神魔法だ。直接、心を壊すほどのものではない」
淡々とした説明に、ソルとルナがすかさず口を挟む。
『ほどではない』
『少しは壊す可能性ある』
「言い方が怖い!」
ノエルは思わず声を荒げる。
「危険なら私が止める」
「お前が見せる幻影なのに?」
「だから止められる」
理屈としては理解できる。だが、世界の滅亡を目論む敵の首領に、自分の精神を預けるという状況は、どう考えても正常ではない。
普通なら断るべきだろう。
ノエルがわずかに迷いを見せると、ニグルムの赤い瞳が細くなった。
「怖いなら、やめてもいい」
「誰が怖いって?」
「顔に書いてある」
ソルとルナが楽しそうに続ける。
『瞳に大きな文字』
『昨日の仕返し』
「二人とも真似しなくていい!」
ノエルはため息をつきながら、抱えていた薪を地面へ置いた。動きやすいように剣の位置を調整し、軽く肩を回す。
「やる」
「無理をする必要はない」
「学院に金糸雀挽歌の構成員が潜り込んでるんだろ」
「そうだ。…オウルアイは精神魔法が得意だからな。覚えといた方が良い」
「オウルアイ…精神魔法を使うのか」
昨夜見た梟の姿が脳裏に浮かぶ。
そして、今朝まで自分の感情を探っていたという使い魔の存在。学院に潜んでいるのが本人かどうかは分からない。だけど、いずれ対峙する可能性は高い。
「今のままじゃ、会った瞬間に操られるかもしれない」
「可能性は高い」
「正直だな!」
「安心させるために嘘を言っても意味がない」
「なら、やる」
ノエルは胸元へ手を伸ばし、小さなお守りに触れた。
「家族を守るためにも、俺が操られるわけにはいかない」
その言葉に、ニグルムは一瞬だけ視線を落とす。
深緑色の小袋。その中には、フォーガス、セキレイ、リーナの髪が収められている。
「分かった」
低く答え、ニグルムはノエルの正面へ立った。
「ソル、ルナ。お前たちは離れろ」
『嫌』
『ノエルのそばにいる』
「幻影へ巻き込まれる可能性がある」
『妾たちは精神生命体』
『簡単には惑わされない』
「ノエルの集中を乱す」
『ノエルを助ける』
『必要なら噛む』
「誰を?」
『ニグルム』
『迷わず』
「物理的な対策なんだな!」
思わずツッコミを入れるノエルに、ニグルムは小さく息を吐いた。
「好きにしろ。ただし、途中で手を出すな」
『ノエルが危険なら出す』
『命令は聞かない』
「私の命令ではない。ノエルの訓練のためだ」
二人は同時にノエルへ視線を向ける。
「本当に危なくなるまでは、見ててくれ」
『分かった』
『でも噛む準備はする』
「準備はしなくていい!」
ソルとルナは渋々といった様子でノエルの肩から離れ、近くの枝へと降り立った。
ニグルムは右手の手袋を外し、露わになった白い指先をゆっくりとノエルの額へ近づいていく。
ノエルは覚悟を決め、ゆっくりと目を閉じ、深く息を吸い込む。教えてもらった魔力の循環。胸から腹へ、腹から背へと意識を巡らせる。体内を流れる魔力を感じ取り、それを円のように循環させながら、自分の内側へ境界を築いていく。
「できた」
「まだ薄い」
「見えるのか?」
「ああ」
「便利だな」
「無駄口を叩くな」
次の瞬間、冷たい指先が額へ触れた。
ニグルムの魔力が、細い針のように意識の奥へと差し込んでくる。
「自分が見ているものを、無条件に信じるな」
「分かった」
「恐怖を否定する必要はない」
「怖くないと思い込むんじゃないのか?」
「恐怖は危険を知らせる感情だ。消せば判断を誤る」
ニグルムの声が、徐々に遠ざかっていく。
「怯えながら見ろ。動揺しながら考えろ。その感情が、自分のものか、外から与えられたものかを見極めろ」
「難しい注文だな」
「お前ならできる」
最後の言葉だけが、不思議なほど近く響いた。
そして次の瞬間、ノエルの足元から感覚が消えた。




