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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第二章 六芒獣編☆第一遠征アリーナルムル共和国編
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☆二章☆1-2☆砂漠の都オーリア


 飛行船がゆっくりと高度を落としていくにつれて、窓の向こうを埋め尽くしていた砂の海に、人の営みが見え始めた。

 

 最初に見えたのは、巨大な城壁だった。


 黄褐色の石を積み上げて造られたそれは、遠くから見れば砂漠そのものと溶け合っているようにも見える。

 またその城壁の内側には、想像していたものとは比べものにならないほど大きな都市が広がっていた。


 アリーナルムル共和国首都──オーリア


 空の上から遠目に見た時でも大きいとは思ったけれど、近づけば近づくほど、その規模がよく分かる。

 白や砂色を基調とした石造りの建物。

 建物と建物のあいだには巨大な布が渡されていて、強烈な日差しを遮る日除けになっている。

 太い水路が街の中央を縦横に走り、砂漠のど真ん中とは思えないほど豊かな水がきらきらと陽光を反射していた。

 大通りには荷物を満載した隊商。その馬車を引いているのは、馬ではない。背中に大きな瘤を持つ、毛むくじゃらの巨大な魔獣だ。


「なあフィン! あれ何!?」


「砂駱駝だよ」


「ラクダ?」


「砂漠の移動用魔獣。何日も水なしで歩けるんだ」


「すげぇ!」


 ノエルが身を乗り出すその横で、ソルとルナも同じく窓へぺたりと張りついた。


『大きい』

『乗りたい』


「だよな!」


 ノエルたち三人だけ妙に興奮し、後ろからアイリスのため息が聞こえた。


「ノエルさん。窓から落ちることはございませんでしょうけれど、もう少しお行儀よくなさってくださいませ」


「分かってるって」


「さっきも同じことを仰っていましたわ」


「今は地面近いから大丈夫」


「そういう問題ではございません」


 ノエルが笑って振り返ると、フィンは久しぶりの故郷を前に、いつも以上に機嫌が良さそうだった。シャスールは窓の外を眺めながら静かに目を細めている。


 そんな中、アルベルトだけは窓から最も遠い席に座っている。


「……アルベルト」


「何だ」


「もう地面近いぞ」


「だから何だ」


「もう窓の外を見ても大丈夫じゃないか?」


「見たくない」


「頑なだな」


「僕は景色を眺めるために来たんじゃない!」


飛行船がわずかに揺れた瞬間、アルベルトは椅子の肘掛けをぎゅっと握りしめた。それを見たノエルとシャスールは、同時に彼の手へ視線を向ける。


「見るな!」


「何も言ってない」


「顔が言っている!」


 シャスールは無表情に首を傾げた。


「僕は普通の顔だけど」


「余計腹が立つ!」


 前方ではアルベルトの高所恐怖症の元凶であるコンラッドがくすくす笑っている。


「ほら。もう着くよ」


 コンラッドがそう言った直後、飛行船が大きく旋回した。


「うっ……!」


「アルベルト?」


「何でもない!」


 (面白いな…いや、笑ったら怒るから黙っておこう)






          ☆





 


「暑っっっ!?」


 飛行船から降りた瞬間、ノエルは思わず叫んだ。

 空気そのものが熱を帯びている。ルーベ村の夏も暑かったけれど、ここは比べものにならない。肌を撫でる風さえ熱風で、息を吸うたびに喉の奥まで焼けるようだった。

 太陽に照らされているというより、街全体が巨大な炉の中へ放り込まれたみたいだ。


『ノエルが焼ける』

『残念ながら、美味しくはならない』


「焼くな!」


 ソルとルナはノエルの肩の上にちょこんと座る。

 日差しを嫌がるかと思ったけれど、陽を司る妖精王であるソルはむしろ気持ちよさそうで、陰を司る妖精王のルナも案外平気そうだ。


「これがアリーナルムルの暑さか……」


 ノエルが額に浮かんだ汗を拭うと、フィンはけろっとした顔で笑った。


「今日はまだ涼しい方だぞ」


「嘘だろ!?」


「いや、本当に」


 シャスールも平然としており、アイリスは汗一つかいていない涼しい顔をしている。一方、アルベルトは暑さに耐えるように眉間へ深い皺を寄せていた。


「……何で君は平気なんだ」


「俺はここ出身だからな」


「納得はするが腹が立つ……」


 そんな会話を交わしながら、俺たちは街へ入った。間近で見る首都オーリアは、想像していた以上に活気に満ちていた。

 通りを行き交う人々の多くは、猫や犬、狼、狐、熊、豹など、さまざまな獣の特徴を備えている。耳や尻尾だけが獣の姿をした者もいれば、鳥のような翼を広げて歩く者もいた。

 人の姿を保ちながらも、それぞれの種族らしさが表れた姿は、俺にとって見慣れないものばかりだった。


「うわ……」


 ノエルがきょろきょろしていると、フィンが笑う。


「そんな珍しい?」


「珍しいだろ。俺、王都に来て初めて獣人を見たんだ。学院にも獣人はいるけど、ここまでたくさんいるのは初めてだよ」


「フィンには耳ないよね」


 シャスールが言う。


「ああ。俺は四分の一だけ獣人だから、見た目はほぼ人間なんだ」


「ちょっと残念」


「何で!?」


 大通りを進むと、赤や青、黄色、緑など色鮮やかな巨大な布が、建物から建物へ何枚も渡されていた。風が吹くたびに布は大きく波打ち、強烈な日差しを遮っている。その下を流れる水路からは水が蒸発し、周囲の熱を和らげていた。さらに、店先には青白い魔法陣が刻まれた箱がいくつも並べられていた。


「フィン。あれは?」


「あれは冷却箱。市場で肉とか魚を腐らせないように冷やしてるんだ」


「へぇ……」


 砂漠では食料の保存も容易ではない。

 だからこそ、この街には暑さに対抗するための工夫が至るところに施されている。人々はただ過酷な環境に耐えているのではない。何百年、何千年ものあいだ知恵と技術を積み重ね、砂漠で生き抜くための文明を築いてきたのだ。


「面白いな」


「何が?」


「いや。砂漠ってもっと何もない場所だと思ってた」


 ノエルは水路の向こうに見える市場を眺めた。


「でも、ちゃんと砂漠だからこその街になってる」


 フィンが嬉しそうに笑う。


「だろ?」


 故郷を褒められたのが嬉しいみたいだ。ノエルもルーベ村を褒められたら嬉しいし、その気持ちは何となく分かる。すると、コンラッドがノエル達の方へ振り返り、声をかけてきた。


「観光はその辺にしておくんだよ?一応、僕たちは遠征任務で来ているんだからね」


「分かってる」


「本当に?」


「信用ないな!」


「普段の行いかな」


 (ひどい……まあ、否定はしづらいけど)


 そんなノエルたちのやり取りを聞いていたフィンが、何かを思いついたように突然手を叩いた。


「そうだ! みんな、腹減ってない? 現地の料理を味わうのも、文化を知るうえで大事だろ?」


「それは正しいね」


コンラッドはあっさりと認めた。


(……先生も食べる気なんだ)


「じゃあ市場行こう!」


 フィンに連れられ、ノエルたちは人で溢れる市場へ入った。






────

───

──



     





 ノエルは目の前に置かれた、黒くて大きな生き物を見つめた。何本もの脚が生え、尻尾の先には、いかにも毒を持っていそうな針までついている。


「この食べ物…蠍って何?」


 フィンは楽しそうに説明する。


「蠍は大きなハサミと毒針を持ってる生き物だよ。加熱調理すると毒の成分が分解されて無毒になるんだ」


「本当に?食ったら死ぬとかない?」


「ないよ!」


 フィンが自信満々だから大丈夫なんだろう。


「ただ…甲羅がすごく硬いから、獣人じゃないみんなは歯とか歯ぐきを傷つけないように気をつけた方がいいかも」


「食べ物で歯と歯ぐきに注意しろって初めて聞いた……」


 ノエルの隣では、アルベルトも大蠍の串焼きを凝視していた。

 漆黒の甲殻は焼いた油でぬらぬらと怪しく光を放ち、見た目からしてかなりの迫力がある。


「この大蠍の串焼き……見た目が……」


「アルベルトもそう思うよな?」


「生き物をそのまま棒に刺したようにしか見えない」


「実際ほぼそうだぞ」


「フィン、今は黙ってくれ」


 そんなノエルたちを横目に、シャスールは硬そうな甲羅へかぶりつき、バキッ、バリバリッと豪快な音を響かせながら、何事もなかったように食べ進めていた。


「普通においしい」


「嘘だろ」


「ちょっと香ばしい」


「わたくしも、いただきますわ」


 アイリスまで迷いなく一本手に取ると、バキッ、バキバキッと豪快な音を響かせながら、平然と噛み砕いていた。


「アイリス?」


「何でしょう」


「硬くないの?」


「少々歯応えがありますわね」


「少々!?」


 おかしい。絶対におかしいと思いながら、ノエルも恐る恐る一口かじってみた。


 ──がりっ


「っっっ!!! 硬い! 歯が負ける! 何だこれ!? いや、なんで全員噛めてるんだよ! 硬すぎて噛みきれないんだけど!!」


 アルベルトも恐る恐る一口かじると、ばきっ、と硬い音が響いた。彼は眉を寄せ、串焼きを見つめる。


「……うまいが硬いな」


「お前も噛めてるじゃん!」


「君の顎が貧弱なだけじゃないか?」


「絶対違う!」


『ノエルはか弱い。妾たちは柔らかいたこ焼きを食べたい』


「か弱くない!」


『ノエルだけ噛みきれないの可愛い。妾は柔らかいタコの唐揚げ食べたい』


「可愛くない!」


『『可愛い』』


「ハモるなよ!」


 ノエルが大蠍と格闘していると、フィンが笑いながら自分の皿を差し出した。


「じゃあ俺がノエルの串焼き食べるよ」


「いいのか?」


「うん。その代わり、これ」


 差し出されたのは、小さく丸いもの。

 外側はこんがり、上には茶色いソースのようなものが塗られている。


「砂ダコのたこ焼き!砂ダコは砂漠に住む魔物なんだ!海にいるタコと違って砂の中を泳ぐように移動するんだよ。食べる時は砂抜きしないとジャリッとするけど、ちゃんと処理すればすごくうまい」


「これなら勝てそう」


「食べ物相手に勝ち負けで考えるのやめなよ」


 シャスールの正論が刺さるが、とりあえず一つ口へ。


「熱っ!」


「焼きたてだからね」


「先に言え!……うまっ」


 外は香ばしく、中は柔らかい。ほどよい弾力のある砂ダコの身からは、不思議な甘みが感じられた。


「俺、これ好きだ」


『妾も』

『妾も食べる』


「分かったから二人とも引っ張るな!」


 ソルとルナが俺の頬を左右から引っ張るので、仕方なく二人用に小さく切ってやると、それぞれ一口ずつ食べた。


『おいしい』

『いっぱい買う』


「お前ら完全に観光客だな」


 (まぁ、俺も人のことは言えないけど)


 次は唐揚げ。こっちも柔らかくてうまいが、香辛料が強めで、後からじわっと辛さが来た。


「辛っ!」


「これ飲んで」


 フィンが満面の笑みを浮かべながら、青い瓶を差し出してきた。瓶の中の液体は、まるで沸騰しているかのように、ぐつぐつと不気味に波打っている。


「…………フィン」


「何?」


「これ熱湯じゃない?」


「違うよ」


「どう見ても沸騰してる!」


「大丈夫!とっても冷たいから」


「意味分かんない!」


 瓶の中の青い液体は、鮮やかなコバルトブルーに輝きながら、確かに熱湯のように激しく波打っていた。表面では細かな泡が次々と弾け、瓶の口からは白い湯気が細く立ちのぼっている。

 ぐつぐつ、ぐつぐつ、と煮立つ音まで聞こえ、甘い果実の香りが鼻をくすぐる。

 けれど、瓶自体は普通に冷たい。ノエルは覚悟を決めて口をつけた。


「──冷たっ!?」


 思わず目を見開いた。氷水──いや、それ以上に冷たいのに、頭が痛くなるような刺激はない。喉を通った瞬間、心地よい涼しさが身体の内側へ広がり、ほんのりとした甘さと爽やかな果実の香りが口いっぱいに広がった。


「うま…これ何?」


「砂海雫(さかいしずく)だよ!砂漠に生える冷熱仙人掌(れいねつさぼてん)ってサボテンがあるんだけど、それの果汁を加工した飲み物」


 ノエルの鏡晶石が光り、画面上に三号機の簡易表示が浮かぶ。


《分析開始》


「お、三号機」


《分析開始…液体内に特殊な熱変換性魔力構造を確認》


 画面に図が表示される。


《原料植物は外部熱エネルギーを吸収し、内部魔力へ変換。その際に周辺温度を低下させる性質を持つ。熱を吸収して冷たさへ変換する植物》


 その横からシャスールが画面を覗き込む。


「面白い植物だね」


《摂取後、体表および体内の熱交換効率上昇を確認。推定効果時間、三時間から五時間》


「そんなに?」


 (…確かにさっきまで汗だくだったのに、今はかなり楽になっている!)


 アイリスも気になったのか、隣で一口飲んでいた。


「これは遠征中にも有用ですわね」


「だろ?砂漠じゃ有名な飲み物なんだ。隊商もいっぱい持ってく」


 フィンが得意そうに胸を張る。暑さをしのぐために、ただ冷却魔法へ頼ればいいわけではない。魔力を使えば、それだけ消耗する。だからこそ、この土地の人々は、巨大な日除け布や水路、冷却箱、そして砂海雫のように、自然の恵みを巧みに活用してきたのだ。

 街を歩いているだけで、砂漠で生き抜くために積み重ねられてきた知恵と工夫が、そこかしこに息づいているのを感じられた。


「……すごいな…砂漠だから不便なんじゃなくて、砂漠だからこういうものが生まれたんだな…」


 ノエルは青い瓶を眺めながら、そう呟くとフィンが少し嬉しそうに笑った。


「昔の人たちがいっぱい考えたんだろうな」


「そっか」


 ノエルはもう一口飲んだ。

 冷たくて甘い味がよほど気に入ったのか、ソルとルナは瓶の周りをくるくる飛び回りながら、小さな手を伸ばしていた。まるで宝物を見つけた子供のような二人の様子に、俺は思わず頬を緩めた。


『これを買う』

『たくさん』


「分かった分かった」


 ノエルは露店の店主を見る。


「これ、瓶で何本かまとめて買える?」


「もちろん!」


『何本かでは足りない』


「お前らどれだけ飲むつもりだよ」


『『いっぱい』』


「答えになってない!」


 結局、予想より多めに買うことになったが、異空小袋なら重さもかさばりも気にしなくていい。

 ノエルは青い瓶を一本ずつ袋へ収めていく。見た目は小さな袋なのに、砂海雫はもちろん、たこ焼きや唐揚げ、さらにはソルとルナ用のお菓子まで、次々と吸い込まれていった。


「ノエルさん」


「何?」


 振り返ると、アイリスが呆れたような、それでいてどこか楽しそうな表情でこちらを見ていた。


「遠征物資より食料の方が増えておりませんこと?」


 彼女の視線が、ノエルが持つ袋へ向けられる。

 遠征に来たはずなのに、ノエルたちの荷物はすでに観光帰りの土産物袋みたいになっている。


「……気のせいだ」


 ノエルはできるだけ平然と答えた。

 しかし、視線を逸らした時点で説得力はなかったらしい。


「鏡晶石に購入履歴が残っておりますわ」


 アイリスは腰に下げた鏡晶石へ目を向ける。

 淡い光を放つ水晶の表面には、ノエルたちが市場で購入した品物の一覧が表示されていた。砂海雫の本数、たこ焼きの個数、唐揚げの個数、さらには甘味の種類まで、妙に細かく記録されている。


「余計な機能だな!」


 その隣で、コンラッドが肩を震わせて笑っていた。ネイビーの髪が風に揺れ、その瞳は完全にこの状況を面白がっている色が浮かんでいる。


「まあ、初日はこれぐらいでいいんじゃないかな?」


 コンラッドは周囲の市場を見渡しながら言った。

 首都オーリアの市場は、ノエルたちが立ち止まっている間にも絶えず動き続けていた。獣人の商人たちが大声で客を呼び、色鮮やかな布や装飾品を並べた店先では、尻尾を揺らした子供たちが楽しそうに走り回っている。

 冷却魔法の施された露店からは、ひんやりとした空気が流れ出していた。熱気に満ちた通りの中で、そこだけ別の季節になったように涼しい。


「先生がそう言うなら」


 正直に言えば、もっと見て回りたい。まだ食べていない料理もあるし、砂漠でしか見られない魔道具や装飾品も気になる。

 しかし、コンラッドは人差し指を立てた。


「ただし食べ歩きはここまでだ」


 ソルとルナはノエルの肩の上で、買ったばかりの砂海雫の瓶を抱えながら、同時にコンラッドを見上げた。


『まだ食べられる』

『甘いものが足りない』


「いや、お前達は結構食べてただろ」


 ノエルが小声で注意すると、二人は不満そうに頬を膨らませる。コンラッドはそんなノエルたちを見て、苦笑しながら市場の先を指差した。


「君たち、これからクローバー家に行くんだから」


 その言葉に、ノエルは一瞬だけ固まった。

そうだった。今日はフィンの家族に挨拶する予定だったのだ。

 フィンの故郷であるアリーナルムル共和国へ来た以上、彼の家族に会うのは当然の流れだった。とはいえ、十四人兄妹に六人の母親という、ノエルの人生でおそらく二度と耳にしないほどの大所帯である。

 話を聞いただけでもかなり驚いたが、実際に会うとなると、どんな家なのか想像もつかない。家の中に全員が入りきるのか。食卓はどれほど長いのか。そもそも、全員の名前を覚えられるのか。


 考えれば考えるほど、少し不安になってくる。それでも、不安以上に楽しみだった。

 フィンがどんな家で育ち、どんな家族に囲まれてきたのか。それを知ることができるのは、素直に嬉しかった。


「楽しみだな」


 ノエルはそう言いながら、手に残っていたたこ焼きを口へ放り込んだ。

 外側の香ばしさと、柔らかな砂ダコの食感が口の中に広がる。甘辛いソースの味が舌に残り、思わずもう一つ食べたくなった。


 その時だった。


「……ん?」


 ふと、市場の向こうへ視線が吸い寄せられた。人の流れが途切れた隙間、大勢の人々の足の間に、小さな影が見える。

 最初は、荷物を抱えた子供が歩いているだけだと思った。けれど、何かがおかしい。十歳より少し下くらいだろうか。遠目に見ているせいか、実際よりもさらに小柄に見える。黄緑色の髪が、日除け布の隙間から差し込む光を受けて淡く輝いていた。服装は周囲の人々と比べても簡素で、細い身体には少し大きすぎる布地がまとわりついている。


 少年はまっすぐ歩いていなかった。

 一歩足を出すたびに、二歩目では身体が左右へ揺れる。人の波を避けようとしているのか、それとも自分の身体を支えられないのか。その足取りは、酔っているようにも、ひどく疲れているようにも見えた。

 けれど、周囲の人々は少年の異変に気づいていない。あるいは、気づいていても関わろうとしていないのかもしれない。市場の喧騒は、少年一人を簡単に飲み込んでいた。


「……おい」


 胸の奥に嫌な予感が広がった。

 理由は分からない。ただ、あの少年を放っておいてはいけない──そう感じたノエルは、手に持っていたたこ焼きをフィンへ押しつけた。


「ノエル?」


 フィンが驚いたように目を瞬かせる。


「ちょっと待ってて」


 返事を聞くより先に、少年の身体が大きく傾いた。周囲の人々の影に紛れるように細い路地へ入り、その背中は、日除け布が落とす薄暗い影の中へと消えていった。


「おい!」


 ノエルは石畳を蹴って走り出した。

 市場の人々が驚いて振り返り、獣耳や尻尾が一斉に揺れる。露店の間を縫うように荷物を避けながら進み、肩から飛び立ったソルとルナを背に、少年の後を追った。


『ノエル、急いで』

『あの子、倒れる』


「分かってる!」


 背後から、アイリスたちの声が聞こえる。フィンがノエルを呼び、アルベルトが何かを叫んでいる。コンラッドの指示も聞こえた気がする。けれど、今は振り返っている暇などなかった。

 少年の姿が路地の奥へ消える。ノエルはすぐにその角を曲がった。


 すると、表通りの喧騒が一気に遠のいた。


 そこは、建物と建物の隙間に作られた、細く薄暗い路地だった。頭上には古びた布が渡されているものの、ところどころ破れている。裂け目から差し込む陽光が、舞い上がる砂埃を細い筋のように照らしていた。

 壁際には空の木箱が積まれ、乾いた風が吹くたび、どこかで金属片がかすかに鳴る。

 そして路地の奥で、小さな身体がゆっくりと地面へ倒れていくのが見えた。


「──っ!」


 ノエルは息を呑んだ。


 人波の向こうで、黄緑色の髪が陽炎のように揺れている。その下から覗く少年の顔はひどく青白く、生気が感じられなかった。

 やがて少年の膝が、力を失ったように崩れ落ちる。

 細い手が何かを掴もうとするように宙へ伸びた。指先はかすかに震え、届かないものを求めるように開閉している。

 少年の身体が地面へぶつかる寸前、ノエルは一気に地面を蹴った。

     


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