☆0-13☆星明かりの契約
「ノエル!」
聞き慣れた声に導かれるように、ノエルはゆっくりと目を開けた。そこに広がっていたのは森でも野営地でもなく、生まれ育ったルーベ村の風景だった。
夕焼けに染まる空、鍛冶場から漂う鉄と炭の匂い、家々から漏れる暖かな光──故郷の光景が、あまりにも現実的に再現されている。
「どうして……」
つい先ほどまでニグルムの訓練を受けていたはずのノエルは、これが幻影だと理解しながらも、その感触のリアルさに戸惑う。
「ノエル、逃げろ!」
父フォーガスの叫びとともに、鍛冶場の扉が砕け散り、彼が血を流して倒れ込む。その背後には、闇を纏った剣を持つニグルムが立っていた。
「父さん!」
駆け寄ろうとするノエルの足は、地面から伸びた影に絡め取られて動かない。
「離せ!」
「ノエル、来るな!」
フォーガスは傷ついた体で立ち上がり、必死に叫ぶ。
「お前は逃げろ!」
「父さんを置いていけるわけないだろ!」
「剣を抜く理由を、自分で決めろと言った!」
「だから今、助けるために抜いてる!」
ノエルは影を斬ろうとするが、刃はすり抜けるだけだった。その間にニグルムはフォーガスへ迫り、闇の剣を振り下ろす。
「やめろ!」
叫びも虚しく、血が飛び散り、父は動かなくなる。
「父さん!」
絶望が胸を締めつける中、家から母セキレイと妹リーナが飛び出してくる。
「あなた!」
「兄さん!」
「逃げろ!」
ノエルは必死に叫ぶが、セキレイはフォーガスへ駆け寄り、ニグルムの影に弾き飛ばされる。
「母さん!」
血に染まる姿を見て、ノエルはさらに叫ぶ。
「俺を狙え! 家族には手を出すな!」
しかしリーナもまた影に捕らえられる。
「兄さん!」
「来るな、リーナ!」
「でも、お父さんとお母さんが!」
「俺のところへ来るな!」
影がリーナの首に巻きつく。
「やめろおおっ!」
怒りと恐怖が爆発し、ノエルは影を引き千切ってニグルムへ斬りかかる。しかし剣は受け止められ、冷たい声が響く。
《遅い…力も足りない》
「黙れ!」
《お前が弱いから、家族は死ぬ》
「黙れ!」
《守ると言いながら、何一つ守れない》
「違う!」
《何が違う》
ニグルムは過去を突きつける。
《三年前も、村を守れなかった。父親に教わった剣も役に立たなかった。…今も同じだ》
「違う……」
《何も変わっていない》
「違う!」
押し返せない剣の向こうで、リーナが苦しげに手を伸ばす。
「兄……さん……」
「リーナ!」
「助けて……」
絶望の中、ノエルは力を求める。その時、遠くからソルとルナの声が届く。
『ノエル』
『考えて』
「考える……」
ニグルムが剣を押し込む。
《何を考えてる》
「これは……幻影だ」
《そう思いたいだけだ》
「違う」
ノエルは息を整え、崩れた心の境界を再構築する。
「父さんは…俺に逃げろなんて言わない!」
ニグルムの表情がわずかに揺れる。
《何?》
「父さんなら、一緒に戦う!それに母さんは、父さんを“あなた”なんて呼ばない!」
幻影のセキレイの瞳が濁る。
「リーナも…俺を“兄さん”って呼ばない!」
影に捕らえられたリーナの口元が歪む。
「違う。お前たちは、俺の家族じゃない!」
《姿も声も同じだ》
「似てるだけだ」
《血も、匂いも、記憶も再現している》
「それでも違う!俺の家族を…勝手に使うな!」
ノエルの一撃が闇の剣を砕き、世界に亀裂が走る。村も家も夕焼けも、すべてが崩れ去っていく。
「お兄ちゃん」
消えゆく中で、幻影のリーナが微笑んだように見えた。そして世界は白に染まった。
────
───
──
森の奥深く、木々が密集する場所で、風が葉を揺らす音だけが静かに響いていた。その静寂を破るように、鋭く呼びかける声が響く。
『『ノエル!』』
ソルとルナの声に引き戻されるように、ノエルはゆっくりと目を開けた。木々の隙間から差し込む午後の柔らかな光と、揺れる葉の影がぼんやりと視界に広がる。背中には湿った土の冷たい感触があり、荒い呼吸とともに現実へ引き戻されていく。
『ノエル、大丈夫?』
すぐ近くでソルの声が響き、小さな体が頬へ寄り添う。
『良かった。戻った』
反対側からルナも触れ、二人の温もりが確かにそこにあった。
「ソル……ルナ……」
かすれた声で呼ぶと、二人はすぐに応える。
『ここにいる』
『大丈夫』
その温もりに触れた瞬間、張り詰めていた恐怖が一気にほどけた。ノエルは体を起こそうとするが力が入らず、震える指で地面を掴むことも難しい。その横でニグルムが膝をつき、静かに肩を支えた。
「無理に起きるな」
落ち着いた声が耳に届く。
「家族は……」
荒い息のまま問いかけると、短く答えが返る。
「幻影だ」
「分かってる」
頭では理解している。それでも、家族が傷つく光景が鮮明に焼き付いて離れない。ノエルは胸元のお守りを握りしめ、現実へしがみつく。
「本物じゃない」
「ああ」
「皆、無事だよな」
「お前が村を出た時のままなら」
「何だよ、その言い方」
「私には現在の状況までは分からない」
「そこは安心させてくれよ!」
思わず声を荒げるが、喉が痛み途中で掠れる。ニグルムはわずかに目を伏せた。
「すまない」
「え?」
「やりすぎた」
予想外の謝罪にノエルは驚く。
『珍しい』
『ニグルムが反省した』
「反省くらいする」
『世界滅亡は反省しない』
『訓練は反省する』
「規模の基準がおかしい!」
思わずツッコミを入れると、少しだけ呼吸が落ち着いた。ニグルムに支えられながら上体を起こし、ノエルは改めて確認する。
「本当に、本物じゃないんだな」
「ああ」
「父さんも、母さんも、リーナも」
「傷つけていない」
「……良かった」
その言葉とともに、目の奥が熱くなる。顔を伏せるノエルに、ニグルムが問いかける。
「泣いているのか」
「泣いてない」
『泣いている』
『涙が落ちた』
「汗だよ!」
『目から汗が出るのは面白い』
『器用で笑える』
「二人とも少し黙ってろ!」
ソルとルナは離れず寄り添う。
『…でも少し怖かった』
『妾たちも…』
「二人にも見えたのか?」
『断片だけ』
『ノエルの感情が流れてきた』
優しく涙を拭われ、ノエルは小さく息を吐く。
『でも、ノエルは戻った』
『とても偉い』
「……ありがとう」
二人を包み込むように抱きしめると、その様子をニグルムが静かに見つめていた。
「お前にも」
ノエルは顔を上げる。
「一応、礼を言う」
「怒っているのではないのか」
「怒ってる」
「なら、礼は不要だ」
「でも、必要な訓練だったんだろ」
「ああ」
「幻影を破る方法も分かった」
「だからといって、許す必要はない」
「許すかどうかは俺が決める」
昨夜の言葉を返すと、ニグルムの瞳がわずかに揺れる。
「今は半分だけ許す」
「半分?」
「残り半分は、夕食の肉を譲ったら許す」
『とても軽い』
『家族を殺す幻影の代償が肉一枚』
「本物じゃなかったからな!」
「肉でいいのか」
「あと菓子」
『妾たちの分も欲しい』
『ノエルの二倍欲しい』
「どうして増えるんだよ!」
ニグルムはわずかに笑った。
「分かった。王都へ着いたら買う」
「高いやつな」
『蜂蜜入り』
『果物入り』
「二人が決めるな!」
ノエルは立ち上がろうとするが膝が震え、体が傾き、ニグルムがすぐに支えた。
「まだ休め」
「薪を運ばないと」
「私が持つ」
「訓練させたのはお前だろ」
「だから私が持つ」
『『また接触している』』
「今は支えられてるだけだ!」
離れようとするが力が戻らない。
「少しだけ借りる」
「ああ」
「変な意味じゃないからな」
「誰も何も言っていない」
『ノエルが意識している』
『怪しい』
「お前たちは黙れ!」
ニグルムは片腕でノエルを支え、もう片方で薪を軽々と持ち上げる。
「一人で両方持てるのか?」
「問題ない」
「その言葉は禁止だっただろ」
「では、容易だ」
「言い換えただけじゃないか!」
歩き出す前、ノエルは振り返る。そこにはもう幻影はなく、静かな森が広がるだけだった。
「ニグルム」
「何だ」
「あの幻影のお前、本物より悪人っぽかったぞ」
「世界を滅ぼそうとする首領よりも?」
「ああ。家族を傷つけたから」
「お前の基準では、世界より家族の方が重いのか」
「当然だろ」
迷いなく答える。
「世界って大きすぎて、まだ全部は分からない。でも、家族が大切なのは分かる」
「なら、私が本当に家族を傷つけようとすれば…」
「戦う」
剣に手を添え、その意思を示す。
「お前が従兄弟でも、救いたい相手でも、それだけは譲れない」
ニグルムはしばらく見つめた後、短く答えた。
「そうか」
その表情には怒りはなく、どこか安堵があった。
「どうして嬉しそうなんだ?」
「嬉しそうに見えるか」
「少し」
「家族を守るために私へ剣を向けられるなら、お前の優しさは無防備なだけではない」
「褒めてる?」
「ああ」
『珍しい』
『本日二回目』
「数えるな」
ニグルムはノエルを支えたまま歩き出す。森を抜ける風が、二人の背中を静かに押していた。
☆
二人が野営地へ戻った頃には、沈みかけた太陽が森の影を長く伸ばしていた。昼の熱気が冷めていく中、焚き火の煙が細く立ち上る。
御者と冒険者は壊れた車輪の修理を続け、工具の音が規則的に響き、作業は順調に進みそろそろ修理が完了するみたいだ。
そこへ薪を抱えたノエルとニグルムが戻ると、冒険者が手を止めて声をかける。
「遅かったな」
「薪拾いで何かあったのか?」
ノエルは少し言葉を選びながら答える。
「少し訓練してました」
「森の中で?」
「精神防御の」
予想外の内容に冒険者は驚きつつも興味を示す。
「変わった訓練をするんだな」
「俺もそう思います」
そこへソルとルナが淡々と補足する。
『家族が殺された』
『幻影で』
「簡潔すぎる!」
物騒な説明に冒険者はニグルムへ視線を向ける。
「おい、兄さん。ずいぶん物騒な訓練だな」
「本人が望んだ」
「家族を傷つけろとは言ってない!」
「最も効果的だった」
「効率だけで選ぶなよ!」
さらに妖精たちが追撃する。
『ニグルムは教師に向いていない』
『心がない』
「反省したと言っただろ」
「直接は言ってないぞ。やりすぎたとは言ったけど」
『言葉が足りない』
『謝罪を要求する』
ニグルムは言葉を濁し、そのまま薪を置いて話題を避ける。
「あ、逃げた」
『『逃げた』』
冒険者は深く追及せず修理の仕上げへ戻り、やがて夜が訪れた。夕食は乾燥豆と香草のスープで、ノエルの器にはニグルムから譲られた干し肉が入っている。
「本当にくれるのか?」
「ああ」
「食べたくなっても返さないぞ」
「構わない」
そこへ妖精たちが当然のように主張する。
『妾たちの分』
『約束した』
「約束してない」
『ノエルの残り半分を許すため』
『必要経費』
「俺が許すんだぞ!」
結局、肉は三等分され、ソルとルナも満足げに食べる。
『美味』
『ニグルムの罪が軽くなった』
「肉で罪を量るな」
一方でニグルムはスープだけを静かに口にする。
「お前、少なすぎないか?」
「昼も食べた」
「夜は夜だろ」
「子どもほど量は必要ない」
「俺は子どもじゃない!」
『十六歳』
『見た目は十三歳』
「十五歳くらいには見える!」
冒険者が笑いながら口を挟む。
「十三は言いすぎだが十四くらいには見えるぞ」
「味方がいない!」
さらに妖精たちが続ける。
『顔は可愛い』
『声も綺麗』
「男として褒めろ!」
そんな中、冒険者が穏やかに言う。
「十分、男らしいところもあると思うがな」
「……ありがとうございます」
ノエルは照れながら礼を言う。
『照れた』
『顔が赤い』
「焚き火のせいだ!」
その様子を見ていたニグルムに、妖精たちがすかさず指摘する。
『嫉妬してる』
『ノエルが褒められたから』
「違う」
「まだ何も言ってないだろ」
『顔に書いてある』
『赤い瞳に大きな文字』
「その表現を気に入ったのか」
焚き火の炎が揺れる中、軽口とやり取りが続き、野営地には穏やかな夜が流れていった。
☆
夜が深まるにつれ、野営地は静けさを取り戻していった。人の声や馬のいななきで賑わっていた場所も、今では風が草を揺らす音と、遠くで鳴く夜鳥の声だけが響いている。
乗客たちは簡易天幕や馬車の中へ移り、御者と冒険者が交代で見張りを務めていた。焚き火の周囲には数人の影が残るのみで、それぞれが静かに夜を見守っている。
森の上には雲一つない空が広がり、視界を遮るものはない。夜空はどこまでも澄み渡り、無数の星々が瞬いていた。細い月が街道を淡く照らし、その頼りないほど柔らかな光が、闇の中で確かな道標となっている。
焚き火の炎は小さくなっていたが、赤く燃える薪はまだ暖かな光を放っていた。ぱちり、と時折弾ける音が、静寂の中に小さなリズムを刻んでいる。
ノエルは毛布を肩に掛け、火の前に座っていた。膝を軽く抱え、炎を見つめながらゆっくりと息を吐く。
ソルとルナはその膝の上で、夕食後にもらった砂糖漬けの木の実を齧っていた。小さな手で器用に実を持ち、時折顔を見合わせながら、静かに甘味を楽しんでいる。
『星が多い』
ソルが空を見上げる。無表情のままだが、その瞳にはわずかな興味が宿っていた。
『村と同じ空』
ルナも遠い記憶を辿るように、同じく夜空を見つめ、小さく呟いた。
「どこにいても星は同じなんだな」
ノエルは火へ小枝を一本加えた。乾いた枝が炎に触れ、ぱちりと音を立てて燃え上がる。
炎がわずかに高くなり、その揺らめきが三人の顔を照らして影をゆっくりと揺らした。
向かい側では、ニグルムが黒い外套を羽織り、静かに座っている。焚き火の光が彼の横顔を照らしていたが、その表情は読み取りにくい。
「眠らないのか」
「昼に寝たから、あまり眠くない」
「魔力の操作や精神魔法での消耗が激しいだろう。また魔力の暴走をしたくなければ休んだ方がいい」
「お前もだろ。幻影を見せるのに魔力を使ったんじゃないか」
ノエルは淡々と返す。その声には責める色はなく、ただ事実を述べているだけだった。
「お前ほどではない」
「……じゃあ少し話をしよう。そうだなぁ、俺の家族の話とか?」
ニグルムはわずかに顔を上げ、炎越しにノエルを見る。ノエルは少し視線を落とし、膝の上のソルとルナへ目を向けた。
「先ほど精神魔法に出てきた人たちか」
ノエルは膝の上の二人を撫でながら、少し笑った。懐かしさと、わずかな違和感が混じった表情だった。
「幻影は似てたけど、細かいところが違った」
「記憶から再現したはずだ」
ニグルムは淡々と答える。その声には、自身の術への確信が感じられた。
「見た目と声はそっくりだった。でも、ちょっとした言葉が違ったぞ」
「そこまで完全に読み取るには、さらに深く精神へ入る必要がある」
ニグルムは静かに説明する。その声は冷静で、どこか距離を置いた響きだった。
「入らなくて良かったよ」
ノエルは苦笑するように言う。軽く言ったつもりだったが、その奥には本音が滲んでいた。
『入ったら噛んでた』
ソルが即座に言い放つ。小さな身体のまま、きっぱりとした口調だった。
『精神の中でも』
ルナも続ける。淡々としているが、どこか本気の響きがある。
「どうやって噛むんだ?」
ノエルは思わず苦笑しながら問い返す。
『気合いでなんとか』
『愛に勝るものなどない』
ソルとルナが同時に答える。
「便利な言葉で片づけたな」
ノエルは肩を揺らして笑い、張り詰めていた空気が、少しだけ和らいだ。ニグルムはソルとルナを眺め、その小さな存在を興味深そうに観察していた。
「お前たちは、ノエルの家族をよく知っているのだな」
静かな問いが投げかけられる。
『ずっと見ていた』
ソルが答える。短い言葉だが、そこには長い時間が込められているようだった。
『ルーベ村も守っていた』
ルナも続ける。その声は穏やかで、どこか誇らしげだった。
「それ、薪拾いの時も言ってたな…どうして村を守ってたんだ?」
ノエルが尋ねる。以前から気になっていた疑問を、改めて口にする。これまでにも聞こうとしたことはあったが、二人はいつも詳しく答えなかった。そのことを思い出しながら、慎重に言葉を選ぶ。
『約束したから』
ソルが短く言う。その一言には重みがあった。
『大切な約束』
ルナも続ける。柔らかな声だが、揺るがない意思が感じられる。
「誰との?」
ノエルはさらに踏み込む。焚き火の音だけが、しばしの間を埋めた。二人は黙った。答えを探すように、あるいは言葉を選ぶように。
金色の髪が焚き火の光を受けて揺れ、その影がノエルの膝の上で小さく揺らめく。
『それはまだ言えない』
『思い出せないことも多い』
ソルが静かに言い、ルナも続ける。その声には、わずかな戸惑いが混じっていた。
「またそれか」
ノエルは困ったように笑う。何度も聞いた答えだが、責める気にはなれなかった。
「いつか教えてくれよ」
優しく言葉を重ねる。急かすのではなく、ただ待つという意思を込めて。
『いつか必ず』
『ノエルが強くなったら』
ソルとルナが頷く。その条件は、いつもと同じだった。
「強くなる条件が多いな」
ノエルは苦笑する。だが、その言葉に不満はなかった。
『大切だから』
『壊れないように』
その言葉は、何かを守るための誓いのようだった。
二人の小さな声は、焚き火の音に溶けるように夜の中へ消えていく。
ノエルはそれ以上追及せず、二人の髪を指先で撫でた。柔らかな感触を確かめながら、ただ静かにその時間を受け入れていた。
「俺の家族は、普通だよ」
「普通?」
「父さんは鍛冶屋で、母さんは家のことをして、リーナは朝からうるさい」
『リーナは勤勉』
『ノエルが怠惰』
「俺も努力家だ!」
『朝だけ弱い』
『非常に弱い』
「朝以外は強いみたいに言うな!」
軽口を交わすうちに場の空気は和らぎ、焚き火の揺れる炎が二人を照らす。ニグルムはわずかに笑みを浮かべ、ノエルの父フォーガスの話題へと移る。
「父さんはフォーガス元冒険者で、若い頃は有名だったらしい」
「本人から聞いたのか」
「父さんはあまり話さないから、村の人たちが勝手に教えてくれたんだ」
父の過去は本人から語られることは少ないが、村人たちは誇らしげに語っていた。
「なぜ冒険者を辞めた」
「母さんに惚れたからって聞いたことがあるけど…確か一目惚れだったらしい」
「それだけで?」
「それだけで」
『フォーガスは単純』
『ノエルの父』
「俺が単純みたいに言うな!…母さんとの結婚には周りの反対もあったみたいだけど、母さんも父さんに惚れて、父さんと結婚することに意志を曲げなかったて聞いてる」
母もまた見た目に反して強い意志を持つ人物だった。
「セキレイらしいな」
「知ってるのか?」
「母から人柄を聞いたことがある」
「今もそうだよ。普段はおっとりしてるけど、怒ると父さんでも逆らえない」
『刺繍がヒヨコでも認めない、金糸雀だと言い張る』
『カナリアは料理が下手なのに認めなかった。ノエルと似てる』
「お前たちは昔からルーベ村にいたと言っていたな。それは母の幼い頃の話か?」
ニグルムの声にはわずかな温かさが混じる。
『そう。カナリアが七歳の時に作った黒く焦げた焼き菓子を、少し香ばしいだけだと言っていた』
『アレは暗黒物質。二歳の妹セキレイに食べさせて、泡を吹かせていた』
「泡吹かせるって母さん死にかけてる!!」
ノエルはソルとルナの昔話にツッコミを入れ、ニグルムはそのやり取りに珍しく笑った。昨晩とは違い、その表情はただの人のように穏やかだった。しかしその穏やかさの裏にあるものを感じ取り、ノエルは問いかける。
「帰りたい?」
「どこへ」
「叔母さんと暮らしてた場所」
ニグルムは視線を落とす。
「帰る場所ではない」
「何があったかは、まだ話せない?」
「ああ」
「そっか……俺は、強くなって帰りたい!学院へ行って、剣や魔法や、他にもたくさん学んで、今よりずっと強くなって」
「村を出たかったのではないのか」
「出たかったよ。外の世界を見たかった」
「なら、戻らなくてもいいだろう」
「帰らないのとは違う」
ノエルははっきりと言う。
「遠くへ行きたい。でも、最後には帰りたい」
「矛盾しているな」
「そうかな」
「外へ出るなら、そこへ残ればいい」
「嫌だよ。村には父さんたちがいる」
迷いはない。
「王都でどんな人に会っても、どれだけ強くなっても、俺が帰る場所はルーベ村だ」
『妾たちも帰る』
『ノエルと一緒』
「もちろん」
ノエルは笑う。
「それに、帰った時に胸を張りたい」
「何に対して」
「家族に」
支えてくれた人たちに成長した姿を見せたい。そのために強くなるのだと語る。
「強さは、帰るために必要なのか」
「この世界は危険なんだろ」
「ああ」
「なら、帰る場所を守れるくらい強くなりたい」
その言葉に、ニグルムは静かに問いを投げる。
「なら、帰るべき家族を失った人間は、どうすればいい?」
それがニグルム自身の問いであることは明らかだった。
「難しいな」
「無理に答えなくていい」
「少し考える」
ノエルは慎重に言葉を選ぶ。
『ノエルならどうする』
『帰る場所がなくなったら』
「俺なら……」
想像するだけで胸が痛む。それでも答えを出す。
「新しく帰りたいと思える場所を作ればいい」
ニグルムの瞳が揺れる。
「新しく?」
「ああ」
「失った家族の代わりを探せと?」
「代わりじゃない」
ノエルは首を振る。
「亡くなった人は、誰かと取り替えられないだろ」
「では、どういう意味だ」
「新しい大切な人を作るってこと。仲間でも家族でもいい。帰りたいって思える相手がいる場所なら、そこが新しい帰る場所になるんじゃないか」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないと思う」
「裏切られるかもしれない」
「そうだな」
「また失うかもしれない」
「うん」
「なら、最初から作らなければ苦しまずに済む」
「でも、一人のままだ」
ノエルは静かに言う。
「苦しみたくないからって、ずっと一人でいるのも辛いだろ」
「お前に何が分かる」
「分からないよ」
それでも視線は逸らさない。
「でも、お前が一人でいるのが辛そうなのは分かる」
「私が?」
『見える』
『非常に』
「お前たちまで」
ニグルムはわずかに眉を寄せる。
「子守唄を聞いた時も、家族の話をしてる時も、ずっと寂しそうだった」
「私は寂しくない」
『強がり』
『ノエルと同じ』
「また俺を巻き込むな!」
ソルとルナは満足そうに毛布へ潜る。
『ニグルムも作ればいい』
『帰る場所』
「簡単に言うな」
『ノエルがいる。妾たちもいる』
『でも、ノエルは妾たちのものだから独占は禁止』
「何の話になってるんだ?」
首を傾げるノエルをニグルムはじっと見つめる。
「お前は、私に、新しい帰る場所を作れと言ったな」
「ああ」
「その場所に、お前はいるのか」
ノエルは少し考える。
「お前次第じゃないか?」
「私次第?」
「世界を滅ぼすのをやめて、ちゃんと話して、一緒にいられるなら。それに何度も言うけど、俺たちは従兄弟なんだから、ニグルムは俺の家族でもあるだろ」
その言葉に、ニグルムの表情が消える。
「家族…私を?」
「だから何回確認するんだよ」
「何度聞いても足りない」
その声には飢えたような響きがあった。
「お前は知らない」
「何を?」
「自分が今、何を与えたのか」
「帰る場所の話だろ」
「ああ」
ニグルムは立ち上がり、ノエルの前へ歩み寄る。
「近い」
『また接触しようとする』
『警戒』
「何もしない」
ニグルムは片膝をつき、ノエルに視線を合わせる。
「お前が俺の帰る場所になるというなら」
「そこまでは言ってない」
「俺には同じだ」
「話を勝手に大きくするなよ」
「なら、撤回するか」
静かな問いだったが、その奥には危うさがあった。
ここで否定すれば、何かが壊れる──そんな予感が確かにあった。
焚き火の火がぱちりと小さく弾け、その乾いた音が夜の静寂の中へと静かに溶けていく。周囲には虫の声すらなく、ただ風が草を揺らす微かな気配だけが漂っていた。頭上には無数の星が広がり、その淡い光が地面をぼんやりと照らし出している。その光に照らされて、二人の影は長く伸び、互いに重なり合うことなく、一定の距離を保ったまま揺れていた。
その静かな空間の中で、ノエルは一切の迷いを見せない目でニグルムを見据え、ゆっくりと口を開いた。
「撤回はしない」
短い言葉だった。しかし、その一言には揺るぎない意思が込められており、決して覆ることのない決意がはっきりと感じられる。ノエルは一歩も引く気配を見せず、まっすぐニグルムを見つめる。
「でも、条件がある」
続けてそう告げると、ニグルムはわずかに顎を引き、興味を示すように視線を細める。その仕草は小さなものだったが、確かに相手の言葉を受け止めようとしていることが伝わってくる。
「言え」
低く促すその声に対し、ノエルは一瞬だけ息を整え、迷いなく言い切った。
「世界を滅ぼさない」
その瞬間、場の空気がわずかに張り詰める。焚き火の炎が揺らめき、その光が二人の間にある距離を強調するかのように揺れ動いた。
「難しい条件だな」
ニグルムは肩をすくめるようにして答える。その声音には、冗談とも本気ともつかない軽さが混じっていた。
「最初にそこを諦めろよ!」
ノエルは思わず声を荒げる。あまりにも当然のように返された言葉に、呆れと焦りが入り混じっていた。
『最重要事項』
ソルが真剣な表情で頷いている。
『世界は妾たちの菓子を作る』
ルナも同じ調子で続ける。その理由の軽さに、ノエルは思わず顔をしかめた。
「お前たちの世界救いたい理由は菓子なんだな!」
ツッコミを入れながらも、どこかいつもの調子が戻っている。そのやり取りを見て、ニグルムはほんのわずかに口元を緩め、小さく笑った。
「努力しよう」
軽く言い放たれたその言葉に、ノエルは即座に反応する。
「努力じゃ困る!」
焦りと苛立ちを滲ませた声で否定する。
「すぐには約束できない」
ニグルムは視線を逸らさずに答える。その瞳の奥には、簡単には触れられない何かが沈んでいた。
「どうしてだよ」
ノエルは一歩踏み込み、理由を求める。その声は真剣そのものだった。
「私が世界を憎む理由を、お前はまだ知らない」
静かに告げられたその言葉は、夜の空気よりも冷たく感じられた。
「なら、いつか話してくれ」
ノエルは迷わず返す。その言葉には逃げる気配が一切ない。
「話せば、お前は離れる」
ニグルムは断言するように言った。まるで未来を見通しているかのように。
「聞いてみないと分からない」
決めつけられることを拒むように、ノエルは首を横に振る。
「私は分かる」
ニグルムの声は揺らがない。
「勝手に決めるな」
ノエルはそう言うと、ふいに手を伸ばし、ニグルムの額を指で軽く押した。予想外の行動だったのか、ニグルムの身体がわずかに後ろへ揺れる。その反応に、ノエルは少しだけ口元を緩めた。
「俺の気持ちは俺が決める」
はっきりとした声で言い切る。
「……そうだったな」
ニグルムは小さく息を吐くようにして答えた。
「お前が教えたんだろ。自分と外を分けろって」
ノエルは思い出すように言う。その言葉には確かな実感が込められていた。
「精神防御を、私への反論に使うとは思わなかった」
ニグルムはわずかに苦笑する。
「教えた責任だな」
ノエルは肩をすくめるようにして返した。
『生徒が教師を超えた』
『四秒だけ』
「それはソルとルナが大きくなった時間だろ!」
ノエルはすぐにツッコミを入れる。その声に、場の空気が少しだけ緩んだ。ノエルが笑い、ニグルムも小さく笑う。だが、その瞳の奥に生まれたものを、ノエルは正しく理解していなかった。
帰る場所、家族。自分次第なら、ノエルのそばにいていい。その言葉は、失うことだけを知っていたニグルムにとって、穏やかな希望ではなかった。
それは、飢えた心へ落ちた甘い毒のようなものであり、一度知ってしまえば、二度と手放せない光。ニグルムはその感情を押し殺すように、ゆっくりと口を開いた。
「ノエル」
呼びかける声は、先ほどよりもわずかに低い。
「何?」
「約束してほしい」
ニグルムは真っ直ぐに見つめたまま言った。
「また?」
ノエルは少しだけ眉を上げる。
「私を見捨てないと」
その言葉は静かでありながら、重く沈むような響きを持っていた。
ノエルは眉を寄せる。
「そんな約束はできない」
ノエルの即答にニグルムの顔が僅かに強張る。
「なぜ」
短く問う声に、わずかな動揺が混じる。
「お前が何をしても見捨てないなんて言ったら、何をするか分からないだろ」
『正しい』
『ニグルムは抜け道を探す』
ソルが頷き、ルナも淡々と言葉を重ねる。
「信用がないな」
ニグルムはわずかに目を細める。
「世界を滅ぼそうとしてる奴だからな!」
ノエルは即座に言い返したその後、少しだけ考えるように視線を落とし、再び顔を上げる。
「でも、お前が助けを求める限り、俺は手を伸ばす」
その言葉は先ほどよりも柔らかく、それでいて確かな重みを持っていた。
「私がその手を掴み、離さなくても?」
ニグルムは試すように問いかける。
「痛かったら振りほどく」
「振りほどくのか」
ニグルムはわずかに目を見開く。
「力加減くらい覚えろよ!」
『ニグルムには難しい』
『執着が重い』
「二人とも、変なところだけ鋭いな」
そのやり取りの後、ニグルムはゆっくりと手を差し出した。白く細い指が、星明かりと焚き火の光を受けて淡く輝いている。
「では、契約しろ」
静かな声だった。
「契約?」
「私が助けを求めた時、お前は手を伸ばす」
「じゃあ、お前は俺の大切なものを傷つけないこと」
ノエルもすぐに言葉を返した。
「世界は含まれるか」
「含まれる!」
「範囲が広いな」
ニグルムはわずかに苦笑する。
「滅ぼそうとするからだろ!」
ノエルは強く言い返した。
ニグルムは差し出した手を動かさない。その手はただ静かにそこにあり続ける。
ノエルはしばらく迷い、視線を落とし、そして再び上げ、やがて決意したように自分の右手をその上に重ねた。
「約束…契約だ」
「ああ」
「破ったら、剣で止めるからな」
ノエルは真剣な目で言う。
「お前が私を止められるほど強くなればな」
「なるよ」
「期待している」
ニグルムの指が、ノエルの手を包む。握手にしては長い。強くはない。だが、絶対に離すまいとする意志だけは確かに伝わってくる。
『長い』
ソルがじっとその様子を見つめる。
『五秒』
ルナも同じように数え始める。
「カウントするな!」
ノエルは思わず声を上げる。
『七秒』
『離す気がない』
「ニグルム、もういいだろ」
「契約の確認だ」
ニグルムは真顔で答えた。
「握ってる時間で強くなる契約じゃない!」
ノエルは呆れながら手を引く。
ニグルムは僅かに抵抗した後、ゆっくりと指を離した。
「そんな残念そうな顔をするなよ」
「していない」
『とてもしている』
『赤い瞳に書いてある』
「その表現は禁止しろ」
ニグルムは小さく眉を寄せた。
夜空には無数の星が輝いていた。人の営みも、国の争いも、世界を滅ぼそうとする企みさえ知らないかのように、ただ静かに。
ノエルは、その星明かりの下で交わした約束が、これから自分をどこへ導くのかをまだ知らない。ただ一人の人間を救いたいと思った。それだけだった。
しかしニグルムにとっては違う。
今交わされた言葉は、失われた家の代わりとなる契約であり、母を失った日から空洞だった心へ、ノエルという帰る場所を刻みつける誓いだった。
☆
野営地から離れた森の奥深く。夜の静寂は重く沈み込み、虫の羽音さえ遠くに感じられるほど、空気は張り詰めていた。焚き火の光も届かないその場所には、完全な闇が広がっている。
その闇の中に、小さな荷馬車がひっそりと止められていた。車輪は泥に沈み込み、長時間動いていないことを物語っている。車体には王立アストル魔法学院へ物資を運ぶ商会の紋章が描かれており、月明かりに照らされたそれは、正規の輸送であることを示していた。
荷台には木箱が六つ、整然と並べられている。いずれも封印布で覆われ、学院の教材を示す札が貼られていた。
「“魔導実験用触媒”、“結界保守部品”、“錬金術科用薬品”」
少女は札を一つずつ読み上げながら、指先で軽く触れていく。その声は小さく、森の闇に溶けるように消えていった。どれも正規の印章が押されているが、箱の中身は札に書かれたものとは異なっている。
淡い月光の下、一人の少女が木箱の蓋を開ける。軋む音が静寂をわずかに揺らした。
ベージュブラウンの長い髪に桃色の瞳。銀縁の眼鏡をかけたその姿は、一見すると気弱そうな少女にしか見えない。しかしその正体は、オウルアイ───カティア・リューゲンである。
彼女は箱の中に並ぶ魔導具を一つずつ確認していた。黒い金属で作られた小型の杭を手に取り、重さと魔力の流れを確かめる。音を記録する水晶球を軽く振り、内部の魔力の揺らぎを観察する。精神へ干渉する魔力を増幅する銀の環を指先でなぞり、刻まれた術式の精度を確認する。そして最後に、梟の目を模した桃色の宝石を静かに持ち上げた。
「結界穿孔杭は十二本」
オウルアイは帳面を開き、淡々と数字を書き込む。筆先は迷いなく動いていた。
「感情収集器は十二基。記憶投影鏡は一枚」
その時、頭上の木の枝がわずかに揺れた。黒い梟が羽音を立てずに降り立ち、彼女の肩へ静かに止まる。
《オウルアイ様》
低く響く声が夜の空気を震わせる。
「戻りましたか」
オウルアイは視線を上げず、魔導具の点検を続けたまま応じた。
《ニグルム様が、ノエル・メレディスへ精神防御の実践訓練を行いました》
梟は首をわずかに傾けながら報告する。
「実践訓練?」
オウルアイの手が一瞬だけ止まり、帳面の上に影が落ちる。
《家族を傷つける幻影を使用》
その言葉に、彼女の指先がぴたりと止まった。
「ずいぶんと苛烈ですね」
淡々とした声の中に、わずかな興味が滲む。
《対象は強く動揺。精神境界が一度崩壊しました》
梟は事実のみを告げる。
「でしょうね。それで?」
オウルアイは再び筆を動かしながら続きを促した。
《自力で境界を再構築。幻影内の人物の言動と記憶の差異を見抜き、術式を破壊しました》
その報告に、桃色の瞳がゆっくりと細められる。
「たった一日で、ニグルム様の幻影を?」
わずかに声の調子が変わる。
《はい》
「ニグルム様が手加減をした可能性は」
オウルアイは視線を上げ、梟を見た。
《最後の破壊には干渉されておりません》
「面白い」
オウルアイは箱の奥へ手を伸ばし、黒い首輪のような魔導具を取り出した。内側には細かな術式がびっしりと刻まれている。精神を拘束し、感情を増幅し、命令への抵抗を弱めるための道具だ。
彼女はそれを指先で軽く回しながら観察する。
「内的境界を覚えたばかりで、感情を揺さぶられながら再構築した」
《想定より成長が早いと判断します》
「ええ」
オウルアイは魔導具を月光へ翳した。黒い金属が鈍く光る。
「ニグルム様が自ら敵になり得る彼の弱点を補っている」
《やはり、理解できません》
梟は率直に疑問を口にする。
「愛情とは、矛盾するものですよ」
少女の顔に似合わない、成熟した笑みが浮かぶ。
「手元へ閉じ込めたい。けれど壊したくない。誰にも奪われたくない。だから自分から逃げられるほど強くしてしまう」
その言葉には、どこか楽しげな響きがあった。
《ニグルム様は対象を帰る場所と認識し始めています》
梟の報告に、オウルアイの指が再び止まる。
「それは、彼が口にしたのですか?」
わずかに声が低くなる。
《ノエル・メレディスが、新しい帰りたい場所を作ればよいと発言》
「なるほど」
オウルアイは喉の奥で小さく笑った。
「それは効いたでしょうね」
《ニグルム様は契約を要求しました》
「契約?」
オウルアイは首を傾げる。
《互いを助け、対象の大切なものを傷つけないという口約束です》
「まぁ、随分と可愛らしい契約ですこと」
声音は柔らかいが、桃色の瞳には冷たい光が宿っていた。
「でもニグルム様にとっては、血よりも魔術契約よりも重いのでしょうが」
オウルアイは黒い首輪を箱へ戻し、代わりに梟の目を模した桃色の宝石を手に取る。宝石の内部では霧のような魔力がゆっくりと渦巻いていた。
「予定を少し変更しましょう」
《どのように》
「ノエル・メレディスの観察を優先します」
オウルアイは宝石を指先で転がしながら答えた。
《学院内で接触を?》
「ええ」
オウルアイは眼鏡を押し上げる。
「元々カティア・リューゲンとして、同じ新入生になる予定でした。不自然ではありません」
《精神干渉は、既に警戒されております》
「わざわざ、正面から壊す必要はありません」
彼女は荷台の最も奥にある箱へ手を伸ばし、ゆっくりと蓋を開けた。中には人の頭ほどの大きさを持つ古い魔導具が収められている。金と黒の金属を組み合わせた球体で、表面には無数の目が刻まれ、中央の一つだけが薄桃色に輝いていた。
「境界が強い者ほど、自分の意志で扉を開いた時の侵入には弱い」
オウルアイはその球体を見つめながら言う。
《自ら心を開かせると?》
「友人になればよいのです」
オウルアイは気弱な少女らしい微笑みを作った。肩を小さく縮め、声を震わせる。
「わ、私……魔法が苦手で…よければ、一緒に練習してくれませんか?」
その演技は完璧だったが、梟は首を傾ける。
《不気味です》
オウルアイの微笑みが一瞬で消えた。
「使い魔に演技を批評されるとは思いませんでした」
《四十歳が十六歳を演じておりますので》
「その嘴を縫い合わせますよ」
《失言しました》
梟は素早く頭を下げ、オウルアイは小さく溜息をつき、木箱の蓋を閉じる。
「これらは明朝、学院の補給馬車へ紛れ込ませます」
《検査は》
「正式な搬入証があります」
《偽造ですか》
「本物ですよ。持ち主が少し眠っているだけで」
オウルアイは森の奥へ視線を向けた。木々の影に隠れるように、一人の商人が倒れている。呼吸はあるが、目は開いたまま桃色の光を宿し、虚空を見つめていた。
「学院へ運び込まれた後、魔導具は各建物へ分散させます」
彼女は再び荷台へ視線を戻す。
《目的は結界の掌握ですか》
「それだけではありません」
オウルアイはゆっくりと顔を上げ、遠く野営地のある方角を見た。木々の向こうに焚き火の明かりが僅かに揺れている。
「王立アストル魔法学院には、多くの才能が集まる」
結界師、魔術師、錬金術師、剣士。王侯貴族の子弟、そして誰にも知られていない古い血の継承者たち。
「どの子が、どんな声で啼くのか」
桃色の瞳が妖しく輝く。
「確かめるための舞台を作るのです」
黒い梟が翼を広げ、夜空へ飛び立った。その影が一瞬だけ星を覆い隠す。
街道沿いの野営地では、何も知らないノエルが毛布へ包まり、ソルとルナを抱いて眠ろうとしていた。そのすぐ近くで、ニグルムは眠るノエルを見守っている。
さらに遠くでは、オウルアイが学院へ運び込む魔導具の箱へ最後の封印札を貼りつけていた。
星明かりの下、救うための契約と壊すための策謀が、同じ夜に静かに結ばれていた。




