☆二章☆1-3☆少年フラン
少年の身体が地面へぶつかる寸前、ノエルは一気に地面を蹴った。訓練で叩き込まれた魔力循環を反射的に脚へ集中させると、足裏から伝わっていた砂の感触が一瞬で遠のき、踏み込んだ脚が軽くなった。その勢いのまま前へ飛び出し、倒れ込んできた小さな身体を両腕で受け止める。
「あ、危なっ……!」
思っていた以上に軽い。ノエルより一回りどころか、二回りは小さな身体だった。
けれど、抱き留めた瞬間、それ以上に気になる異変に気づいた。服越しでも分かるほど身体が熱く、頬は真っ赤に火照っている。額や首筋には大粒の汗が浮かび、呼吸は浅く、唇も乾いていた。
「大丈夫か!?」
ノエルが声をかけると、少年の黄色と緑の瞳がゆっくりと開き、ぼんやりと焦点の合わない視線が俺の顔を捉えた。
「だ……れ……?」
「意識はあるな!」
返事ができるなら、まだ完全に意識を失ってはいない。とはいえ、このまま放っておいていい状態ではない。ノエルは少年を壁際の日陰へ運び、背中を支えながらゆっくりと座らせた。
『ノエル、水分不足』
ノエルの肩から飛び降りたソルが、少年の顔を覗き込む。
『体温も高い』
反対側ではルナが少年の額へ小さな手を当てていた。
「やっぱりか」
アリーナルムルに到着してから、フィンには何度も注意されていた。この国では、喉が渇いたと感じてから水を飲むのでは遅い。砂漠の熱は、自覚するよりも早く身体から水分を奪っていくらしい。
ノエルはその言葉を思い出しながら、腰に提げた鞄へ手を伸ばした。中に入っているのは、さっき買ったばかりの──
「よし、あった!」
青く透き通った瓶──市場で買ったばかりの砂海雫だ。蓋を開けると、中の液体がまるで沸騰しているかのように小さく波打った。見た目はどう見ても熱そうなのに、実際には驚くほど冷たい飲み物。
ノエルは少年の肩を支えながら、瓶の口をそっと唇へ近づけた。
「これ、飲めるか?……ゆっくりでいいから」
「ん……」
少年が小さく口を開いた。
一度に飲ませないよう、ほんの少しだけ傾けると青い果実水が唇へ触れる。
「……ん」
一口、二口とゆっくり飲み、喉が小さく動く。やがて、少年の目が少しだけ見開かれた。
「……冷たい」
「そりゃそうだ。この国の暑さ対策の飲み物らしいぞ」
「……ボク、死んだ?」
「縁起でもないこと言うな!」
思わずツッコミを入れると、少年は何度か瞬きをした。どうやら、少しずつ頭が回ってきたらしい。そして改めて、ノエルの顔を見上げ──
「ん……んん?」
「どうした?」
「……可愛いお姉さん?」
「男だよ!」
『『いつものこと』』
「お前らまで納得するな!」
(初対面の相手にまでこれか!砂漠の国まで来て、俺はいつまで女に間違えられ続けるんだ!)
少年はノエルの顔をじっと見つめてから、少しだけ首を傾げた。
「お兄さん……変な人だね」
「助けてもらって最初の感想それ!?」
「だって…知らない子どもに、飲み物くれるから」
少年はノエルの手の中にある砂海雫を見る。
「倒れてたら普通助けるだろ」
「……普通?」
「ああ」
少年はゆっくりと首を傾げた。何を言われたのか理解できないというより、そもそもその言葉が示す意味そのものを知らないようだった。左右で色の違う瞳が不安げに揺れ、唇がわずかに開く。
「知らない人でも?」
「知らない人でも」
「……あとで悪いことする人かもしれないよ?」
「その時はその時だろ」
「騙されるかもしれない」
「倒れてる奴を放っておく理由にはならないだろ」
少年は黙った。黄色と緑の瞳が、こちらを見つめている。さっきまでぼんやりしていた目に、ほんの少しだけ鋭い何かが宿ったような気がした。ノエルの顔というより、その奥にある何かを確かめるような視線だった。
(……なんだ?)
ノエルがそう思った次の瞬間、少年はいつの間にか、年相応の無邪気な笑顔を浮かべていた。
「ふぅん」
「何だよ」
「別に」
(変な奴だな。まあ、俺も人のことは言えないけど)
『ノエル、この子少し変』
ソルが俺の耳元まで飛んでくる。
「え?」
ルナも少年をじっと眺めている。
『敵意はない』
「なら大丈夫だろ」
『ノエルは警戒心を母のお腹に置いてきた』
「どういう意味だよ!」
『そのままの意味』
「生まれる前から無かったことにするな!」
少年がくすっと笑った。
「面白いね、お兄さん」
「そりゃどうも」
(…少し顔色が戻ってきたな)
ノエルは安心して、少年の隣へ腰を下ろした。
「そう言えば、お前の名前は?」
ノエルは少年の様子を窺いながら、できるだけ穏やかに尋ねる。先ほどより顔色は戻っていたが、まだ頬には熱が残っている。身体を支える腕にも、十分な力は戻っていないようだった。
「ボク?」
少年は自分を指差した。名前を尋ねられること自体が意外だったような反応だった。
「他に誰がいるんだよ」
思わず呆れた声を漏らすと、少年は一瞬目を伏せ、抱きしめていたぬいぐるみへ視線を落とした。縫い目だらけの頭を指先でそっと撫でてから顔を上げると、左右で色の違う瞳が、まっすぐノエルを見つめていた。
「フラン」
短い名前だった。
乾いた路地裏の空気の中で、その響きだけが妙に鮮明に残る。
「俺はノエル。ノエル・メレディス」
「ノエル……」
フランは、初めて耳にしたその響きを忘れまいとするかのように、確かめるよう一音ずつ小さく繰り返した。その様子に、ノエルはわずかに首を傾げた。
「よろしくな、フラン」
右手を差し出すと、フランはそれをじっと見つめた。伸ばしかけた指を途中で止めたものの、やがて意を決したようにノエルの手を握る。
その手はひどく冷たかった。熱のこもった身体に触れたせいか、その冷たさがいっそう際立って感じられた。
「……うん」
返事は、ほんの少し遅れた。握った手を見下ろすフランの表情には、戸惑いとも驚きともつかない色が浮かんでいる。けれどノエルは、それをまだ体調が戻りきっていないせいだと思った。だから何も尋ねず、その手を握ったまま、しばらく様子を見守った。
やがてフランの呼吸が落ち着いてきたのを確認し、残っていた砂海雫を少しずつ飲ませる。飲み終わる頃には、さっきまで真っ赤だった頬も、だいぶ落ち着いていた。
「お腹は減ってない?」
フランはしばらく考えた。
「ちょっと」
「じゃあ、これ食うか?」
ノエルは鞄から紙包みを取り出した。中に入っているのは、さっき市場で買った焼き菓子だ。ナッツと果実を蜜で固めたもので、フィンが「砂漠の携帯食にもなるぞ」と教えてくれた菓子。
ソルとルナにせがまれて買ったものだが、二人の分とは別に、ノエル自身が食べるつもりで取っておいた菓子。
ノエルは紙包みを開き、焼き菓子を半分に割った。
「ほら」
「……いいの?」
「いいって」
「お兄さんの分、減るよ?」
「また買えばいいし」
「…………」
(なんでそんなに驚くんだ? そんな大したことをしたつもりはないのに…)
フランは両手で菓子を受け取ると、一口かじった。しばらく黙って咀嚼し、それから目を丸くする。
「甘くておいしい」
「良かったな」
『ノエル…妾の分』
ソルがジト目で見てきた。
「まだあるって」
『ならいい』
『妾のもある?』
ルナも聞いてくる。
「あるよ!倒れた子ども相手にまで食い物の取り分を心配するなよ」
ノエルが呆れていると、フランがまた笑った。さっきよりもずっと自然な笑い方だった。ふと、ノエルはフランがずっと胸に抱いているものへ目を向ける。
(ぬいぐるみだ。海の生き物……だよな?)
黒と白を基調にした、丸みのある姿をしている。ただ、かなり凄いことになっていた。布地のあちこちに継ぎ接ぎや縫い目、補修跡があり、一部は糸の色まで違っている。
誰かが何度も壊れたそれを縫い直しながら、大切に使ってきたのだろう。
「そのぬいぐるみ」
「……ん?」
フランの腕が、ほんの僅かに強くぬいぐるみを抱きしめた。
「随分と大切にしてるんだな」
フランは、ノエルの言葉をすぐには理解できなかったようだった。黄色と緑の瞳を見開き、ノエルと腕の中のぬいぐるみを交互に見つめている。まるで、ノエルが何を言ったのかではなく、本当にそんな言葉を聞いたのかを確かめようとしているみたいだった。
やがて、フランの指がぬいぐるみの継ぎ目をそっと撫でる。ノエルには、フランが何に驚いているのか分からなかった。ただ、大切なものを大切だと言っただけだ。なのに、それがまるで特別なことみたいに、フランはぬいぐるみを抱く腕へ力を込めていた。
黄色と緑の瞳が、わずかに揺れている。
(…何かを間違えてしまったのか…?)
「……大切?」
「うん。そんなボロボロになるまで持ち歩いて、それでもちゃんと直してるんだろ?だから、好きなんだなって」
ノエルとしては、ただそれだけの意味だった。けれどフランは、まるで予想もしていなかった言葉を聞いたかのように目を瞬かせ、黄色と緑の瞳をぬいぐるみへ落とした。細い指が、何重にも重なった縫い目をそっと撫でる。
「……うん。妹と、お揃いなんだ」
「妹いるのか?」
「うん」
今度こそ、それは本当に素の笑顔だった。
無邪気で年相応の、何の裏もない表情。そこに浮かんでいたのは、ただ妹の話をする兄の顔だった。
「そっか!」
ノエルはなんとなく嬉しくなって、さらさらした黄緑色の髪に手を置いた。子ども扱いするなと怒られるかと思ったが、フランは避けなかった。そのため、俺はそのまま優しく頭を撫でた。
「いいお兄ちゃんなんだな!」
何気なく口にした言葉だった。
妹とお揃いのぬいぐるみを大切そうに抱えている。何度も破れ、そのたびに縫い直されながらも、今なお手放さずにいる姿を見て、きっと妹のことも大切にしているのだろうと思った。
だからノエルは、ただ素直にそう伝えただけだった。
「…………え?」
「ん?」
フランの戸惑った様子にノエルは手を止め、首を傾げる。何か変なことを言っただろうか。フランはノエルを見上げたまま、瞬きすら忘れたように動かない。路地裏を吹き抜ける風が頭上の古びた布を揺らし、破れた隙間から差し込む陽光が、その頬を照らしていた。
先ほどまで熱で赤くなっていた顔とは違う、別の赤みが頬に浮かんでいる。
「フラン?」
呼びかけても返事がなかったため、ノエルは不安になって少年の顔を覗き込んだ。目は開いているし、呼吸もしている。けれど、明らかに様子がおかしい。
(やばい!また具合が悪くなったのか?)
「おい、大丈夫か?」
「……分かんない」
「何が!?」
フランが胸元を押さえる。
「ここ、変」
「胸!?」
ノエルの背中を冷たい汗が伝った。
さっきまで暑さで倒れていたんだ。水分を取らせたから大丈夫だと思っていたけど、まだ何か悪い症状が残っているのかもしれない。
「痛いのか!?」
「違う」
「苦しい?」
「それも違う」
「じゃあ何!?」
「分かんないから、分かんないって言ってる」
「いやそうだけど!」
フラン本人も、本気で困惑しているらしい。胸元を押さえたまま何度も瞬きを繰り返し、自分の身体に起きていることを理解できずに戸惑っているようだった。指先は服の上から何度も胸を確かめている。鼓動を探しているのか、それとも、そこに生まれた感覚をどう扱えばいいのか分からないのか。
「……あったかい」
フランが、独り言のように小さく呟いた。
「熱中症ぶり返した!?」
ノエルは慌ててフランの額へ手を伸ばした。先ほどより熱いわけではなく、むしろ体温は少し落ち着いているようだった。
「違う」
「じゃあ何だよ!」
「だから分かんない」
ノエルが頭を抱えている横で、ソルとルナはいつもの淡々とした表情を浮かべながらも、普段より鋭い視線でフランの様子をじっと見つめていた。
『心拍数上昇』
『顔も少し赤い』
「やっぱりまだ具合悪いんじゃないか!?」
「違うと思う」
「いや、でも顔赤いし!」
「暑いから」
「さっきより赤いぞ!?」
「そう?」
「そうだよ!」
ノエルが指摘すると、フランは自分の頬へ手を当て、それから胸元へ視線を落とした。小さな手が、もう一度そこへ触れる。まるで、生まれて初めて自分の中に芽生えたものを確かめるように。
胸の奥で鳴る鼓動、そこから広がる名前のない気配。熱とは違う。痛みとも、苦しさとも違う。けれど、それが確かにそこにあることだけは分かった。
フランは、こんな感覚を知らなかった。
誰かに優しくされることも、無条件に肯定されることも、自分の存在をただ好意的に受け止めてもらうことも。
だから、この感情をどう呼べばいいのか分からない。
指が胸元の布をゆっくりと握り込む。表情には困惑と戸惑いが浮かび、どうしていいのか決められないまま、ほんの少し怯えているようにも見えた。
けれど、嫌がっているわけではない。逃げたいわけでも、振り払いたいわけでもない。
むしろ、胸の奥に残った温もりをこぼさないように、そっと確かめているようだった。
その表情は、ほんの少しだけ──嬉しそうに見えた。
「フラン様っ!!」
突然、路地の入口から大きな声が飛んできた。
振り向くと二人の女の人が、こっちへ向かって走ってくる。
「……メイド?」
どう見ても、メイド服を着た二人の女性だった。
一人は、コバルトブルーからネオンパープルへと移ろう髪をしていた。透けるように白い肌と細身の体つきが、彼女にどこか現実離れした印象を与えている。
もう一人は、彼女よりも小柄だった。深い海を思わせる濃い青の髪が肩から流れ、金と黄緑が混じり合った珍しい瞳が、静かな光を宿している。白い肌には、砂漠の強い日差しさえ馴染んでいないように見えた。
二人とも、灼熱の砂漠には不釣り合いなほど涼やかで、どこか異質な雰囲気を漂わせていた。
「フラン様!」
青紫の髪の女性がフランの前へ膝をつく。
「大丈夫ですか!? どこか痛いところは!? 気分は!? 吐き気は!? 眩暈は!?」
「フィサリア、近い」
「あっ、ごめんなさい」
フィサリアと呼ばれた女性が少しだけ下がると、今度はもう一人が、フランの顔を覗き込む。
「ほんっとに心配したんですよ」
「ヴェノニアも、ごめんね」
「ごめんね、じゃありません!」
ヴェノニアと呼ばれた女の人は怒っているようだけど、その声は明らかに安心していた。
「あれだけ勝手に出歩かないでくださいって言ったじゃないですか」
「暇だったから」
「暇で倒れないでください!」
「思ったより暑かった」
「砂漠ですからね!?」
(なんだろう。気持ちはすごく分かる)
ノエルも今、ほとんど同じことを言いたいと思っていた。
そのとき、フィサリアがこちらを見た。
「ところであなたは……?」
「俺は、たまたま路地で倒れたフランを見つけたんだ。砂海雫を飲ませたら、だいぶ良くなったみたいだけど、まだ本調子じゃないと思う。しばらく安静にしてあげて」
フィサリアの強張った顔から力が抜け、そのまま深々と頭を下げる。
「本当にありがとうございます!!」
「うわっ!?」
思った以上に勢いがあった。
隣ではヴェノニアまで頭を下げる。
「あたしたちの大事なフラン様をお救いいただき、本当にありがとうございます!」
「い、いや! そんな大したことしてないって!」
「大したことです」
フィサリアが顔を上げる。
さっきまでのおっとりした雰囲気とは違って、その目だけは真剣だった。
「この方は、ボクたちにとって何より大切な方なので」
「そ、そっか」
その言葉だけで、二人がフランを心から大切にしていることが伝わってきた。
主従なのか、それとも家族のような関係なのかは分からない。けれど、二人にとってフランがかけがえのない存在であることだけは、はっきりと感じられた。
「良かったな、フラン」
「何が?」
「こんな心配してくれる人が二人もいて」
またフランが妙な顔をする。
「……ノエルくんって、本当に変だよね」
「今日それ二回目な」
『三回目になる可能性は高い』
「数えるなソル」
ルナがノエルの頭へ着地する。
『でもノエルは確かに変だから合ってる』
「お前まで!」
フランはくすくすと笑った。どうやら、もう立てるらしい。自分の足で立ち上がったものの、まだ心配だったノエルが手を差し出すと、フランは素直に握り返した。触れた手のひらは小さく、あどけなさの残る子どものものだった。
「もう大丈夫か?」
「うん」
「これからは、ちゃんと水飲めよ?」
「うん」
「あと、勝手に一人で出歩くなよ」
「うん」
「……本当に分かってる?」
「たぶん」
「そこは『うん』で通せよ!」
フィサリアとヴェノニアもつられて笑った。フランは二人のもとへ歩み寄り、路地を出る直前でふと足を止めて振り返った。
「ノエルくん、助けてくれてありがとう!……また、ね?」
「おう!次は倒れる前に水飲めよ!」
「はーい」
三人が路地の向こうへ消えていく。
俺はその背中を見送りながら、小さく息を吐いた。
「無事でよかったな」
『ノエル』
「ん?」
肩へ戻ってきたソルが、三人の消えた方向を見る。
『あの三人』
「どうした?」
『……分からない』
「またそれ?」
『敵意はなかった』
ルナも同じ方向を見つめている。
『でも、何か変だった』
「何かって?」
二人とも答えない。まあ、妖精王にしか分からない感覚とかあるのかもしれない。けど……
「悪い奴には見えなかったけどな」
『ノエルの人を見る目は参考にならない』
「なんで!?」
『道端で世界を滅ぼそうとしている従兄を拾う』
「それ持ち出す!?」
『学院侵入者のカティアと知らないとはいえ、入学前から仲良していた…説得力がない』
「ぐっ……!いや、でも! ニグルムだって俺にとっては従兄だし、カティアだって最初は、おとなしくて気弱そうな女の子だと思っていたんだ!と、とにかく!アイリスたちのところ戻らないとな!」
話題を無理やり変えるためにそう言って、ノエルは鏡晶石を取り出した。
画面に指を触れると、数十件もの着信履歴に加え、何通もの手紙や緊急通信、位置情報の照会まで表示された。ノエルは、埋め尽くされた画面を無言で見つめた。
『多い』
『怒られる』
冷たい汗が背中を流れた。
「走るか」
『もう遅い』
『無駄な足掻き』
「だよな!」
☆
──その頃
ノエルと別れた三人は、市場の喧騒から離れた別の路地を歩いていた。
「本当に、お身体は大丈夫ですか?」
フィサリアが心配そうに問いかける。
「大丈夫」
フランは先ほどノエルから貰った焼き菓子の残りを小さく齧りながら答えた。
「思ったより暑かっただけ」
「だから申し上げたではありませんか」
ヴェノニアは呆れたようにため息をつく。
「あの老人とのお話が退屈だからって、勝手に出歩くからですよ」
「だって長いんだもん」
「話し合いというものは大体長いんです」
「フィサリアとヴェノニアに任せればいいかなって」
「そういう問題では……いえ、それよりも…あの子どもは殺しますか?」
「なんで?」
フランが心底不思議そうに振り返る。
「顔を見られました」
フィサリアも静かに続ける。
「今後のことを考えれば、見られていない方が安全なのは確かです」
「うーん……」
フランは立ち止まり、腕の中の縫い目だらけのぬいぐるみへ視線を落とした。先ほど頭を撫でられた感触と、胸の奥に残る正体の分からない温かさを思い返す。やがて、彼は小さく笑った。
「だめかなぁ。彼は、あの方のモノだから…壊しちゃダメだよ」
フィサリアとヴェノニアの目が僅かに細くなる。
「「承知しました」」
フランは再び歩き出した。顔には、路地でノエルと話していた時と変わらない、子どもらしい笑顔が浮かんでいる。
「また会おうね?…ノエルくん」
その口元には無邪気な笑みが浮かんでいた。
そこからこぼれた声はあまりにも明るく、弾むような声色だったが、その無邪気さの中に、聞く者の背筋を冷たく撫でるような不気味さを滲ませていた。
☆
「ノエル・メレディスさん?」
「はい!」
市場近くの広場で、ノエルは見事なまでに姿勢を正していた。目の前では、アイリスが笑っている。とても綺麗な笑顔だが、その目はまったく笑っていなかった。
「わたくし、申し上げましたわよね?」
「はい」
「知らない場所で勝手に一人で行動しないように、と」
「はい」
「聞いていました?」
「聞いてました」
「では何故、消えましたの?」
「倒れそうな子どもがいたからです!」
「理由を聞いているのではありませんわ!」
「はい!」
アイリスの隣では、アルベルトも腕を組んでノエルを睨んでいた。
「君という奴は!! ここは学院じゃないんだぞ!」
「分かってる!」
「分かっている人間は連絡もせず路地裏へ飛び込まない!」
「ぐうの音も出ない!」
その後ろではフィンが心底安心したように笑っていた。
「でも無事でよかったよ」
「フィン……!」
「位置情報まで消えた時、本気で焦った」
「え」
フィンの笑顔が少しだけ薄れる。
「俺たち、かなり探したから」
「……ごめん」
今度は普通に申し訳なくなった。
シャスールもいつもの飄々とした表情でこちらを見る。
「僕も、何かに巻き込まれたのかと思った」
「シャスールまで……」
「ノエル、わりと巻き込まれるから」
「否定できない!」
そして───
「ノエルくん」
「…………はい」
最後に立っていたのは、コンラッドだった。
いつもの柔らかな笑顔を浮かべている。けれど、その背後には、黒いオーラと圧が静かに漂っていた。
「僕からも一つだけいいかな?」
「どうぞ」
「遠征開始初日、到着して数時間で学生一名、突然消息不明」
「…………はい」
「引率責任者の気持ち、分かるかな?」
ノエルは深々と頭を下げた。
「本当にごめんなさい!!」
市場中にノエルの声が響いた。
説教が終わると、コンラッドはノエルの鏡晶石を受け取り、画面を静かに確認していた。
「三号機」
《応答》
鏡晶石の表面に、古代守護機兵三号機の簡易表示が浮かぶ。
「ノエルくんの位置情報が消えた原因は?」
《対象が進入した路地周辺において、外部観測を阻害する局所結界を確認》
「局所結界?」
ノエルも画面を覗き込む。
「そんなのあったのか?」
《肯定。ただし侵入時点では魔力濃度が極端に低く、警戒対象として識別不能》
アイリスの表情が変わる。
「普通の路地裏に、そのような結界が?」
《用途不明》
アルベルトも眉を寄せた。
「誰かが意図的に設置していた可能性は?」
《否定不能》
コンラッドから、笑顔が少しずつ消えていく。
「ノエル。その子、本当にただの迷子だった?」
「たぶん」
「どんな子?」
「黄緑色の髪で、俺より小さくて、黄色と緑の目で……フランって名前だった」
「他には?」
「縫い目だらけのぬいぐるみ持ってた。妹とお揃いらしい。…あと、迎えにメイドさんが二人来た。フィサリアとヴェノニアって呼ばれてた」
「……そう」
「知ってる?」
「いや…今のところはね」
コンラッドは鏡晶石をノエルへ返した。声はいつも通りだったが、その目だけは、先ほどよりもはるかに鋭くなっていた。
砂漠の熱い風が広場を吹き抜ける。
ノエルには、路地裏で倒れていたフランが、そんな危険な奴にはどうしても思えなかった。ただ、あの時、ノエルを見つめた一瞬だけは、黄色と緑の瞳が妙に印象へ残っている。
───まるで、最初から俺のことを知っていたかのような
「……まさかな」
『ノエル』
「何?」
『今度は勝手に行ったらだめ』
「行かないよ!」
ルナが俺の頭の上から覗き込む。
『信用度が十%にも満たないほど低い』
「数値化するな!」
《契約者ノエルの単独行動再発率を算出可能》
「三号機まで乗ってくるな!」
フィンが笑い、シャスールもつられて笑った。アルベルトはまだ怒ったままで、アイリスは呆れたように額へ手を当てている。そんな中、コンラッドだけが、ノエルたちの向こうにある、あの路地へ続く道を静かに見つめていた。




