☆1-31☆魔族ラウル
光というものは一切存在しなかった。
上下も左右も奥行きさえも判然としない完全な闇の中で、ただ一つ、赤黒い光だけが脈打つように明滅している。それは巨大な魔法陣だった。円環の内側には幾重もの古代文字が刻まれ、それらはまるで生き物のようにゆっくりと這い回っている。
その中心に、一人の少年が立っていた。
黒い髪、血よりも深い赤の瞳、縦に裂けた瞳孔、そして額から伸びる一対の黒い角…見た目だけなら六歳ほどの幼い少年。しかし、その小さな身体から漏れ出す気配は、到底子どものものとは思えない異質なものだった。
少年──アルカナは左手を掲げ、右手の爪で掌を浅く切り裂いた。そこから流れ落ちた血が魔法陣に触れた瞬間、空間は巨大な心臓の鼓動のように震え、魔法陣の光が一気に増幅する。噴き上がったのは単なる闇ではなく、生命を拒絶する瘴気だった。黒煙は幾重にも渦を巻きながら、一点へと集束していく。
瘴気はまず骨格を形作り、次に筋肉、皮膚、髪と順に肉体を構築していく。そして最後に、血のように赤い瞳が宿った瞬間、一人の男が完全な姿として現れた。灰色の髪、青白い肌、死人を思わせる不健康な顔色。その赤い瞳には人間的な感情は一切なく、男はゆっくりと片膝をついた。
「我を創造されし御方に、忠誠を」
男の声音には感情がなかった。
アルカナは傷つけた手を舐めながら、つまらなそうに男を見下ろす。
「……名前がないと不便だよね。じゃあ…“ラウル”。今日から君はラウルだ」
「以後、ラウルと名乗ります」
「うん」
アルカナは満足げに、無邪気な子どものような笑みを浮かべたが、その目だけは冷え切っていた。
「君に仕事をあげる」
アルカナが指を鳴らすと、闇の中に幻影が浮かび上がった。そこに映し出されたのは王立アストル魔法学院の地下、さらにその奥深くへと続く空間だった。巨大な扉の向こうには小さな神殿があり、その中央の台座には黄金色のゴブレットが静かに置かれている。ゴブレットの中央には虹色に輝く宝石が埋め込まれ、周囲には太陽と月を模した繊細な装飾が施されていた。
「これを回収して、転移魔法でこっちへ送って」
ラウルは幻影を見つめる。
「学院の防衛能力は?」
「かなり手強いよ。殺すこと自体は可能だけど、必ずしも殺す必要もない。教師全員を排除することに固執するのは得策じゃない。今の君の戦力では、学院長にはまず勝てないだろう。だからこそ、優先すべき対象を考えて行動してね」
「目的は遺物、命を捨てても任務を遂行します」
「命?」
アルカナが首を傾げた。
「キミにそんな大層なものあったっけ?」
「ありません」
ラウルには恐怖というものがないらしく、返答には一切の躊躇がなかった。アルカナはそれを見て、楽しげに続ける。
「それと……神殿の門には、普通の鍵じゃ開かない封印がある」
「解除方法は…?」
ラウルが顔を上げると、アルカナは楽しそうに口角を吊り上げた。
「召喚士の少年……すっごく可愛い鍵だよ!」
「承知しました」
「じゃあ、行ってらっしゃい!成功を期待してるよ、ラウル」
「我が創造主アルカナ様の御心のままに」
やがてラウルの身体は黒い瘴気に包まれ、そのまま姿を消した。
☆
「だから、これは絶対におかしいって!」
休憩時間、一年A組の教室ではノエルの声が響き渡っていた。机の上には次の授業に提出する課題の紙が一枚置かれ、その横には魔法薬学の教科書が開かれている。ノエルはその紙を指差しながら、向かいに座るアルベルトへ食ってかかっていた。
「なんで薬草の名前を百種類も暗記する必要があるんだよ!」
「魔法薬学の授業だからだろ!」
「使う時に本見ればいいじゃん!」
「君という人間はどうしてそう怠惰な方向に全力を尽くすんだ!」
「効率化って言え!」
「勉強から逃げることを効率化とは言わない!」
アルベルトの額に青筋が浮かぶ。
少し離れた席ではアイリスは優雅に本を読んでいた。
「お二人とも騒がしいですわ」
ノエルとアルベルトが同時に振り向く。
「アイリスは全部覚えたのか?」
「当然ですわ」
「うわ、腹立つ」
「努力もせずに他人の成果へ腹を立てるなど、人間として最低ですわね」
「言い方!」
「ですが、ノエルさんの場合は努力しているのに覚えられないので、単純に頭の容量の問題でしょう」
「さらに酷くなった!」
窓際では、カティアがくすっと笑っていた。以前より笑うことが増え、監視下に置かれて自由には動けない状況でありながらも、少なくともこの教室の中では以前より自然に呼吸できているように見えた。
「ノエルさん、私が後で教えましょうか?」
「救世主!」
「甘やかすな!」
「アルベルトうるさい!」
ノエルの肩ではソルが無表情で教科書を眺めていた。
『ノエルは覚える前に寝る』
「寝てない!」
反対側の肩に乗っているルナが首を傾げる。
『昨日、教科書を枕にしていた』
「あれは読んでる途中で意識が飛んだだけ!」
『それを寝たという』
「妖精二人が敵なんだけど!?」
平和なやりとりにカティアは微笑みを浮かべていたが、その穏やかな空気は学院全体を貫く警報音が鳴り響いた瞬間に一変した。
──ゴォォォォォン!!
それは単なる音ではなかった。耳を突き刺すような高音と、腹の底を揺さぶる低音が同時に押し寄せ、空間そのものが震えているかのような錯覚を生む。窓ガラスが細かく振動し、机の上の筆記具が小刻みに跳ねた。
次の瞬間、学院各所の壁へ埋め込まれた魔法灯が一斉に赤く染まる。廊下の奥から天井へ、そして床へと赤い光が脈動し、学院全体が警告の鼓動を打ち始めた。
先ほどまでの穏やかな昼の気配は一瞬で消え去り、代わりに冷たい緊張が教室の隅々まで満ちていく。呼吸が浅くなるほどの圧迫感。見えない何かが背後から首筋を撫でるような不快な感覚が走った。
遠くで、さらに重い警報が重なる。
───ヴォォォォォン……!
それは学院の深部から響いてくる、最上位警戒を示す音だった。
アイリスが即座に立ち上がる。
「侵入警報……?」
アルベルトの顔から先ほどまでの苛立ちが消える。
「学院の結界を?」
カティアが青ざめた。
「ありえない……」
アストル魔法学院を包む防御結界は、特級魔導師アミュ・プロテクシオンが管理する世界最高峰のものであり、それを力ずくで突破するなど、普通の侵入者にできることではない。
教室内が騒然となり、教師を呼ぼうと誰かが叫んだ、その時だった。教室中央の空間が歪み、黒い亀裂が走る。その裂け目から、一人の男が静かに姿を現した。灰色の髪、青白い肌、赤い瞳。教師でもなく、生徒でもない、不法侵入者だった。
「──動くな」
低い声が教室を凍らせ、その視線は真っ直ぐノエルへ向けられた。ノエルが剣へ手を伸ばすよりも早くラウルの姿は消え、次の瞬間には彼の背後に立っていた。
「え」
「ノエルさん!」
アイリスの叫びと同時に、ノエルの首に冷たい腕が回った。
「ぐっ……!」
冷たい指が喉元へ触れた瞬間、ソルとルナが同時に飛び上がった。
『その手を離せ』
『ノエルに触るな』
二人の周囲に陽と月の魔力が集まる。
「動けば、この少年の首を折る」
カティアは手を握りしめた。
(知らない…金糸雀挽歌にこんな男はいなかったっ!)
だが、この瘴気、この闇には、嫌なほど見覚えがあった。
「あなた……何者なの」
「回答する必要はない」
ラウルの視線が教室内を巡り、やがてアイリスで止まった。
「そこの女」
「……わたくし?」
「学院地下への案内を要求する」
アイリスは剣を構えたまま、冷ややかに答えた。
「お断りしますわ」
「拒否は許可されていない」
「アイリス、来るな!」
ラウルの指がノエルの首に触れ、爪がわずかに皮膚を傷つけると、一筋の血が流れた。その光景にアイリスは唇を噛み、剣を下ろした。
「卑劣ですわね」
「評価は不要」
「アイリス!」
「黙っていてくださいませ!ここであなたを見捨てる選択肢など、最初からありませんわ」
強い声だったが、彼女の手は震えている。
ラウルが足元へ魔法陣を展開したその瞬間、教室の扉が吹き飛んだ。
「《転移》」
「待て!」
「伏せろ!!」
コンラッドの声とともに教師が飛び込んできたが、一歩遅く、黒い光に包まれたノエル、アイリス、ラウルの三人はその場から消えた。
教室へ飛び込んできたのはコンラッドで、その後ろにアミュとレオンが続いた。
「状況!」
コンラッドが叫ぶとアルベルトが振り返った。
「ノエルとアイリスが連れ去られました!」
アミュの顔色が変わる。
「どこへ」
「地下です!」
カティアが答えた瞬間、全員の視線が一斉に彼女へと集まった。カティアは強く拳を握りしめる。
「学院地下の何かを探してる。あいつはノエルさんを人質にして、アイリスさんを案内役にした」
アミュは指を鳴らすと、空中に巨大な学院の構造図を展開した。
「地下封鎖区画への転移反応を検出。第七層……いや、もっと下だ」
コンラッドの目が鋭くなる。
「地下神殿か」
「教師用緊急回線で学院長以下、特級全員を地下へ回せ!」
レオンの言葉にアミュが首を振る。
「悪いけど僕は動けない! 外側の結界に穴が空いてる! 今もう一回外部から敵に来られたら洒落にならない!」
コンラッドは一瞬で判断した。
「ディオーネ学院長、レオン先生、ローザ先生、ガレス先生が地下。アミュ先生は学院結界修復。アドモン先生は医療班。ヒストリア先生は地下構造の解析と誘導、僕は地上を担当する」
レオンがコンラッドを見る。
「お前は行かなくていいのか?」
「行きたいよ」
コンラッドの口元には笑みがない。
「でも僕の生徒はノエルたちだけじゃない」
「……分かった、地上を頼んだぞ」
フィンとシャスールが、B組から駆けつける。
「ノエルは!?」
「地下へ連れ去られた」
フィンの笑顔が消え、シャスールは目を細める。
「俺も行きます!」
「ダメだよ。これは教師の仕事だ。君たちはここで待機すること!」
コンラッドは柔らかな口調でありながら、その言葉には拒否を許さない強さで二人を見る。
「……分かりました」
フィンは拳を握りしめ、シャスールは地下の方角を見つめた。
「大丈夫。二人とも生きてるよ」
全員が振り返る。
「分かるのか?」
「なんとなく」
「なんとなく!?」
アルベルトが叫ぶ。
「でも、側に嫌なものもいる…凄く嫌なもの」
シャスールの金色の瞳に刻まれた魔法陣の紋様が、静かに光を帯びた。
────
───
──
「……ここ、前にも来たことあるぞ」
暗い地下通路。
ノエルはラウルに首を掴まれたまま、周囲を見回していた。
以前、アルベルトと共に転移させられた地下封鎖区画のそのさらに奥だと直感する。
前回来た時と同じく、周りは闇が支配しているが、完全な暗黒ではない。壁に埋め込まれた古い魔石が弱々しい青い光を放ち、かろうじて通路の輪郭を浮かび上がらせていた。
石造りの通路は天井が高く、両側の壁には複雑な古代文字がびっしりと刻まれている。空気は冷たく、長い間誰も足を踏み入れていない場所特有の乾いた埃の匂いが漂っていた。
その奥へと続く道には、太陽と月を抱くように広がる大樹の枝──見覚えのある紋章が刻まれている。
アイリスもまた険しい表情のまま、その通路を警戒しながら見つめていた。ラウルはそんな彼女へと視線を向ける。
「ここから先を案内しろ」
「わたくしもこの区画の詳細など知りませんわ」
「……嘘ではないな」
「なら聞く必要ありませんでしたわね」
「ただし進路程度は知っている」
アイリスの眉が跳ねる。
「……なぜ分かりましたの?」
「呼吸、視線、魔力変化」
「気持ち悪いですわね」
「評価は不要」
「評価ではなく事実ですわ」
ノエルが小声で言う。
「アイリス、相手にしても無駄だと思う」
「あなたは人質なのに妙に冷静ですわね」
「いや怖いよ!?」
ラウルの腕が少し締まる。
「静かにしろ」
「はい」
「素直ですのね」
「首締められてるからな!」
アイリスが呆れたようにノエルを見る。
「黙ってくださいませ。誰のせいで案内することになってると思っていますの」
「俺のせいじゃないだろ!」
「捕まったのはあなたですわ!」
「理不尽!」
ラウルが二人を見る。
「理解不能」
「お前にだけは言われたくない!」
「あなただけには言われたくないですわ!」
そんなやり取りをしながらも、ノエルとアイリスは互いに視線を交わし、抵抗する機会を探っていた。ソルとルナはノエルの服の中に身を潜めており、すでにラウルには存在を知られているにもかかわらず、それでもなお隙を待ち続けている。やがて曲がり角に差し掛かり、ラウルが先を確認するためにほんの一瞬だけノエルから意識を外した。その瞬間アイリスが抜剣。
「《光刃》!」
アイリスの白銀の斬撃と同時に、ノエルが床を蹴った。
「ソル! ルナ!」
光と影が左右からラウルを挟撃。
『燃焼させてやる《日輪》』
『凍てつかせてやる《凍月》』
光刃と太陽の残響を束ねたような光の輪、そして月の凍てつくような冷気が三方向から同時に放たれ、激しい爆発が巻き起こった。
「やったか!?」
『その言葉はよくない』
『だいたいやっていない』
「分かってるよ!」
煙の中から、赤い瞳が光った。ラウルは無傷のまま歩み出てきた。
「抵抗を確認」
「化け物ですわね」
ノエルが剣を抜く。
「まだだ!」
踏み込んだノエルは、父フォーガス仕込みの鋭い袈裟斬りを放つ。だがラウルはそれを素手で剣身ごと受け止め、そのまま握り潰すように動きを封じた。さらに間髪入れず蹴りを叩き込み、ノエルは壁まで吹き飛ばされた。
「ノエルさん!《光輪》!」
巨大な光輪がラウルへ迫る中、ラウルは片腕を掲げて闇を展開しそれを受け止めた。
衝突の瞬間、地下回廊全体が激しく揺れ、ラウルは初めて背後へと振り向く。
何かが来る───速い。そう認識した次の瞬間、轟音と共に壁が吹き飛んだ。
「見つけた」
煙の中からレオンが姿を現し、その表情からはいつもの笑みが消えていた。さらにその後ろにはローザとガレスが続き、最後に小さな少女───ディオーネが静かに立っていた。
「わしの生徒から…離れろ!!」
薄黄緑色の瞳に雷光が宿り、空気が震えた中で、ラウルが初めて構えた。
「特級四名」
「正確には、あなたを生かして帰す理由のない教師四名ですわ」
「人の生徒さらっておいて、ただで帰れると思ってねぇよな?」
ローザの周囲に真紅の炎が咲き乱れる中、レオンが首を鳴らし、ガレスは静かに剣を抜いた。
「ノエル君、アイリス君。こちらへ」
「行かせない」
ラウルはノエルを盾にするように抱え込み、教師たちは一斉に足を止めた。
「……本当に気に入らねぇな」
レオンの笑顔が消えた。そこからは一瞬だった。ガレスが地を蹴る。老剣士とは思えない速度で踏み込み、ラウルはノエルを放して後方へ飛ぶ。直後、ガレスの剣閃が胸元を掠め、同時にローザの炎が舞う
「《紅蓮薔薇》」
無数の炎の花弁がラウルの退路を塞ぎ、さらに上空からレオンが迫った。
「逃げんな」
拳が直撃し、轟音と共にラウルの身体は床へ叩きつけられた。
「ノエルさん!大丈夫ですか!?」
アイリスが駆け寄る。
「平気!」
『ノエル』
『怪我してない?』
ソルとルナも飛び出す。
「大丈夫だって!」
ローザがアイリスを背後へ庇う。
「二人とも下がっていなさい」
瓦礫の中で、ラウルはゆっくりと立ち上がった。胸部は深く裂け、左腕は不自然な方向へ曲がっている。人間であれば即座に戦闘不能となる致命傷だったが、それでも彼の表情は一切変わっていなかった。
「なんだこいつ…痛みを感じてねぇのか?」
レオンが眉を寄せる。
『生命反応が人間と違います!純粋な魔力生命体、魔族です!それも特級レベルです!』
水晶通信越しにヒストリアの声が響く
「魔族……それも特級か…」
ディオーネが低く呟いた瞬間、ラウルの赤い瞳がゆっくりと動いた。視線は教師たちを順に捉え、次いでアイリスへと移る。剣を構えた彼女は他よりも距離が近く、最も“利用可能”な存在として認識された。その判断と同時に、ラウルの身体から黒い槍が瞬時に伸びた。
「アイリス!」
ノエルが叫び反射的にアイリスの前へ飛び出した。ずぶっ、と鈍い音が響き、アイリスの目が大きく見開かれた。
ノエルの脇腹から血飛沫が散った。黒槍が身体をかすめるように貫き、鋭い衝撃が走る。致命傷ではないものの、決して浅い傷ではない。その瞬間、アイリスが素早くノエルの身体を受け止めた。
「ノエルさんっ!!な、何をしていますの!?」
「見たら分かるだろ……庇った」
「そういう意味ではありません!」
「じゃあなんだよ……」
「馬鹿ですの!?」
「いきなり罵倒…」
「当たり前でしょう!何故、わたくしを庇ったのです!!」
「友達だから、それ以外いる…?」
ノエルは痛みに顔を歪めながらも、なお笑みを浮かべて言うその言葉に、アイリスは思わず言葉を失う。その一瞬の隙を突くように、ラウルが動いた。
『『ノエル!』』
ソルとルナが叫ぶが、間に合わない。ラウルの手がノエルの襟首を掴み、アイリスから引き剥がした。
「離しなさい!!」
ラウルはすでに深手を負っていた。全身から黒い血が流れ落ち、教師たちによって刻まれた傷は浅くない。魔力も急速に枯渇しつつある。だからこそ彼は、ただ補うためだけに動いた。無駄な感情も躊躇もないまま口を開き、鋭い牙をノエルの首筋へと突き立てる。そして流れ出した血を、そのまま吸い上げた。
「ノエルさん!!」
アイリスの顔から血の気が引いた瞬間、ディオーネの雷が爆発する。
「貴様ァ!!」
だがラウルはノエルを盾に取ることで、周囲の攻撃を封じた。誰も手を出せないまま、ノエルの血がラウルの体内へと流れ込んでいく。やがてその瞬間、ラウルの赤い瞳が大きく見開かれた。
「……これは」
異常だった。
血液に含まれる魔力濃度は常識を逸脱しており、その親和性もまた尋常ではない。何より、その中には説明のつかない“強大な力”が混ざっている。
その力に触れた瞬間、ラウルの傷はゆっくりと塞がり始めていた。
「やめ……ろ……!」
ノエルは咄嗟に拳を振るった。
狙いは正確ではない。ただ、反射的に身体が動いただけの一撃だった。それでも、その拳はラウルの頬を確かに捉える。
大した威力ではなかったが、その一瞬の衝撃でラウルの口元がわずかに緩み、牙が離れた。
首筋に食い込んでいた圧が消え、ノエルの身体が解放される。同時に傷口から血が一筋あふれ出した。
ラウルは無言のままノエルの身体を掴み、そのまま無造作に投げ捨てる。床に叩きつけられたノエルが咳き込みながら転がり、すぐさまアイリスが駆け寄った。
「ノエルさん!大丈夫ですか!?」
「……たぶん」
『大丈夫じゃない』
『血を吸われた』
ソルとルナは怒りをあらわにしていた。普段よりも低い声が響き、空気そのものが張り詰めていく。しかしラウルは二人を一瞥すらせず、ただ自分の指先を見つめていた。そこにはノエルの血が付着している。
やがてラウルはゆっくりと視線を前へ移した。回廊の奥にそびえる巨大な扉。そこには太陽と月、そして大樹の紋様が刻まれ、中央には人間の掌を思わせる窪みが存在している。
それを見た瞬間、ラウルはすべてを理解した。
『まさか!…っ血液認証式です!それも通常の血ではありません! 特定血統───』
ヒストリアが言葉を言い切るよりも早く、ラウルは扉へ指を走らせた。ノエルの血が赤い線となって紋様をなぞり、太陽、月、大樹の刻印を順に染め上げていく。その瞬間、低い重低音を響かせながら、五千年の時を閉ざしていた扉がゆっくりと開いた。
「そんな……」
「逃がすな!」
アイリスが呟くのと同時に、教師たちはその後を追って神殿の奥へと踏み込んだ。そこに広がっていたのは、想像を超えるほど広大な空間だった。中央にはひとつの台座が据えられ、その上に──黄金色のゴブレットが静かに鎮座している。中央には虹色に輝く宝石が埋め込まれ、周囲には太陽、月、そして大樹を思わせる繊細な装飾が施されていた。それは古代の遺物と呼ぶにふさわしい、異様なまでの完成度と神秘性を放っている。ラウルはその杯へ、ゆっくりと手を伸ばした。
「させません!」
ローザの炎がラウルの背を焼き、ガレスの剣が胸を貫く。続けてレオンの拳が脇腹を砕き、ディオーネの雷が直撃した。轟音とともに、ラウルの身体は崩れ落ちた。
「……任務遂行」
それでも手は止まらず、指先がゴブレットに触れた瞬間、黒い魔法陣が発生した。
「転移じゃ!」
ディオーネが手を伸ばすが間に合わず、黄金のゴブレットは黒い光に包まれてそのまま消失した。一瞬の静寂が場を支配する中、ラウルはそれを見届けると、自らの損傷した身体を確認し、もはや修復も活動継続も不可能であることを理解した。ならば残る理由はないと判断したその瞬間、レオンがラウルの胸倉を掴んだ。
「おい!誰に命令された!!」
「回答不能」
「どこの組織だ」
「回答不能」
「目的は」
「任務完了」
「質問に答えろ」
「必要なし。我が役目は終了した」
「何を──!」
ラウルの身体は足元から崩れ、魔力の粒子となっていく。
「待て!っ捕縛術を!」
「無駄じゃ……こやつ、生命構造そのものを解体しておる」
ガレスの言葉に、ディオーネが顔を歪めながら首を横に振る。ラウルの身体は魔力粒子となって完全に消滅し、そこには何も残らなかった。
「……なんなんだよ、あれ」
「生物というより……兵器ですわね」
レオンが険しい顔で呟く中、ローザはラウルが跡形もなく消え去った場所を睨みつけながら、低く言葉を落とした。
────
───
──
「だから大丈夫だって」
数時間後、学院医療棟。
ベッドに寝かされたノエルは、うんざりしたような顔で天井を見上げていた。脇腹にはしっかりと包帯が巻かれ、首には治療済みの傷跡が残っている。アドモンの診断によれば、あと数日安静にしていれば問題はないとのことだった。
「腹を刺されて首から血を吸われた人間が大丈夫じゃない!」
アルベルトが怒鳴る。
薬草と血の匂いが混じって漂う中、ノエルは、腹部に巻かれた包帯を押さえながら、頬を膨らませる。
「俺だって好きで吸われたわけじゃない」
「当たり前だ!」
「声がでかい! 俺は患者だぞ!」
「なら患者らしく大人しくしていろ!」
「いつも通りだね」
少し離れた場所で、フィンがノエルの顔色を確かめるように眺めていたが、ノエルとアルベルトのいつも通りのやり取りに穏やかな笑みを浮かべる。
「フィン、止めろよ!」
「元気そうだからいいかなって」
「良くありませんわ!」
アイリスは腕を組み、白銀の髪を揺らしながらノエルへ視線を向けた。その表情には、ノエルが無事だったことへの安堵と、少しの怒りが入り混じり滲んでいる。
「ノエルさん」
「ん?」
「……先ほどは…ありがとうございました」
アイリスはわずかに視線を逸らし、普段よりも小さな声で告げた。
ノエルは瞬きをする。
「何が?…、痛っ!?」
アイリスの眉がぴくりと動いたかと思えば、ノエルの額を軽く叩いた。
「何すんだよ!」
「天然なのか馬鹿なのか分からなくなってきましたわ!」
「なんで!?」
「僕は馬鹿だと思う」
「アルベルトまで!」
「僕も」
「シャスール!?」
『『妾も』』
「ソルとルナまで!?」
ノエルの頭上に座っていたソルとルナが、ほとんど同時に答えると、張り詰めていた空気がふっと緩んだ。場に小さな笑いが広がり、ノエルは頬を膨らませる。腹部の傷が痛むため、勢いよく抗議できないことが、なおさら悔しかった。
「怪我人に優しくしろよ」
『元気だから必要ない』
『優しくして欲しかったら大人しくしろ』
「ひどい!」
「ふふ……」
そして、カティアも少し離れた場所で、つい自然に笑っていた。ノエルがそれに気づく。
「ほら! カティアまで!」
「ご、ごめんなさい。つい…」
「最近扱い酷くない!?」
「ノエルさんだから」
「どういう意味!?」
フィンが笑い、アルベルトが呆れ、アイリスも口元だけわずかに緩める。シャスールは相変わらず掴みどころのない表情のまま、ソルとルナはノエルの頭の上でいつも通り静かに佇んでいた。すべてが、何も変わらない日常のように流れていく。
──ドクンッ…
「……え」
心臓が、嫌な音を立てた。
カティアの笑顔がふと止まり、胸の奥で何かが静かに動いた。
「カティア?」
ノエルが気づいた瞬間、カティアの胸の奥で再びドクンッと嫌な鼓動が響き、次の瞬間には喉の奥から鉄の味が込み上げてきた。
ノエルが異変を感じて起き上がる。
「──ごほっ!」
鮮血が白い床に飛び散り、カティアは自分でも理由が分からないまま力を失う
「カティア!」
ノエルはベッドから飛び降り、アルベルトが倒れかけたカティアを支える。
「おい!」
「カティアさん!」
「先生を!」
「アドモン先生!」
カティアの視界がゆっくりと暗くなっていく。
最後に映ったのは、必死な表情で自分の名を呼ぶノエルの姿だった。
「カティア! おい、カティア!」
その声を聞きながら、カティアの意識は完全に途切れた。胸の奥、彼女自身さえ知らない場所で、赤黒い術式が一度だけ静かに輝いた。




