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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
52/67

幕間☆1.5-1☆理想を現実にするために

 アリーナルムル共和国への遠征が正式に決定してから数日が過ぎ、出発まで残り三日となった朝。

 王立アストル魔法学院の男子寮、その一室では、早くも小さな戦争が勃発していた。


「なあアルベルト。この紙、本当に全部必要なのか?」


 ベッドの上で胡坐をかいたノエルは、膝ほどの高さまで積み上がった書類の山を、嫌そうに見上げていた。

 書類の中には、提出書類や遠征申請書、緊急時行動規定、国外活動許可証のほか、アリーナルムル共和国の簡易歴史資料、砂漠地域で確認されている魔物一覧、毒物・疫病・危険植物に関する資料、現地の法律、外交上避けるべき行為など、学院教師から渡された注意事項が大量に含まれている。

 一方、向かいの机に座るアルベルトは、すでに自分の書類を種類ごとに綺麗に分類し終えていた。


「必要だから渡されているんだろう」


「いや、多すぎるだろ」


「君が読まないから多く感じるんだ」


「読んでる!」


「三枚目で寝ただろう!」


「あれは寝たんじゃない。ちょっと意識を失ってただけだ」


「それを寝たと言うんだ!」


 朝から喧嘩する二人を、ノエルの頭上に座ったソルが無表情で見下ろしていた。


『アルベルトの言うことが正しい』


「ソル!?」


 反対側の肩に座るルナも、静かに頷く。


『ノエルは文字が多いと眠る』


「俺を馬鹿みたいに言うな!」


『『事実』』



「二人で重ねんな!」


 ノエルはむっとしながら、一番上にあった紙をめくると、そこには赤字で大きく、【砂漠では水分補給を怠らないこと。怠れば、生命の危機に直結します】と記されていた。


「……これは読む」


「全部それぐらいの気持ちで読め!」


 アルベルトの怒鳴り声が部屋中に響いた直後、扉を叩く音が聞こえてきた。


「ノエル、アルベルト。起きてる…よね?」


 廊下からフィンの声が聞こえた。アルベルトが扉を開けると、フィンとシャスールが立っていた。

 フィンはいつも通り朗らかな笑顔を浮かべており、シャスールは、眠そうでも元気そうでもなく、相変わらず掴みどころのない表情をしていた。


「生徒会から呼び出しだって」


「生徒会? 僕たち五人全員が?」


 アルベルトが眉を上げる。


「うん。アイリスは先に向かったみたい。俺たち、何か悪いことしたかな?」


 フィンが首を傾げる。


「してない……と思う。たぶん」


 ノエルが答えると、アルベルトは不安そうに眉をひそめた。


「その間が怖いんだが…」


「大丈夫だよ。たぶん怒られるなら、僕も一緒だから」


 シャスールが淡々と告げる。


「それ、安心材料になってないだろ」


 ノエルは肩に乗ったソルとルナを見上げた。


『生徒会は危険』

『特にカルム』


「なんでカルム先輩限定なんだよ」


『女好きだから』

『ノエルが女顔だから』


「余計に行きたくなくなった……」


 そう言いながらも、ノエルたちは荷物を整え、生徒会室へ向かった。





────

───

──


         



 生徒会室は学院本館の上層階にあり、大きな窓から差し込む朝の光が、磨き上げられた木の床を淡く照らしていた。広々とした室内には長机や本棚が整然と並び、壁一面には学院行事の予定が貼り出されている。各国から届いた書類もきちんと整理されており、生徒会という名から想像する以上に、ここで多岐にわたる業務が担われていることがうかがえた。


ノエルたちが入室すると、アイリスはすでに到着していた。


「遅いですわよ」


「時間には間に合ってるだろ」


「五分前行動は常識ですわ」


「五分前は時間じゃないだろ」


「その考え方から改めるべきですわね」


「朝から厳しいな!」


 ノエルが言い返していると、生徒会長席に座っていたグレイシアが静かに立ち上がった。

 ライトブルーの髪と同色の瞳を持つ彼は、弟のアルベルトとは異なる雰囲気をまとっている。しかし、その整った顔立ちには、兄弟であることを疑いようのない確かな血のつながりが感じられた。


「揃ったな」


「兄上。今日は何のご用でしょうか?」


 アルベルトが姿勢を正す。


「学院長から聞いた。三日後、君たちはアリーナルムル共和国へ向かうそうだな」


「はい」


「調査とはいえ国外遠征だ。不測の事態も多いだろう」


 グレイシアが横へ視線を向けると、副会長のカルム、書記のフローラ、会計のコールが立っていた。彼らの前の机には、見慣れない魔道具がいくつも並んでいる。


「これは生徒会からの贈り物だ」


「俺たちに?」


 ノエルは目を丸くし、コールは柔らかく微笑んだ。


「正確には、俺が製作を担当し、会長、副会長、フローラが素材を集めてくださいました」


「へえ……」


 フィンが身を乗り出した。商人の息子らしく、珍しい魔道具への反応は早い。

 コールが最初に持ち上げたのは、手のひらより少し大きなシェル型のポーチだった。細いベルトが付いており、肩から下げられるようになっている。


「まずはこちら。【異空小袋】です」


「……小さいな」


 ノエルの率直な感想に、コールは笑みを深める。


「見た目だけですよ」


 彼が留め具を外して口を開くと、内部には暗闇が広がっていた。

 しかし、それは単なる袋の中の暗さではない。奥行きという概念そのものが失われたかのような、異質な空間が口の向こうに広がっていた。


「内部を異空間へ接続しています。収納物の重量も外部には反映されません。容量制限も事実上ありません」


「容量制限が……ない?」


 最も大きな反応を示したのはフィンだった。


「本当に!?」


「はい」


「うちの商会で扱ってる魔導鞄でも限界あるぞ!?父さんが知ったら絶対欲しがる!」


 フィンは目を輝かせながら異空小袋を覗き込んだ。


「現段階では学院管理の試作品なので、量産販売はできませんよ」


「残念!」


「商人の顔になってたぞ」


 ノエルが笑うと、フィンは悪びれた様子もなく胸を張った。


「良い物を見たら欲しくなるのが商人だからな!」


 コールは続ける。


「内部では時間の流れも停止しています。食料や薬品の保管にも適しています」


「便利ですわね」


 アイリスも興味深そうにポーチを見る。


「ただし、生きた人間や通常の生物を放り込むのは禁止です。事故防止のため術式側で弾くよう設定しています」


「じゃあソルとルナは?」


「召喚獣なら契約経路を通すことで例外処理できます。ただ──」


『妾は入らない』

『暗そう』


「別に入れようとしてないからな?」


 ノエルは苦笑しながら異空小袋を受け取った。脳裏に浮かんだのは、学院地下で仮契約を結んだ四体の古代守護機兵だった。


「守護機兵も入る?」


「そのためでもあります」


 コールが頷くと、ノエルは契約紋へ意識を集中させた。やがて淡い光が契約紋から溢れ出し、次の瞬間、四体の古代守護機兵が一機ずつ姿を現す。

 巨大な剣と盾を携えた一号機。弓と魔導砲を融合させた武装を備える二号機。長槍と複数の観測器官を持つ三号機。そして、全身を重厚な装甲で覆った四号機。

 四体の巨体が揃うと、広々としていた生徒会室でさえ、たちまち手狭に感じられた。


「うわ……改めて見るとでかいな」


 カルムが見上げる。


「室内で出すと圧迫感がすごいね」


「お前が言うと妙な意味に聞こえるな」


「なんで!?」


 グレイシアはカルムの反応を意に介さず、水色の瞳を前方へ向けた。その隣では、ノエルが周囲を一度見回し、小さく息を吐いて口元を引き締めると、異空小袋へ手を伸ばした。


「《収納》」


契約紋が淡く輝くと、四体の巨体は次々と魔力光へ変わり、一号機から四号機の順に小袋へ吸い込まれていった。最後の光が消えた後も、小さなポーチの重さはまったく変わらない。ノエルはそれを肩にかけ、確かめるように軽く持ち上げた。


「わぁ!!すっごく軽い!!」


「羨ましいなぁ…ノエル、後でちょっと貸してよ」


「商売始める気じゃないだろうな?」


「しないって!」


 フィンは満面の笑みを浮かべたが、絶対とは言わなかった。


「そして二つ目です」


 コールが机上に並べたのは、薄い長方形の魔道具だった。

 その表面を覆う透明な水晶は、細い縁には精緻な魔法陣が刻まれ、静かな輝きを宿していた。


「名称は【鏡晶石(きょうしょうせき)】」


 ノエルが一つ持ち上げる。


「これは鏡?」


「触ってみてください」


 言われるまま水晶面に指を触れると、画面がぱっと光り、水晶の画面に地図や文字、さまざまな小さな記号が浮かび上がる。

 指を滑らせるたびに表示が次々と切り替わり、ノエルの瞳が輝いた。


「うわ!何これ!」


「地図、万能辞書、写真撮影、動画記録、手紙の送受信、音声通話、その他にもいくつか機能があります」


「何でもできるじゃん!」


「エクスマキナの技術を基礎に、安全性を高めて創ったオリジナル魔道具です。学院に数台と、我々生徒会がそれぞれに一台ずつ、皆さんにも一台ずつ、さらに今回の引率教師用に一台用意しました」


 コールが得意げに説明する。


「つまり離れても連絡できますのね」


「はい。遠征先でも学院と情報共有が可能です」


 アイリスは満足そうに頷き、アルベルトも感心しながら画面へ触れた。


「通信距離は?」


「通常運用なら国家間でも可能です。学院側の大型中継術式を利用しますので」


「そんなものまであるのか……」


「さすが学院。うちの商会にも欲しいな」


フィンは鏡晶石を眺めながら、欲しさを隠しきれない表情を浮かべていた。


「だから売り物ではありません」


「分かってるって」


 本当に理解しているのか怪しい。

 その時、ノエルの手の甲に刻まれた契約紋が、淡く発光した。


「ん?これは…」


 鏡晶石まで呼応するように淡い光を放ち、コールの表情が変わった。水晶の画面には古代語らしき文字列が次々と浮かんでは流れていき、やがて表示が止まる。直後、無機質な声が室内に響いた。


《外部演算端末を確認》


「一号機?」


 ノエルが瞬きをする。


《分散稼働形態への移行が可能。現行端末性能を確認。低水準ながら使用可能》


 二号機の声が続いた。


「低水準!?俺、結構頑張ったんですけどね」


 コールの笑顔がわずかに引きつる。


《契約者間情報共有機構へ接続可能》

《安全性を検証。重大な欠陥なし》


三号機、四号機と言葉が続く。


「重大な、って何だよ」


ノエルが嫌そうな顔をすると、鏡晶石の水晶面に四つの小さな紋章が浮かび上がった。

 古代守護機兵たちは本体とは別に、自身の機能の一部を鏡晶石へ複製し始めたらしい。


「……まさか」


 コールが息を呑む。その数分後、テーブルに並べられた六台の鏡晶石が相互接続された。


 一号機は戦闘警告と防衛提案、二号機は遠距離情報分析と魔力測定、三号機は索敵・地図更新・記録、四号機は安全確認・危険度算出・撤退判断を担当する。

 本体を召喚していなくても、各機能を鏡晶石から利用できることが判明すると、コールは画面を見つめ、興奮に目を輝かせた。


「これは凄いですね……!俺の端末技術と五千年前の演算術式が直接接続しています。…これならもしかしたら……」


「壊れない?」


 ノエルが一番気になることを聞いた。


《現段階では問題なし》

《契約者が不用意に叩き落とす可能性を除けば》


 一号機の言葉に捕捉するように二号機が言葉を放つ。


「おい」


『過去行動から危険性あり』

『落下防止用の紐を推奨』


 続いて三号機と四号機も二号機の言葉を固定するような言葉を放つ。


「なんでお前ら全員俺を信用してないんだよ!」


『『妥当』』


「召喚獣に味方がいないんだけど!」


 生徒会室に笑いが広がった。


 魔道具の説明が一通り終わったところで、グレイシアが改めて口を開く。


「これは生徒会からの贈り物だ。遠慮せず使ってくれ」


「ありがとう、グレイシア先輩」


 ノエルが素直に頭を下げると、グレイシアは小さく頷いた。


「あ、そうだ! せっかく写真も撮れるなら、アリーナルムルの可愛い女の子の写真をいっぱい撮って送ってきてね! あ、戻ってきた時に直接見せてくれるのでもいいよ!」


 カルムが弾かれたように片手を挙げた。

 先ほどまで魔道具の説明に耳を傾けていた彼は、すっかり別人の顔になっている。長い前髪の隙間から覗く三白眼気味の瞳には、遠い異国の女性たちへ思いを馳せる熱が宿っていた。


 室内の空気が凍る。


 ノエルはジト目でカルムを見て、アルベルトは説明書を持ったまま固まった。フィンの笑顔は引きつり、シャスールは何かを察したように目を細める。

アイリスは、露骨な嫌悪を隠そうともしなかった。


 グレイシアがゆっくりカルムへ顔を向ける。そのライトブルーの瞳は、凍てついた湖の底のように冷たい。普段から感情を表に出さない彼の目に、今だけは呆れと失望がはっきり浮かんでいた。


「会長?なんでそんな目で見るの?」


 カルムの笑顔が崩れる。

 問いかけながらも、理由は分かっているらしい。背筋を縮め、逃げ道を探すように視線をさまよわせている。その隣では、フローラがにっこりと笑ていた。

 鮮やかな黄緑色の髪が肩から流れる。可憐な容姿だけなら、誰もが穏やかな少女を思い浮かべるだろう。……しかし、その瞳には笑みがなかった。


「この馬鹿の言葉は無視して大丈夫よ」


「馬鹿って言った!?」


 フローラはカルムの反応を気に留める様子もなく、人差し指を頬へ添えた。


「ああ、そうだわ!」


 声は弾んでいる。だが、その笑顔を見た瞬間、カルムの顔から血の気が引いた。


「筋肉が素晴らしい男性の写真をたくさん送りつけてあげたら、きっと泣いて喜ぶわね!」


「喜ばないよ!」


 カルムが叫び、机へ手をついた。長い前髪が大きく揺れ、普段の礼儀正しい副会長の面影は消え失せていた。

 コールが穏やかに口を挟む。


「副会長。そんな遠くの国の女性より、近場に麗しい女性教師の方々が大勢いらっしゃるじゃないですか」


 カルムの動きが止まった。ゆっくりと振り返ると、コールが柔らかな笑みを浮かべてこちらを見ている。声も言葉遣いも穏やかだったが、その言葉が単なる助言ではないことは明らかだった。


「それは遠回しに地獄を見ろって言ってる?」


 カルムが引きつった顔で問いかけても、コールはただ微笑んでいるだけだった。


「あら?それはどういう意味なのかしら?」


 フローラがカルムへ向ける笑みが一段と華やかになる。花が咲き誇るような美しさの奥に、獲物を見つけた捕食者の気配があった。


「い、いや、今のはそういう意味じゃなくてだね」


 カルムは両手を振りながら必死に弁解し、フローラは彼との距離を一歩縮めた。


「ローザ先生やヒストリア先生をはじめ、『百花繚乱の麗園』と呼ばれるほど美しい先生方が大勢いらっしゃるのに、どうして地獄になるのかしら?」


「それは……言葉の綾というか」


「言葉の綾?」


 フローラが首を傾げる。その仕草だけを見れば愛らしいものだったが、カルムには、背後で巨大な食虫植物が大口を開けているように見えた。


「では、直接聞きましょうか!」


「何を!?」


 カルムの声が裏返った。

 その隙を逃さず、フローラは笑顔のまま、さらに一歩踏み込む。


「女性教師の方々に、カルムが今まで言っていたことを一言一句お伝えして、感想を伺ってみようかしら?」


「待って待って待って!!それは誤解だ! 僕は別に、先生方を怖いとか危険だとか思ったわけじゃなくて!」


「危険とは?」


「そこを掘り下げないで!」


 フローラの笑みが深くなり、コールが静かに頷いた。


「それは良いですね。証言者が多い方が、正確な検証ができます。フローラ、俺も同行しますよ」


「検証しなくていいよ!」


「まずローザ先生でしょうか」


「やめて!!」


 カルムが悲鳴を上げる中、コールは指を折りながら、淡々と候補を挙げていった。


「次にヒストリア先生、あとはユリ先生、アイビー先生も加えれば、十分な検証になりそうですね」


「お願いだからやめて!!」


 カルムの悲痛な声が生徒会室に響き渡り、フローラは楽しそうに頷いた。


「そうね。皆さんに集まっていただいた方が、話も早いでしょうね」


「集めなくていい! 絶対に集めないで!」


「では、今から行きましょうか」


「今から!?」


 カルムが後ずさる。しかし背後には壁があり、左右にはフローラとコール、正面には凍りついた視線を向けるグレイシアがいる。

 逃げ場はなかった。

 ノエルたちは、もはや口を挟めずに見守っている。

 アルベルトは眉間を押さえ、アイリスは小さくため息をつき、フィンは笑いを堪えきれず肩を震わせている。そんな最中、シャスールはいつの間にか鏡晶石を取り出しており、ノエルは首を傾げる。


「シャスール、それ何してるんだ?」


「記録」


「何を!?」


「貴重な場面だから」


「消せ!」


「嫌だ」


 その間にも、カルムは必死に弁明を続けていた。


「僕はただ、遠征先の文化交流として写真をだね!」


「女性の写真限定なのね」


 フローラが満面の笑みで返す。


「いや、それは……」


「筋肉の素晴らしい男性の写真は?」


「それは絶対にいらない!」


「では、先生方の写真は?」


「もっといらない!」


「まあ!先生方の写真を撮るのは筋肉の素晴らしい男性の写真よりも嫌なのね」


 フローラが目を細める。


「そういう意味じゃない!」


 カルムは頭を抱えた。

 乱れた前髪の隙間から、隠れていた瞳が露わになる。普段なら何とか取り繕おうとする彼も、今は完全に追い詰められていた。

 

「では、まずローザ先生へ───」


「やめて!!」


 カルムが本気で涙目になっており、ノエルたちはその光景を呆然と見ていた。


「……学院へ入学する前は、生徒会って…もっとこう、威厳がある場所だと思っていました」


 アイリスが遠い目をし、その隣でアルベルトも同意するように頷いた。


「楽しそうでいいじゃん」

「フローラ…素直になればいいのに」


 フィンが笑う一方、シャスールはフローラを見つめながら、ぽつりと呟いた。すると、その声に反応したフローラが振り返った。


「何か言った?」


「何も」


 カルムが身を守るため必死にフローラへ謝罪し、コールがその様子を面白そうに眺め、ノエルたちもまた騒動に気を取られている、その隙を見計らい、グレイシアは音もなくフィンの隣へ歩み寄った。


「フィン・クローバー」


「はい?」


 グレイシアは周囲に気づかれないよう、一枚の紙を差し出す。その紙へ疑問を浮かべながらもフィンが覗き込む。


【極秘任務:アルベルトの写真】

【自然なものが望ましい】

【寝顔は高額査定】

【報酬は言い値】


 フィンは紙とグレイシアを交互に見た。


「……任せてください」


 二人は固い握手を交わした。

 極秘契約、此処に成立。


「兄上? フィンと何を?」


 アルベルトが振り返るとグレイシアはフィンの手を離した。


「何でもない」


「そうですか?」


「ああ」


 アルベルトは首を傾げたものの、二人のやり取りにはまったく気づいていなかった。フィンが紙を素早くポケットへしまい込む一方、少し離れた場所で一部始終を見ていたシャスールは、面白そうに口元をわずかに吊り上げた。


「……面白そう」


「何が?」


 ノエルが尋ねる。


「秘密」


 シャスールは意味深に笑った。


   

 しばらくして騒ぎが落ち着くと、皆は受け取った鏡晶石の初期設定を始めた。

 ノエルも窓際の椅子に腰掛け、連絡先や学院の情報、地図などを順に確認していく。やがて画面に表示された「記録」の項目に目が留まった。

 言葉も、写真も、文章も残しておける。

 その事実に気づいたノエルは、わずかに目を伏せた。脳裏に浮かんだのは、一人の少女の笑顔だった。


「……カティア」


 小さくその名を呟いたノエルは、自室で大切に保管している手紙を思い出した。

 原本を持ち歩くつもりはなかった。万が一のことがあった際、失くしてしまうのが怖かったからだ。

 そこでノエルは、手紙の全文を後で鏡晶石へ書き写し、記録として残すことを思いつく。

 カティアが最後に託した願いは、金糸雀挽歌の者たちを救ってほしいというものだった。それは、彼らの罪を許してほしいという意味ではない。罪には相応の償いが必要だとしても、救いへ至る可能性だけは奪わないでほしいそれがカティアの願いだった。

 あの時のノエルは、悔しさも、悲しさも、怒りも、すべてを抱えたまま泣いていた。それでも彼は顔を上げ、強い意志を込めて言った。


 “思いっきり一発殴って、何考えてんだって言ってやる”

 “カティアをこんな目に遭わせて、世界全部滅ぼそうとして、自分も何もかもを全部終わらせようとして”

“そんなの許さねぇって言う!!”


 “……そのあと救う”

 “ニグルムだけじゃない、金糸雀挽歌の奴ら全員”


 あまりにも無謀で、あまりにも甘く、そしてあまりにもノエルらしい言葉だった。


「ノエル・メレディス」


 グレイシアに呼ばれて顔を上げると、彼はいつもの無表情のまま、まっすぐこちらを見つめていた。けれど、その瞳に冷たさはなかった。


「先日、君が職員室で言ったことを、私は一言一句覚えている」


 ノエルは少しだけ表情を引き締める。


「金糸雀挽歌の全員を救う、と。君の言う理想は素晴らしい。……だからこそ、それを守り抜く強さを身につけろ。弱いままでは、理想を語るだけで終わってしまう」


胸の奥深くへ突き刺さったその言葉を前に、ノエルはただ沈黙するしかなかった。


「相手は世界を滅ぼそうとしている組織だ。君が手を伸ばしたからといって、相手が握り返すとは限らない。君自身を殺そうとするかもしれない。……君の仲間を殺そうとするかもしれない。それでも救うと言うなら、自分だけではなく、仲間も、相手も、全てを守れるだけの強さが必要になる」


 グレイシアは一切目を逸らさなかった。

 その沈黙と、続いて放たれた言葉の重さが、ノエルの胸を正面から貫く。

 自分が口にした「救う」という言葉が、どれほど重いものなのか。ノエルは初めて、その意味から逃げずに向き合った。


 “救う”口にするだけなら簡単だ。


 だが、敵が自分より圧倒的に強かったら、手を伸ばす前に殺されたら、自分ではなく、仲間たちが傷つけられたら、それでもなお、理想を貫けるのか。

 カティアさえ救えなかった自分に、世界を滅ぼそうとする者たちを救えるのか。


 ───甘い


 胸の奥で、冷たい声がした。

 現実を知らない子供の戯言、力もないくせに、大きな理想を語っているだけだと。

 けれど、グレイシアは諦めろとは言わなかった。ノエルを嘲ることも、理想そのものを否定することもなかった。


 ただ、理想を言葉だけで終わらせるなと告げていた。

 自ら口にした“救う”という言葉に、責任を持て、と。ノエルはその意味を胸に刻み、ゆっくりと息を吐いた。


「……そっか…先輩の言うとおりだ」


 ノエルは、自らの拳を見つめた。小さく、まだ弱い拳、カティアを救うことさえできなかった手……それでも彼は、強く拳を握りしめ、ゆっくりと顔を上げた。


「俺は弱い」


 アイリス、アルベルト、フィン、シャスール、生徒会の四人、そしてソルとルナまでもが、静かにノエルへ目を向けた。


「だから、強くなる。理想を現実にできるぐらい、強くなってやる!」


 ダークブラウンの瞳に強い意志を宿したノエルを前に、生徒会室が一瞬静まり返る。その中で、普段ほとんど感情を表に出さないグレイシアの口元が、ほんのわずかに緩んだ。


「その意気だ」


「いやあ、まぶしいねえ」

「ちゃんと言ったからには、途中で投げ出したら承知しないわよ」

「実現できたら、歴史書に載るでしょうね」


カルムは嬉しそうに笑い、フローラは腕を組みながら満足げに頷いた。コールも穏やかな笑顔を浮かべ、ノエルの決意を静かに見守っている。


アイリスは呆れたように息を吐いたが、その表情には隠しきれない微笑みが浮かんでいた。


「本当に貴方は、途方もないことを平然と口にしますわね」


「悪いかよ」


「いいえ、ノエルさんらしいと思っただけですわ」


 アルベルトも肩を竦める。


「言い出した以上、途中で泣き言を言うなよ」


「言わない!」


「どうだか」


「お前も手伝うんだからな!」


「なぜ僕まで!?」


「仲間だろ!」


「そういうところだけ堂々と巻き込むな!」


 フィンは嬉しそうに笑い、勢いよくノエルへ抱きついた。


「うわっ!」

「俺も強くなる! 一緒に全員助けよう!」


「苦しい苦しい!」


「フィン、身長差を考えろ!」


 アルベルトが引き剥がそうとする。


『ノエルが潰れる』

『可愛いから優しく扱って』


「可愛いは関係ないだろ!」


 また賑やかさを取り戻した一同から少し離れた場所で、シャスールだけが声を立てずに笑い、金色の瞳を細める。

 人の本質を見抜く力によって、彼はこれまで、嘘や欲望、悪意、恐怖といったさまざまなものを見てきた。百年以上を生きてきたからこそ、ノエルという少年の在り方は、ときにひどく眩しく感じられる。

 傷ついても、裏切られても、人を嫌いになる理由を与えられても、それでもなお誰かに手を伸ばそうとする姿。


 それは、あまりにも純粋で、あまりにも危うく、そして──優しかった。


 

「……本当に…変な子だね」


 シャスールが小さく呟いた。


「聞こえてるぞ!」


「褒めたんだけど」


「どこが!?」


 皆が笑い合う中でも、カティアを失った悲しみが消えることはなかった。空いた席を見るたび、林檎やパンケーキを目にするたび、あるいはふとした瞬間に、ノエルは彼女を思い出すだろう。

 それでも、悲しみに囚われて立ち止まる必要はない。彼女が残した想いを胸に刻み、それを抱えたまま前へ進めばいい。

 ノエルの胸には、グレイシアから受け取った言葉も刻まれていた。


“理想を掲げるなら、それを貫く力を持て”


ノエルは拳を握りしめる。遠征まで、あと三日。一歩でも前へ進むために、今の自分に足りないものを埋めたい。

 そう思った瞬間、彼の脳裏に一人の男の顔が浮かんだ。


 三年前、魔物の群れからルーベ村を守り、自分が学院へ来るきっかけを作った男。圧倒的な強さを見せた、憧れの存在。


“レオン・ファルケル”


「……そうだ…レオン先生に聞いてみよう」


『嫌な予感』

『とても嫌な予感』


「なんでだよ」


 ノエルはまだ知らなかった。自分がこの瞬間に選んだ行動によって、三日後の遠征までに、体感で数十日分にも及ぶ地獄のような特訓へ放り込まれることを。そして、その地獄に教師たちまで巻き込まれることを。


この時の彼は、ただ純粋に、少しでも強くなりたいと願っただけだった。


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