☆1-34☆ また明日
───王立アストル魔法学院、学生用調理実習室
本来なら料理実習や魔法薬学の補助授業などに使われるその場所は、休日の昼下がりにもかかわらず、妙な緊張感に包まれていた。
壁際には学院教師、その少し前には生徒会役員が立ち、中央の大きな調理台を囲んでいるのは一年生たち。
そして彼ら全員の視線は、一人の少年──ノエル・メレディスへ集中していた。
ノエルは腰に白いエプロンを巻き、手には泡立て器を握っている。さらに頭の上には、手のひらほどの小さな妖精が二人、ソルとルナが乗っていた。そんな異様な状況の中でも、本人だけは至って真剣な顔をしていた。
「ふわふわの〜、ぱ〜んけ〜き、ふんふふーん♪」
透明感のある中性的で美しいノエルの歌声が実習室に響き、ただ歌っているだけなのに誰もが思わず耳を傾けた。窓辺から差し込む柔らかな午後の光や揺れる木々、遠くから聞こえる鳥の声までもが、その歌声と不思議なほど自然に溶け合っていた───歌詞さえまともならば。
「一口食べればしあわせにな〜れる〜♪ 不思議な白い粉入れて〜、ドキドキするよ〜♪」
泡立て器を振る。
「お菓子には〜、たくさんの〜砂糖入り〜♪」
砂糖袋を持ち上げる。
「バッサバッサバッサバッサバッサバッサバッサ〜♪」
アルベルトの眉間に皺が寄った。
「何回バッサバッサ言うんだ……?」
『ノエルの歌声はとっても綺麗なのに歌詞が酷い』
『ノエルは作詞が下手だけど、歌の上手さで全て誤魔化されてしまう』
ソルが真顔で言い、ルナも頷く。
「うるさいな! 即興なんだから仕方ないだろ!」
「即興だからといって砂糖を加減なく何度も振りかける必要はございませんわ!」
アイリスがすかさず砂糖袋を取り上げた。
「世の中の美味いお菓子って、信じられないくらいの量の砂糖が入ってるって聞いたことがある!」
「限度がありますわ!!」
ノエルは不服そうに口を尖らせ、その横でフィンがボウルの中身を覗き込んだ。
「ノエルはさっきから粉の量、目分量じゃない?」
「料理ってのは感覚だから」
「その感覚で昨日リンゴを刺激物にしたよね?」
「あれはちょっと薬草の味が強かっただけだ」
『ノエルが強くした』
『一掴み入れていた』
「お前らどっちの味方なんだよ!?」
『『ノエル』』
「じゃあもうちょっと庇え!」
少し離れた席でカティアは、口元を押さえて笑っていた。現在も監視下に置かれており、完全に自由になったわけでも、これまでに犯した罪が消えたわけでもない。
それでも、この瞬間だけは、彼女は本当の学院生のように笑っていた。
「ふふっ……」
「なんだよカティアまで」
「いえ。ノエルさんは、本当に変わった人だと思って」
「どこが?」
「全部よ」
「雑!」
再び笑いが起きる中、少し離れた場所では、ヒストリアがその光景を猛烈な勢いで記録していた。
「非常に興味深いです!ノエル・メレディスが未知の料理を生成したと聞きました」
記録用の紙束を胸に抱え、アイスブルーの瞳を輝かせる。
「生成って言うなよ!」
「既存の調理法では説明困難な物質を作った場合、それは“料理”ではなく“生成物”と分類するほうが学術的には──」
「料理だよ!」
「では食べられるんですね?」
「当たり前だろ!」
ヒストリアの目がさらに輝いた。
「記録します」
「なんで!?」
そこへ実習室の扉が開いた。
「おー、やってんなぁ」
軽い調子で入ってきたのはレオンだった。その後ろからは、学院警備も兼任する彼の直属の部下である男性教師、ツツジが引きずられるようについてくる。本人は明らかに帰りたそうな顔をしていた。
「レオン先生。なんでツツジ先生を連れてきたんです?」
フィンの問いに、レオンは爽やかな笑顔で親指を立てた。
「こいつ、毒味係で連れてきた」
「レオン先生!?」
ツツジの悲鳴が響いた。
「毒味ってなんですか毒味って! 僕、教師ですよ!?」
「ツツジ」
レオンは、妙に真剣な顔を作る。
「お前は教師であり、俺の直属部下の学院の生徒を守護する警備員でもある。そんなお前を今まで俺が何のために鍛えてきたと思う?」
「少なくとも毒味でないことは確かです!! というか、何で僕なんですか!? 他にもいるのに!!」
「数日前の、一年生交流会の時のことを忘れたとは言わせねーぞ☆」
右目元の星を輝かせるような笑顔を浮かべたレオンを見て、ツツジの顔が青ざめた。
「……え」
「お前、俺がトリモチのトラップに引っかかった時、随分と楽しそうに『タイトル回収した』とか言って笑っていたよな?」
「え、いや、あの時のことは、あの後の地獄の訓練で終わったはずじゃ……」
「ああ、まあ終わってる。だが俺の中の“過去の行いランキング”でお前が一番やらかしてるからな」
「何!? そのランキング!! 怖い!!」
レオンがにっこりと笑うと、ツツジは一歩後ずさり、背中を扉へ押しつけた。逃げようとした瞬間、レオンの腕がその肩へ回った。
「俺が逃がすと思うのか?」
「横暴だ!」
「上司命令☆」
「職権濫用だ!」
「いいから座れよ」
「突然声の温度下げないでください!!」
そのやり取りを見ながら、コンラッドが静かに紅茶を飲んでいた。
「レオン先生、部下で遊ぶのはほどほどにね」
「お前が言う?」
「僕は生徒で遊んでいるだけだから」
「もっと駄目じゃん」
アドモンが笑った。
「まあまあ。仮にノエル君の料理で何かあっても、僕が解毒剤を作ればいいですよ」
「そこは“安全です”って言うところだろ!」
ノエルが噛みつく。
「僕は錬金術師なので、事実を言っただけです」
一方、ローザは腕を組み、冷たい視線でノエルを見ていた。
「メレディス君、調理台を爆発させた場合、弁償ですわ」
「まだ何もしてないだろ!」
「“まだ”という言葉を自ら使いましたわね」
「誘導尋問だ!」
そのそばでディオーネは、ノエルのエプロン姿をじっと眺めていた。
「ノエル…可愛いのう」
「学院長」
コンラッドが無言で一歩横に移動する。
「なんじゃ」
「三歩下がってください」
「まだ何もしておらんぞ!」
「“まだ”という言葉を使いましたね」
「ローザと同じことを言うでない!」
さらに生徒会も全員揃っていた。グレイシアは弟アルベルトの隣に立ち、相変わらず表情をほとんど変えていない。
「アルベルト」
「何ですか兄上」
「危険を感じたら私の後ろへ」
「なんで僕なんです!? ノエルに言ってください!」
「お前を守ることが最優先だ」
「僕は子供じゃありません!」
グレイシアは沈黙した。無表情を崩さないまま、弟がきちんとエプロンを着ているか、さらに袖が火へ近づいていないかまで、視線で逐一確認している。隣にいるカルムだけが、その様子を見ながら小声で呟いた。
「今日も絶好調だな、ブラコン」
「何か言ったか」
「何も」
カルムはグレイシアから視線を逸らす。
フローラはいつの間にかシャスールの背後へ回り込んで、その頬をつまんでいた。
「シャスール、あなた本当に料理できるの?」
「できるよ」
「本当に?じゃあ何か私に作ってよ」
「いいよ」
「今すぐ」
「いいよ」
「反抗しなさいよ!面白くない」
「フローラは相変わらず、理不尽だね」
シャスールがいつも通り淡々としている一方、コールは調理台の隅に見慣れない小型魔導具を設置しており、ノエルはそれに気づいた。
「それ何?」
「爆発時の被害計測装置です」
「なんで爆発前提なんだよ!」
「念のためです」
「笑顔で言うな!」
そんな騒々しさの中、パンケーキは意外にも順調に完成していった。理由は簡単で、ノエルがほとんど調理工程から排除されていたからである。
「おかしくない?」
「おかしくありませんわ」
アイリスが生地を焼きながら即答した。
「俺も作りたいんだけど」
「先ほど卵を殻ごと投入した人間が何を仰いますの?」
「栄養あるだろ」
「殻に栄養はありません!」
アルベルトも隣で生地をひっくり返す。
「いいから君は果物でも切っていろ」
「分かった」
「いや、ちょっと待て」
「なんだよ」
「刃物を持つ前に確認する。普通に切れるんだろうな?」
「俺、剣術得意なんだけど」
「料理と戦闘を同列にするな!」
渋々、ノエルは果物係に回ったものの、数分後には案の定飽きてしまい、そこでふと思い出した。
「そうだ!母さんから昔聞いた料理がある」
全員が振り向く中、ノエルが目を輝かせた。その瞬間、ソルとルナは同時にノエルの肩から静かに、そして素早く離れ、二人揃って遠くへ避難した。
「なんで逃げるんだよ」
『経験則』
『生存本能』
「そこまで言うのか!?」
ノエルは机にある数ある果物からチェリーを取り出した。
「チェリージュビレってやつ。果物とソースに酒を入れて、火をつけるんだ」
料理室が静まり返り、ローザの眉がわずかに動いた。
「いま、“火をつける”と仰いました?」
「うん」
「メレディス君」
「大丈夫だって!」
「わたくしがやりますわ」
「嫌だよ! 俺が作る!ちゃんと聞いたことあるから!」
セキレイが昔話してくれた、幼いノエルとリーナが興味津々に聞いた料理。
それは、果物に洋酒を合わせて火をつけ、華やかな炎を上げながら、温かく甘酸っぱいソースに仕上げるものだった。記憶の中では間違いなくそうだった。
ただし、セキレイ自身も料理の細かい分量については、“だいたいこれくらいだったと思います。後は愛情をたっぷり注ぐのですよ”としか言っていなかった。そしてノエルは、その事実をすっかり忘れていた。
「愛情をたっぷり注ぐ…つまり酒は……これくらいか」
どぼどぼどぼどぼと言う音にアルベルトが表情が凍りついた。
「多くないか?」
「火をつければ飛ぶだろ」
「何が!?」
「酒が」
「量の問題を言っている!」
ノエルが点火具を手にすると、ローザが一歩踏み出した。
「待ちなさい!」
「スイッチオン!」
点火具の先端で青白い火花が弾け、小さな炎が洋酒の表面へ触れたその瞬間、鍋の縁から青い火が舐めるように広がる。
次の瞬間――ボッ、ではなかった。
ゴォォォォォッ!!
鍋の中で燃えていたはずの炎は一気に膨れ上がり、青白い火柱が赤橙色へ変わった。
巻き上げられた酒の蒸気が炎をさらに煽り、火柱は天井近くまで立ち上がる。
熱風が調理室全体を駆け抜けた。
ノエルの前髪が大きく煽られ、テーブルの上に置かれていた紙束や布巾が宙へ舞う。窓ガラスが細かく震え、焦げた酒の匂いが一瞬で室内へ充満した。
「うわああああ!?」
誰かの悲鳴が上がり、ノエルは点火具を握ったまま、目を見開いて燃え上がる炎を見上げていた。
「おおおお!?すごい!!」
「感心している場合ですの!?」
アイリスが叫ぶ。
炎が天井へ届く寸前、ローザが素早く一歩前へ出る。ワインレッドの髪が熱風に煽られ、シニオンから数本の髪がほどけた。彼女は手に持つ扇の杖を鍋へ向け、扇の杖を開く。
「下がりなさい!」
凛とした声が響く。
次の瞬間、ローザの周囲に赤い魔法陣が幾重にも展開した。薔薇の花弁を思わせる炎の紋様が回転し、暴れ狂う火柱の周囲を包み込む。
炎は天井へ伸びるのを止めた。しかし消えたわけではない。
ローザが手首を返すと、火柱は渦を巻きながら鍋の上へ押し戻される。熱風が再び吹き荒れ、調理台の上の器がかたかたと音を立てた。
「まだ酒が燃えていますわ!」
ローザは眉を吊り上げ、扇子の杖を軽く振うと赤い炎の花弁が一斉に閉じる。
燃え盛っていた炎は、巨大な薔薇の蕾に包み込まれるように収束し、やがてローザの扇の前で小さな火球となった。
彼女は扇を閉じる。ぱちん、と乾いた音が響き、火球は握り潰されるように消滅した。
あとに残ったのは、黒く焦げた鍋と、煙のように漂う酒の匂いだけだった。
ローザはゆっくりとノエルへ振り返る。
「メレディス君」
「……はい」
「今のは何ですの?」
ノエルは鍋を見下ろし、真剣な顔で答えた。
「炎を立ち上らせるパフォーマンス」
「反省なさい!!」
「はい!!」
その後、レオンとコンラッドが窓を開け、ツツジが消火設備を確認する一方、アミュが不在だったため、コールは簡易換気魔導具を起動した。ローザはノエルへの説教を続け、途中からはアイリスとアルベルトまで加わった。
それから十五分ほどが経った頃、問題のチェリージュビレがようやく完成した。
鍋の中身は、見事なまでに黒かった。
赤い果実を煮詰めた料理から生まれるはずの色ではない。光を吸い込むような漆黒でありながら、表面だけは異様にぬめっている。照明を受けるたび、油膜のような黒い光がぬらりと返った。
鍋の中にあるそれは、もはやソースとは呼べなかった。何か得体の知れない生物の残骸にしか見えない。
粘度が高すぎて流れない。鍋を傾けても底に張りついたまま、ゆっくりと形を崩すだけだった。やがて重みに耐えかねた黒い塊が、ぶつり、と音を立てて剥がれ落ちる。
べちゃり…塊は皿の上で潰れた。
表面には煮崩れた砂糖の膜と、焦げた果汁の筋が絡み合っている。ところどころには、縮みきったチェリーが埋まっていた。赤い果実だった面影はほとんどなく、しわだらけの黒い皮だけが残っている。
干しぶどう、あるいは焼け焦げた内臓のようにも見える黒い塊を前に、誰かが息を呑んだ。中心では気泡がゆっくりと膨らみ、ぷつりと弾ける。甘いはずの香りは、どこにもなかった。
漂っているのは、焦げた砂糖と煮詰まりすぎた果汁、刺激の強い酒精、そして薬草を腐らせたような鼻につく臭いだった。喉の奥を撫でられただけで、舌が勝手に苦味を予感する。
ノエルが恐る恐るスプーンを差し込むと表面がわずかに沈んだ。しかし、柔らかいわけではない。黒い塊はねっとりとスプーンへ絡みつき、引き抜こうとすると、黒い糸を引いて伸びた。切れた糸は鍋へ戻らず、しばらくスプーンの先で震えている。まるで、こちらへ縋りついているようだった。
ノエルがスプーンを持ち上げると、黒い塊がぷるん、と不自然に震えた。ゼリーのような軽やかな揺れではない。重く粘ついた塊が、まるで内側から何かに蠢かされたかのように震えている。
誰も、口を開こうとはしなかった。
アイリスは顔を引きつらせ、アルベルトは無意識に一歩後ずさる。フィンは笑顔を保とうとして失敗し、シャスールは無言のまま、黒い塊の中心をじっと見つめていた。
ローザの扇の先から、わずかに炎が漏れる。いつでも焼却できるようにしているのだ。
ツツジは消火設備を確認したばかりの手で、今度は解毒薬の保管場所を探し始めた。
ただ一人、ヒストリアだけが猛烈な勢いで筆を走らせていた。
「非常に興味深いです……。色彩、粘度、気泡の発生、異常な弾性……これは料理というより、未知の生体物質に近い……」
彼女の記録用紙へ、黒い塊から細い糸が一滴ゆっくりと垂れ、紙に触れた瞬間、じゅっ、と小さな音を立てた。その様子を見たヒストリアの瞳は、さらに輝きを増した。
「腐食性も確認しました」
「確認しなくていいですわ!!」
ローザの怒声が、実習室に響き渡った。
「非常に興味深い」
アドモンも眼鏡を押し上げる。
「見たことのない粘度ですね」
シャスールが覗き込む。
「これ、生きてる?」
「生きてないよ!」
「動いたように見えた」
「湯気だろ!」
フィンが若干引き気味に見る。
「チェリーって……もっと赤くなかったっけ?」
「煮込んだら黒くなった」
「ここまで?」
「なる時はなる」
『ならない』
『チェリーの気持ちを考えたら涙なしには語れない』
「食材に感情を持たせるな!」
コールが計測器を近づける。
「魔力反応はありませんね」
「料理に魔力反応あったら怖いだろ!」
「この道具は毒性反応の測定もできます」
「やめろ!」
レオンが、ツツジの肩へぽんと手を置いた。
「出番だ」
「嫌です」
「教師として生徒の成長を見届けろ」
「教師という言葉を便利に使わないでください!」
「さあ」
「絶対嫌です!」
ツツジが必死に抵抗すると、ノエルはむっとした。
「そんな酷くないって」
「じゃあ君が食べろ!」
「いいよ」
一同がノエルの言葉に止まった。ノエルは周りの様子に気づかずに、ためらうことなくスプーンを手に取り、暗黒物質と化したチェリージュビレをすくって口へ運んだ。
「ノエル!」と何人かの声が重なる中、ノエルは暗黒物質を口に入れて咀嚼した。一秒、二秒、三秒と時間が過ぎても顔色ひとつ変えず、何事もなかったかのように普通に飲み込んだ。
「見た目は悪いけど味は上手い!!」
全員が絶句し、ソルとルナが揃って両手で顔を覆う。
『歌は上手いのに……』
『味は音痴……』
「なんだよ味が音痴って!」
アドモンが興味深そうにスプーンへ少量取った。
「では僕も」
「先生!?」
口へ運んだ瞬間、アドモンの笑顔が止まった。眼鏡の奥の瞳は、まるで遠い彼方を見つめるように虚ろになった。
「どう?」
「最初に強烈な苦味があります……その後、アルコールが喉を直接焼きます…焦げた酸味と薬草の根のような風味が後から追いかけてきます」
「美味いだろ?」
「僕が知っている“美味しい”の定義と一致しませんね」
「なんで!?」
アドモンに続き、未知の物質に興味津々で好奇心旺盛のヒストリアも迷わず一口食べた。
「なるほど」
「ヒストリア先生まで!?」
「媚びることを忘れた味ですね」
「味が媚びるって何!?」
「混沌より生まれし赤の生命-カオス・ビーン・クリムゾン-と命名します」
「勝手に名前変えるな!」
シャスールもその隣で一口、無言で咀嚼した。
「どう?」
ノエルが期待に満ちた顔で聞く。
「高いヒールで喉を踏まれたみたい」
「食レポ独特すぎない!?」
フィンは笑いを堪えきれず、肩を震わせた。
「ノエル、これ逆に才能じゃない?」
『もはや才能』
『普通に作って、ここまで普通じゃなくできるのはすごい』
「褒められてる気がしない!」
「褒めておりませんわ」
アイリスが断言した。
結局、ノエル特製チェリージュビレだけは、パンケーキの中央から遠く離れた場所へ隔離されることになった。
ただし、ヒストリアとアドモン、シャスールの三人だけは、それを研究対象でも見るような目で時折口にしている。そのたびに、周囲の者たちはわずかに引いていた。
一方、それ以外の料理は見事な出来栄えだった。
きつね色に焼き上がったパンケーキの周囲には、山盛りの生クリームが添えられている。赤や黄色、紫と色とりどりの果物に、蜂蜜、ジャム、砕いた木の実。そして学院の厨房から分けてもらった高級バターまで、大きなテーブルいっぱいに並べられていた。
「できたー!」
フィンが両手を上げた。
「ほぼ君は食べていただけだろう!」
アルベルトが突っ込む。
「味見係も大事だよ?」
「どれだけ味見をした!?」
「覚えてない!」
「それは食事と言うんだ!」
笑い声が弾む中、パンケーキが次々と積み上げられていく。好きな果物を載せ、好きなだけクリームを絞る。
ソルとルナは、自分たちの身体ほどもあるパンケーキの山を前に、無表情ながらも明らかに機嫌が良かった。ルナの頬には、いつの間にかクリームがついている。
『甘い』
『幸せ』
「お前ら分かりやすいな」
ノエルが笑うと、カティアも自分の皿へパンケーキを一枚取り、生クリームと蜂蜜を少しずつ添え、チェリーには普通の、何の加工もしていないものを選んだ。
「おい」
「……何でしょう?」
「なんで俺のチェリージュビレを使わないんだよ」
「今日は穏やかな一日として終わらせたいので」
「そんな危険物じゃないから!」
「危険物ですわ」
「劇物だね」
「劇物だろ」
「暗黒物質」
「アイリス、フィン、アルベルト、シャスール! 一人くらい庇え!」
誰も庇わなかった。その反応に、カティアは思わず笑みをこぼす。その笑顔を見つめながら、ノエルはわずかに目を細めた。
少し前までのカティアなら、こうして皆と同じテーブルを囲む光景など、到底想像できなかっただろう。
学院の教師たちも、生徒会の面々も、彼女を完全に許したわけではない。これまでに犯した罪が消えたわけでもなく、これから償わなければならないものは、きっと途方もなく大きい。
それでもここには確かに、彼女の未来があった。
「おいしい……」
カティアが、小さく呟いた。
「だろ?」
ノエルが胸を張る。
「君は焼いていないだろう」
アルベルトが、呆れを隠そうともせずに言った。
「焼いた!」
「どこを!?」
「心を!」
「料理の話をしている!」
アルベルトの鋭いツッコミが飛ぶ。
ノエルは怯むことなく、調理台の上に並んだパンケーキを指差した。
「俺だってちゃんと貢献しただろ! 果物を切った!」
「果物を切っただけでは料理に含まれませんわ」
アイリスが、切り分けられた果物を一つずつ確認しながら淡々と告げる。
「しかも、切り方が不揃いです。これは料理というより、果物に対する無差別攻撃ですわね」
「無差別攻撃って言うなよ! ちゃんと食べやすいように切ったんだ!」
「大きさがバラバラですけれど」
「個性だよ!」
「調理に個性を持ち込む前に、包丁の使い方を統一してください」
「厳しい!でも、俺はチェリージュビレも作った!」
その言葉が出た瞬間、周囲の空気がわずかに冷えた。調理台の端には、黒光りするぷよぷよとした塊が鎮座している。甘い香りよりも焦げた酒と薬草のような刺激臭を放つそれは、もはやソースというより、何か別の存在に近かった。アイリスは、恐る恐るそちらへ視線を向けた。
「あの暗黒物質は、食べ物として認められませんわ」
「料理だって言ってるだろ!」
「料理であることを主張するなら、まず食材の原形を返して差し上げなさい」
「チェリーはちゃんと入ってる!」
「原形を留めていません」
「味はいい!」
「味覚が遭難しているのではありませんか?」
「遭難してない!それに俺、応援もしただろ!」
フィンが首を傾げる。
「歌っていただけじゃない?」
「違う! 場を盛り上げてたんだよ!」
「『ふわふわの〜ぱ〜んけ〜き〜♪』って歌ってただけだよね?」
「それが応援だろ!」
「途中から『不思議な白い粉入れて〜♪』になってたけど」
「砂糖だよ!」
「聞き方によっては危険物の密造現場みたいだったよ」
「なんでだよ!?じゃあ俺は何をすればよかったんだよ!」
「最初から最後まで、調理台から離れていてください」
アイリスが即答した。
「それは参加してないだろ!」
「参加していない方が安全でしたわ」
「俺がいないと盛り上がらない!」
「実際、君が参加してから火災寸前になったね」
シャスールが、黒いチェリージュビレを眺めながら淡々と口を挟んだ。
「盛り上げていたというより、騒がしくしていただけだね」
「お前まで反抗するのかよ!?」
ノエルは声を上げた。しかし、アルベルト、アイリス、フィンに続き、シャスールまでもが彼の主張を否定したため、状況は四対一となり、完全に不利だった。それでもノエルは、簡単に引き下がるような男ではなかった。
「待て! 俺は料理を作った! 果物を切った! 歌った! 火もつけた!」
「最後のは失敗ですわ」
「演出だ!」
「火事です」
「パフォーマンス!」
「事故だね」
「お前ら言葉が辛辣すぎるだろ!」
『ノエルは料理をしていない』
『料理に関係する現象を起こしただけ』
「それ、もっと酷くない!?」
『『事実』』
「二人までそっち側に行くなよ!」
ノエルが振り返ると、ソルとルナは示し合わせたように揃って彼から目を逸らした。その動きがあまりにも息ぴったりだったため、ノエルはますます声を張り上げた。
「俺は仲間だろ!?」
「仲間だからこそ、今後は調理を任せられないんだ」
アルベルトが真顔で言った。
「信頼されてない!?」
「命を預けることはできます。ですが、食材を預けることはできません」
「信頼の方向性がおかしい!」
フィンがノエルの肩をぽんと叩いた。
「大丈夫だよ、ノエル。料理以外なら、きっと何でもできるって!」
「慰めてるようで、料理だけ完全に見捨ててるよな!?」
シャスールは黒い塊をスプーンでつついた。
ぷるん、とそれが揺れる。
「でも、これはこれで興味深いよ」
「だろ!?」
「未知の食材として研究価値がある」
「未知の食材じゃない!」
「未知の劇物としてなら価値がある」
「そっちも嫌だ!」
ノエルの叫びが調理実習室いっぱいに響き渡った直後、鍋の中で黒いチェリージュビレが小さく泡立ち、全員の視線がそちらへ集まる中、ノエルだけが誇らしげに胸を張った。
「ほら! まだ生きてる!」
「生きていてはいけませんわ!」
アイリスのツッコミが、誰よりも早く飛んだ。
「お前ら今日厳しくない!?」
また笑いが起きる中、カティアはその一つ一つを眺めていた。アイリスはノエルの皿から勝手に暗黒チェリーを遠ざけ、アルベルトはフィンの食べすぎを注意している。シャスールはフローラに勝手に果物を追加され、グレイシアはさりげなくアルベルトの皿へ一番形の良いパンケーキを置いていた。
「兄上?」
「余った」
「まだたくさんありますが」
「余った」
カルムはアイリスやカティアの隣へ行こうとして、フローラに植物の蔓で椅子ごと引き戻される。
「待って! 僕まだ何もしてない!」
「しようとしたでしょ」
「未来の罪まで裁くの!?」
「今日の記録、学院史に残したら面白そうです
「却下ですわ」
コールがにこやかに提案すると、ローザは額を揉みながら即座に却下した。
「ええ。では個人記録に」
「それも消しなさい」
コンラッドが笑う。
「平和だねえ」
「お前が言うと何か起きそうだから黙っとれ」
ディオーネがパンケーキを頬張りながら言い、レオンも笑う。
「それ、学院長が言う?」
「わしは平和を愛しておる!」
「ノエルに近づかなければな」
「なぜノエルが関係する!?」
「あります」
「ありますわ」
「ありますね」
教師たちの声が重なり、ノエルは呆れたように学院長を見つめた。
「学院長、普段何してんの?」
「おぬしを愛でて──」
「「「「仕事してください」」」」
教師陣総出の声。
「まだ最後まで言っておらん!」
笑い声が途切れない中、カティアは目を伏せた。手元にはパンケーキと蜂蜜、赤い果物が並び、温かな湯気が立ち上っている。どれも、あまりにも普通の光景だった。だからこそ、胸の奥が痛んだ。
彼女は何年もの間、誰かの顔色を窺い、誰かを憎み、誰かに縋り、誰かに愛されようとしてきた。その果てに、自分自身が何を望んでいるのかさえ分からなくなっていた。
もしかすると、こんな時間が欲しかったのかもしれない。ただ誰かと一緒に食事をし、くだらないことで笑い、明日の話をする。そんな、ありふれた時間が。
「カティア?どうした?」
ノエルの声に、カティアは顔を上げた。
少しだけ迷うように視線を揺らしたあと、彼女は静かに微笑んだ。
「明日も、こうして皆さんと過ごせるでしょうか」
ノエルは、なぜそんなことを聞くのか分からないというように、不思議そうな顔をした。
「過ごせるだろ。明日も、その次もな」
「……はい」
カティアが微笑んだ、その時だった。カラン、と金属音が響き、彼女の手からフォークが落ちる。ノエルが振り向くと、床に転がったフォークの先に、カティアの右手が見えた。指先が、細かな砂のように崩れ始めていた。
「カティア?」
誰かが息を呑んだ。
淡い光を帯びた砂がカティアの指先から零れ落ち、彼女は呆然と自分の手を見つめた。その瞬間、心臓が大きく脈打つ。
「……っ」
カティアの身体が跳ねた。胸元の皮膚の奥を、一筋の黒い光が血管を這うように走り、直後、再び鼓動が響く。ドクン…黒い光は一つ、また一つと増えていき、腕へ、首へ、胸へ、そして身体の奥深くへと広がっていった。
「あ……」
カティアが小さく声を漏らすと、その表情はすべてを理解した者のものへと変わった。
「カティア!?」
ノエルが立ち上がると、アイリスも続いて立ち上がった。アルベルトは周囲を見回す。
「敵襲か!?」
「違う」
シャスールだけがカティアを凝視していた。金色の瞳に浮かぶ魔法陣が、淡く光を放っている。
「外からじゃない、中にある」
「どういう意味だ!?」
その瞬間、教師陣が動き、笑っていた空気は一秒で消滅した。
「全員下がれ!」
コンラッドの声が響き、アドモンも椅子を飛び越えてカティアのもとへ走った。
「カティアさん、意識は!?」
「あり……ます……」
「呼吸は?」
「できます」
「痛みは」
「……少し」
「嘘ですね、かなり痛いはずです」
アドモンの表情から笑顔が消え、ディオーネも真剣な顔で手を伸ばした。
「触るぞ」
ディオーネは返事を待たずにカティアの胸元へ掌をかざした。膨大な魔力が放たれ、空気が震える。カティアの身体を這う黒い光へ雷を帯びた魔力が干渉した瞬間、ディオーネの顔が苦痛に歪んだ。
「駄目じゃ」
「学院長?」
「外部から術式を掛けられているのではない…こやつの魂そのものへ、初めから術式が刻み込まれておる」
空気が凍りつく中、アドモンは即座に収納魔法から魔力測定盤や生命維持薬、術式解析用の銀針といった錬金術具を取り出した。
「そんな……魂刻印式……?」
ヒストリアも紙束を落とした。
「解除できますか!?」
アイリスが問いにアドモンは即答する。
「できるかどうかではありません。やります!」
「わしが魔力の流れを止める!コンラッド、空間遮断!」
「分かりました!」
「レオン! 周囲の警戒!」
「任せろ!」
「ローザ! 生徒を守れ!万一の魔力暴走に備えよ!」
「承知しました!」
ディオーネの指示が瞬時に飛び交い、教師たちは一斉に動き始めた。誰一人として諦めてはいなかった。カティアがかつて敵だったという事実など、今この瞬間には一切考えていない。ただ一人の生徒を、一人の人間を助けるために、全力を尽くしていた。
「カティア!」
ノエルが彼女の手を掴む。
「ノエルさん……」
「大丈夫だ! 先生たちがいる!助けるから!絶対助ける!」
カティアは、そんなノエルを見つめた。
かつて彼は、任務のために近づいた少年にすぎなかった。召喚士として利用価値があり、ニグルム様が気にかける少年──ただ、それだけの存在だったはずだ。
それなのに今、ノエルは彼女の罪も裏切りも知りながら、その手を必死に握っている。こんな自分を、それでも助けようとしている。
その事実に、カティアの口元がほんのわずかに緩んだ。
「学院へ来た目的も……」
「喋るな!」
「ノエルさんへ近づいた理由も……最初は全部、偽りでした」
「いいから!」
「でも」
カティアは、ゆっくりと周囲を見渡した。
アイリスは唇を噛み、アルベルトは拳を握り締めている。フィンからはいつもの笑顔が消え、シャスールも珍しく感情を隠せずにいた。教師たちも生徒会の面々も、ただ黙って彼女を見つめていた。
「皆さんと笑ったことは…楽しいと思った気持ちは………偽りではありませんでした」
声が震えると同時に、黒い光が胸元へ広がる。
「……知ってる。俺は知ってるから」
ノエルの言葉を聞いたカティアは、穏やかに微笑んだ。
「……最後に…わがままを言っても良いかしら?」
呼吸が浅くなったノエルは唇を噛み、涙を目に溜めながらも、それでも頷いた。
「何でも言え」
カティアは、消えかけた指でノエルの手を握ろうとした。
「ノエルさんの歌を……聴きたい……」
ノエルの目が揺れる。
「……子守唄を…眠る時に…寂しくないように」
カティアは、かすかに笑った。
その笑顔を見た瞬間、ノエルの喉が震えた。
歌えるわけがない。そんなことをしたら、声を出した瞬間に泣いてしまう。胸の奥が押し潰されるように痛み、息を吸うことさえ苦しい。黒い光が彼女の身体を蝕み、もう二度と戻れない場所へ連れていこうとしている。
それなのに、自分には何もできない。
教師たちが術式を止めようとしている。ディオーネが魔力へ干渉し、アドモンが必死に解析し、誰もがカティアを救おうとしている。それでも、黒い光は止まらない。
“助ける”と叫んだ。絶対に助けると、約束した。
……けれど、その約束を守れないかもしれない、そう思った瞬間ノエルの胸に悔しさと恐怖が一気に込み上げた。
カティアは、最初から自分たちを騙していた。学院へ来た目的も、ノエルへ近づいた理由も、すべて偽りだった。彼女が犯した罪を、ノエルは知っている。許せないと思ったこともある。どうしてそんなことをしたのかと、何度も問い詰めたかった。
それでも、一緒に過ごした時間まで偽物だったとは思えなかった。
くだらないことで笑ったこと、食事を囲んだこと、そして、カティアが少しずつ、誰かを傷つけるためではなく、誰かと笑うために笑えるようになっていったこと。
その変化を、ノエルは確かに見ていた。
だからこそ、失いたくなかった。
罪を犯したからといって、変わろうとした時間まで奪われていいはずがない。ようやく見つけた居場所を、ようやく手に入れた明日を、こんなふうに奪われていいはずがない。
昨日まで、明日も当たり前に訪れると思っていた。ついさっきまで、皆と笑い合っていた。明日も会える。また一緒に食事をして、くだらないことで言い争える。ノエルは、そんな未来を疑いもしなかった。
それが、もう二度と戻らないものになるなど、考えたくなかった。受け入れられるはずもなかった。
けれど、カティアの身体は確実に消えていく。指先は砂へと崩れ、黒い光は胸元へ広がっていく。
彼女の存在そのものが、少しずつ世界からこぼれ落ちていた。
“ノエルの歌を……聴きたい……”
“子守唄を……眠る時に、寂しくないように”
その言葉が、ノエルの胸へ深く突き刺さった。
“寂しくないように”
カティアは、最後の瞬間まで寂しさを恐れている。
…ならば、自分がそばにいる。何もできなくても、救えなくても、せめて最後の瞬間だけは、彼女を一人にしたくなかった。
ノエルは震える手を伸ばし、崩れかけたカティアの手を両手で包み込んだ。触れた手のひらから細かな砂がこぼれ落ちていく。それでも、決して離さなかった。
泣いてもいい、声が震えてもいい、途中で歌えなくなってもいい。それでも、この人が寂しくないように。自分たちと過ごした時間が偽物ではなかったと伝えるために。最後まで、そばにいるために。
ノエルは、涙で滲むカティアの顔を見つめた。
「……分かった。歌うよ、最後まで、俺が歌う」
声は震えていた。けれど、ノエルは逃げなかった。
ノエルはカティアの手を握り直し、ゆっくりと息を吸って目を閉じる。震える喉から、穏やかな旋律がこぼれた。
最初の一音は細く、今にも途切れてしまいそうだった。だが、旋律は途切れなかった。やがて歌声は部屋の隅々まで行き渡り、張り詰めた空気を柔らかく包み込んでいく。
ノエルが幼い頃に母セキレイから聞かされた歌。叔母カナリアが幼いセキレイへ何度も歌っていた子守唄であり、妹リーナが眠れない夜に、ノエルが繰り返し歌った曲でもある。
ルーベ村に、遠い昔から伝わる歌。
誰も口を開かなかった。
窓から差し込む午後の光が、かすかに揺らめく。風はない。それなのに、カーテンが微かに波打った。
空気が澄み、歌声に導かれるように、遠い記憶が呼び起こされていく。
幼い日の温もり、故郷、もう会えない人、伝えられなかった言葉、胸の奥へ押し込めていた寂しさ、それらはノエルの歌声に触れると、固く結ばれていた糸が解けるように、ゆっくりとほどけていった。
悲しみは消えない。恐怖も、後悔も、罪も、そこに残っている。
それでも、その歌は、それらを否定することなく、すべてを抱きしめるように響いていた。
ソルとルナは、ノエルの肩の上で黙って旋律に耳を傾けていた。
カティアの表情から、少しずつ苦痛が和らいでいく。黒い闇はなおも身体を蝕み続け、脚や腕は砂へと変わり続けていた。けれど、彼女の呼吸は、穏やかさを取り戻していった。
「きれい……」
カティアが呟く中、ノエルは涙を頬に流しながらも、それを拭うことなく、彼女の手を離さないまま歌い続けた。
「ノエルさん…皆さん……」
歌の合間に、カティアが微かな声で呟いた。その瞳からは、一粒、また一粒と涙がこぼれた。
「私を……人として見てくださって」
声が掠れ、ノエルの歌声が一瞬だけ震えた。
「ありがとう」
それでも、ノエルは歌い続けた。
カティアはゆっくりと瞳を閉じた。眠りにつくように、口元へ幸せそうな微笑みを浮かべる。
次の瞬間、その身体がさらさらと細かな砂へ変わった。
ノエルの手の中で、カティアの指先が崩れる。腕が、肩が、身体が、鮮やかなピンク色の髪が、そして最後には微笑んだ顔までもが、砂と淡い光の粒子へと変わっていく。
光の粒は室内を漂い、午後の日差しへ溶けるように、一粒、また一粒と消えていく。
それでも、ノエルは歌い続けた。
もう、カティアはいない。歌を聴いているはずの彼女もいない。それでもノエルは、最後の一音が消えるまで歌い続けた。
誰も動かなかった。誰も声を発しなかった。教師も、生徒会も、仲間たちも、ただ静かにその場へ立ち尽くしていた。
やがて、最後の音が消える。
残されたのは、深い沈黙だけだった。
テーブルの上には、カティアの皿だけが残っていた。半分ほど切られたパンケーキ。添えられた果物と蜂蜜と少しだけ溶けた生クリーム。そして、冷めかけた一枚のパンケーキ。
ついさっきまで、カティアはここにいた。笑っていた。明日の話をしていた。
……明日も、その次も、皆と一緒に過ごせると信じていた。
“明日も、こうして皆さんと過ごせるでしょうか”
“過ごせる。明日も、その次もな”
ノエルは何もない両手を握り締めた。返事はもう返ってこない。残されたのは、食べきれなかったパンケーキと甘い香り、そして、もう二度と迎えられないカティアのいない明日だけだった。




