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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
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☆一章終話☆王立アストル魔法学院編 完結


 ノエルがローザからカティアの手紙を受け取ってから数日が経ち、その間、王立アストル魔法学院では、大きな動きが起きていた。

 学院地下で発見された古代資料、三大英雄テラの残留思念、謎に包まれた六芒獣。

 近年、世界各地で急増している魔物の異常行動。そして、その背後で暗躍する金糸雀挽歌。

 これまで別々の事件として扱われていた情報が、少しずつ一本の糸で繋がり始めていたのである。


 その日、王立アストル魔法学院の本部棟最上階にある中央会議室では、職員会議が開かれていた。

 重厚な扉が閉ざされた室内には、外界から切り離されたような緊張感が漂っている。天井から吊るされた魔導灯は、複数の魔導映像を安定させるため、淡い青白い光を放っていた。


 巨大な円卓の上には、大量の資料が並べられている。古代語の写し、地下遺跡で発見された封印術式の断片、魔物の出現記録、各国から送られてきた報告書、そして金糸雀挽歌に関する調査資料。

 紙の端には何度も読み返された跡が残り、魔力を帯びたインクが薄く滲んでいるものもあった。


 会議室の中央には、アリーナルムル共和国の立体地図が展開されていた。

 淡い金色の砂漠が広がり、砂丘の間にはオアシスが青緑色の光として浮かんでいる。交易路は細い白線となって地図上を走っていた。


その各所には、赤い警告印が刻まれている。


 枯渇が確認されたオアシス。魔物の異常出現地点。消息を絶った交易隊の経路。急激な魔力濃度の上昇地点。赤い印は、砂漠全体へ広がる病巣のように点在していた。

 教師たちはそれぞれの席に着き、地図と資料を照合している。

 ローザは古代文字の写しを睨みつけ、ヒストリアは未知の術式を記録した資料へ食い入るように目を通していた。アドモンは眼鏡の奥で魔力波形を確認し、アミュは学院地下の封印情報と各地の異常反応を照らし合わせている。

 コンラッドは椅子へ深く腰掛けたまま、普段の軽い笑みを消していた。ガレスも報告書を一枚ずつ読み進めながら、時折、低く唸っている。

 誰もが、これまで見過ごされていた何かが、今まさに姿を現そうとしていることを感じ取っていた。

 その中で、ディオーネは腕を組み、立体地図を見据えていた。

 幼い少女の姿からは、普段の残念な可愛らしさが消えている。薄黄緑色の瞳には鋭い光が宿り、小さな指先が机の上の資料をゆっくりと叩いていた。

 その音だけが、静まり返った会議室に一定の間隔で響いている。


やがてディオーネは、低く息を吐いた。


「……ここまで重なるとはの」


 その声に呼応するように、中央の魔導映像が小さく揺らめいた。砂漠の上空に浮かぶ赤い警告印が、ひとつ、またひとつと明滅する。誰もすぐには口を開かなかった。教師たちは皆、同じ可能性に気づき始めていたが、それを言葉にするにはなお躊躇いがあった。

 この異常が偶然ではないのなら。学院地下で発見された古代の記録と、世界各地で発生している魔物の異常が繋がっているのなら。そして、そのすべての背後に金糸雀挽歌がいるのなら。

 これは、ひとつの事件ではない。世界そのものを揺るがす何かが、すでに始まっているのかもしれなかった。


「最初に大規模な異常が確認されたのは、アリーナルムル共和国の砂漠地帯じゃ。砂漠各地でオアシスが枯れ始めておる」


 ディオーネが指先を動かすと、立体地図の一部が拡大された。ざわりと室内の空気が揺れる。砂漠において水源は命そのものであり、オアシスが失われることは単なる自然災害ではない。都市ひとつが死ぬことすらあり得るのだ。


「それに伴い、魔物が生息域を離れて都市部へ押し寄せ始めておる。さらに数日前から、砂漠各地で魔力濃度の急激な上昇が観測された」


 ヒストリアが資料をめくる。


「普通の地脈変動では説明できません。局地的に濃度が跳ね上がっています。しかも場所が一定ではありません」


「移動してるってことですか?」


 アドモンが眼鏡の位置を直す。


「可能性は高いですね」


「となると、自然現象というより……何かが動いてる?」


「ええ」


 ヒストリアは笑った。

 学者として未知に出会った時の、非常に危険な笑顔だった。


「とっても面白いですよね」


 ローザが横からヒストリアを睨む。


「ヒストリア、人命が関わっておりますわ」


「もちろん分かっています。でも面白いものは面白いです」


「あなたという方は……」


 ディオーネがこほん、と咳払いした。


「さらに、砂嵐の中から正体不明の咆哮を聞いたという証言が複数」


 今度はレオンの表情が僅かに変わる。


「咆哮?」


「うむ。魔物の種類は特定できておらん」


「大型種?」


「それすら不明じゃ」


 アミュが机へ肘をつき、目を細める。


「聞いた奴らは?」


「生存しておる。ただし全員が、同じことを言っている。“あれは、生き物の声じゃない”」


 ディオーネが資料を読み上げると、会議室から音が消えた。紙をめくる音さえ途絶え、重苦しい沈黙が室内を覆う。

それは、単なる異常報告ではなかった。

正体すら掴めない何かが、砂漠の奥深くで確実に動き始めている、そんな形のない不安が、誰もいないはずの空間にまで染み渡っていく。


やがて、その沈黙を破ったのはコンラッドだった。


「曖昧で一番嫌な証言だね」


「まだあるぞ。交易隊の失踪が三件。幸い、現時点でクローバー商会関係者の被害は確認されておらん。ただし、共和国の主要交易路の一部は既に封鎖された」


 ディオーネが次の資料を浮かべる。


「経済にも影響が出ますね」


 アドモンが言う。


「長引けば共和国だけの問題では済まないでしょう」


 ガレスも重々しく頷いた。


「交易路が閉ざされれば、食料、鉱石、薬草、魔道具素材。あらゆる物流が滞ることになりますな」


「そして何より──」


 ディオーネが手を払うと空中の地図が消え、代わりに五千年前、神話時代に刻まれた古びた魔法陣が映し出された。


「砂漠地下から、これと同系統の封印反応が確認された」


 教師たちの表情が一斉に変わり、ヒストリアが身を乗り出した。


「やはり……!学院地下の記録と照合した結果、かなり高い確率で一致した」


 ディオーネは、静かに告げた。


「六芒獣──ダリア・ラージュ」


 五千年前、世界を救ったとされる六人の英雄──六芒獣。その一人であるダリア・ラージュをはじめ、彼らはなぜか歴史の表舞台から姿を消していた。コンラッドは資料へ視線を落とし、静かに口を開いた。


「つまり、今回の異常と六芒獣の封印には、何らかの関係がある可能性が高いということですね」


「うむ。ゆえに、アリーナルムルへ調査隊を出すことにした!」

 

ディオーネは頷き、実に堂々と宣言した。

数秒の沈黙が会議室を包んだ。だが、次の瞬間には教師たちが一斉に立ち上がり、誰が先に名乗りを上げるかを競うように、口々に声を上げ始めた。


「はい! わたくしが参りますわ!」

「私も行きたいです!」

「いや、僕でしょう」

「オレも!」

「私も同行可能ですぞ」

「僕も砂漠の薬草には前々から興味が──」


「待て待て待て待て!」


 教師たちが我先にと名乗りを上げたため、会議室はたちまち騒然となった。ディオーネは事態を収拾しようと、机をばんばん叩く。


「全員で行ってどうするんじゃ! 学院が空になるわ! それに、今回の遠征はノエルを含めた四名の生徒たちが行くことが決定しておる。だが、生徒だけでは危険であるから、教師一名だけ引率としてついていくことを決めたのじゃ!」


 ディオーネが机を両手で叩くと、卓上に積まれていた資料の束が大きく跳ねた。同時に、アリーナルムル共和国の地図を映し出していた魔導具が一瞬だけ明滅し、砂漠地帯を示していた光点が不安定に揺れる。

 広大な砂の海、その地下に眠る五千年前の封印、そして、正体不明の咆哮、そこへ向かうのは、四人の生徒と一人の教師だった。

 いくら学院の生徒たちが優秀であろうと、今回の目的地が決して観光地などではないことは、誰もが理解している。しかし、だからこそ教師たちは誰一人として引く気配を見せなかった。

 ローザは椅子から立ち上がり、ワインレッドの髪を揺らしながら毅然と胸を張った。

 普段から規律に厳しい彼女の姿勢には、まるで戦場へ赴く騎士のような隙のなさがあった。


「でしたら、もっとも適任の者を選ぶべきでしょう」


「だから今から選ぶんじゃろうが!」


 ディオーネが苛立たしげに叫ぶ一方、ローザはまったく動じなかった。まるで当然のことを言っただけだとでもいうように、涼しい顔で腕を組んでいる。

 その隣では、レオンが椅子の背もたれに体を預けたまま、軽く手を上げた。


「戦闘能力でしたら、オレじゃね? 砂漠なら体力勝負になるだろ?」


  彼の言葉には冗談めいた軽さがあったが、誰も冗談とは受け取らなかった。


“レオン・ファルケル”


学院の警備を一手に担う特級教師であり、圧倒的な身体能力を誇る戦闘の専門家だ。砂漠という過酷な環境で未知の魔物や敵対勢力と遭遇した場合、彼ほど頼りになる人間は学院内にもそう多くない。

 もっとも、レオン自身に自分が最適任だという自覚があるわけではない。ただ、“戦うなら自分だろう”と考えているだけだった。


「結界と防衛能力なら僕だね」


 アミュも負けじと手を挙げた。


 薄紫の髪が揺れ、涼しげな青い瞳が楽しげに細められる。

 砂漠地下の遺跡を調査するには、砂嵐や魔物だけでなく、古代の罠や封印術式への対策も欠かせない。強固な防衛魔法を操るアミュは、その任にまさにうってつけだった。

 学院全体を覆う結界の維持は彼の役目だが、優秀な上級教師たちが残るうえ、学院長ディオーネも健在である。遠征先で生徒たちを守る引率教師の候補として、彼が名乗りを上げるのは当然のことだった。


「未知の古代遺跡という時点で私でしょう!」


 ヒストリアが身を乗り出すと、水色の長髪が机上へさらりと流れ、アイスブルーの瞳が宝物を見つけた子供のように輝いた。彼女の意識はすでに、砂漠の彼方に眠る地下神殿へと向けられている。

 五千年前の封印、六芒獣、古代文明、そしてテラの時代に残された記録──それらはすべて、考古学者である彼女にとって、人生を懸けてでも解き明かしたい、あまりにも魅力的な謎だった。


「未知の物質や魔法薬がある可能性も考慮すると僕では?」


 アドモンまで名乗りを上げた。眼鏡の奥の瞳を輝かせ、机上の資料へ視線を落とす。

 そこに記されていたのは、古代遺跡、未知の封印、異常な魔力濃度、そして現代では再現不可能とされる古代素材の可能性。錬金術師である彼にとって、これほど心を惹かれる情報が一度に揃う機会は、そう多くない。

 穏やかな笑みの奥には、すでに現地で採取すべき素材の種類や保存方法、持ち帰るための容器の数まで算段しているような、研究者特有の熱が宿っていた。


 教師たちが我先にと手を挙げ、互いの適性や実績を並べ立てながら主張をぶつけ合う様子を、コンラッドは頬杖をついたまま観察していた。誰かが声を荒らげるたびに口元を緩め、別の誰かが机を叩くたびに、まるで舞台上の喜劇を楽しむ観客のように目を細める。

 会議室の中央では、立体映像の砂漠地図が淡い光を放っていた。その光が教師たちの顔を下から照らし、普段は威厳に満ちた特級教師たちの表情を、妙に子供じみたものへ変えている。


「元気だなあ」


「他人事のようにしておるが、おぬしも引率教師の候補じゃ!」


 ディオーネが机を叩くと、積み重ねられていた資料が跳ね、数枚の紙が宙へ舞った。コンラッドはそのうちの一枚が自分の目の前へ落ちてくるのを、首を傾けるだけで避ける。


「え?」


「え、ではない!」


 学院長の小さな身体から放たれた怒声が、広い職員会議室の壁を震わせた。

 コンラッドは悪びれた様子もなく、椅子の背へゆったりと身体を預ける。ネイビーの髪が肩口で揺れ、ピーコックグリーンの瞳には、未だに隠しきれない愉快そうな光が浮かんでいた。

 教師たちの自己推薦合戦が白熱するにつれ、机上の資料は次々と位置を変え、椅子は後方へ押しやられていった。会議室はもはや職員会議の場ではなく、誰が勝者となるかを決める即席の競技場と化している。

 やがて、大の大人たちによる醜い争いを見かねたディオーネが、両手で机を叩いた。

 小柄な身体から放たれた一喝は、雷鳴のごとく室内に響き渡った。


「もう面倒じゃ! くじ引き!」


 その一言を合図に、教師たちは一斉に口を閉ざした。

 ディオーネが魔法で生み出した古びた木箱が、机の中央へふわりと浮かび上がる。箱の表面には細かな雷光が走り、不正を働いた者がいれば即座に感知する仕組みらしい。

 教師たちは半信半疑ながらも、順番に札を引いていった。

 ハズレを示す札が一枚、また一枚と開かれるたび、会議室のあちこちから安堵の息や悔しげな呻きが漏れる。


───そして数分後

最後の札を引いた男が、穏やかな笑みを浮かべていた。


「僕か」


 コンラッド・スターリットは、一年A組の担任を務める特級弍星であり、世界トップクラスの幻術師でもある。札に大きく記された【当たり】の文字を見つめ、彼はにこやかに言った。


「やっぱ、普段の行いかな?」


 コンラッドは引き当てた札を指先でひらひらと揺らしながら、にこやかに笑った。

 その表情には、遠征の引率を任された教師としての責任感よりも、どこか勝ち誇ったような満足感が滲んでいる。周囲の教師たちは一斉に彼へ視線を向けた。


「いや、普段の行いだったらお前は間違いなくハズレだろ」


 アミュが言い返す。

 普段から突発的に生徒たちを幻術空間へ放り込み、予告なしの実戦訓練を仕掛け、教師たちまで巻き込んで悪ノリする男である。少なくとも、日頃の行いを理由に幸運を主張できる立場ではなかった。


「ひどいな」


 コンラッドは胸元へ手を当て、わざとらしく傷ついた顔を作った。


「新入生をいきなり幻術空間にぶち込む男が何言ってんだ」


 アミュは呆れたように肩をすくめる。


「教育だよ」


「娯楽七割だっただろ」


「六割かな」


「認めんな!」


 即座に返された言葉に、コンラッドは悪びれる様子もなく肩を揺らした。

 周囲では、何人かの教師が小さく吹き出している。ローザは口元を扇で隠し、ヒストリアは興味深そうに二人のやり取りを観察していた。ディオーネに至っては、机の上に置かれたアリーナルムル共和国のガイドブックを、誰にも見られないようにそっと自分の方へ引き寄せている。

 その様子を見ていたアドモンが、残念そうに眼鏡を押し上げた。


「仕方ありませんね。コンラッド先生」


「なに?」


 コンラッドが振り向くと、アドモンは穏やかな笑みを浮かべながら、まるで遠征の安全を祈る聖職者のように両手を組んでいた。


「アリーナルムルのお土産、楽しみにしてますね」


「君は調査じゃなくて観光だと思ってない?」


 コンラッドは苦笑しながら尋ねた。


「まさか」


 アドモンは即答した。声にも表情にもわずかな迷いすらなく、机の上に広げられた資料へ目を向けているはずなのに、その視線はすでに砂漠の特産品や珍しい魔導素材を想像して輝いていた。指先もいつの間にか土産物を書き留めるための紙を探している。

口元には、隠しきれない期待が浮かんでいた。


 その横では、ローザとヒストリアが、見るからに不服そうな顔をしていた。


「……わたくしが外れるとは」


 ローザは引いたくじを見つめたまま、静かに肩を落とす。


「砂漠遺跡……古代文明……未知の封印……行きたかった……」


 ヒストリアは、まだ見ぬ遺跡の姿を思い浮かべるように虚空を見つめている。

 すると周囲の女性教師たちが、二人の肩へそっと手を置いた。


「あらあら、ローザ先生」

「また機会がございますわ」

「そうですわよ」

「ヒストリア先生も、そんなに落ち込まないで」

「次はきっと参れますわ」


彼女たちは、柔らかな笑顔と優雅な仕草を絶やさず、美しい佇まいで二人を慰める。

 ローザとヒストリアを筆頭とする学院の女性教師陣は、その華やかな美貌と卓越した戦闘力から、いつしか『百花繚乱の麗園』と呼ばれるようになっていた。


もっとも……


「あら、でも砂漠の魔物って大きいのでしょう?」

「ええ!斬り応えがありそうですわね!」

「まあ!それは素敵」


 内容だけ聞けば、だいぶ怖い。

 戦場で笑顔を浮かべたまま敵を粉砕する女性陣を知る男性教師たちは、誰一人として会話へ入ろうとしなかった。


 一方、職員会議室の隅では、レオンの直属の部下であるモス、アベル、ツツジ、ローレンス、クレムの五人が、引率教師を決める騒動を固唾を呑んで見守っていた。

 もしレオンが遠征の引率に選ばれなければ、その鬱憤を受け止めるのは自分たちである。五人は互いに視線を交わし、誰かが何かを言わなければならないと理解していた。だが、余計なことを口にすれば、レオンによる“訓練”という名の災難が待っている。

 張り詰めた沈黙の中、やがてモスが意を決したように拳を握った。


「俺たちも、レオン先生が選ばれなくて凄く悔しいです!」


 声があまりにも大きく響いたため、レオンはゆっくりと振り返った。

 急な動きではなかったが、彼が身体の向きを変えるにつれて、周囲の空気には目に見えない重圧が満ちていき、近くにいた教師たちも、何事かと視線を向ける。

 レオンの表情には、いつもの飄々とした笑みが浮かんでいた。しかし、その額には青筋が一本、はっきりくっきりと浮かんでいる。

それでも、モスはその変化に気づいていなかった。


「そうですよね!レオン先生ほど頼りになる人はいません!」


 アベルが勢いよく続けた。


「レオン先生が絶対に適任だったと思います!」


 クレムが真剣な表情で頷く一方、ローレンスは嫌な予感を覚えていた。

まずい流れだ──そう思った時には、すでにツツジが口を開いていた。


「そうそう! レオン先生が引率教師だったら、僕たちの訓練も楽になると思ったのに……」


 職員会議室の空気が凍りつき、ローレンスが慌ててツツジへ駆け寄った。


「シッ! ツツジ、思っても口に出すな!」

「え? でも、みんな思って───」

「言うな!」


 クレムも顔を引きつらせる。


「こんの、馬鹿ツツジ! レオン先生のストレス発散に付き合わされるぞ!」


 五人が恐る恐る振り返る。

 そこには、満面の笑みを浮かべながら、額に青筋を浮かべたレオンが立っていた。


「ハハッ……お前ら、そんなに俺と遊びたいなら、素直に言ってくれればいいのに」


「いえ、そういう意味では!」

「俺たちは、レオン先生が適任だと!」

「学院のためを思っての発言です!」

「決して訓練から逃げたいわけでは!」


 ローレンスがうっかり口を滑らせると、レオンの笑顔はゆっくりと深まった。口元だけを見れば穏やかな微笑みだったが、その奥には、獲物を見つけた猛獣のような愉悦と、これから始まる“遊び”をすでに思い描いている者の不穏な企みが滲んでいた。


「「「「ツツジが遊びたいと言ってました!」」」」


「酷いっ! この裏切り者どもめ!僕はみんなの気持ちを代弁しただけなのに!」


 ツツジの悲鳴が響き渡る。


「余計なことを言ったのはお前だ!」

「モスも最初に悔しいって言ったじゃないか!」

「俺は、レオン先生が適任だと言っただけだ!」

「アベルも!」

「僕は頼りになると言っただけだ!」

「クレムも!」

「絶対に適任だと言っただけだ!」

「ローレンスも!」

「俺は止めようとした!」


 五人が口々に言い争う中、レオンは楽しそうに手招きした。


「大丈夫だ。俺は差別をしねーよ。みんな仲良く遊ぼっか?」


 全員の顔が青ざめた。彼らは、レオンにとっての“遊び”が、地獄のような特別訓練を意味することを嫌というほど知っている。


「レオン先生、今は会議中ですし……」

「俺たちはこの後、警備の仕事が!」

「仕事なら演習場でもできるだろ?」


「「「「「できません!」」」」」


「オラ、演習場に行くぞ」

「レオン先生! 誤解です!」

「俺は何も言ってません!」

「ツツジが!」

「お前ら、さっき俺を売っただろ!」


「連帯責任な」


  レオンが五人の肩へ手を置くと、五人は一斉に肩を跳ね上げた。


「「「「「横暴だァァァァァ!!」」」」」


 叫び声を上げる五人を、レオンはまとめて引きずっていく。

 先頭を歩くレオンは、まるで散歩へ出かけるかのように軽い足取りだった。片手でモスの襟首を掴み、もう片方の手でアベルの腕を引っ張っている。その後ろでは、ツツジ、ローレンス、クレムが互いの服や腕にしがみつきながら、必死に床へ爪を立てていた。

 しかし、鍛え抜かれたレオンの腕力を前にしては、抵抗など何の意味も持たない。

 磨き上げられた職員室の床を、五人分の靴底がずるずると擦っていく。


「誰か助けてください!」


 モスは悲鳴にも似た声を上げたが、周囲の教師たちは誰ひとり助けようとはしなかった。むしろ女性教師たちは優雅に紅茶を嗜みながら、微笑ましげにその光景を見守っていた。


「あらあら、元気ですわね」

「まあ、レオン先生も楽しそう」

「演習場が壊れないとよろしいのですけれど」


 その言葉を聞いた五人の顔が、さらに青ざめた。


「ツツジ、お前が原因だろ!」


 アベルが、後ろから引きずられているツツジへ怒鳴る。


「僕だけを此処に置いていって下さい!」


 ツツジは床へしがみつきながら叫んだ。


「置いて行くわけないだろ。全員連れていく」


 レオンは、獲物を逃がさない捕食者のような、普段の親しみやすさとはかけ離れた満面の笑みを浮かべていた。


「「「「「嫌だァァァァァ!」」」」」


 五人の絶叫が会議室中に響き渡る中、モスは机の脚にしがみつき、アベルは床の絨毯を掴み、ローレンスとクレムは互いの腰にしがみついて必死に抵抗していた。

 しかし、レオンはそんな彼らをまるで重さのない荷物のように軽々と引きずっていく。

 やがて四人の姿が扉の向こうへ消えていく中、最後まで抵抗していたツツジだけが、扉の隙間から手を伸ばし続けていた。


「助けてください! 僕は悪くありません!」

「お前が余計なことを言ったからだろ!」

「思ったことを口にしただけです!」

「それが一番悪いんだよ!」


 ツツジは必死に扉の縁へ指をかけたが、レオンはその手を見下ろし、にこやかな笑みを浮かべた。


「大丈夫だ。すぐ終わる」


 レオンはツツジの手を掴み、何のためらいもなく、ツツジの身体ごと軽々と引っ張っていった。


「その台詞を信じて、無事だったことが一度もないんですけどォォォォォ!」


 ツツジの叫び声が、廊下の奥へ遠ざかっていく。

 最後に見えたのは、床を滑る靴と、必死に伸ばされた両手だけだった。

 やがて扉が閉まると、会議室には奇妙な静寂が戻った。先ほどまでの騒音が嘘のように消え、残された男性教師たちは、まるで何事もなかったかのように、そっと視線を逸らし、女性教師陣は優雅に紅茶を口へ運び、穏やかな微笑みを浮かべていた。

 そんな中、アドモンだけが閉ざされた扉を見つめながら、静かに両手を合わせる。


「……ご愁傷さまです」


その隣では、コンラッドが椅子に深く腰掛け、いつもと変わらぬ穏やかな笑みを浮かべていた。


「平和だね」


 その言葉を聞いたアミュは、ゆっくりと扉へ視線を向けた。すると、廊下の彼方から悲鳴にも似た声が響いていた。


『レオン先生! 話し合いましょう!』

『嫌です! 僕はもう反省しました!』

『僕は悪くないです!!』

『反省は演習場で聞いてやる』

『意味が分かりません!』

『誰でもいい!誰か助けてー!!』


 アミュはしばらく黙り込んだ後、深いため息を吐いた。


「どこが?」


そんな混沌極まりない会議室へ、扉を叩く音が響いた。


 

「入れ」


 ディオーネの声に応じて扉が開き、ノエル、アイリス、アルベルト、フィン、シャスールの五人が姿を現した。


「呼ばれたから来たんだけど……なにかあった?」


  ノエルは、会議室の中をゆっくりと見回した。

 先ほどまで激しい騒ぎが起きていたらしく、長机はいくつか位置がずれ、椅子も乱雑に倒れている。机の上には、引き抜かれたくじ札や資料が散らばり、床には誰かが必死に抵抗したらしい傷痕まで残っていた。

 その一方で、部屋の隅では女性教師たちがローザとヒストリアを囲み、何事もなかったかのように優雅にお茶を飲んでいる。

 ただし、彼女たちの笑顔とは裏腹に、床へ残された傷痕の深さが、先ほどの騒動の激しさを物語っていた。

 さらに、閉じられた会議室の扉の向こうからは、遠ざかっていく複数の足音と共に、悲痛な叫び声が響いてくる。


『たすけてぇぇぇぇぇ!』


 その声が廊下の奥へ消えていく。

 アイリスは乱れた室内を一瞥し、冷静な口調で尋ねた。


「先ほどレオン先生が、五人の先生方を引き摺りながら何処かへ向かっていましたが、何かございましたの?」


「何もない」


 ディオーネは、あまりにも迷いなく即答した。


「嘘つけ」


「ノエル!学院長であるわしに対して敬意が足りぬぞ!?」


 ディオーネが小さな身体を跳ねさせ、机をばんばんと叩いた。


「いつものことだろ」


「それはそうじゃが!」


 反論しようとしたディオーネは、途中で言葉を詰まらせた。その様子を見て、フィンが笑顔のまま手を挙げる。


「で、今日は何の用ですか?」


 その問いかけを境に、先ほどまで騒がしかった会議室の空気がわずかに引き締まり、ディオーネは椅子へ座り直した。


「おぬしら五人を呼んだのは他でもない。アリーナルムル共和国へ、調査隊を派遣する」


 五人の前へ立体地図を展開する。


「アリーナルムル?俺の地元?」


 フィンが目を丸くした。


「そうじゃ」


 ディオーネは、枯れ始めているオアシスや増加する魔物、異常な魔力濃度、謎の咆哮、相次いで消息を絶った交易隊について説明し、さらに砂漠地下から五千年前のものと思われる封印反応が確認されたことを告げた。


「六芒獣……」


 ノエルは、夜中に耳にした梟とニグルムの会話、そして地下でテラの残留思念から告げられた六芒獣の名を思い返していた。

 これまで別々の出来事だと思っていたものが、今、一本の線となってつながる。


「今回確認された封印反応は、六芒獣ダリア・ラージュと関係している可能性が非常に高いです。現地では共和国政府、それからクローバー商会とも連携する予定です」


「父さんの商会か……主要交易路も封鎖されてるんですよね?」


 フィンの顔から、いつもの笑みがわずかに消えた。普段なら、どんな話題にも明るく反応する彼が、今は浮かび上がった砂漠の地図をじっと見つめている。赤い警告印が灯る交易路。その先には、彼の家族や商会の仲間たちが行き交う場所がある。


 ヒストリアが資料へ目を落としたままフィンの言葉に頷いた。


「ええ。現時点で、クローバー商会の関係者に被害は確認されていません。ただ、封鎖が長引けば、商会だけでなく共和国全体の物流にも影響が出るでしょう」


「そっか……」


 フィンは一度、視線を伏せた。

 短い沈黙のあと、彼はいつもの笑顔を浮かべる。ただし、その笑顔の奥には、先ほどまでにはなかった強い決意が宿っていた。


「じゃあ、なおさら俺が行った方がいいですね」


 ディオーネは、そんなフィンの表情を見て静かに頷いた。


「そのつもりじゃ」


 アルベルトが眉を寄せた。


「待ってください」


「なんじゃ?」


「まさか……僕たちも行くんですか?」


「うむ」


「一年生ですよ?」


「知っとる」


「入学して、まだそんなに経ってませんよ?」


「知っとる」


「砂漠の異常調査ですよ?」


「知っとる」


「金糸雀挽歌や六芒獣が関係しているかもしれないんですよ!?」


 アルベルトは机へ身を乗り出し、ひとつひとつ確認するように言葉を重ねた。

 しかし、ディオーネは眉ひとつ動かさない。


「それも分かっておる」


「なんで行かせるんですか!?」


 アルベルトの声が会議室に響き、ノエルたちも改めて学院長へ視線を向けた。ディオーネはすぐには答えず、机の上に並べられた資料へ目を落としたあと、五人を順番に見渡した。


「まずノエル」


「俺?」


 突然名前を呼ばれ、ノエルは自分を指差した。


「おぬしの称号は召喚士」


 ノエルは頷いた。地下で見たテラの残留思念と、そこで語られた六芒獣に関する記録が脳裏をよぎる。


「そして、テラの残留思念が示した情報から、六芒獣の封印には召喚術が深く関わっている可能性がある」


「……うん」


 自分の称号が、ただ珍しいだけのものではないことは、ノエル自身が誰よりも理解していた。

あの地下でテラが口にしていた“闇に世界が飲み込まれる前に六芒獣を目覚めさせなければならない”という言葉も、今回の遠征と深く繋がっているように思えた。


「さらに“十二の歌”。地下の資料を調べた結果、おぬしの知る十二曲が封印に関連する可能性が出てきた」


 ディオーネが目を細める。その言葉を聞いた瞬間、ノエルの表情が変わった。

 ルーベ村で、昔から歌い継がれてきた歌。母から教わり、妹のリーナに何度もせがまれた子守唄を含めた十二の曲。ノエルにとっては、幼い頃から身近にあった、ただの歌に過ぎなかった。

 だが、地下でテラが語った言葉が脳裏に鮮明によみがえった。


“星の生命力、世界と繋がることができる歌であり、祈りの歌。星と世界を繋ぐ祈りの旋律”


“十二の歌は、十二の祈り。一つだけでは鍵にならない”


 ノエルは無意識に腰の剣へ触れながら、自分がこれまで歌ってきた歌が五千年前の封印に関わっているという事実を、いまだ現実のものとして受け止めきれずにいた。

 歌と封印、そして自らの称号である召喚士と六芒獣がどのように結びついているのか、ノエルにはまだ分からなかった。


「まだ確定とは言えませんが、古代語の記録と一致しているため、偶然とは考えにくいですね」


 ヒストリアが補足しながら、手元の資料を一枚めくる。そこには古代語の記録が映し出されており、彼女はそれをノエルたちへ向けた。

 その瞬間、ノエルの肩に乗っていたソルとルナが、わずかに視線を伏せた。


『面倒なことになってきた』

『ノエルが危ないのは嫌』


 ノエルは二人を見る。


「……何か知ってんの?」

『『知らない』』


「早っ!絶対なんか知ってるだろ」


『気のせい』

『ノエルは考えすぎ』


「お前らなぁ……」


 ディオーネは話を続ける。


「そして、残る四人。おぬしらはノエルとの相性を見て選んだ」


「相性?」


 アイリスが問い返す。


「戦闘面だけではない。君たち五人は、もう何度か実戦に近い状況で一緒に動いてる」


 コンラッドはにこやかに言い、ノエルは嫌そうに顔をしかめた。


「……嫌な記憶しかないんだけど」


「いい経験だったでしょ?」


「どこがだよ」


「一年生合同訓練」


 その言葉を聞いた瞬間、五人全員の表情が曇った。それは、学院長が命名した【狩人と獲物〜恋のドキドキ? いいえ、それは恐怖のドキドキだよ☆】という、タイトルからして悪意しか感じられない交流会のことだった。


「あれ、交流会って名前だったよな?」


「ええ、交流とは何だったのでしょうね」


 ノエルの言葉に、アイリスは笑顔を少し引きつらせながら頷いた。


「一年生を教師が追い回して檻に入れるイベントだった」


 シャスールが淡々と告げる。


「字面だけ聞くと犯罪だな」


 アルベルトが頭を抱える一方で、フィンは笑っていた。


「でも楽しかったよ?」


「フィン、お前はだいたい何でも楽しいだろ」


「そうかな?」


「そうだよ!」


 あの訓練では、ノエルとフィンが牢から一年生たちを救出することに成功し、さらにアルベルト、フィン、シャスールは、ノエルとアイリスを逃がすため、自分たちより遥かに強い狩人役のレオンへ三人で立ち向かった。勝てるはずのない相手だったが、それでも彼らは決して退かなかった。


「そして、学院襲撃翌日」


 ノエルの顔が引きつる。


「忘れてたのに思い出させんなよ……」


 学院長企画の【魔物なんて怖くないよ!ドキドキ♡恐怖体験!戦慄迷宮〜怖かった事件は更に怖い思い出で塗り潰せ〜】


「本当に最悪でしたわ」


 アイリスが真顔で言う。


「我ながら傑作じゃった」


「反省してくださいませ」


「なんでじゃ!?」


「あの時は六人だった」


 シャスールが静かにそう言った瞬間、空気が止まった。

 六人──ノエル、アイリス、アルベルト、フィン、シャスール、そしてカティア。

 あの時、ノエルは全員を助けるため、自ら囮となった。危険に晒されたノエルを救うため、残る五人は自分たちも危険に巻き込まれると分かっていながら、必死に部屋の扉を壊した。

 そして最後には、全員で大笑いした。

 かつては温かく、かけがえのない思い出だったその記憶は、今となっては胸の奥を締めつける、少しだけ痛いものへと変わっていた。


「……カティアもいた」


 ノエルが小さく呟くと、誰もそれを否定しなかった。ディオーネは、静かに五人を見つめた。


「わしらはな、おぬしらを凡人だとは思っておらん」


 ディオーネの声がわずかに和らぎ、五人は顔を上げた。鍛え上げられた腕を組んだガレスが、静かに言葉を継ぐ。


「才能だけの話ではないです。困難へ直面した時、人は大きく二つに分かれます。折れる者、そしてそれを糧として、以前より強くなる者」


 ディオーネが頷く。


「おぬしらは後者じゃ。死線を越えるたび、誰かを守ろうとするたび、限界を越えて強くなる」


 アイリスの表情が僅かに変わる。


「だから、あえて危険へ向かわせる……と?」


「そうじゃ。それに信じておるからじゃ。おぬしらなら越えられると」


ディオーネは否定しなかった。

大切な生徒たちを、死の危険すら伴う場所へ送り出す。それは教師として、ある意味では狂気の沙汰だった。


“信頼という名の狂気”


そして、困難を乗り越えるたびに成長していく才能ある若者たちを見届けたいという、教育者としての純粋な好奇心。


 その二つが、彼女を突き動かしていた。

 だが、決断の理由はそれだけではない。


「おぬしらは、もう『死』を知ってしまった」


 ディオーネの声が少し低くなると、五人全員の脳裏に、カティアが「ありがとう」と告げた最後の笑顔と、その言葉を残して手の中から消えていった少女の姿が浮かんだ。


「目の前で、大切な者を失った。だからこそ、危険とは何か、失うとは何か、覚悟とは何か、以前より理解しておる。……ただ強いだけの子供なら、わしは送り出さん。じゃが、おぬしらは、命を軽く扱わん。仲間を見捨てん。だから行かせる」


 アルベルトは小さく息を吐いた。


「……無茶苦茶ですね」


「知っとる」


「否定してくださいよ」


「でも俺は行くよ」


 フィンが笑い、シャスールも頷く。


「僕も」


 アイリスは姿勢を正した。


「異論はございませんわ」


 アルベルトは頭を掻く。


「……僕だけ嫌だって言える空気じゃないじゃないか」


 ノエルが笑う。


「行きたくないの?」


「誰が行かないと言った!」


「行くんじゃん」


「当たり前だ!」


「素直じゃない」


 シャスールが言う。


「うるさい!」


「ちなみに遠征中の授業は校外学習という扱いで成績に反映されるから頑張るのじゃ!」


「急に現実的だな!」


 ノエルが叫ぶと、アドモンは笑顔で手を振った。


「アリーナルムルのお土産、楽しみにしてますからね」


「いや観光じゃないんですけど!!」


「学院長が持ってたアリーナルムルのガイドブックをコンラッド先生が取り上げて、さっき自分の鞄に入れてたけど」


 アドモンの言葉に、全員の視線がコンラッドへ集まった。コンラッドは口元に薄い笑みを浮かべ、目を細める。現地で観光を満喫する気満々の企みが、その表情から隠しきれずにじみ出ていた。


「資料だよ」


「絶対観光する気だろ!」


「現地文化を知るのも調査の一環だから」


「ガイドブックを捨てろ!」


「嫌だ」


「なんで!?」


 フィンが満面の笑みを浮かべた。


「ガイドブックなんてなくても大丈夫ですよー!俺の地元なんで、俺が色々案内します!」


 フィンが親指を立てる。


「それは頼もしい」


「先生、今完全に観光客の顔してますわよ」


 アイリスが冷たく言う。


「そんなことないよ」


「目が輝いております」


「気のせいだよ」


『観光客』

『完全に浮かれてる』


「妖精王からも言われてますけど?」


「厳しいなあ」


 そんな騒がしい会話の中、ノエルは少しだけ黙り込み、腰の剣へ手を伸ばした。それは、旅立ちの日に父から渡された剣だった。


───折れたら何度でも直してやる。だから、生きて持って帰ってこい。


父の言葉を思い出しながら、ノエルは鞘の感触を確かめる。すると、頭の中にカティアの顔が浮かんだ。パンケーキを食べていた顔。楽しそうに笑っていた顔。そして、最後に見せた穏やかな笑顔。


その手紙に綴られていた願いも、鮮明に蘇る。


───どうか、あの子たちをお救いください。


ノエルは静かに目を閉じた。

 まだ怖い。自信があるわけでもない。金糸雀挽歌がどれほど強いのかも、六芒獣が何なのかも、十二の歌にどんな意味があるのかも、ニグルムがなぜ世界を滅ぼそうとしているのかも分からない。


分からないことばかりだった。

それでも、ひとつだけ決めたことがある。


「……カティア…俺、行ってくる。金糸雀挽歌を止める。…ニグルムも止める」


 誰にも聞こえない声で、ノエルは呟いた。救えるかなんて分からない。それでも、最初から諦めることだけはしない。カティアが最後に残した願いと共に、前へ進んでいく。

          



          ☆





───アリーナルムル共和国


 灼熱の太陽が照りつける大砂漠では、昼は大地が焼かれ、夜は骨まで凍てつく。果てのない砂の海は、幾千年もの間、旅人や商人、冒険者、王、兵士たちを呑み込み、数え切れない命を見送ってきた。

 その砂漠の一角には、決して近づいてはならない場所がある。地平線まで広がる砂嵐に踏み込んだ者は、二度と戻らない──古くからそう囁かれてきたその場所は、共和国の遊牧民たちでさえ神々の領域として避け続けていた。


 砂嵐の奥深くには、遺跡の入口である巨大な石門があり、何千年もの間、砂漠の風に晒され続けてきたはずなのに、表面にはほとんど風化の跡が見られない。


その巨大な門の中央には一頭の獅子が刻まれていた。巨大な身体に雄々しく広がるたてがみを備え、たてがみの外側から門の縁にかけて、細かな古代文字がびっしりと刻まれている。砂に埋もれていた部分にも文字は続いていた。


 その最奥には、巨大な結晶が暗闇の中に鎮座していた。人ひとりなど容易く呑み込めるほどの大きさを誇る結晶の周囲には、幾重にも重なった封印術式が刻まれている。薄紫と深紅の光を帯びた刻印は、死んだ星の残光のようにかすかに輝きながら、五千年もの間、微動だにせず沈黙を守っていた。


しかし、その夜──


ドクン…


音はなかった。それでも、結晶は確かに脈打った。まるで、長い眠りについていた何かが、再び心臓を動かしたかのように薄紫の刻印を鋭い青白い光が走り抜ける。


ドクン…


 二度目の鼓動とともに、結晶の内部で何かがわずかに動いた。

 銀色の髪と褐色の肌、獣の耳を持つ青年が、巨大な結晶の中に封じられていた。五千年もの間、彼は時の流れから切り離され、瞼を閉じたまま眠り続けていた。

 けれど今、その意識だけが深い夢の底から、ゆっくりと浮かび上がっていく。

 誰かが、封印へ、自分へ、そして、世界へ近づいている。

その気配に呼応するように、巨大な結晶が再び青白い光を放った。


 




 ───第一章 王立アストル魔法学院編 完




──第二章 六芒獣編

──六つの封印と巡る世界──


【第一遠征 アリーナルムル共和国編】


『砂海に眠る銀獣』

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