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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
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☆1-35☆ 託された願い

 

 ──朝


昨日と同じように鐘が鳴り、王立アストル魔法学院の一日が始まった。東の空から差し込む朝日が、三千年以上の歴史を持つ白亜の校舎を黄金色に染め、中庭では噴水が規則正しく水を噴き上げ、庭園では朝露をまとった花々が静かに揺れている。廊下を行き交う生徒たちの足音が響き、教室の扉が次々と開かれ、授業の始まりを告げる鐘が鳴り渡る。


何も変わっていない。

世界は、昨日と同じように動いている。


────たった一人、いなくなったくらいでは変わらない


「……行くか」


 男子寮の部屋で、ノエルは自分に言い聞かせるように呟いた。制服の襟を整え、鞄を手に取り、腰には父フォーガスから贈られた剣を帯びる。いつもと同じ身支度を整えれば、昨日の出来事も何かの悪い夢だったと思えるかもしれない。肩にはソル、頭の上にはルナがいるが、二人の妖精王も今日は妙に静かだった。向かいでは、アルベルトが無言のまま制服の袖を通していた。


 普段なら、「ノエル、制服のボタンが一つずれているぞ!」だの「昨日脱いだ服をそのまま椅子に掛けるな!」だのと朝から小言が飛んでくるのに今日は何も言わない。


「アルベルト」


「……何だ」


「ネクタイ曲がってるぞ」


「知っている」


「直さねぇの?」


「……どうでもいい」


 ノエルは口を閉じた。アルベルトがそんなことを言うのは初めてだった。いつもなら制服の皺一つ気にする男なのに、今日はネクタイの曲がりさえどうでもいいと言う。

 その様子に、ノエルは何か言おうとしたが、結局やめた。自分だって、何を言えばいいのか分からなかったからだ。すると、頭の上に乗っていたルナが、慰めるように小さくノエルの髪を握った。


『ノエル』


「ん?」


『笑わなくていい』


「……笑ってない」


『笑おうとしている』

『とても下手。無理して普通にするのが』


「……」


『ノエルは演技が下手』


「二回言う必要あった?」


『事実だから』


 いつものノエルなら、ソルとルナの容赦ない指摘に、すぐさま言い返していただろう。だが、今日は無理に平静を装っていたことを見抜かれ、反論する言葉が出てこなかった。

 ノエルが黙り込んでいると、アルベルトはそれ以上何も言わず、静かに扉へ歩み寄った。そして、重く沈んだ空気を断ち切るように、扉を開けた。


「行くぞ。遅刻する」


「ああ」


  二人は部屋を出て、廊下を抜けて食堂へ向かった。すれ違う生徒たちは、ノエルたちの姿を見るたびに声を潜める。昨日の出来事は、すでに学院中へ知れ渡っていた。


 “カティア・リューゲン”


 一年A組へ偽名で潜入していた、金糸雀挽歌の構成員。学院を欺き、ルーベ村を襲撃した張本人。それでも最後には組織を裏切り、ノエルたちを守る側へ回った少女。

 そのカティアが、昨日、ノエルたちの目の前で砂のように崩れ、痕跡一つ残さず消えた。


 食堂に入ると、フィンとシャスールがすでに席に着いていた。


「おはよう」


 ノエルはできるだけ平静を装い、いつも通りの声で挨拶すると、フィンが顔を上げた。


「……おはよ」


 笑っていなかった。いつもなら朝から意味もなく楽しそうな顔をしているフィンは、栗色の髪もヴァイオレットの瞳も昨日と同じなのに、まるで別人のようだった。その隣で、シャスールは何も言わず、パンを千切って口へ運んでいる。


「おはよう」


「……シャスール、お前は普通だな」


「そう?」


「いや……」


  よく見ると、いつもなら食事中でも周囲を観察し、誰かの料理を勝手につまんだり、急に意味不明なことを言ったりするシャスールが、今朝はただ自分の皿だけを見つめていた。

 フィンの前にも料理がほとんど残っている。食いしん坊というほどではないが、大人数の兄弟の中で育った彼は、普段なら食事を楽しむタイプなのに。


「食べないのか?」


「……食べてるよ」


「全然減ってないぞ」


「腹、減ってなくて」


「フィンが?」


「俺だって腹減らない日くらいあるって」


「……そっか」


 それ以上は誰も続けなかった。ノエルは自分の朝食へ視線を落とした。パンに卵料理、スープ、果物。その中に林檎があることに気づき、視線が止まった。

一昨日、ノエルが見舞いに持っていった林檎料理を食べてくれた時のことを思い出す


『ふふ……ふふふ……あは……ははははははっ!』


 声を上げて笑い始めたカティア。彼女は腹を押さえながら笑い続け、目尻には涙まで滲んでいた。


『あははっ……な、なにこれ……! 苦っ……! えぐっ……! 口の中、ずっと草の匂いする……!』


『そんなにか!?』


『そんなに……っ、はははっ!』


『笑うほど不味いってどういうことだよ!』


『知らないわよ……! こんなもの……生まれて初めて……!』


 カティアは肩を震わせながら、大きく笑った。本当に楽しそうな笑顔だった。


「……っ」


胸の奥が鈍く締めつけられ、喉の奥には何かが詰まったような感覚が広がった。

 息を吸っても肺の奥まで空気が届かず、指先は冷たくなり、握っていたフォークが小さく震える。

 もう、カティアが困った顔で林檎料理を見つめることはない。あの声で笑うこともない。これから先も、二度とその姿を見ることはできない。   

 その事実が遅れて胸の中へ沈んでいき、ノエルは食欲を失ったまま、目の前の林檎から静かに視線を逸らした。


     





          ☆





 一年A組

 ノエルはいつもの席に座った。前はアルベルト、右隣にはアイリス、そして、斜め後ろに一つの空席がある。…カティアの席だった。

 ノエルは無意識のうちに、その席を見つめていた。


「ノエル。前を向きなさい」


「分かってる」


「でしたら、前を向いてください」


 アイリスのいつもの厳しい言葉に、ノエルは少しだけ安心した。


「相変わらず厳しいな」


「当然ですわ。…授業は授業ですもの」


 アイリスは教科書を開く。


「……そっか」


「ええ」


 ページをめくる指が、一瞬止まる。


「ですから」


「ん?」


「授業くらい……普通に受けさせてくださいませ」


 声が僅かに震えていたため、ノエルもそれ以上何も言わずにいると、教室前方の扉が開き、担任のコンラッドが入ってきた。


「皆、おはよう」


 普段と変わらない柔らかな声で挨拶をしたコンラッドは、笑顔を浮かべることなく教壇へ立った。出席簿を開き、名前を順番に読み上げていく。

 しかし、次に呼ぶ名前がカティア・リューゲンだと気づいた瞬間、その指が止まった。

 教室が静まり返る。コンラッドは目を閉じ、数秒間黙り込んだ。そして、彼女の名前を呼ばないまま、次の名前へ進んだ。


 ノエルは唇を噛みしめる。 

 誰も何も言わないまま、授業が始まった。

 魔法理論、古代呪文語、魔力循環──コンラッドの授業は、いつも通りだった。アイリスは必死に板書を取り、アルベルトは教科書を睨みつけ、ノエルも羽根ペンを動かしている。

 けれど、誰の頭にも、その内容はほとんど入ってこなかった。


 


         ☆






 昼休み


「ノエル・メレディス、アイリス・ステラルーチェ、アルベルト・ノービリタス、フィン・クローバー、シャスール・フォレスティ」


 廊下で待っていた教師から名を呼ばれた。


「学院長より呼び出しです」


 ノエルたちは顔を見合わせる。


「……何だろ」


 フィンが小さく言う。


「行けば分かる」


 シャスールが立ち上がり、ノエルたちは職員室へ向かった。しかし、扉を開けた瞬間、ノエルは足を止めた。


「……いや、多っ!」


 広い職員室には、学院に所属する四十名すべての教師が揃っていた。特級や上級に名を連ねる教師たちが、昼休憩中に一堂に会することなど、普段ならまずありえない。授業の準備や警備、研究など、それぞれに担う仕事があるためだ。それにもかかわらず、この日は全教師が集められていた。

 さらに職員室の一角には、生徒会の四人も姿を見せていた。彼らもまた、昨日、カティアが消滅する瞬間に立ち会った者たちだった。

 いつもなら、誰かが妙な冗談の一つでも口にしそうな顔ぶれである。だが、今は誰一人として笑っていなかった。

 ノエルの肩に乗ったソルとルナが、重苦しい空気に包まれた職員室を静かに見渡した。


『空気が重い』

『とても重い』


「お前らもうちょっと……いや、合ってるけど」


 ノエルの小声にも、誰も笑わなかった。

職員室の最奥では、ディオーネが窓際に立っていた。黄白色の髪も、幼い少女のような姿も普段と変わらない。いつもなら、ノエルを見つけた瞬間に「ノエルぅぅぅ!」と叫びながら抱きついてきてもおかしくない。


 しかし、今日は違った。


 ディオーネが振り返った顔には、いつもの残念さも、ノエルへの好意も浮かんでいなかった。そこにあったのは、感情を押し殺したような、静かな無表情だけだった。


「来たか」


「ああ」


「そこへ座れ」


 いつもの古風な口調だったが、声は普段とは違って静かだった。それだけでノエルの背筋が伸びる。用意された長椅子にノエルたち五人と生徒会四人が腰を下ろし、その周囲を教師たちが取り囲んだ。しばらく沈黙が続いた後、やがてディオーネが口を開いた。


「昨日の件について、まず学院側の見解を伝えておく。…カティア・リューゲンという名は偽名じゃった。正式な手続きを経て入学した学院生でもない。金糸雀挽歌によって送り込まれた潜入者。学院へ複数の術式を仕掛け、結果として多数の生徒を危険に晒した」


「……」


「ルーベ村への襲撃にも関与しておったのは、ノエルも知っているな」


 ノエルは俯いた。


「敵じゃった。……少なくとも、最初はな。じゃが最後には、あやつは自らの意思でこちらを選んだ。…だが、罪は消えることはない」


 ディオーネの薄黄緑の瞳が細くなる。


「……うん」


「償いを終えたわけでもない。…それでも、最後には、わしらが守るべき生徒じゃった」


 ディオーネが小さな拳を握りしめると、空気が震えた。それは魔力によるものではなく、その場にいる全教師から漏れ出す怒りだった。ディオーネは低い声で言う。


「わしの学院で、わしの大切な生徒を殺した。……必ず報いは受けてもらう」


 窓ガラスが小さく震えた。ディオーネは怒鳴っていない。ただ静かな声で語っているだけだった。だからこそ、その場にいる者たちは彼女の怒りの深さを感じ取り、恐ろしさを覚えた。レオンも壁にもたれたまま腕を組み、いつもの飄々とした笑みを消していた。


「オレも同感」


 ローザも冷たい目を伏せる。


「わたくしたちの目の前で、あの子を奪ったのですもの」


「……僕の錬金術でも止められなかった。術式の構造は調べていた。でも、あれは最初から彼女自身の魂へ組み込まれていた。発動後に外側から解除することを想定していないものだった。」


アドモンは悔しさを滲ませながら眼鏡を押し上げ、ヒストリアは珍しく好奇心を一切浮かべずに言った。


「最初から、必要がなくなれば消すつもりだったんでしょうね」


「……ッ人を何だと思ってるんだ!」


 アルベルトは拳を震わせ、その隣でフィンは俯いていた。


「……道具じゃない…人は道具じゃないよ」


 フィンのいつも柔らかな声は低く沈んでいた。グレイシアは弟の肩越しに視線を向け、何も言わなかったが、そのライトブルーの瞳には鋭い怒りが宿っていた。


「その件とは別に…あなた方を呼んだ理由がございます」


 ローザのその手には薄いクリーム色の封筒が一通握られていた。ノエルはそれを見て、驚いたように目を瞬かせる。


「それ……」


「カティアさんの私物を整理していた際に見つかりました」


 ローザが差し出した封筒には、丁寧な文字で“ノエル・メレディス様”とだけ記されていた。

 その名を目にした瞬間、ノエルの胸が大きく跳ねる。


「俺……?」


「ええ、あなた宛ですわ」


 ローザが歩み寄って差し出した手紙を、ノエルは震える指で受け取った。昨日、カティアはパンケーキを食べながら笑っていた。その彼女が、この手紙を書いたのだ。


「……読んで、いいのか?」


「あなた宛ですもの。どう扱うかは、あなたがお決めなさい」


 ローザの言葉を受け、ノエルは封を切った。中には便箋が入っており、カティアらしい几帳面な文字で手紙が綴られていた。最初の一行を目にした瞬間、視界が滲む。それでもノエルは、震える声で手紙を読み始めた。


「────拝啓 ノエル・メレディス様」


 職員室は静まり返り、誰一人として動かない中、ノエルの声だけが響いた。


「この手紙があなたのお手元に届いているということは、きっと私はもう、あなたのそばにはいないのでしょう」


喉が詰まり、ノエルは一度、ゆっくりと息を吸った。


「それでも、どうしてもお伝えしたいことがあり、この手紙を認めさせていただきました」


 カティアはすべて分かっていたのだろうか。自分の命がもう長くないと知っていたからこそ、この手紙を書いたのだろうか。


「私は物心がついた頃より、他者の感情を読み取ることに長けておりました」


 フィンの瞳が僅かに揺れる。


「その力ゆえに周囲からは恐れられ、また両親からも疎まれ、長い間、孤独の中で生きてまいりました。

そのような中で、ただ一つの願いは“誰かに認められたい”というものでございました。

その一心で、私は優れた魔導士となるべく、努力を重ねてまいりました」


 ディオーネは静かに目を閉じた。彼女は、かつて学院生だった頃の、優秀なカティアの本当の姿を知っていた。


「やがて私は、とある御方に“特別な魔導士”として見出されました。

その瞬間、私は初めて“自分の居場所”と“存在価値”を与えられたのです。

例え、それがどれほど歪んだものであったとしても、当時の私にとっては確かに救いでございました。

私はその御方を、心から愛してしまいました」


ノエルは一度、唇を噛んだ。誰のことなのか、今はまだ分からない。


「……あの御方にとって、私は都合の良い駒に過ぎなかったことは理解しておりました。

それでも、たとえ表面的なものであったとしても“必要とされること”そのものが、生きる意味となってしまっていたのです。

だからこそ、どれほど冷酷に扱われようとも、どれほど危険な任務を命じられようとも、それを“信頼の証”として歪んだ形で受け取り、離れることができませんでした」


 ローザが目を伏せ、アドモンが拳を握る。


「しかしある時、私の称号の力“洗脳の魔法”が危険視され、秘密裏に処分されようとしていることを知りました。

その時、あの御方は私をお救いにはなりませんでした。

ただ静かに、私を“不要となった道具”として見捨てられたのです。

生きる意味を失い、すべてを終わらせようとしていた私に手を差し伸べてくださったのが…ニグルム様でした」


 その名前を目にした瞬間、ノエルの声が一瞬止まった。ニグルム──自分の従兄であり、王都へ来るまで共に旅をし、魔法を教えてくれた青年。笑い、自分を気遣ってくれた……そして今、カティアを消した男でもある。ノエルは込み上げる感情を押し殺し、震える声で手紙を読み続けた。


「金糸雀挽歌の者たちは皆、それぞれに世界を憎む理由を抱えております。

奪われ、壊され、傷つけられ、そして孤独の中で生きてきた者たちです。

彼らは決して、ただの悪ではございません。

ただ、心が痛みと悲しみで壊れてしまっただけの子どもたちなのです」


 アイリスは僅かに眉を寄せ、アルベルトは険しい顔を浮かべる中、シャスールだけは手紙を読むノエルを静かに見つめていた。


「だからこそ、どうか……っ」


 ノエルの指が震える。


「…身勝手な願いであることは重々承知しております。それでも、お願い申し上げます。あの子たちを、どうかお救いください」


 息を呑む音がした。


「彼らは多くの罪を犯しております。

世界を滅ぼそうとするほどの危険な存在であることも事実です。それらすべてを許してほしいとは申しません。赦されるべきではないことがあるのも、また事実でございましょう。それでも…」


 ノエルの視界から文字が滲んだ。

 涙を袖で拭う。


「あなたの優しさが、私を救ってくださったように、どうか彼らのことも…救ってあげて欲しいのです」


 フィンが顔を伏せ、アイリスも目を閉じた。アルベルトは唇を噛みしめている。


「最後に」


 ノエルの声が震え始めた。


「私は、苦しみと悲しみに満ちた人生を歩んでまいりました。けれど、あなたと出会えた日々だけは違いました」


 初めての授業で交わした言葉も、食堂での何気ない会話も、危機に陥った自分たちを助けに来てくれたことも、学院長が企画した恐怖体験で見せた反応も、林檎料理を前に困った顔を浮かべたことも、パンケーキを食べながら見せた笑顔も、最後に子守唄を聴きながら幸せそうに微笑んでいた姿も──そのすべてが一気に蘇った。


「あの時間だけは、私の人生の中で最も穏やかで、涙がこぼれるほど温かくて、そして確かに幸福でございました」


ノエルは一度声を止め、最後の二行を読む。


「ノエルさん、本当に、ありがとうございました。            ────カティア・リューゲン」


 誰も声を発しなかった。ノエルの頬を涙が伝い、便箋へ一滴落ちそうになったため、彼は慌てて顔を逸らした。


「……ずるい…カティア、ずるいよ…こんなの残してさ」


 掠れた声で、ノエルは呟いた。

昨日、助けられなかった。確かに手を掴んだはずなのに、それでもカティアは指の間から砂のように零れ落ちていった。

 その光景が、今も脳裏に焼きついている。


「救ってくれって……そんなの……頼まれたら」


 ノエルは便箋を握りしめないよう慎重に持ったまま顔を上げた。涙で濡れたダークブラウンの瞳には、先ほどまでなかった強い光が宿っていた。


「やるしかねぇだろ」


 アルベルトが、アイリスが、フィンが、シャスールが、教師たちが、生徒会の面々が、全員そろってノエルを見つめた。


「俺は金糸雀挽歌を止める!世界を滅ぼさせない、ニグルムも止める!」


 ノエルは、はっきりと言葉にした。

胸の奥は痛んでいた。ニグルムは、ノエルにとって優しい従兄だったからだ。それでも、カティアを奪った彼を止めなければならない。そう覚悟を決め、ノエルは拳を強く握りしめた。


「それで…一発殴る!思いっきり一発殴って、何考えてんだって言ってやる!カティアをこんな目に遭わせて、世界全部滅ぼそうとして、自分も何もかもを全部終わらせようとして!そんなの許さねぇって言う!!……そして、そのあと救う。ニグルムだけじゃない、金糸雀挽歌の奴ら全員。どんな理由があるのか、まだ俺は知らない、何やったのかも全部は知らない。許せないことも、きっといっぱいある。でも…」


 カティアの手紙を見る。


「最初から死ぬしかないなんて、俺は認めない」


 アイリスが静かに息を吐いた。


「……あなたらしいですわね」


「悪いか?」


「いいえ」


 ロイヤルブルーの瞳がノエルを見据える。


「非常に無謀で」

「おい」

「現実性に乏しく」

「おい」

「考えなしで」


「言い過ぎだろ!」


「ですが…嫌いではありませんわ」


アイリスが、カティアがいなくなってから初めて、ほんの僅かに笑った。その表情を見て、ノエルもまた少しだけ笑う。


すると、その時───


「教え子の最後の頼みじゃ。必ず、願いを叶えよう。……じゃが、わしも死なない程度に一発、電撃を喰らわせてやる」


ディオーネは目を閉じ、やがて薄黄緑の瞳を開くと、小さな手にぱち、と青白い雷を走らせた。


「んじゃ、オレも一発」


 腕を組んだまま、レオンが口を開いた。


「でしたら、わたくしも一発くらい」


 ローザが優雅に微笑み、続いてアドモンが眼鏡を押し上げた。


「僕もいいかな。一発」

「じゃあ、私も」


 ヒストリアが小さく手を挙げる。


「僕も一発かな」


 コンラッドも穏やかな声で続けた。


「学院へ喧嘩を売ったんだから、僕にも権利あるよね?」


 アミュが肩を鳴らしながら言う。

 ガレスは顎に手を当て、しばらく考え込んだあと、静かに口を開いた。


「私も一撃。剣の峰で」


「それ、一発で済む!?」


 ノエルが思わず叫ぶ。その瞬間、職員室の空気が少しだけ変わった。

 教師陣の後ろで、ツツジが静かに手を挙げる。


「俺も一発」

「僕もだ」

「私も」

「わたしもです」

「俺も一発くらいなら」


 ツツジを皮切りに、教師たちが次々と声を上げていく。四十人の教師が揃う職員室のあちこちから「一発くらいなら」「私も参加しよう」「当然、私もだ」と、物騒な同意が飛び交った。


「ちょっと待て! 増えてる、増えてるから!」


 ノエルが制止する間もなく、生徒会の面々まで加わった。

 グレイシアが、いつもの無表情のまま淡々と告げる。


「私も一発だ」

「会長まで!?」


 カルムもすかさず手を挙げた。


「僕も殴るよ。可愛い女の子を泣かせた罪で」

「理由が軽い!」


 フローラがにこりと笑う。


「私も一発。ついでに今、副会長を殴らせてください。理由は、私をイラつかせた罪です」


「なんで僕が殴られる流れになるの!?」


 カルムが悲鳴を上げる。

 その隣で、コールが爽やかな笑顔を浮かべた。


「では、俺は副会長を殴るための便利な殴打用魔道具を作りましょうか?」


「作らなくていい!」

「というか、なんで僕が殴られる前提なの!?」


 職員室の空気が、少しずついつもの調子を取り戻していく。

 そんな中、アルベルトが拳を握った。


「僕も殴る」


「アルベルトまで……いや、お前は言うと思った」


「当然だろ!」


 アルベルトは真剣な表情で言い切った。続いて、アイリスが長い髪を払う。


「でしたら、わたくしも一発ですわね」


「アイリス!?」


「カティアさんには、言いたいことが山ほどございましたもの。…それを言う機会まで奪った代償ですわ」


 アイリスの表情から、いつもの厳しさがわずかに薄れる。


「……それは分かるけど」


 フィンも、ゆっくりと手を挙げた。


「俺も一発」

「フィン……」


 いつもの笑顔はなかったが、それでも、ほんの少しだけ表情が戻っていた。


「人を物みたいに捨てるの、俺は嫌いだから」


最後に、シャスールが手を挙げる。


「僕も」


「お前も!?」


「流れ」


「一番理由が軽い!」


「冗談だよ」


「今それ言う!?」


 ノエルは頭を抱えた。教師陣も、生徒会も、仲間たちも、気づけば職員室にいる全員が、ニグルムを一発ずつ殴る気満々になっていた。


「待て待て待て待て!!」


 ノエルが勢いよく立ち上がると、職員室中の視線が一斉に集まった。彼はそのまま全員を指差しながら叫んだ。


「それ、もう一発とは言わねぇよ!!袋叩きになってるだろ!!」


 ノエルの声が職員室中に響き渡り、ほんの一瞬、沈黙が訪れた。


「ふっ」


 最初に笑ったのはレオンだった。


「ははっ」


 アミュが続き、フィンも、アイリスも、アルベルトも、教師たちも、次々に笑い始めた。大笑いではない。昨日までの笑いとも違う。痛みを抱えたままの、それでも確かな小さな笑いだった。ノエルは呆れながらその光景を見回し、肩ではソルとルナが腕を組んでいた。


『ノエル、ニグルムが死ぬ』

『ノエルの一発だったら大丈夫だけど、ここにいる人間たち全員になると死ぬ』


「だから止めてんだよ!」


 ノエルは、手元の手紙を見つめた。そこに記された名は、カティア・リューゲン。

 彼女はもういない。昨日のように笑うことも、林檎料理を見て困った顔をすることも、一緒にパンケーキを食べることも、二度と叶わない。

 その現実は変わらない。悲しみも、悔しさも、怒りも、消えることはない。


けれど、だからこそ───


「……見てろよ、カティア。お前が救ってほしいって言った奴らを絶対に止めてやる」


 ノエルは小さく呟きながら手紙を胸元へ寄せ、窓の向こうに広がる青空を見上げた。世界を滅ぼそうとする組織、金糸雀挽歌──その頂点に立つニグルムを思い浮かべると、ノエルは決意を込めて、ほんの少しだけ笑った。


「それで…全員まとめて、死なない程度に説教してやる」


『ノエル、それは教師の仕事』

『ここに教師が四十人いる』


 ノエルが教師陣へ目を向けると、全員がなぜかやる気満々の表情を浮かべていた。


「……やっぱり俺が先に見つけないとニグルム死ぬんじゃねぇの?」


 彼女が戻ってくることは、もう二度とない。それでも、カティアが最後に託した願いは、ノエルたちの胸に深く刻まれた。

 罪を犯した者をただ倒して終わらせるのではなく、憎しみを抱え、傷つき、壊れてしまった者たちにも、もう一度生きる道を示すこと。

 たとえそれが、どれほど困難で危険な願いであろうとも、ノエルは決して手を放さないと誓った。

 世界を終わらせようとする者たちへ、それでもなお手を伸ばす、その覚悟こそが少年の物語を新たな段階へと進める、最初の大きな転換点となった。



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