☆二章☆1-1☆砂の海
窓の向こうに広がっていた緑は、いつの間にか姿を消していた。代わりに現れたのは、どこまでも続く黄土色の大地。草原は次第に減り、岩肌が目立つようになり、それさえもやがて砂に呑み込まれていく。
王都ミネルヴァを出発してから、およそ一日半。 空の上を進み続けている中、ノエル・メレディスは、巨大飛行船の客室にある窓へ、文字どおり張り付いていた。
「うぉぉぉお!見えてきたぞ!!本当に全部砂だ!」
ノエルは、思わず声が出た。
見渡す限りどこまでも砂が広がり、砂丘や山のように盛り上がった場所もあれば、谷のように深く沈んだ場所もある。風に吹かれて波のような模様を描いているところもあれば、太陽の光を反射して金色に輝いている場所もあった。それでも、視界に入るのは砂、砂、砂。ルーベ村の周りでは、決して見られない景色だ。
そんなノエルの頭の上から、ひょこっと小さな顔が二つ覗いた。ソルとルナだ。手のひらほどの大きさしかない二人は、ノエルの頭を足場にするように立ち、そのまま窓の外を見下ろしていた。
『どこを見ても砂しかない』
『とても広い』
ソルがいつもの無表情で言い、ルナも同じく淡々としている。
「感想が簡潔すぎない?」
『事実』
『間違ってはいない』
「もうちょっとこう、感動とかないのかよ」
ノエルがそう言うと、ソルは少しだけ首を傾げた。
『砂』
「うん」
『大量の砂』
「うん」
『以上』
「諦めた!」
肩を落としたノエルの横で、フィンが楽しそうに笑った。
「ははっ!ノエル、そんなに珍しい?」
「珍しいに決まってるだろ! 俺の村なんて見渡しても森と畑と山だぞ? こんな景色初めて見た!」
「そっか。俺は逆に見慣れてるからなあ」
フィンは窓へ手をつき、いつもの能天気な笑顔とは違う、故郷へ帰ってきた者の懐かしそうな表情を浮かべていた。
「この辺まで来ると、もうアリーナルムルの領域だよ」
「もう?」
「うん。首都まではあと少し」
フィンの弾んだ声を聞いていると、ノエルは自分まで嬉しくなった。十四人兄妹で、父親一人に母親六人という、とんでもなく賑やかな家族の話をするたび、フィンは楽しそうに笑っていた。家族を語る彼の姿は心から幸せそうで、ノエルはそんなフィンを見るのが好きだ。
「砂漠って本当に終わりが見えないんだね」
少し離れた窓辺では、シャスールも外を眺めていた。金色の瞳が、連なる砂丘を興味深そうに追っている。
「森とは全然違う」
「そりゃ森と砂漠だからな」
「木がない」
「砂漠だからな」
「どこに隠れればいいんだろう」
「なんで最初に隠れることを考えるんだよ」
「癖」
「森の狩人って怖いな」
シャスールは何でもないように笑った。だが、彼の場合、本当に一瞬で敵の死角へ消えることがあるため、冗談では済まない。
その一方で、アイリスだけは真面目に膝の上へ大きな地図を広げていた。横には、共和国の歴史や政治、交易、魔物の分布、砂漠の気候についてまとめられた資料が積まれている。ノエルたちが窓へ張り付いて騒いでいる間も、アイリスは白銀の髪を耳へかけながら、淡々と文字を追っていた。
「アイリスも見ればいいのに」
ノエルが声をかけるとアイリスは資料から顔を上げた。
「あとで拝見いたしますわ」
「今しか見られないぞ?」
「帰りにも見られますでしょう」
「正論!」
「それよりノエルさん。現地へ到着する前に、共和国の行政区分くらい覚えておいた方がよろしいのではなくて?」
「…………」
ノエルはそっと窓へ顔を戻した。
「逃げましたわね?」
「聞こえない」
「聞こえておりますわよ」
『ノエルは勉強から逃げている』
ソルが告げ口する。
「裏切るな!」
『事実を報告しただけ』
ノエルたちがそんなやり取りを交わしている中、ただ一人、美しい景色に目を向けようとしない男がいた。アルベルトだ。
彼は客室の中央、窓から最も離れた場所に置かれた長椅子に、背筋を不自然なほど伸ばして座っていた。金髪に翡翠色の瞳、整った顔立ちと百八十八センチの長身を持つ公爵家の次男である彼は、普段なら何をしていても人目を引く。
しかし今のアルベルトは、顔面蒼白だった。
「アルベルト?」
「何だ」
「具合悪いのか?」
「何のことだ」
「いや、顔色」
「いつも通りだ」
「死人みたいな顔してるぞ」
「元気だ!」
どう見ても元気ではなかった。そんなアルベルトを見ていると、突然、飛行船がごう、と小さく揺れた。
その瞬間、アルベルトは両手で座席の縁を勢いよく掴んだ。木製の肘掛けが、ぎしりと嫌な音を立てる。
俺だけでなく、フィンもシャスールも、アイリスでさえ地図越しにその様子を見ていた。
客室には、気まずい沈黙が流れた。
「……アルベルト」
「何だ」
「怖いの?」
フィンは、窓から離れた客室中央の席に座るアルベルトへ、素直に問いかけた。
アルベルトは背筋を伸ばし、平静を装っている。しかし、座席の縁を強く握りしめた両手は、指先に力が入り、わずかに震えていた。
「怖くない!」
「手、震えてる」
シャスールが追撃する。
アルベルトは反射的に自分の手へ視線を落とした。確かに、座席を掴む指が小刻みに震えている。
「武者震いだ!」
「飛行船の中で何と戦う気なんだよ」
思わずノエルが突っ込んだ直後、飛行船が風を受けて小さく揺れた。機体の壁が低く唸り、窓の外の砂漠が一瞬だけ傾いて見える。
その瞬間、アルベルトの肩が跳ねた。何事もなかったように前を向こうとするが、座席を掴む手には、先ほど以上の力がこもっていた。
「大体アルベルト、初日のコンラッド先生の授業の時、高いところから落とされたじゃん。あの時は平気だっただろ?」
ノエルがそう言うと、アルベルトの表情がわずかに強張った。翡翠色の瞳が揺れ、座席の縁を掴む指先にも力がこもる。
「…………あれだ」
「ん?」
「あれのせいだ!」
アルベルトは勢いよく立ち上がった。だが、その瞬間、飛行船が再び大きく揺れる。足元を取られた彼は慌てて座席に手をつき、体勢を立て直そうとしたものの、そのまま倒れ込むように座り直した。何事もなかったかのように姿勢を整えたが、耳まで真っ赤に染まっていた。
「どういうこと?」
「昔の僕は高い場所など平気だった!」
「昔?」
「そうだ!」
「いつ?」
「入学前だ!」
「それ、まだ半年も経ってないんだけど……」
ノエルが呆れて言うと、アルベルトは勢いよくこちらを振り向いた。その顔には、恐怖を誤魔化すための意地と、どうしても認めたくないという悔しさが浮かんでいる。
「昔と今は違う!!」
力強く言い切られた。
なるほど、まったく意味が分からない。ノエルが首を傾げていると、背後から柔らかな声がかかった。
「人間って、きっかけ一つで苦手なものが増えるからね」
ノエルが振り返ると、そこにいたのはコンラッドだった。
今回のアリーナルムル遠征でノエルたちを引率する先生。夜の海を思わせるネイビーの髪と、鮮やかなピーコックグリーンの瞳。整った顔立ちに柔らかな笑みを浮かべている姿だけを見れば、誰もが穏やかな優男だと思うだろう。
──そう…見た目だけなら。
その笑顔の奥には、相手の逃げ道を楽しそうに塞いでいくような不穏さが潜んでいる。ノエルたちは、それをよく知っていた。
「先生…原因は分かってる?」
「もちろん」
「やっぱり先生のせいじゃん!」
「失礼だなあ」
「初授業で生徒を幻覚空間に落下させた人が何言ってるんだ!」
「でも実際には落ちてないよ」
「精神的には落ちたんだよ!」
「幻覚による落下と、その晩に地下神殿に強制転移後の二回目の落下…一日に二度も落下を経験した僕はあの日以来、夢の中で何度落下したと思っているんですか!」
ノエルに続き、アルベルトがものすごい勢いで叫んだ。
「ああ、それは大変だね」
「誰のせいだと!?」
「半分は僕かな?後半分はノエルくんだね!」
「俺っ!?いやぁ、まぁ…」
「ノエルはわざとじゃないですが、先生のは意図的なものでしょう!」
『確かに』
『ノエルはわざとじゃない』
「でも試験としては大成功だよね!」
「反省してください!」
「うーん……じゃあ、次からは落下高度を半分にしよう」
「そういう問題じゃない!!」
客室にアルベルトの絶叫が響き渡る。ノエルは笑いを堪えきれず、フィンも楽しそうに笑っていた。シャスールは相変わらず真顔を保っていたが、口元にはほんのわずかな笑みが浮かんでいる。一方、アイリスだけは深いため息をついていた。
「コンラッド先生、教師としていかがなものかと存じますわ」
「でもみんな成長したでしょ?」
「それとこれとは別問題ですわ」
「厳しいね」
コンラッドはまったく堪えておらず、反省している様子もない。アルベルトは再び長椅子に座ると、窓とは反対の方向を睨みつけた。
(…わざとじゃないけど…地下落下は俺が原因だよなぁ…よし)
「アルベルト」
「何だ!」
「せっかくだし見てみろよ!」
「断る!」
「砂が一面に広がってて綺麗だぞ!」
「断る!」
「ちょっとだけ」
「断る!」
ノエルが袖を掴もうとすると、本気で抵抗された。
「ノエル! いい加減にしろ!」
「大丈夫だって。窓割れたりしないから」
「そういう問題じゃない!」
『窓が割れた場合、この高度ならノエルたちもかなり危険』
ソルが余計なことを言い、アルベルトの顔からさらに色が消える。
「ソル!」
『事実』
「今は事実を言わなくていい!」
『妾は嘘をつかない』
「そこだけ妙に誠実!」
ルナがアルベルトを見る。
『大丈夫』
「……何がだ」
『落ちてもノエルなら助けようとする』
「安心材料になっていない!」
しばらくの間、客室は笑い声に包まれていた。その声を聞きながら、ノエルはこれまでの日々を振り返る。入学したばかりの頃は、こうしてアルベルトたちと旅をする日が来るなんて、想像もしていなかった。アイリスとは、出会った時から喧嘩のようなやり取りばかりだった。アルベルトとは、同室になった初日から言い合いをしていた。フィンやシャスールとは早くから打ち解けたものの、クラスが違うため、合同授業や休み時間以外に顔を合わせる機会は限られていた。
それでも、学院で日々を過ごすうちに、ノエルたちは少しずつ距離を縮めていった。意見がぶつかることもあれば、くだらない話で騒ぐこともある。けれど、気づけば今、ノエルたちは同じ飛行船に乗り、同じ目的地を目指している。
ノエルは窓の外へ目を向けた。
果てしなく続く砂の海が、陽光を受けてまぶしく輝いている。
「さて」
フィンが、ぱん、と両手を叩いた。
乾いた音が、飛行船の客室内に響く。窓の外を眺めていたノエルは、フィンへ顔を向けた。
「共和国が近づいてきたし、今のうちに大事なこと伝えておくね!」
「大事なこと?」
「うん」
故郷へ帰れるからか、いつも以上に表情が明るい。栗色の髪が窓から差し込む陽光を受け、柔らかな色に輝いていた。
「まず一つ目! 獣人の耳と尻尾には、勝手に触らないこと!」
フィンは人差し指を立て、真剣な顔で告げる。普段の柔らかな雰囲気からは想像できないほど、注意深い表情だった。
「触らないよ」
「珍しそうに見ても駄目だよ」
「見るくらい──」
「じーっと見るのも駄目な場合があるよ」
「なるほど」
フィンは念を押すようにノエルの顔を覗き込み、紫色の瞳でまっすぐ見つめた。その真剣な眼差しに、ノエルは思わず背筋を伸ばす。
「特にシャスール!」
「僕?」
突然名前を呼ばれ、シャスールが目を瞬かせる。彼は窓の外から視線を戻し、首を少し傾けた。三つ編みにまとめられたピンクブロンドの髪が、肩の動きに合わせてわずかに揺れる。
「シャスール、知らないものじっと見る癖あるだろ?」
「観察してるだけだよ」
シャスールは悪びれもせず答えた。
彼の金色の瞳には、いつものように魔法陣のような模様が浮かんでいる。本人にとっては、相手をじっと見ることも、周囲の構造を確認することも、すべて同じ「観察」なのだろう。
「それが失礼になることがあるから」
「難しくない?」
シャスールは本気で困ったように眉を下げた。森で暮らしてきたエルフにとって、相手の姿や動きを観察するのは自然な行為なのかもしれない。けれど、街中でそれをやれば、相手からすれば無遠慮に見つめられているだけだ。
「普通に接すればいいんだよ」
「じゃあ大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「不安だな」
「ノエルに言われたくない」
「なんで!?」
ノエルが声を上げると、アイリスは膝の上に広げていた共和国の地図を丁寧に畳み、資料の束を整えた。
「身体の一部へ不用意に触れることが無礼に当たるというのは理解できますわ。王国でも髪や顔へ勝手に触れれば失礼ですもの」
「そうそう。そんな感じ! 獣人にとって耳と尻尾は感情も出やすいし、かなり敏感だからね」
「感情が出る?」
「嬉しいと尻尾が動いたり、警戒すると耳が寝たり」
「へえ」
「ノエル、顔に面白そうって出てるよ」
「俺そんな分かりやすい!?」
フィンは苦笑し、アイリスは呆れたように眉を上げた。一方、シャスールは興味深そうにノエルの顔を見つめ、アルベルトは露骨にため息をついた。
「全員!?」
頭上にいたソルとルナも、ノエルを見下ろしていた。二人の小さな着物の袖が、飛行船の揺れに合わせてかすかに揺れている。金色の髪と青い瞳が、窓から差し込む光を受けて淡く輝いていた。
『分かりやすい』
『とても分かりやすい』
「俺に味方はいないのか」
フィンが笑いながら続けた。
「それから、種族によって挨拶の仕方も少し違うからね」
「そんなに違うのか?」
「全部覚えなくてもいいよ。でも代表的なのだけ……例えばライオンの獣人」
「確か、お前の父さんもそうだっけ?」
「父さんは半分だけね。祖母がライオンの獣人なんだ」
「なるほど」
フィンは自分の血筋に思いを馳せるように、わずかに目を細めた。普段はあまり意識していないのかもしれない。それでも祖母の話になると、彼の表情にはどこか懐かしさが滲んでいた。
「ライオンの獣人と挨拶するときは、ちゃんと正面から目を見て話す方がいい」
アイリスが興味深そうに聞く。
「理由は?」
「相手からずっと目を逸らしてると、『信用していない』『何か隠している』と思われることがあるんだ」
「種族の本能的なものでしょうか」
「たぶんね。群れの中で相手の表情を見る習慣から来てるって聞いたことある」
「へえー」
ノエルは頷く。獣人の文化は、王国で暮らしているだけでは知る機会が少ない。耳や尻尾の扱いだけでなく、挨拶の仕方にまで種族ごとの違いがあるとは思わなかった。
「じゃあずっと見つめてればいいのか」
「それは喧嘩売ってると思われる場合もあるよ」
「難しいな!?」
「普通にしろって言っただろ」
アルベルトが呆れた声を出す。
窓から離れた席に座っているせいか、さっきから会話だけは妙に冷静だ。けれど、彼の片手はしっかりと座席の縁を掴んでいる。
「普通が分かんないから聞いてるんだろ!」
「君は余計なことをするな。それだけでかなり事故は減る」
「扱い酷くない!?」
「次。ハイエナの獣人! 笑ってるように見えても、怒ってることがある」
フィンの表情が少し真剣になる。
先ほどまでの明るい笑顔が引き締まり、紫色の瞳が俺たちを順番に見渡した。
「……見分けられる?」
「慣れれば」
「慣れる前に怒らせたら?」
「謝ったらいいよ!」
「解決方法が雑!」
「大丈夫だよ。普通に礼儀正しくしてれば」
フィンはそう言って笑った。
けれど、ハイエナの獣人を怒らせた場合の対処法としては、あまりにも心許ない気がする。
アルベルトがこちらを見る。
「ノエルは慣れる前に怒らせそうだな」
「なんで俺限定なんだよ!」
「日頃の行いだな」
「アルベルトに言われたくない!」
「僕はいつでも礼儀正しい!」
「でも、先生に対してはたまにタメ口だろ!」
「それは先生側にも原因がある!」
ノエルとアルベルトが同時にコンラッドへ視線を向けると、コンラッドは少し離れた壁際で、窓の外を眺めていた。片手を座席の背もたれに置き、風もないのにネイビーの髪がわずかに揺れている。飛行船の周囲を流れる魔力の影響だろう。やがてこちらの視線に気づくと、コンラッドは困ったように肩をすくめた。
「僕を見るのやめてくれる?」
「原因あるじゃん」
「ありますわね」
「悲しいなあ。生徒からの信頼がない」
「自業自得」
「シャスールくんまでそんな事言うなんて、とても悲しいよ…」
コンラッドは口では嘆いていたものの、まったく落ち込んでいる様子はなかった。むしろ、ノエルたちの反応を楽しんでいるように見える。ピーコックグリーンの瞳はわずかに細められ、その表情には隠しきれない愉悦が浮かんでいた。
やがてコンラッドは立ち上がり、長い脚で床を踏みしめながら俺たちのもとへ歩いてくる。そのたびに、飛行船の微細な振動が靴底を通して伝わってきた。
「でも、フィンくんの説明はちゃんと聞いておいてね。アリーナルムルは、多種多様な獣人が暮らす国だ。王国では普通に通じる振る舞いが、あちらでは誤解を生むこともある。知らなかったこと自体は仕方ないけれど、知らないままでいいわけじゃない。相手の国を訪れるなら、その文化を尊重すること。遠征だからといって、戦うことだけが勉強じゃないからね」
コンラッドの声は穏やかだったが、引率教師としての言葉には、普段の軽さとは異なる重みがあった。これから向かうのは、王国とは異なる文化と価値観を持つ国だ。そこで暮らす人々にとっての常識が、ノエルたちにとっての常識とは限らない。だからこそ、知らないことを笑うのではなく、相手を理解しようとする姿勢が必要なのだろう。今回の遠征で求められているのは、まさにそういうことなのだと思う。
コンラッドの言葉に、アイリスも静かに頷いた。
「承知しておりますわ」
「分かった」
「僕も」
「うん」
四人がそれぞれ返事をすると、フィンは嬉しそうに笑った。ノエルたちが自分の故郷を知ろうとしていることが、よほど嬉しいのだろう。その笑顔を見ていると、ノエルまで胸の奥が温かくなった。
「じゃあ、俺が色々案内するよ!」
「頼む!」
「飯も案内する!」
「それ重要!」
「やっぱりそこなんだ」
シャスールが言う。
「だって外国来たら飯だろ!」
「歴史と文化ですわ」
「戦闘環境の確認だ」
「家族に会う」
「珍しい植物」
それぞれが楽しみにしているものは、見事なまでにばらばらだった。ノエルは現地の食事、アイリスは国の歴史や文化、アルベルトは戦闘に備えた周囲の確認、フィンは故郷の家族との再会、そしてシャスールは砂漠にしかない植物を探すことを楽しみにしている。
同じ遠征に参加しているというのに、目的だけは誰一人として一致していない。そのことがおかしくて、ノエルは思わず笑った。
「全部やればいいじゃん」
そう言った直後、飛行船内に低く美しい鐘の音が響いた。
重い駆動音が客室の床を伝い、足元から身体の奥へと響いてくる。壁に取り付けられた小さな魔導灯が一斉に明滅し、窓の外では砂漠の地平線がゆっくりと傾いていった。
やがて機体が静かに高度を下げ始めると、アルベルトの肩がびくりと跳ねた。
「到着するみたいだね」
コンラッドが窓の外へ目を向けると、アルベルトの肩がびくっと跳ねた。
「下りてる!?」
「そりゃ着陸するんだから下りるだろ」
「分かってる!」
「大丈夫?」
「大丈夫だ!」
絶対に大丈夫じゃないだろ、と思いながら、ノエルは再び窓へ駆け寄った。窓枠に手をつき、身を乗り出して外を覗き込む。
先ほどまで視界を埋め尽くしていたのは、果てのない砂の海だけだった。
けれど───
「おお……!」
ノエルの口から、思わず声が漏れた。
砂漠の彼方に、巨大な都市が浮かび上がっていた。
幾重にも連なる城壁が街全体を囲み、陽光を反射する白い建物や、砂嵐から都市を守るようにそびえる塔が、大地から突き出した鉱石のように輝いている。都市の中心には巨大な宮殿らしき建物がそびえ、その周囲には色鮮やかな布で覆われた市場が広がっていた。無数の人々が行き交い、街の外周を走る水路は、空から見ると細い青い線のように伸びている。その周囲には緑の木々や植物が集まり、乾いた大地の中で、そこだけが別の世界のような景観を作り出していた。
さらに遠くには、長い隊商の列が伸びている。巨大な荷車を引く魔獣や、砂漠用の装備を整えた獣人たちが行き交い、風にたなびく旗が遠目にも鮮やかに揺れていた。都市へ向かう者と出ていく者が砂の上にいくつもの道を作り、絶えず人と物が行き交っている。
砂海に浮かぶその巨大都市は、まるで荒涼とした大地に築かれた一隻の船のようだった。
ノエルは窓へ手をついたまま、しばらく言葉を失った。
ルーベ村とも、王都ミネルヴァとも、学院とも違う。知らない世界、知らない国、知らない人たち。
六芒獣、金糸雀挽歌、枯れ始めたオアシス、そして学院で見つかった古い記録。ノエルたちがこの国へ来た目的は、いくつもある。
けれど今だけは、そんなことを忘れていた。ただ純粋に、目の前に広がる景色へ胸を高鳴らせていた。
隣にフィンが立つ。彼は窓から故郷を見下ろしながら、いつもの人懐っこい笑顔を浮かべていた。
「ノエル」
「ん?」
フィンはノエルたち全員へ振り返った。
その瞳には、故郷へ帰ってきた喜びと、友達を迎え入れる誇らしさが混ざっていた。
「ようこそ!アリーナルムル共和国へ!」
その声には、友達を自分の家へ招いたときのような、素直な喜びが込もっていた。巨大飛行船がゆっくりと砂海の都へ降下していく中、ノエルたちの最初の遠征が、今まさに始まった。




