☆1-33☆林檎の健康スープ
朝日が、王立アストル魔法学院の尖塔の向こうからゆっくりと昇り始めていた。
いつもならば、まだ多くの生徒が夢の中にいる時間である。ましてや一昨日まで相次ぐ騒動に見舞われていた学院では、生徒も教師も可能な限り身体を休めるよう通達されている。
そんな早朝、普段ならば間違いなく布団の中で惰眠を貪っているはずの少年が、なぜか食堂の片隅に立っていた。
「……よし」
ノエル・メレディスは額の汗を腕で拭いながら、目の前の鍋を見つめていた。そこからは、ぼこ、ぼこと粘ついた音が絶え間なく響いている。その表情は真剣そのもので、命を懸けた戦闘中ですらここまで険しい顔は滅多にしないほどだった。
鍋の中身は赤紫色だった。いや、赤紫色という言葉だけならまだ美味しそうに聞こえるかもしれない。しかし実際には、濁り切った液体の中から煮崩れた林檎らしき塊が時折浮かび上がり、粘性の高い液体が沸騰するたびにぬらりと不吉な光沢を放っている。
さらに決定的なのは匂いだった。林檎の甘酸っぱい香りは確かにある。だがそれを完全に打ち消すほどの薬草臭が混ざり込み、そこへ鼻の奥を刺すような刺激臭まで加わっている。もはや健康に良さそうな香りというより、錬金術実験で失敗した薬品そのものだった。
ノエルの左右では、手のひらサイズの妖精が宙に浮かんでいる。ソルとルナだった。二人はしばらく無言で鍋を見下ろしていたが、やがてソルが小さな両手を胸の前で合わせた。
『林檎が可哀想』
ルナも隣で同じように手を合わせる。
『安らかに眠ってほしい』
「死んでねぇよ!」
『死んだ』
『林檎としての尊厳は』
「料理しただけだろ!」
『これは料理ではない』
『林檎を装った別のナニカ』
「何だよナニカって!」
ノエルは抗議しながら木杓子で鍋を混ぜた。どろりとした料理が木杓子に絡みつき、持ち上げると伸び、まだ伸び続ける。やがて鍋から糸を引きながら、ねっとりと落ちていく。その光景に三人の間へ沈黙が落ち、ルナがぽつりと呟いた。
『生きてる?』
「料理だから生きてねぇよ」
『動いた』
「粘ってるだけだ!」
ノエルは自信満々に胸を張った。
「でも身体にいい材料しか入ってないぞ。林檎だろ。滋養草だろ。薬香葉だろ。あとは疲労回復に効くってアドモン先生が言ってた乾燥根」
『量は?』
「適当」
『終わった』
「なんでだよ!」
ソルとルナは揃って顔を逸らした。なお、この時点でノエルは知らないが、滋養草は煎じて飲む場合は一杯につき葉を半枚、薬香葉はひと摘み、乾燥根は削ったものをほんの僅かといった量が学院薬学における推奨量であるにもかかわらず、ノエルはそれらをすべて一掴みずつ入れていた。本人としては「身体に良いものをいっぱい入れれば、もっと身体に良い」という極めて素朴な理屈に基づいていたが、それは明らかに危険な発想だった。
「これならカティアも元気になるだろ」
『ならない』
『別の意味で寝込む』
「縁起でもないこと言うな!」
ノエルは完成した『林檎の健康スープ』を保温容器へ移した。容器の底へ落ちた液体が、べちゃ、と嫌な音を立てる。それでも彼は満足そうに蓋を閉じた。その背後で、厨房担当の料理人が遠巻きにその様子を見ながら顔を青ざめさせている。声を掛けるべきだったのか、止めるべきだったのか──しかし、もう遅い。料理人は静かに胸の前で祈った。誰に対しての祈りなのか、自分でも分からないままに。
☆
────学院の医務棟
カティア・リューゲンは、窓際の寝台に腰掛けていた。
外見だけなら十六歳の少女であり、かつて変身薬によって変えていたベージュブラウンの髪は、本来の鮮やかなピンク色へと戻っている。
身体そのものは若い姿を保っているものの、以前より明らかに顔色は悪かった。それは闇の魔力に長期間晒された影響であり、体内に残った術式、そして金糸雀挽歌によって刻まれた未だ解析しきれていない何かが原因だった。
アドモンを中心に教師たちが検査を続けているが、根本的な治療法はまだ見つかっていない。
それでも、少なくとも今のカティアは学院にいた。拘束具も外され、監視は続いているものの、以前のように縛られているわけではない。
罪が消えたわけでもない。それでも彼女には、明日があった。
「カティアー!」
勢いよく扉が開き、カティアはびくりと肩を跳ねさせた。
「病室の扉を蹴破る勢いで開けるんじゃありません!」
すぐ後ろからローザの叱責が飛んだ。
「蹴ってないだろ!」
「例えですわ!」
朝から病室は騒がしくなる。
ノエルが両手に容器を抱えながら、部屋に入ってきて、その肩にはソル、頭の上にはルナが乗っていた。さらに後ろからアイリス、アルベルト、フィン、シャスールが続き、今日はコンラッド、アミュ、レオン、アドモン、ローザまで揃っている。
もはや見舞いというより、小規模な集会である。
しかも、廊下の向こうからは、さらに誰かがこちらへ近づいてくる気配があった。
「ノエルがお見舞いとな!? ならばわしも──」
小柄な学院長が突撃しようとしたところで「学院長は検査結果の確認です」とコンラッドがディオーネの襟首を掴み、幼い少女にしか見えない学院長の身体が、前へ進もうとしているのに一向に距離を縮められなくなる。
「離せコンラッド! わしにもノエルとの心温まる交流を!」
「患者を増やすのでやめてください」
「どういう意味じゃ!」
朝から騒々しい中、カティアは呆気に取られていたが、やがて少しだけ笑った。
「……朝から元気ですね、あなたたちは」
「おう。体調どうだ?」
「昨日よりはマシよ」
ノエルの顔がぱっと明るくなる。
「だったら丁度いい!身体に良いと思って、俺が作ったんだ!」
そう言いながら、両手で容器を掲げる。その瞳はきらきらと純度百パーセントの善意で輝いていて、その様子に、カティアは一瞬だけ目を丸くした。
「……あなたが?」
「珍しく朝早く起きて作った」
『奇跡』
『学院創立以来の怪異』
「そこまで言うか!?」
「それで、何を作りましたの?」
アイリスが尋ねるとノエルは待っていましたと言わんばかりに胸を張った。
「林檎の健康スープ!」
「まあ」
フィンが笑顔になる。
「美味しそうだな!」
「だろ?」
「いや、待て」
アルベルトだけが即座に手を上げた。その表情には、強烈な警戒心が浮かんでいる。
「今、ノエルが作ったと言ったな?」
「言った」
「自分で?」
「自分で」
「誰かの監督は?」
「ない」
「食堂の料理人は?」
「まだ寝てると思って、俺一人で」
アルベルトの顔から、すうっと血の気が引いていく。
「カティア、食べるな!」
「なんでだよ!」
「僕の本能が警鐘を鳴らしている!」
「料理に本能使うな!」
シャスールが静かに頷いた。
「アルベルトの判断は正しいと思う」
「お前まで!?」
ノエルは不服そうに蓋へ手を掛けた。
「見れば分かる。ちゃんと健康そうだから」
「健康そうな料理とは何ですの?」
アイリスのもっともな疑問を無視して蓋が開かれた瞬間、部屋に強烈な匂いが広がった。それは三層に分かれた異様な臭気だった。
まず最初に鼻を刺したのは、煮詰めすぎた林檎の甘い腐敗臭だった。果実の香りというより、発酵を通り越して崩れた果実酒のように、ねっとりとまとわりつく甘さがある。
次に続いたのは、土と薬草が混ざり合った重い匂いだった。煮崩れた葉が泥のように沈み込み、湿った森の地面をそのまま鍋に移したかのような青臭さと土気が鼻の奥に残る。
そして最後に、それらを押し潰すように鋭い刺激臭が走った。甘さも土臭さも苦味も一瞬で歪め、鼻の奥を直接叩くような鋭さだけが残る。吸い込んだ瞬間、喉の奥がひりつき、空気そのものが壊れたような感覚を与えた。
その匂いに、全員が一斉に固まる。
コンラッドは静かに窓へ視線を向け、アミュは無言で窓を開け放ち、レオンは即座に鼻を摘まみ、ローザの眉間には深い皺が刻まれる。
あの学院長ですら一歩後退し、フィンの笑顔は消え、アイリスの顔も見事に引きつり、アルベルトだけが「やっぱりな」と呟く。
その中心で、ノエルだけが不思議そうに首を傾げていた。
「なんだよ?」
「なんだよ、ではありませんわ」
アイリスが恐る恐る器を覗き込むと、そこには赤紫色の濁ったどろどろとした液体が満ちており、ところどころに林檎だったはずの何かが浮かんでいた。やがて表面で気泡が一つ弾けて「ぽこ」と小さな音を立てると、アイリスはゆっくりと顔を上げた。
「……これを食べ物として扱うには、わたくしの教養では足りないようですわ」
「ただのスープだって!」
「ただのスープは粘糸を引きません!」
アルベルトが指差す。
「見ろ! 器の縁から何か伸びてるぞ!」
「林檎だろ」
「林檎に謝れ!」
その言葉に反応したように、ソルとルナはふわりと宙へ浮かび、器の前に並ぶと、小さな両手をそっと合わせた。
『林檎が可哀想』
『林檎を装った別のナニカ』
「お前らまで!」
ノエルが吠えると、レオンは肩を震わせながら笑いを堪えていた。
「やべぇな、ノエル。オレ、魔物相手でもこんな危機感覚えねぇぞ」
「レオン先生まで何言ってんだ!」
「オレ、一応警備最高責任者なんだけど、これ学院内に置いていいのか悩むな」
「料理!」
「危険物じゃなくて?」
「料理!!」
ディオーネは腕を組み、世界三指の大魔導師らしく真剣な表情でスープを見つめた。
「うむ…わしの雷でも倒せぬ可能性がある」
「学院長!?」
アミュが吹き出した。
「いや、これはノエル君が強いとかじゃないよ。料理の方向性が人類に敵対してる」
「してねぇ!」
「未知の兵器として研究価値がありますわね」
ローザまで冷静に告げた。
「ローザ先生まで!?」
その横で、唯一アドモンだけは眼鏡の位置を直しながら興味深そうに中身を観察していた。
「林檎に滋養草、薬香葉……乾燥根も入ってるね」
「さすがアドモン先生!分かってくれたか!」
「分かるよ。全部、量を間違えなければ身体にいい」
アドモンは穏やかに笑う。
「ほら!」
「量を間違えなければね。…ノエル君」
「何?」
「滋養草、何枚使った?」
「一掴み」
「薬香葉は?」
「一掴み」
「乾燥根」
「一掴み」
アドモンは目を閉じた。
「なるほど…医務室で食べるのは正解だったかもしれない」
「何で!?」
笑い声が広がる中、カティアはしばらく呆然としていた。目の前には見るからに危険な料理があり、その周囲では生徒たちと教師たちが言い争っている。しかし、そこに自分を殺そうとする者も、責め立てる者もいない。ただ朝から、馬鹿みたいに、くだらないことで騒いでいるだけだった。こんな光景を、自分がその中心から眺める日が来るなんて、少し前まで想像もしなかった。
そのとき、ノエルが器を差し出した。
「ほら、食ってみろよ」
ノエルは満面の笑みを浮かべていた。その様子を見たカティアの腕が、わずかに震える。料理への恐怖なのか、それとも別の理由なのか──本人にも分からなかった。
「これは新種の拷問かしら……」
「お見舞いだよ!」
「お見舞いで患者の状態を悪化させようとする人、初めて見ましたわ」
「アイリス!」
「事実です」
カティアは匙を持ち、赤紫色の液体へ差し込むと、ずぶりと嫌な感触が手に伝わった。掬い上げると粘りが強く、匙を持ち上げてもなかなか器から離れず、どろりと長く伸びた末にようやくぷつんと切れる。その様子を見たカティアの頬が引きつった。
「……私、金糸雀挽歌や、それよりも前にも色々と結構酷いことしてきたけど」
「うん」
「これは罰として重すぎない?」
「罰じゃねぇ!」
それでも、カティアは口元を少し緩めた。
「でも、せっかく作ってくれたものね」
「おう!」
「カティアさん!?」
アイリスの声に、彼女は静かに目を閉じた。
「覚悟はできてるわ」
「何の覚悟だよ!」
カティアは匙を口へ運び、一口噛んだ瞬間、そのまま硬直した。
「どうだ?」
ノエルが身を乗り出すが、返事はない。カティアは目を見開いたまま、微動だにしなかった。
「カティア?」
フィンが顔の前で手を振った。
「意識ある?」
「…………」
『毒殺未遂』
『勇者』
「どういう意味だ!」
『これを口に入れた勇気を称えてる』
『妾には絶対にできない』
「お前たち、甘いものなら何でも食べるだろ!」
『これは甘いものではない』
『甘いものに謝れ』
「俺の料理への評価低すぎない!?」
「評価以前の問題だ!」
アルベルトが叫ぶ。
「ほら見ろ! カティアが完全に停止してる!」
「おい、カティア!」
ノエルが焦り始める中、アドモンは自然な動作で前へ出ると、カティアの瞼にそっと指を添え、瞳孔の状態を確認した。
「大丈夫。生きているよ」
レオンが覗き込んだ。
「味覚は?」
「それは分からない」
「何で医療判断みたいになってるんだ!」
ノエルの叫びが医務室に響き渡り、数秒後、カティアの肩が小さく震えた。
「……ふ」
「カティア?」
「ふふ……ふふふ……あは……ははははははっ!」
声を上げて笑い始めたカティアに、皆の動きが一斉に止まる。彼女は腹を押さえながら笑い続け、目尻には涙まで滲んでいた。
「あははっ……な、なにこれ……! 苦っ……! えぐっ……! 口の中、ずっと草の匂いする……!」
「そんなにか!?」
「そんなに……っ、はははっ!」
「笑うほど不味いってどういうことだよ!」
「知らないわよ……! こんなもの……生まれて初めて……!」
また笑う。大きな声で。誰かを嘲る笑いではない。優越感でもない。残虐な愉悦でもない。ただ、可笑しくて、楽しくて、堪えきれずに溢れ出る笑いだった。人を操り、魔物を狂わせ、人を傷つけ、組織へ忠誠を誓い、誰かに愛されることに固執してきた彼女が、今は十六歳の少女の姿で、友人が作った最低の料理を口にし、腹を抱えて笑っている。コンラッドは目を細め、ローザも何も言わない。ディオーネですら、その瞬間だけは茶化さなかった。
シャスールは無表情のまま器を見つめていた。
「笑いを生む料理」
「お?」
ノエルが期待に満ちた目を向ける。
「じゃあ成功?」
「兵器としては」
「料理として褒めろ!」
また笑いが起きた。今度はカティアだけではない。アイリスも口元を押さえて肩を震わせ、フィンは遠慮なく声を上げて笑っている。アルベルトは「笑い事じゃないだろ!」と抗議しながらも、結局は堪えきれずに笑っていた。レオンとアミュはすでに完全に爆笑しており、アドモンだけが興味深そうにスープを採取している。
「ちょっと成分調べてみようかな」
「何で!?」
「錬金術師として未知の物質には興味があるからね」
「俺の料理を未知扱いするな!」
そんな中、カティアは目尻の涙を指で拭った。
「……本当に、馬鹿ね」
「誰が?」
「あなたよ」
「なんでだよ」
ノエルは不満そうにしていたが、カティアはとても穏やかな顔をしていた。
「でも、ありがとう」
「……早く元気になれよ」
「そうね。そうしたいわ」
その言葉だけが、賑やかだった医務室の中で、ほんの少しだけ重く響いた。
☆
昼近くまで医務棟に留まるわけにもいかず、教師たちは順次、それぞれの仕事へ戻っていった。授業や学院の警備、カティアに残された術式の解析、一昨日まで続いた事件の事後処理など、片づけるべきことは山ほどある。
ディオーネだけは「わしは学院長じゃから自由じゃ!」と主張したが、ローザとコンラッドに左右から腕を掴まれ連行された。
「ノエルー! わしのお見舞いはまだ終わっとらんぞー!」
「学院長の見舞いじゃないだろ!」
廊下の向こうへ声が消えていくのを見送ったアミュが、最後に扉から顔を出した。
「カティア。無理すんなよ」
「分かってるわ」
「ノエルの料理も無理して食べなくていいから」
「おい!」
アミュは笑いながら去っていく。扉が静かに閉じると、部屋にはノエル、アイリス、アルベルト、フィン、シャスール、カティアの六人と、肩や頭の上に乗るソルとルナだけが残った。窓から差し込む風がカーテンを柔らかく揺らし、医務室の空気をわずかに和らげていた。
「……で、これはどうするんだ?」
アルベルトが問題の器を見下ろすと、そこにはまだ大量の赤紫色の物体が残されている。
「俺が食う」
「君が?いい心掛けだ」
「何だよその言い方」
フィンがぱっと手を上げる。
「じゃあ明日は俺たちが作ろうよ」
「何を?」
「お見舞い!」
フィンはにこにこと笑う。
「料理なら、もっとみんなで作った方が楽しいだろ?」
「嫌な予感しかしませんわ」
アイリスが眉を寄せる。
「ノエルだけ火から遠ざければ大丈夫だと思う」
シャスールが言った。
「何で俺を参加させない前提なんだよ」
「安全管理」
「正論みたいに言うな!」
『ノエルは食べる担当』
『それが世界平和につながる』
「俺の料理で世界滅びねぇから!」
「今日のを見ると断言できないな」
「アルベルト!」
そのやり取りにカティアが、また小さく笑った。
「それなら……パンケーキは?」
皆が彼女を見る。すると、カティアは一瞬だけ言葉に迷うように目を伏せ、それから少し気恥ずかしそうに視線を逸らした。
「前に、一度だけ食べたことがあるの。果物とクリームをたくさん乗せたやつ」
それは、高価でも特別でも、人生を変えるような願いでもなかった。ただ明日、友人たちと一緒に甘いパンケーキを食べたい…そんな、ささやかで何気ない願いだった。
その言葉を聞いた瞬間、フィンの顔がぱっと輝いた。
「いいな!俺、家だと兄弟多いからよく大量に焼いてたよ」
「十四人兄弟でしたわね」
「うん。ちょっと油断すると皿から消えるんだ」
「壮絶だな……」
アルベルトが呟く。
「では、明日はパンケーキにしましょう!わたくしも多少なら料理の心得があります」
「僕も基本的なものなら作れる」
「僕は蜂蜜持ってくる」
アイリスの言葉にアルベルトも続き、シャスールも少し楽しそうに頷いた。
「じゃあ俺は──」
ノエルが何か言おうと口を開いた瞬間、全員の視線が一斉に彼へと集まった。
「……何だよ」
「ノエルは座ってなさい」
「アイリス!」
「それが最善ですわ」
「俺も作る!」
「だめだ」
「アルベルト!」
「今回は病人がいる!」
「健康な奴ならいいのかよ!」
『健康でも駄目』
『妾たちも生きたい』
「そこまで!?」
カティアは口元を押さえ、笑いを堪えながら、ゆっくりと言った。
「じゃあ、明日みんなで作りましょう」
ノエルが笑う。
「うん」
アイリスも微笑む。
「ええ」
フィンは大きく頷いた。
「決まり!」
アルベルトは肩を竦める。
「まあ、監視役が多ければノエルも妙なことはしないだろ」
「俺を危険人物みたいに言うな」
「目の前の料理を見てから言え」
また、小さな笑いが生まれた。そのとき、シャスールが窓の外へ目を向ける。金色の瞳に、青い空が映っていた。
「明日は晴れるよ」
「分かるの?」
カティアが尋ねる。
「たぶん」
「たぶんなのね」
「未来は絶対じゃないから」
何気ない言葉だった。不安にさせるためでも、何かを予言するためでもない。シャスールにとっては、ただの事実だった。
けれど、その瞬間、カティアの表情がほんのわずかに止まった。誰も気づかないほど短い間、彼女の鮮やかな瞳が窓の外へ向けられる。青空、白い雲、風に揺れる木々。そこには、いつもと変わらない学院の景色が広がっていた。
明日もきっと、同じ景色がある。
明日になれば、皆でパンケーキを焼き、果物を乗せ、クリームをたくさん添える。ノエルが料理へ手を出そうとして、アイリスやアルベルトに止められ、フィンが笑い、シャスールが天然なことを言い、ソルとルナが容赦なくノエルを貶すのだろう。
そして、自分もその輪の中にいる。
そんな当たり前の明日を思い描きながら、カティアはすぐにいつもの表情へ戻り、「そうね」と笑った。
☆
夜。医務棟は静まり返っていた。月明かりが窓から差し込み、淡い光が床に細く伸びている。カティアは眠っていなかった。寝台の上で膝を抱えるようにして座り、ただ静かに昼間の出来事を思い返していた。林檎の酷い味、ノエルの得意げな顔、皆の引きつった表情、そして笑い声。最後に浮かぶのは、明日のパンケーキという何でもない約束だった。
「……馬鹿みたい」
ぽつりと呟く。けれど、その口元には確かに笑みが浮かんでいた。こんな日が来るなんて、少し前まで想像すらしていなかった。
学院へ来た理由は任務だった。利用するため、騙すため、必要なら殺すため。ただそれだけ。偽名、偽りの年齢、偽りの姿、偽りの性格。すべてが嘘で塗り固められた存在だった。
それなのに“カティア”と呼ばれるたび、その名前が少しずつ自分の中に馴染んでいく。オウルアイでもなく、王宮魔術士でもなく、誰かを愛した女でも、誰かを憎んだ女でもない、ただのカティアとして…
それだけでいられる場所が、ここにはあった。
明日も、明後日も、その先も…
「……随分と欲張りになったわね、私」
カティアは自嘲するように笑った、その瞬間、右手にわずかな違和感を覚えた。
「……?」
月明かりの下、カティアは自分の指先を見つめた。人差し指の先端が、音もなく崩れ落ちる。皮膚も肉も骨も、細かな黒い砂のような粒子となって、夜の空気へと静かに零れていった。
「──え」
カティアの目が見開かれた。指先から手の甲、そして手首へと、崩壊が広がっていく。
「なに…よ…これ……」
左手で右腕を掴むと、触れた瞬間に崩壊はぴたりと止まった。黒い粒子が逆流し、砂のように散っていたものが集まり、手首、手の甲、指へと順に形を取り戻していく。やがて何事もなかったかのように元通りになった。
カティアは動かなかった。
しばらくの間、ただ自分の手を見つめ続ける。何度握っても、開いても、そこには普通の手がある。痛みもない。幻覚だったのではないか、そう思いたかった。
けれど、その考えはすぐに否定された。
彼女は長年、闇魔法に関わってきた。術式も、呪いも、魂に干渉する魔術も知っている。今起きた現象が、ただの体調不良などではないことくらい、嫌というほど理解してしまっていた。
「……そう」
不思議と声は震えなかった。カティアはゆっくりと寝台から降りると机へ向かい、引き出しを開ける。中には学院から渡された便箋と封筒、インク、そして羽根ペンが揃っていた。椅子に腰を下ろし、白い便箋を前に置くが、そこで手が止まる。
誰へ書くのか、何を書くのか。謝罪か、懺悔か、言い訳か、それとも今日言えなかったことか。カティアはふと窓へ視線を向けた。学院の夜空には静かな月が浮かんでいる。明日は晴れるとシャスールは言っていた。明日は、みんなでパンケーキを作る。
「……まだ…まだ、明日はあるもの」
小さく呟き、自分に言い聞かせるように息を整えたカティアは、羽根ペンを握り直すと少しだけ考え込み、やがて便箋の一行目へゆっくりと文字を書き始めた。
【───ノエル・メレディス様】
その瞬間、インクは白い紙へと静かに染み込んでいった。




