☆1-32☆金糸雀挽歌
光の届かない地下宮殿は、地上が昼か夜かすら分からないほど深い場所に存在していた。湿り気を帯びた冷たい空気が満ち、瘴気が肌を刺す中、壁を照らすのは松明ではなく青白い鬼火のような魔法灯だけだった。
最奥の黒い石で築かれた円形広間には、赤黒い魔法陣が床一面に幾重にも刻まれている。天井からは巨大な鳥籠を思わせる鉄製の装飾が黒い鎖で吊り下げられ、圧倒的な圧迫感を放ち、まるでその空間全体が何かを閉じ込めるために作られた巨大な檻のようだった。
広間の中央、円卓よりさらに奥の一段高い壇上には黒曜石のような玉座が据えられており、その上に一人の青年が静かに座っていた。漆黒の髪に血のように赤い瞳を持ち、人間離れしたほど端正な顔立ちをしていながらも、その表情には感情というものが削ぎ落とされたかのような冷たさが宿っている。金糸雀挽歌の首領──ニグルム。その赤い瞳は、円卓の中央をただ静かに見据えていた。
何の前触れもなく空間が歪み、転移術式が完成した次の瞬間、淡い金色の光とともに一つの物体が円卓の上へと落ちた。硬質な音が広間に響き渡る。
【黄金色のゴブレット】
学院地下からラウルが持ち出した遺物だった。
中央には虹色に輝く宝石が埋め込まれ、杯の周囲には太陽と月を模した繊細な彫刻が施されている。数千年という時を経たとは思えないほどの美しさを保っていた。
円卓の周囲に座っていた者たちの視線が、一斉にそれへと集まり、深紅の髪を持つ女──ルブルムが、組んでいた脚を静かに入れ替える。
「ラウルは任務を果たしましたのね」
その向かい側では、深い紺色の髪を持つカエルレウムが、眼前に魔法式を浮かび上がらせながら静かに頷いていた。
「転移座標、封印痕、魔力残滓。すべて一致しています。間違いありません」
紫煙が細く空へ昇る中、ウィオラーケウムは煙管を唇から離し、低く呟いた。
「きっちり仕事して死んだわけやな」
その言葉に悲哀はない。ルブルムは薄く笑った。
「当然でしょう。アルカナが創った魔族ですもの。命令に逆らう、どこかの誰かさんとは違いますわ」
ルブルムが豊かな赤髪を肩から払う。その言葉が誰を指しているのかは、もはや明白だった。円卓の端では、二人並んで座る双子の男女が、抱えているツギハギだらけの鯱のぬいぐるみを同時に揺らす。
「誰かさん」
「誰かさん」
フラーウムとウィリデは、黄緑色の髪と黄と緑のオッドアイを持ち、まるで合わせ鏡のように似た双子だ。彼らはくすくすと楽しげに笑っているが、ニグルムはそれを咎めることはなく、ただ視線を黄金の杯へと向け続けていた。
「必要なものは揃った」
抑揚のない声だった。そこには成功への喜びも、ラウルを失った悲しみも一切ない。いつも通りのニグルム───世界そのものを冷めた瞳で見つめる男だ。
「へえ」
甲高い幼い声が響いた。椅子の背にもたれながら、小さな脚をぶらぶらと揺らす少年。黒い髪に、縦に裂けた赤い瞳孔。額から生えた一対の黒い角、尖った耳、そして口元から覗く小さな牙。六歳ほどにしか見えないその少年──アルカナが、楽しそうに杯を覗き込んでいた。
「注意してたのに、ラウルが消滅してしまうだなんて……ふふ、想像以上だね」
ニグルムはわずかに視線を動かす。
「あそこには特級が複数存在から想定内だ」
「まぁ、そう言われるとそうだね!必要な役目は駒が果たせばいい、だからラウルを使ったんだし!それにオウルアイも、でしょ?」
アルカナは楽しそうに首を傾げた。その瞬間、円卓を満たしていたわずかなざわめきがすっと消え、広間は完全な静寂に包まれる。ニグルムの前には一枚の魔導紙が置かれており、黒い紙面には銀色の文字でいくつもの暗号名が並んでいた。ニグルムはその中の一つへ静かに指を置く。
“オウルアイ”
「あの女の役目は終わった」
指先に黒い炎が灯ると、その炎は紙全体へ広がることなく、オウルアイという文字だけをまるで生き物のように包み込んだ。じり、じりと音もなく文字が焼けていき、黒く、静かに、そして跡形もなく消えていく。その様子をアルカナは楽しそうに眺めていたが、やがて思い出したように指を鳴らした。
「そうだ。オウルアイから届いた最後の断片情報、見る?」
アルカナはニグルムの答えを待たず、小さな指で空をなぞる。すると黒い魔力が集まり、空間に水面のように揺れる漆黒の鏡が生まれた。
そこへ映像が浮かび上がる。
最初に映ったのは、王立アストル魔法学院の講堂で行われていた称号測定の光景だった。続いて画面は切り替わり、少年が召喚獣を顕現させる場面へと移る。
妖精二体、そして巨大な古代守護機兵四体の計六体の存在が次々と姿を現し、さらにノエル・メレディスが歌う光景へと続いた。その歌に呼応するように、ソルとルナの身体が一時的に成長し、本来に近い姿へと変化していく。
しかし映像は完全なものではなかった。特に後半の、ノエルが歌いながら戦っている場面はオウルアイ自身が直接記録したものではなく、彼女の使い魔が“目撃した光景”を断片的に拾い上げたに過ぎない。そのため映像は雑音と暗転を繰り返しながら断続的に再生され、やがて雷鳴のような衝撃音と共に途切れた。映像を見ながら、カエルレウムの目つきがわずかに変わる。
「妖精王が二体に古代守護機兵が四体。契約上限は不明で、神性適合値も計測不能。そして地脈干渉まで確認されている。……へぇ、古代詠唱まで使えるんだ」
アルカナが指先で魔法式を弄びながらくすりと笑う。しかしニグルムは何も答えず、ただ鏡の中のノエルを見つめていた。
ダークブラウンの髪と同じ色の瞳。美少女と見まごうばかりのその顔立ちは、カナリアとは色彩こそ違うものの、どこか重なるものがある。
だが、それは単なる「似ている」という言葉では到底足りなかった。
伏せた睫毛、少し照れたような笑い方、誰かへ手を差し伸べる時の表情、歌っている時に見せる穏やかな顔、そして何より、他者へ向ける無防備な優しさ。
あの日、街道で初めて出会った時もそうだった。
ノエルは倒れていた自分を見返りも求めず助け、正体を知った後でさえ、金糸雀挽歌の首領だと知った後でさえ態度を変えなかった。
“世界を滅ぼすなら、俺が止める”
そう言いながら、それでも隣に立っていた。その愚かさは、あまりにも母に似ていた。ニグルムの指が玉座の肘掛けへと沈む。
(……もう失いたくない)
その感情は気づけば胸の奥に根を張っていた。いや、気づいた時にはすでに遅かったのかもしれない。
世界に残されたただ一つの光
自分へと伸ばされた最後の手
それを失えば、今度こそ自分の中には何も残らない。
「綺麗だね。歌ってるノエルは」
アルカナの声が思考を割った。
「見るな」
地を這うような声が響き、空気がわずかに震える。
その様子を見て、アルカナの笑みはさらに深く歪んでいく。
「え?」
「見るなと言った」
「どうして?君だけが見たいから?……ふふ、独り占めしたいんだ?」
幼い顔には無邪気な笑みが浮かんでいたが、その縦長の瞳孔には明確な愉悦が宿っていた。
「映像を消せ」
次の瞬間、轟音とともにニグルムの魔力が爆発した。拒絶しただけだが、それだけで床に亀裂が走り、赤黒い魔法陣が一斉に明滅する。天井の鳥籠は鎖を鳴らして大きく揺れ、空気は重力ごと沈み込んだかのように歪んだ。
ルブルムは即座に椅子から離れ、数歩後方へ退く。しかしその表情に恐怖はない。赤い瞳にはむしろ陶酔に近い光が宿り、この力こそが自分たちを救った男の証だという確信だけが、静かに揺るぎなく刻まれていた。
カエルレウムは特に慌てることもなく、両手を広げ、宮殿そのものの崩壊を防ぐための空間補強術式を展開した。その瞳には強大な力への畏怖と、確かな忠誠が宿っている。
またフラーウムとウィリデの双子は鯱のぬいぐるみを抱きしめたまま、目を輝かせる。
「怒った」
「怒ったね」
「すごいね」
「綺麗だね」
圧倒的な力の前に恐れなどなく、むしろ嬉しそうですらあった。
「……えらい惚れ込みようやな」
ウィオラーケウムは煙管を口元から外し、紫色の瞳を静かに細め呟く。
ニグルムはそんな周囲の声に耳を貸さず、ただ鏡の中に映るノエルの姿だけを見つめていた。
「ノエルは……私のものだ」
低い声は静かに響いたが、その奥には到底隠しきれないほど多くの感情が渦巻いていた。愛情、執着、独占欲、恐怖、怒り、そして喪失への拒絶──それらすべてを抱えたまま、赤い瞳は鏡の中の少年を捉えて離さなかった。
「誰にも渡さない…傷つけさせない」
「ふふ…世界を壊そうとしてる君が?」
アルカナは面白そうに目を細める。
「世界とノエルは別だ」
「でもノエルは、その世界で生きてるよ?」
「ならば、ノエルが生きる場所だけ残せばいい」
ニグルムは迷わなかった。その一言が落ちた瞬間、広間は完全に静まり返り、ルブルムの眉がわずかに寄った。
「……本気で仰っていますの?」
「私は冗談を言わない」
「あなた様は……世界そのものに、何の未練もないと思っておりましたわ」
ルブルムは言葉を選ぶように慎重に口を開いたが、ニグルムはそれに答えなかった。ただ静かに鏡へと手を伸ばし、当然のように触れられないまま、それでも空中に映るノエルの頬をなぞるように指先を動かした。
「ノエルだけだ」
アルカナが耐え切れないように肩を揺らした。
「あははっ!面白い!!」
子供らしい笑い声が響いたが、その響きはどこか冷たく、ニグルムの目がわずかに細まる。
「世界を終わらせたい、でもノエルは守りたい。じゃあさ、もしノエルが、金糸雀挽歌の前に立って、君の敵になったら?」
アルカナは椅子の上で片膝を立て、笑顔を浮かべながら闇の揺らぎを見つめていた。
広間は重い沈黙に包まれ、ニグルムは微動だにせず、ただ静かに玉座に座している。
その姿を、ルブルム、カエルレウム、ウィオラーケウム、そして双子たちは無意識のうちに見つめていた。
彼らにとってニグルムは、敬愛する首領であり、自分たちを救った男でもある。
誰よりも冷徹で、誰よりも合理的で、何ひとつ必要としないはずの存在。
しかし今、その男は一人の少年──ノエルの存在によって、明確な矛盾を抱え始めていた。
その事実を、彼らは否応なく理解しつつあった。
「ノエルくん……」
「ノエルくん……」
フラーウムが囁き、ウィリデがそれを繰り返す。その声には、まるで面白い玩具の続きを待つ子供のような期待が混じっていた。やがてニグルムの赤い瞳に、ゆっくりと熱が宿っていく。
「ノエルが私の邪魔をするならば…壊れないように捕らえる」
アルカナの笑みが広がる。
「へえ」
「私だけを見させる」
「嫌われても?」
「構わない」
「泣いても?」
「私の前で泣けばいい」
「逃げたいって言ったら?」
「逃がさない」
一つひとつ、迷いなくニグルムは答えた。それは相手の幸福を願う穏やかな愛ではない。大切なものを失った子供が、二度と奪われないように壊れるほど強く抱きしめる、そんな歪んだ愛情と独占欲、そして執着だった。
「いいね!本当に君は“そっくり”だよ!だからこそ、ボクは君が愛しく思う。それに彼のことも、ね」
アルカナが満足そうに呟く。
「黙れ」
ニグルムの声が落ちた瞬間、空間そのものが沈み込んだ。命令されたわけでもないのに、幹部たちは反射的に姿勢を正す。
フラーウムとウィリデは鯱のぬいぐるみを胸に抱きしめ、カエルレウムは静かに視線を伏せた。ルブルムは浮かべていた笑みを消し、ウィオラーケウムは煙管から立ち上る紫煙を指先で静かに散らす。
そして全員が、再び鏡へと視線を向けた。
そこに映るのはノエル・メレディス。召喚士であり、六体の契約存在を従え、古代詠唱や地脈干渉すら行う異質な少年。
しかし彼の本質はそこではない。
彼が首領ニグルムにとって、世界で唯一執着する存在であるという事実。その一点だけで、幹部たちにとってのノエルという少年の意味は、静かに、しかし決定的に変質していく。
アルカナがくすくすと笑いながら映像を切り替えると、双子は興味を引かれたように身を乗り出した。
「強いのかな?」
「強いかな?」
「壊れないかな?」
「壊れそう」
「小さいし」
「可愛いし」
「でも珍しいのが六体いる」
「歌も綺麗だね」
「戦ってみたい」
「会ってみたい」
二人は顔を見合わせる。
「でも怒られる」
「ニグルム様に怒られる」
「困るね」
「困るね」
双子は満面の笑みを浮かべる。困っているようには見えず、まるで、ずっと探していた玩具をようやく見つけた子供のようだった。
「小さくて、可愛くて……綺麗な子ではありますね」
ルブルムは映像を眺めながらそっと頬に手を添え、柔らかな声で静かに広間へ言葉を落とした。その口調は母性的にすら聞こえるほど穏やかだったが、視線だけはまったく異なり、美しい宝石を品定めするように冷ややかで、壊れやすいほど価値があるという歪んだ価値観がそこに滲んでいた。
「…はぁ…でも男ですのよね?」
ルブルムの言葉にウィオラーケウムが煙管を咥え直しながら「らしいな」と答えた。
「はぁ…見た目は、わたくし好みの美少女なのに、男ということが、とても残念ですわ」
「相変わらずの男嫌いやな」
「男嫌い、という言葉は語弊がありますわ。ニグルム様はもちろん、金糸雀挽歌の男性方には拒否感がないのですが、それ以外の男はどうしても生理的嫌悪があるだけですわ」
「それを男嫌いって言うんとちゃうの?」
ルブルムとウィオラーケウムの会話の隣では、カエルレウムが黒い鏡に映る情報を冷静に解析していた。
「歌声による魔力循環…単純な強化ではないですね」
「へえ?」
アルカナが振り返る。
「世界から魔力を奪ってはいません。地脈から流れを引き上げ、自身と契約対象を通し、再び世界へ還流させている。循環そのものへ干渉しているようです」
ウィオラーケウムが煙を吐く。
「戦場で使えば厄介やな」
「厄介という水準ではありません。軍単位の魔力供給へ応用できる可能性があります」
カエルレウムが即答したところへ、アルカナが楽しそうに言葉を挟んだ。
「あるいは……神へ届く祈り」
アルカナの縦に裂けた赤い瞳が光り、静寂の中でニグルムの目が細くなった。
「何を知っている」
「秘密」
「アルカナ」
「怖いなあ」
そう言いながらも怖がっていない声だった。
アルカナは鏡へ向けて手を伸ばす。
「ノエル・メレディス…君は──」
小さく笑ったアルカナの言葉は、そこで途切れた。ニグルムの闇が瞬時に奔り、彼の手を弾き飛ばしたからだ。
「触れるな」
アルカナは自分の手を見る。
「映像だよ?」
「それでもだ」
「あは…重症だね」
アルカナは笑った。ニグルムはもう何も答えない。ただ静かに、鏡の中で何も知らずに笑っている少年を見つめ続けていた。ノエルは知らない。自分が今、世界でも最も危険な者たちから観察され、測られ、値踏みされ、そして執着されているということを。
その傍ら、カエルレウムは静かに思考を巡らせていた。
妖精王二体、古代機兵四体、そして未知の詠唱。いずれも首領の精神に干渉し得る危険な存在であり、計画にとって大きな不確定要素となる。
一瞬「排除」という選択肢が浮かぶが、それはすぐに否定された。首領がそれを許すはずがないからだ。
ならば答えは一つ。
管理、拘束、隔離、それこそが最も合理的な解だった。
首領が欲している“小鳥”であるなら、翼を折る必要はない。ただ飛べない環境に置けばいい。逃げ場をなくし、「籠の外」という概念そのものを奪う。
鳴き声が届く距離で、呼吸の一つまで把握できる場所。それこそが最も安全な状態だ。
カエルレウムの口元が、ほんの僅かに歪んだ。
そのわずかな変化に気づき、ルブルムが横目で彼を見やった。
「随分と悪い顔をしていますわね」
「そうでしょうか」
「していますわ」
「いつも通りです」
「つまりいつも悪い顔ということね」
「あなたに言われたくはありません」
普段なら双子が笑い出す場面だが、カエルレウムはすぐに表情を引き締め、何事もなかったかのように言葉を続ける。
「それで……オウルアイは回収しないのですか?彼女は組織の内部情報を知りすぎています。学院側に遠隔術式を完全解呪されれば、情報漏洩の可能性があります」
カエルレウムは円卓の上に浮かべていた魔法式を一度指先で弾き、淡い光を散らした。散った光はすぐに再構築され、複数の監視座標へと分岐していく。彼の視線は一切揺れず、ただ事実だけを積み上げるように言葉を続けた。
「処分、ですわね。失敗した駒を残せば、組織の規律が揺らぎますもの」
ルブルムの周囲に漂う瘴気が、彼女の感情に反応して、白い彼岸花を一瞬だけ咲かせるが、すぐに霧散する。彼女の冷静な声、その言葉に合わせるように、円卓の空気がわずかに重く沈む。
「忠誠心は強い女やった。拷問程度で口割るとは思えへんけどな」
ウィオラーケウムは煙管を指先で回しながら、紫煙を細く吐き出した。煙は天井へ向かう途中で揺らぎ、鳥籠の鉄格子に触れるように広がって消える。彼女は視線を動かさず、ただ淡々と事実だけを口にした。
「学院はおそらく拷問などしないでしょう」
カエルレウムはそう返す。彼は円卓の上に展開していた監視術式の一部を切り替え、学院周辺の魔力流を再計算している。指先がわずかに動くたび、空間に幾何学的な線が走り、すぐに消えていく。
「なら余計に面倒やな。あそこは人を救う方に全力出す連中や」
ウィオラーケウムは煙管を軽く噛み、目を細めた。紫の瞳が一瞬だけ鋭くなり、双子が同時に首を傾げた。
「どうする?」
「どうしよう?」
「壊す?」
「壊すの?」
「消す?」
「消すのかな?」
ぬいぐるみを揺らしながら交互に言葉を繋ぐその無邪気さは、静まり返った広間の中で異様なほど不気味に響いていた。ニグルムはただ燃え続ける名前を見つめている。
“オウルアイ”
その文字は、あと僅かで完全に消えようとしていた。
「ノエルは…オウルアイに生きろと言ったようだ」
ぽつりと落ちたその一言に、全員の視線が集まった。そこにはほんの僅かな温度が宿っていた。ルブルムの瞳がわずかに揺れ、カエルレウムも顔を上げる。ニグルムは普段、感情を外へ出すことなどほとんどない。怒りも、喜びも、悲しみも、誰かを愛することさえも失ったかのように、常に空虚だった。だが、ただ一つ、ノエルの話をする時だけは違っていた。
「許せなくても、生きて償え、と」
脳裏に、ノエルの言葉と顔が浮かぶ。
───お前は俺の大切なものを傷つけないこと
“許せなくても、生きて償え”という言葉は、アルカナから聞いた話ではあるが、あの夜にあの言葉を言った彼なら本当にそう言ったのだろう。
自分の村を襲った女に、自分や家族を危険に晒した相手へ、それでもなお生きろと、手を差し伸べる。
オウルアイがノエルの大切なものになるのか……否、それは大切なものではない。それはノエルによるオウルアイへの“慈悲”であり、純粋無垢で無防備な優しさだ。
ニグルムの口元がゆっくりと歪み、黒い炎が最後の文字を焼き尽くしていく。その微笑みは優しさに似ていたが、だからこそ一層恐ろしかった。
“裏切り者には罰を”
(…それだけじゃない…あの女はどのみち始末する予定ではあった……ならば丁度良い。ノエルの為にも…)
ニグルムは灰となった文字を指先で静かになぞった。
「どれほど手を伸ばしても、救えないものはある。あの女が希望を抱いた瞬間に、それをノエルの目の前で壊す。そうすればノエルは理解するだろう……優しさなど無意味だと…そしてこの世界に希望など存在しないと…」
ニグルムは心から慈しむような声音で告げた。
その一拍の後、黒い炎は静かに消える。魔導紙に刻まれていた「オウルアイ」という名は跡形もなく焼き尽くされ、そこには何も残っていなかった。
重い沈黙が広間を支配し、冷たい空気が空間を撫でる。ニグルムがノエルへ向けているのは、彼自身にしか理解できない歪みきった執着だった。希望を奪うことさえも、自分の側へ引き寄せるための手段へと変えてしまう、狂った愛情。
ただ一人、アルカナだけがその異常さを楽しむように、静かに笑っていた。
「いいね!すごく面白くなってきた!」
椅子の上で足を揺らしながら、縦に裂けた赤い瞳が嬉しそうに細まった。
☆
その頃、王立アストル魔法学院の夜。医務室の窓からは静かな月明かりが差し込み、薄い光が室内を淡く照らしていた。
カティアは一人、ベッドの上に腰掛けている。学院から貸与された寝間着に身を包み、鮮やかなピンク色の長い髪が肩から静かに流れ落ちていた。机の上には薬瓶が置かれている。アドモンが調合した、身体を蝕む闇属性魔力を抑制するための薬だった。
カティアはゆっくりと手を伸ばす。しかし、その指が薬瓶に触れる直前で、ふと動きが止まった。
息が詰まる。左腕の内側、皮膚の下に黒い筋が這っていた。それは血管ではない。まるで闇そのものが形を持ち、身体の内側から侵食しているかのようだった。
痛みが走る。焼けるような熱と、同時に凍りつくような冷たさが混ざり合い、神経を締め付ける。
カティアは唇を強く噛みしめ、声を押し殺した。
「……大丈夫」
自分へ言い聞かせるように呟く。
黒い筋が手首から肘へと這い上がった、その瞬間、指先がさらりと崩れ落ちた。砂のように砕けたそれは黒い粒子となって数粒、シーツの上へとこぼれ落ちる。
カティアの顔から一気に血の気が引いた。だが次の瞬間には、崩れたはずの指は何事もなかったかのように元へ戻っていた。
震える手を見つめる。動いている。感覚もある。幻覚ではない。カティアはそれを確かめるようにじっと見つめたあと、ゆっくりと、無理に笑みを作った。
「……疲れてるだけ」
そう呟くと、明日はノエルたちがお見舞い来てくれると聞いたことを思い出した。その光景を想像しただけで、カティアはほんの少しだけ笑ってしまった。
「…楽しみね」
口元を押さえ、小さく笑った。しかしその笑みが浮かんだ瞬間、胸の奥に鋭い痛みが走る。カティアは思わず寝間着の胸元を強く掴んだ。皮膚の下では黒い術式が、ゆっくりと、しかし確実に広がり続けていた。
「……誰にも、言わない」
カティアは薬瓶を握りしめながら、ノエルの顔を思い浮かべた。きっと彼なら、またあの表情を浮かべて心配し、怒り、何とかしようと無茶をするだろう。
「……明日は、普通に過ごせるように」
窓の外に広がる学院の灯りを見つめながら、月明かりに照らされた少女の姿の女は、胸の奥へと広がっていく闇を隠しつつ、ほんの少しだけ幸せそうに笑った。その手首に刻まれた黒い線が脈を打つように一度だけ赤黒く光った。




