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☆0-14☆王都ミネルヴァ

早朝に野営地を出発した乗合馬車は、王都へと続く最後の街道を進んでいた。乾いた土を踏みしめる車輪の音と、馬の蹄が刻む規則正しいリズムが、単調ながらもどこか心地よく響く。

 車内では、それぞれの乗客が思い思いの時間を過ごしている。朝早くの出発だった為、眠りに落ちている者、窓の外をぼんやりと眺める者、小声で会話を交わす者。長旅の終わりが近づいていることを、誰もがどこかで感じ取っていた。

 空は雲ひとつないほどに澄み渡っている。強すぎない陽光が穏やかに降り注ぎ、その光が遠くの景色をくっきりと浮かび上がらせていた。そして、その視界の先には、これまでとは明らかに異なる存在感を放つものがあった。


「見えたぞ!」


 御者の張りのある声が、馬車の外から響いた。その声には、長い道のりを走り抜けてきた者だけが持つ誇らしさが滲んでいる。


「王都ミネルヴァだ!」


 その一言が放たれた瞬間、車内の空気が一変した。眠そうにしていた乗客たちが一斉に顔を上げ、窓へと視線を向ける。ざわめきが広がり、誰もがその景色を見逃すまいと身を乗り出した。

 ノエルも例外ではなかった。長椅子から勢いよく身を乗り出し、窓枠へ両手をかける。揺れる馬車の中で体勢を保ちながら、必死に前方を覗き込んだ。


「どこだ?」


 広がる景色の中から目的のものを探しながら、ノエルは頭上へ問いかける。


『正面』


 頭の上に座るソルが、迷いなく前方を指差した。その小さな指先は、確信を持って一点を示している。


『非常に大きい』


 ルナも長い金髪を風に揺らしながら、淡々とした口調で補足する。その声には、わずかながら感嘆が混じっていた。


「正面って、壁しか見えないけど」


 ノエルは目を細め、遠くに見える巨大な構造物を凝視する。確かにそこには、ただの壁とは思えない規模のものが存在していた。


『それが王都』


 ソルが当然のように言い切る。


「まさか、あの端から端まで全部?」


 ノエルは思わず声を上げる。視界の端から端まで続くその壁は、常識では到底測れない広さだった。


『全部』

田舎者(ノエル)が驚いている』


 ソルの言葉にルナが淡々と付け加える。


「初めて見るんだから驚くだろ!」


 ノエルは反論しながらも、その視線は完全に釘付けになっていた。

 彼の目の前に広がっていたのは、地平線を横切るほどの巨大な城壁だった。白に近い灰色の石を積み上げて築かれたその壁は、ルーベ村のどの建物よりも遥かに高く、圧倒的な存在感を放っている。一定の間隔で建てられた塔の頂には、ミネルヴァ王国の紋章を描いた旗が掲げられ、風に揺れていた。

 白亜の外壁に、青く輝く屋根、陽光を受けて煌めく尖塔。雲へ届きそうなほど高くそびえる中央塔の周囲には、いくつもの小塔と空中回廊が複雑に絡み合うように配置されていた。その姿は、まるで空に浮かぶ城のようであり、現実離れした美しさと威圧感を同時に放っている。


「城が山みたいだ……」


 思わず漏れたその言葉には、純粋な驚きが込められていた。その声に応じるように、隣に座っていたニグルムが静かに口を開く。


「王都のどこにいても見えるように造られている」


 淡々とした説明だったが、その言葉には確かな知識が感じられた。


「どうやって、あんな大きなものを建てたんだ?」


 ノエルは視線を外さないまま問いかける。純粋な疑問だった。


「魔術師と錬金術師を数百人動員した。現在の姿になるまで、何代もの王が増築を繰り返している」


 ニグルムは外を見たまま答える。その口調は変わらず落ち着いていた。


「詳しいな」


 ノエルはちらりと横目でニグルムを見る。


「有名な話だ」


『返事が早い』


 ソルがじっとニグルムを見つめる。


『王城に詳しい』


 ルナも同じように視線を向ける。

 ソルとルナが同時にニグルムを見るが、彼はその視線を無視するように窓の外へ顔を向けた。その仕草は、どこか意図的に話題を避けているようにも見える。


「お前、王都に住んでたのか?」


「以前に訪れたことがあるだけだ」


 ニグルムは視線を外したまま答える。


「どれくらい?」


「忘れた」


 短く切り捨てるような返答だった。


『嘘』

『また窓を見た』


「景色を見ているだけだ」


 ニグルムは淡々と返すが、その声にはわずかな硬さがあった。


「最近、その誤魔化し方ばかりだな」


 ノエルは訝しげにニグルムの横顔を見た。

 王城が見えてからというもの、彼の表情はどこか硬い。懐かしんでいるようにも、嫌悪しているようにも見えるその様子に、ノエルは違和感を覚えていた。

 しかし、ニグルムが語ろうとしない以上、無理に踏み込むべきではないと判断し、ノエルは小さく息を吐いた。


「それより、もう一度確認したらどうだ?」


 ニグルムが視線を戻し、話題を切り替えるように言った。


「入学に必要な書類は持っているか」


 真剣な表情で問いかける。


「持ってる」


「合格証は」


「鞄の中」


 ノエルは足元の鞄を軽く叩いた。


「身分証明書」


「それもある」


「村長の推薦状は」


「あるって」


「剣の携帯許可証は」


「ある!」


 ノエルは思わず声を張り上げ、足元の鞄を抱き締めた。


「朝から何回確認するんだよ!」


「書類が一枚でも不足すれば、入学手続きが遅れる」


「入学試験には受かってるんだから、追い返されたりしないだろ」


 ノエルは不満そうに眉をひそめる。


「規則は試験結果とは別だ」


「だから全部持ってる!」


『合格証を枕の下に置き忘れかけた』

『リーナが入れた』


「出発前の話を今するな!」





  三か月前────


 まだ冬の気配が色濃く残る穏やかな朝、王国各地に設けられた試験会場では、王立アストル魔法学院の入学試験が一斉に実施されていた。各地から集まった受験者たちは、それぞれに緊張と期待を胸に抱きながら、厳格な管理体制のもとで試験に臨んでいた。

 ノエルが試験を受けたのは、ルーベ村から最も近い地方都市にある魔術師組合の施設だった。普段は静寂に包まれているその建物も、この日ばかりは多くの受験者で賑わい、廊下には張り詰めた空気が漂っていた。


 試験内容は多岐にわたる。

 筆記試験、基礎魔力測定、剣術を含む実技試験、そして称号の簡易確認、いずれも学院にふさわしい資質を見極めるための重要な試験であり、受験者たちはそれぞれの得意分野で力を発揮しようと必死だった。

 ノエルの場合、召喚士という珍しい称号と、ソルとルナという存在が確認されたことで、試験会場は一時騒然となった。試験官たちの間にもざわめきが広がり、周囲の受験者たちからも驚きの視線が向けられたが、それでもノエルは落ち着いて試験を終え、結果として無事に合格を果たしている。


 そして現在───


 ノエルが向かっているのは、試験会場ではない。合格者として学院へ、入学を行うための旅路だ。

 馬車の中では、揺れに合わせて軋む音が規則的に響き、窓の外にはゆっくりと流れていく景色が広がっている。旅の疲れが少しずつ身体に蓄積していく中で、ノエルは膝の上に置いた鞄へと視線を落とした。


 ( ようやく学院での生活が始まる )


 それは胸が高鳴る出来事であると同時に、確かな不安も伴っていた。


「本当に大丈夫かな」


 ぽつりと漏れた言葉は、揺れる馬車の中で小さく響いた。ノエルは鞄の紐を指先でいじりながら、どこか落ち着かない様子で視線を彷徨わせる。


「何がだ」


 向かいに座るニグルムが、淡々とした声で問い返す。その表情はいつも通り変わらず、ノエルの不安を特別視する様子もない。


「学院でやっていけるかどうか」


 短く答えながら、ノエルは窓の外へ視線を向けた。


「今さら怖気づいたのか」


 ニグルムは腕を組み、わずかに眉を動かす。からかうような響きはないが、事実を確認するような口調だった。


「そういうわけじゃないけど」


 ノエルは苦笑しながら、服の下にある深緑色のお守りに手を当てる。


「試験の時は、その日だけ頑張れば良かった。でも、今度はずっと暮らすんだろ」


 その言葉には、これから始まる新しい生活への期待と不安が入り混じっていた。短期間の試験とは違い、学院での生活は長く続く。逃げ場のない日常が始まるのだ。


『寮生活』


 ノエルの肩の上で、ソルが小さく呟く。その声は淡々としているが、どこか意味深だった。


『朝、起こす者がいない』


 続けてルナが同じ調子で言葉を重ねる。二人の視線は、じっとノエルへ向けられていた。


「そこが一番の問題みたいに言うな!」


 ノエルは思わず声を上げ、肩の上の二人へ抗議する。だが、ソルとルナはまったく動じない。


『重大』

『遅刻の危険』


 二人は淡々と事実を並べるように言い切る。その様子に、ノエルは顔をしかめた。


「自分で起きられる!」


 強く言い返すが、その言葉にはどこか説得力が欠けている。


『今日はニグルムに起こされた』

『三回』


 ソルとルナは容赦なく現実を突きつける。ノエルの肩の上で、まるで記録を読み上げるかのように淡々と告げた。


「馬車旅で疲れてたんだよ!」


 ノエルは慌てて言い訳をする。確かに長旅で疲れていたのは事実だが、それだけでは説明しきれない部分もある。そのやり取りを聞いていたニグルムが、静かに口を挟んだ。


「最初の二回は返事だけだった」


 事実を淡々と補足するその声に、ノエルはぎくりと肩を震わせる。


「起きてたよ」


 苦し紛れに反論するが、視線は泳いでいた。


「三度目に『あと百年』と言った」


 ニグルムは表情を変えずに続ける。その内容に、馬車の中の空気が一瞬だけ止まった。


「そんなこと言ってない!」


 ノエルは即座に否定するが、その声には焦りが滲んでいる。


『言った』

『妾たちも聞いた』


 ソルとルナが同時に証言する。逃げ場は完全に塞がれていた。


「味方がいない!」


 ノエルは頭を抱え、天井を仰ぐ。完全に孤立した状況に、思わず嘆きの声が漏れた。

 その様子を見ていた向かい側の席の盾持ちの冒険者が、くつくつと笑い声を漏らし、気さくな雰囲気で会話に加わった。


「寮なら、同室の奴が起こしてくれるだろう」


「良い人だったらいいんですけど」


 ノエルは少し不安そうに答える。どんな相手と同室になるのかは分からない。それもまた未知の要素だった。


「起こしても起きなければ、最後は蹴られるさ」


 冒険者は冗談めかして言うが、その言葉には妙な現実味があった。


「物理的な目覚ましは嫌だな!」


 ノエルは顔をしかめて抗議する。想像しただけで痛そうだった。


『リーナと同じ』

『故郷を感じられる』


 ソルとルナが淡々と追い打ちをかける。その言葉に、ノエルは即座に反応した。


「妹は蹴らない! 布団を剥がすだけだ!」


 必死に訂正するが、どちらにしても強制的に起こされている点は変わらない。

 そんなやり取りを続けている間にも、馬車は着実に王都へと近づいていた。

 窓の外の景色は徐々に変化し、街道を行き交う人や荷車の数が目に見えて増えていく。行き交う人々の服装や装備も多様になり、地方では見られない光景が広がっていた。

 旅装の商人が荷車を引き、全身鎧の騎士が馬を進める。色鮮やかな布を纏った異国の旅人が行き交い、その中には人間とは異なる特徴を持つ者たちの姿もあった。

 耳の形が尖った者、頭部に獣の耳を持つ者。ルーベ村では見たことのない種族が、当たり前のように同じ道を歩いている。


「獣人だ」


 ノエルは窓に顔を近づけ、興味深そうに外を見つめながら呟いた。道端を歩く青年の頭には、茶色い狼の耳がぴんと立っている。

 さらにその後ろでは、長い耳を持つエルフの旅人が、優雅な足取りで歩いていた。


「エルフまでいる」


 驚きと感心が入り混じった声が漏れる。書物でしか見たことのなかった存在が、目の前にいるのだ。


「王都には様々な種族が集まる。国外から来る者も珍しくはない」


 ニグルムが静かに説明する。その視線もまた、外の光景へ向けられていた。その言葉通り、街道には様々な文化や背景を持つ人々が混ざり合っている。


『菓子も集まる』

『世界各地の甘味』


 ソルとルナが、まるで重要事項のように付け加える。その言葉に、ノエルの表情がぱっと明るくなった。


「急に王都が楽しみになってきたな」


 先ほどまでの不安が少しだけ薄れ、期待が顔に浮かぶ。


『ノエルも同じ』

『食欲に弱い』


 二人は淡々と指摘する。その言葉に、ノエルはすぐに反論した。


「俺は景色も楽しみにしてる!」


 慌てて言い返すが、どこか説得力に欠ける。

 そんなやり取りを続けながら、馬車はやがて長い列の最後尾へと加わった。王都の門前には、多くの人と荷車が並び、入城の順番を待っている。いよいよ、王都が目前に迫っていた。

 ノエルは馬車の窓から身を乗り出すようにして、巨大な門を見上げる。石造りの壁は高くそびえ立ち、その圧倒的な威圧感に思わず息を呑んだ。

 門の前には整然とした通行口がいくつも設けられており、それぞれに鎧を身に着けた騎士たちが立っている。彼らは一人ひとりの身分証や積み荷を丁寧に確認し、問題がないかを慎重に見極めていた。


 門柱には、大きな水晶が埋め込まれている。


 透き通るようなその水晶は、ただの装飾ではないことが一目で分かるほど、淡い魔力を帯びていた。


 人が通るたびに、その水晶は淡い光を放つ。


 光は一瞬だけ強く輝き、すぐに静かに収まる。その様子を見て、ノエルは興味深そうに目を細めた。


「あれは?」


 ノエルが指差しながら尋ねると、隣に座るニグルムが視線だけを向けて答える。


「犯罪者や危険な魔導具を検知するための結界だ」


 淡々とした説明に、ノエルは小さく頷いた後、少しだけ声を潜めた。


「ニグルム、通れるのか?」


 ノエルが小声で尋ねる。その問いに、ニグルムはわずかに眉を動かし、怪訝そうに視線を向けた。


「どういう意味だ」


「世界を滅ぼそうとしてる組織の首領だろ」


 ノエルの率直すぎる言葉に、ソルとルナがすかさず反応する。


『危険人物』

『非常に危険』


 淡々とした評価が重なり、ニグルムは一瞬だけ沈黙した。


「犯罪者として手配されてはいない」


 静かにそう返すが、ノエルは納得していない様子で首を傾げる。


「まだ何もしてないから?」


「その言い方では、これから必ず何かするように聞こえる」


「するつもりだっただろ!」


 ノエルが思わず声を強めると、ニグルムはそれ以上何も言わず、窓の外へ視線を逸らした。


 その様子を見て、ソルとルナが小さく呟く。


『また逃げた』

『本日一回目』


「数えるな」


 短く返すニグルムの声には、わずかな苛立ちが混じっていた。やがて列が進み、乗合馬車の順番が近づいてくる。前方では騎士が一台ずつ丁寧に確認を行っており、周囲には自然と緊張感が漂っていた。

 御者が書類を手に取り騎士へ差し出すと、騎士はそれを受け取り、内容を確認した後に馬車の中へ視線を向けた。


「身分証を」


 低く落ち着いた声が響くと、乗客たちは順番に証明書を取り出し、騎士へ差し出していく。

 ノエルも村長から渡された木札と、学院の合格証を取り出し、少し緊張しながら差し出した。

 騎士は合格証へ刻まれた紋章をじっと見つめ、確認すると、ふっと表情を和らげる。


「王立アストル魔法学院の新入生か」


「はい」


 ノエルは背筋を伸ばして答える。


「入学おめでとう。手続きは本日午後二時まで行っている。学院までは中央大通りを北東へ進め」


「ありがとうございます」


 騎士の言葉に、ノエルは素直に頭を下げた。


「ただし、王都内での抜剣は禁止だ。学院指定区域と正当防衛を除き、剣は鞘から抜くなよ」


「分かりました」


 真剣な表情で頷くノエルを見て、騎士はさらに視線を上へ移した。ノエルの頭上にちょこんと座るソルとルナへ目を向ける。


「その二人は?」


 問いかけに対し、ソルとルナが同時に胸を張るようにして答える。


『妖精王』

『とても偉い』


 誇らしげな声に、ノエルは慌てて補足する。


「俺の召喚獣です」


『獣ではない。妖精王』

『訂正を要求する』


「話が長くなるから今は召喚獣でいいだろ!」


 ノエルが小声で必死に説得すると、騎士は困惑した様子で眉をひそめながらも、書類へ何かを書き加えた。


「使い魔および召喚獣の登録は学院で行うように」


「はい」


『妖精王』

『三度目』


「後で菓子買ってやるから今は黙ってて!」


 ノエルが小声で返すと、騎士は次の人物へ視線を移した。ニグルムが静かに身分証を差し出す。そこには偽名であるノクスの名が刻まれていた。

 騎士はそれを簡単に確認し、門柱の水晶へと視線を向ける。しかし、水晶は何の反応も示さなかった。


「通ってよし」


 短い言葉とともに、騎士は手を振る。

 御者が手綱を引き、馬車が再びゆっくりと動き始めた。巨大な門の下へと入っていく。

 石造りの天井が陽光を遮り、周囲は一気に薄暗くなる。車輪の音が反響し、馬の蹄の音が重く響いた。

 ひんやりとした空気に包まれながら、馬車は暗い通路を進んでいく。

 そして次の瞬間、ノエルの視界いっぱいに王都ミネルヴァが広がった。


「……すごい」


 城門をくぐったその瞬間、ノエルの視界いっぱいに広がった光景に、思わずその一言が漏れた。馬車の窓から身を乗り出すようにして外を見つめる彼の瞳には、隠しきれない驚きと興奮がありありと浮かんでいる。

 それ以外の言葉が、どうしても出てこなかった。

 城門から真っ直ぐに伸びる中央大通りは、まるでルーベ村の広場をそのまま引き延ばしたかのように広く、整然と敷き詰められた石畳は丁寧に磨き上げられており、降り注ぐ陽光を反射してきらきらと輝いている。その両側には、白や赤茶色の石で造られた建物が隙間なく並び立ち、一階部分には数え切れないほどの商店が軒を連ねていた。

 看板が掲げられ、旗が風に揺れ、窓辺には色とりどりの花が飾られている。そして何より、通りを埋め尽くすほどの人々。どこを見ても、色と音に満ち溢れていた。呼び込みの声、楽しげな笑い声、荷車の軋む音、遠くで鳴り響く鐘の音。それらが複雑に混ざり合い、まるで王都そのものが巨大な生き物のように呼吸しているかのような、圧倒的な活気を生み出している。


「祭りでもやってるのか?」


 ノエルは思わず隣に座るニグルムへ顔を向けた。だが、その視線はまだ外の景色に釘付けのままだ。


「平常通りだ」


 ニグルムは淡々と答える。その声音には、この光景が特別なものではないという確信が込められていた。


「これで?」


 ノエルは信じられないというように眉をひそめる。ルーベ村の祭りよりも、遥かに多くの人がいる。しかも、誰もが忙しそうに動き回りながらも、どこか楽しげな表情を浮かべていた。

 ふと視線を上げると、通りの上空には色とりどりの光を閉じ込めた硝子球が浮かんでいるのが見えた。

 支えとなる柱も糸もなく、大小様々な照明が、人々の頭上をゆっくりと漂っている。


「あれ、浮いてるぞ!」


 ノエルは指を差し、子どものように声を上げた。


『見れば分かる』

『興奮するノエル』


「どうして落ちないんだ?」


 ノエルは二人の言葉を無視して、純粋な疑問を口にした。


「浮遊石と光魔石を組み合わせた街灯だ。日没後は自動で明るくなる」


 ニグルムが簡潔に説明する。


「勝手に?」


「ああ」


「村にも欲しい」


 ノエルは即座に言った。頭の中には、夜でも明るく照らされた畑の光景が浮かんでいる。


『夜でも畑仕事ができる』


 ソルが現実的な利点を挙げる。


『ノエルが働かされる』


 ルナが冷静に付け加えた。


「やっぱり要らないかもしれない!」


 そんなやり取りをしている最中、馬車の横を大きな荷車が追い越していった。しかし、それを引く馬の姿はどこにもない。荷台の下に取り付けられた魔石が青く輝き、その力で幾つもの車輪を回転させている。


「馬がいない!」


 ノエルは再び驚きの声を上げる。


『魔動荷車』

『魔力で動く』


「知ってるのか?」


 ノエルが振り返る。


『今、見て理解した』

『知ったかぶり』


「自分で言うなよ!」


 魔動荷車の運転席では、作業着姿の男が細い棒を左右へ動かしている。その操作に合わせて車輪の向きが変わり、巧みに人混みを避けながら進んでいく様子は見事だった。


 さらにその上空では、建物の間を縫うように黒く長い物体が高架の上を走っている。何両もの箱を繋げた車体で、窓の向こうには大勢の乗客の姿が見える。屋根から青白い光を散らしながら、その車体は滑るように進んでいった。


「何だ、あれ!」


 ノエルはさらに身を乗り出す。


「魔導列車だ」


 ニグルムが答える。


「列車?」


「王都内の区画を結ぶ乗合車両だ。地下と地上、高架の三つの路線がある」


「速い!」


 ノエルの声には純粋な感動が混じっていた。列車は馬車を軽々と追い越し、そのまま次の建物の陰へと消えていく。


「馬車より速いぞ!」


「当然だ」


「乗ってみたい!」


 ノエルは目を輝かせる。


『菓子売りがいるかもしれない』

『乗る価値がある』


「何でも菓子で判断するな!」


 その時、通りの上を飛ぶ小さな金属製の鳥が、甲高い鐘の音を鳴らした。直後、前方の交差点に立つ柱から赤い光が灯る。

 すると、人々と荷車が一斉に止まり、左右の道から別の一団が動き始めた。


「何で皆、同時に止まったんだ?」


 ノエルは不思議そうに首を傾げる。


「交通整理用の信号魔導具だ」


 ニグルムが説明する。


「赤い光で止まるのか」


「青で進む。黄色は注意だ」


『ノエルは赤でも進みそう』

『人の流れに押される』


「俺だって規則くらい守る!」


 ノエルはむきになって言い返しながらも外の景色に次々と視線を動かす。そのたびに、新しいものが次々と目に飛び込んでくる。


 杖の先から水を撒きながら進む清掃用の人形、宙に文字を浮かべる店の看板、店先で自動的に動き、客へ頭を下げる鎧、水路を流れる水を空中へ汲み上げる錬金装置。

 王都の全てに魔法と錬金技術が、まるで呼吸をするかのように自然に生活へ組み込まれていた。


「ここ、本当に同じ国なのか?」


 ノエルは呆然と呟く。


「地方と王都では、使用できる魔導設備の数が違う」


 ニグルムは淡々と答えた。


「村にも分けてくれればいいのに」


「設備には魔石と維持費が必要だ」


「金がかかるのか」


『世の中は金』

『フィンが喜びそうな言葉』


「フィンって誰だ?」


 ノエルは首を傾げ、ルナも同じく首を傾げた。


『知らない』

『何となく言った』


「急に知らない人の名前を出すなよ!」


 ノエルは呆れたように言い、ニグルムが怪訝そうにルナを見る。


「予知か?」


『違う』

『たぶん』


「たぶんなのか」


 ニグルムは小さく息を吐いた。

 馬車が大通りを進むにつれ、遠くに見えていた王城が次第に大きくなっていく。建物の隙間から覗く城壁だけでも、ルーベ村全体を囲めそうなほどの規模だった。王城の手前には幾つもの塔が立ち、その周囲を騎士団の飛竜が旋回している。


「竜までいる!」


 ノエルは思わず声を上げた。


「あれは飛竜だ。純粋な竜種よりは小さい」


「十分大きいだろ!」


『肉が多い。非常食』

『飛竜は珍味』


「王都へ入った直後に騎士団の飛竜を食料扱いするな!」


 ノエルは慌てて声を潜める。ソルとルナの声が周囲にも聞こえたらしく、近くを歩いていた騎士がこちらを振り返った。ノエルは慌てて二人を両手で隠す。


『暗い』

『扱いが雑』


「逮捕されたくないんだよ!」


 ノエルは小声で必死に言う。

 ニグルムが僅かに笑う。


「王都へ着いて早々、騒動を起こすな」


「誰のせいだ!」


『妾たち』

『自覚はある』


「反省もしてくれ!」


 馬車はそのまま賑やかな大通りを進み続け、ノエルの驚きと興奮は尽きることがなかった。

 昼の十二時を知らせる鐘が王都の各所から一斉に鳴り響き、澄んだ音が石造りの街並みを伝って広がった。高低さまざまな鐘の音が重なり、街全体が呼吸しているかのように響く中、乗合馬車はゆっくりと速度を落とし、中央駅舎前の広場へ到着する。車輪が石畳を擦る音が止まり、馬が鼻を鳴らした。


「王都ミネルヴァ、中央南停留所だ!」


御者の張りのある声に応じて、乗客たちは一斉に動き出す。


「忘れ物をするなよ!」


その注意を受け、各々が荷物を確認しながら降車の準備を進める。ノエルも荷物を抱え、段差を踏みしめて外へ降りた。石畳に足をつけた瞬間、人々の話し声や商人の呼び込み、荷車の軋む音、鐘の余韻が一気に押し寄せ、王都の活気を肌で感じる。


広場の中央には翼を広げた女神の石像が立ち、その周囲には円形の噴水が設けられていた。水は下から上へと流れ、空中で弧を描いて落ちるという不思議な動きをしている。その光景にノエルは足を止めた。


「水が昇ってる」


呟くと、肩に乗っていたソルとルナが反応する。


『逆さ』

『飲みにくい』


「飲むためのものじゃないだろ」


二人はふわりと飛び立ち、噴水の周囲を一周してから再び肩へ戻る。その直後、ソルがぴくりと反応した。


『甘い匂いがする』

『右の方に菓子の店がある』


指し示された先には焼き菓子の露店が並び、香ばしい匂いが漂っていた。


「鼻が良すぎるだろ」


『妖精王の嗅覚』

『菓子限定』


「威厳がない!」


思わず声を上げると、通りすがりの人がちらりと視線を向けた。ノエルは咳払いで誤魔化し、御者や乗客たちと簡単な別れの挨拶を交わす。短い旅ながらも、そこには不思議な連帯感があった。


盾持ちの冒険者が肩を軽く叩く。


「学院生活、頑張れよ」


「ありがとうございます。車輪の修理も手伝ってくれて、助かりました」


ノエルは頭を下げて礼を述べる。


「入学したからって、無茶ばかりするな」


その忠告に、ソルとルナが即座に反応した。


『無理だと想う』

『ノエルなので』


「本人より先に答えるな!」


ノエルが慌ててツッコむと、冒険者は笑いながら手を振り、人混みの中へ消えていった。

その背中を見送った後、ノエルは隣に立つニグルムへ視線を向ける。


「学院は、どっちだ?」


「北東だ。ここからなら歩いて半刻ほどになる」


簡潔な答えに、ノエルは首を傾げる。


「魔導列車じゃなくて?」


「人が多い。それに初めてなら、街を見ながら歩いた方がいいだろう」


淡々とした言葉の中に、わずかな気遣いが感じられた。


「案内してくれるのか?」


「ああ」


当然のような返事に、ノエルは一瞬言葉を失い、胸の奥に小さな安堵を覚える。思わず口元が緩んだ。


「何だ」


「別に」


慌てて表情を引き締めるが、すでに遅い。


『嬉しそう』

『顔に書いてある』


「お前たち、その表現を誰にでも使うつもりか?」


『とても便利な言葉』

『感情が読める』


「それを俺に使うのをやめろよ!」


ノエルは両手で自分の頬を押さえ、無理やり表情を整えようとするが、口元だけはどうしても緩んでしまう。ソルとルナはそんな様子を肩の上からじっと見下ろし、まるで観察対象の珍獣でも見るかのように小さく首を傾げていた。 



            ☆



学院へ続く道は、中央大通りから外れた後もなお人の流れが途切れることなく続いていた。石畳の道の両脇には、書店や魔導具店、杖や剣を扱う武具店が軒を連ね、さらに学生向けの制服や教本を売る店も目立つ。店先には新入生らしき少年少女が立ち止まり、品物を手に取っては期待と不安が入り混じった表情を浮かべていた。通りを行き交う人々の多くはノエルと同年代で、大きな荷物を抱える者、家族と並んで歩く者、使用人を従えている者など、その立場や背景は様々だった。彼らの胸元には、学院の合格証を示す青銀色の徽章が光を受けてきらりと輝いている。


 そんな光景を見渡しながら、ノエルは歩調を緩め、周囲を見回した。


「皆、新入生か」


 少し驚いたように呟くノエルの隣で、ニグルムは視線だけを動かして周囲を確認する。


「おそらくな」


 短く答えるその声音は落ち着いていたが、周囲の様子を見極めるような鋭さがあった。


「人が多すぎる」


 ノエルは思わず肩をすくめる。人の多さに圧倒されているのがありありと分かる。


『ノエルなら友達を百人作れる』

『名前は覚えられないから絶望』


 ノエルの頭上でソルが淡々とした声で言い、続けてルナも同じ調子で言葉を重ねる。


「最初から諦めるなよ」


 ノエルは苦笑しながら軽くツッコミを入れたが、その声にはどこか緊張が混じっていた。

 その時、道の片側を重厚な音を立てながら立派な馬車が通り過ぎる。磨き上げられた車体には貴族家の紋章が刻まれ、周囲には騎馬兵が護衛として付き従っていた。通りの人々が自然と道を空ける中、ノエルは思わずその馬車へ視線を向ける。


 ふと、窓越しに座っていた少女と目が合った。反射的に、ノエルは軽く頭を下げる。

 すると少女は一瞬驚いたように瞬きをした後、控えめに、しかし確かに頭を下げ返した。

 馬車はそのまま静かに通り過ぎていく。その余韻を感じながら、ノエルはぽつりと呟いた。


「王都の貴族って、皆あんな馬車に乗ってるのか?」


 ニグルムは視線を前へ戻しながら答える。


「家格による」


「俺、学院で貴族と上手く話せるかな」


 不安を隠しきれない様子でノエルが言うと、ニグルムはわずかに肩をすくめた。


「無理に合わせる必要はない」


「でも、失礼なことをしたら困るだろ」


 ノエルは眉を寄せながら言葉を続ける。


「既に俺へ散々失礼な口を利いている」


「お前は最初、旅人のノクスだっただろ」


「今は?」


 ニグルムが問い返すと、ノエルは少し考えた後、あっさりと答えた。


「世界を滅ぼそうとする組織の首領である従兄弟」


『失礼にして正確』

『長い肩書き』


 ソルとルナが間髪入れずに補足し、ニグルムはその言葉に、ほんのわずかに眉を寄せた。


「学院内で俺のことを話すな。それとノクスという名も、できるだけ出すな」


 低く、しかしはっきりとした声で告げる。


「どうして?」


「お前との繋がりを知られたくない」


 その言葉を聞いた瞬間、ノエルの胸がわずかに沈む。歩きながらも、その感覚がじわりと広がっていく。


「俺と一緒にいるのが嫌だから?」


 少しだけ声を落として尋ねると、ニグルムは即座に首を横に振った。


「逆だ」


「私との繋がりが知られれば、お前が狙われる」


「金糸雀挽歌に?」


 ノエルは真剣な表情で問い返す。


「組織の外にも、私を憎む者はいる」


「多そうだな」


「否定はしない」


『人望がないのか』

『首領なのに』


 ソルとルナが容赦なく言い放つ。


「組織内ではある」


 やがて、通りの先に巨大な門が姿を現す。

 青白い石で造られたその門は圧倒的な存在感を放ち、左右には長く続く塀が広がっていた。その向こうには尖塔や校舎が立ち並び、中央にそびえる最も高い塔には、星と剣、そして開かれた書物を組み合わせた紋章旗が風に靡いている。


 ノエルは思わず足を止め、その光景を見上げた。


「あれが……」


 言葉を失いかけたノエルに、ニグルムが静かに告げる。


「王立アストル魔法学院だ」


「でかい…」


 ノエルは感嘆の声を漏らす。


『とても広い』

『ノエルは迷子になる』


「迷子にならない!」


 ノエルは力強く言い返した。学院前の広場には、新入生とその家族が集まり、ざわめきが絶えない。門の脇には手続きの案内板が立てられ、身分確認や称号仮登録、寮やクラス発表などの項目が並んでいる。矢印はすべて門の内側を指していた。


 その光景を一通り見渡した後、ニグルムが足を止める。


「ここまでだ」


「ここまで?」


 ノエルは振り返る。


「ああ」


「中には来ないのか」


「私は学院の関係者ではない」


「家族なら入れるみたいだぞ」


 ノエルは門の前で手続きをする親子連れを指差した。


「お前は従兄弟だろ」


「書類上は違う」


「ノクスとして入ればいいじゃないか」


「必要がない」


 その返答は簡潔だったが、門の向こうへ向けられた赤い瞳には、わずかな警戒が宿っていた。ノエルはそれを見て理解する。入れないのではない、入らないのだと。しばしの沈黙が流れ、周囲の喧騒とは対照的に、二人の間だけが静まり返っていた。

 ノエルは少しだけ視線を落とし、そして再び顔を上げる。


「次は、いつ会える?」


 思ったよりも弱い声だった。短い旅の間に交わした言葉、ぶつかった感情、教えられたこと、そして交わした約束。そのすべてが胸の奥に重く残っている。別れを前にして、それが一気に押し寄せてきていた。

 星明かりが静かに降り注ぐ夜の下で、ノエルは確かに約束した。もしも救いを求めて手を伸ばしたなら、自分もまた迷わず手を伸ばすと。

 短い時間の出来事だったはずなのに、振り返れば多くの感情と出来事が詰め込まれており、その余韻は胸の奥に深く残っていた。

 静かな空気の中で、ノエルはぽつりと呟いた。


「分からない」


 その言葉に応じるように、ニグルムは視線を落とし、淡々と答える。


「お前が学院にいる限り、簡単に会うべきではない」


 迷いのない冷静な判断だった。納得できないノエルは眉を寄せて問い返す。


「どうして」


 ニグルムは一瞬の間を置き、まっすぐに見据える。


「私はお前の敵だ」


 事実を突きつけられ、ノエルは肩をすくめる。


「それは知ってる」


 軽く返すその態度に、ニグルムの瞳がわずかに揺れる。


「私と接触すれば、お前の立場が危うくなる」


 理屈は正しい。しかしノエルはあっさりと言い返した。


「誰にも見られなければいいだろ」


 その言葉に、肩に乗るソルとルナが反応する。


『密会』

『怪しい響き』


「変な言い方をするな!」


 勢いよくツッコミを入れるが、胸の奥のもやもやは消えない。ニグルムはそんな様子を静かに見つめ、ふと問いかけた。


「寂しいのか」


「違う」


 即座に否定するが、ソルとルナが容赦なく続ける。


『寂しい』

『非常に』


「少しは空気を読め!」


『空気を読んだ結果』

『ノエルの心情を正直に伝えた』


「余計なお世話だ!」


 ノエルは視線を逸らす。その先には、家族と別れる人々で溢れる学院の入口が広がっていた。泣きじゃくる新入生、何度も注意を繰り返す母親、笑いながら背を押す父親。その光景が胸に刺さる。

 自分もまた村を離れ、そして今、ニグルムとも別れようとしている。その事実が静かに広がる。


「私も同じだ」


「何が?」


 ニグルムは視線を逸らし、再び見据えた。


「お前と離れることを、喜んではいない…だが、今は離れるべきだ」


「今は?」


「ああ」


 短い返答。しかしそれだけで、不安は少し和らぐ。永遠の別れではないと分かったからだ。

 ノエルは息を吐き、わずかに笑う。


「だったら、次に会う時までに考え直しておけよ」


「何を」


 ニグルムの問いに、ノエルは指を突きつける。


「世界を滅ぼすこと!学院で俺も色々学ぶ。お前もその間に、他の方法を考えるんだ」


「何の方法だ」


「世界を滅ぼさずに、お前が納得できる方法」


 ニグルムは眉をわずかに動かす。


「随分と曖昧だな」


「理由を話してくれないからだろ」


 即答するノエルに、ニグルムは目を細める。


「考えた結果、滅ぼすことが最善だと判断したら?」


「俺が止める」


 迷いなく言い切る。


「星明かりの下で約束しただろ。お前が俺の大切なものを傷つけるなら、剣で止める」


 その覚悟に、ニグルムは静かに頷く。


「世界も含まれるのだったな」


「当然だ」


 そこへソルとルナが口を挟む。


『菓子がなくなる』

『重大な被害』


「二人は少し黙ってろ!」


 そのやり取りに、ニグルムの口元にかすかな笑みが浮かんだ。


「ならば、強くなれ」


「言われなくても」


「今のお前では、私には届かない」


「すぐ追いつく」


「期待している」


 その言葉に挑発はなく、ただ静かな確信だけが込められていた。本当にノエルが自分を止められるほど強くなることを望んでいるように聞こえた。

 朝の柔らかな光が学院の門前を照らし、生徒たちのざわめきが遠くに広がる中、二人だけが切り取られたように静かな空気をまとっていた。

 ニグルムが右手を伸ばす。ゆっくりと、ためらうような動きでノエルの頭へ触れようとするが、途中で止まる。以前、勝手に触るなと言われたことを覚えているのだろう。白い指先が空中で迷い、その仕草は普段の彼からは想像できないほど人間らしかった。


「何だよ」


ノエルは眉をひそめながら見つめる。


「……触れてもいいか」


ニグルムは視線を逸らさずに問いかける。


「いちいち聞くのか?」


呆れたように肩をすくめるノエル。


「お前が嫌がった」


「それは寝てる時に勝手に触るなって意味だ」


ノエルは少し頬を膨らませる。


「今はいいのか」


「別れの挨拶くらいなら」


その言葉に、ニグルムの手がゆっくりと頭へ置かれた。壊れ物に触れるように優しく髪を撫でる。その温もりはどこか懐かしく、少しだけ寂しさを含んでいた。


「子ども扱いするなよ」


ノエルは不満そうに言うが、振り払わない。


「私より六歳年下だ」


「六歳しか違わない」


「十分だ」


短く断言される。


『ノエルは小さい』


『さらに子どもに見える』


ソルとルナが淡々と続ける。


「身長は関係ない!」


ノエルが即座に反論する。

やがてニグルムの手が離れ、温もりが消えた瞬間、空気が少し冷たく感じられた。ノエルはその感覚をわずかに惜しいと思う。


「ノエル」


「何?」


「学院を信用しすぎるな」


その言葉とともに、ニグルムの表情は一変し、金糸雀挽歌の首領としての冷たい眼差しへ戻る。


「学院は国の庇護下にある。教師の多くは優秀で、表向きは学生を守るだろう」


「表向き?」


「大きな組織には、必ず複数の思惑がある」


「金糸雀挽歌の構成員もいるから?」


「それだけではない」


「他にも敵がいるのか?」


「敵かどうかは、お前自身で見極めろ」


ニグルムはノエルの胸元へ視線を落とす。


「精神の境界を忘れるな。他人の言葉も、肩書きも、無条件に信じるな」


「お前の言葉も?」


「ああ。俺が何を言っても、自分で考えろ」


「…分かった」


「困った時は、一人で解決しようとするな」


「お前、俺のことを無謀だと思ってるだろ」


「事実だ」


『ノエルは無謀』

『猪のよう』


ソルとルナが補足する。


「誰が猪だ!」


『小さい猪』

『ウリ坊可愛い』


「それは褒めてない!」


ノエルが顔を赤くする。ニグルムは小さく息を吐き、わずかに口元を緩めた。


「危険を感じたら、ソルとルナを通じて私へ知らせろ」


「そんなことできるのか?」


『できるかもしれない』

『ニグルムの魔力を覚えた』


「初耳なんだけど」


『今、思いついた』

『試したことはない』


「緊急連絡に使えるか分からないじゃないか!」


「私から術式を補助する」


「学院に近づかないんじゃなかったのか?」


「お前に危険があれば別だ」


迷いのない答えだった。


『過保護』

『かなり重い』


「お前たちは黙っていろ」


その時、門の方から新入生を呼ぶ声が響き、現実へ引き戻される。


「行け。受付に遅れるぞ」


「遅刻しない」


『不安しかない』

『かなり不安』


「絶対にしない!」


ノエルは強く言い切り、鞄を背負い直して門へ向かう。人の流れに加わりながらも、途中で足を止めて振り返った。


「ニグルム!」


声を張り上げる。


黒髪の青年は同じ場所に立ち、微動だにせずこちらを見ていた。


「絶対、また会おうな!」


周囲がざわめく中、ニグルムの赤い瞳がわずかに見開かれる。やがて表情が柔らぎ、返事を返した。


「次に会うまで、他の誰かへ無闇に手を伸ばすな」


「どういう意味だよ!」


「そのままの意味だ」


「困ってる人がいたら助ける!」


「それがお前を殺すと言ったはずだ」


「利用されないように強くなる!」


『また始まった』

『別れが長い』


「急かすな!」


ノエルが抗議する。


「では、せめて相手を選べ」


わずかな譲歩。


「努力する」


「努力では困る」


「俺の台詞を使うな!」


ノエルは思わず笑った。その笑顔はどこか吹っ切れている。今度こそ背を向け、門へ向かう。足取りは軽くないが止まらない。振り返ると、ニグルムはまだ同じ場所に立っている。さらに進み、もう一度振り返っても、変わらず見つめていた。


『何度振り返るのか』

『恋人との別れのよう』


「違う! 従兄弟だ!」


『ニグルムは違うと思っていそう』

『かなり重症』


「聞こえないところで好き勝手言うな!」


ノエルは顔を赤くしながら前を向く。

もう振り返らないと決め、人の流れに身を任せて学院の門をくぐっていく。ニグルムの視線は、ノエルの姿が人混みに消えるまで、ずっと背中へ注がれていた。



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― 新着の感想 ―
ノエルの前向きさと、ソルとルナとの切れ味抜群なツッコミの掛け合いが面白く、読んでいて明るい気持ちになります! 普通にそのまま学院に通うのかな?と思いきや、ニグルムの登場で一気に物語の引き出しが増えてワ…
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