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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
45/67

☆1-30☆学院長の狂った企画 後編

⚠️注意⚠️

今回の話にはホラー要素が出てきます。

苦手な人は注意してください!



「何だったんだ、今の……」


ノエルが青ざめた顔で呟くと、衣装箱の中で身を縮めていたアルベルトが、ようやく蓋を押し上げて顔を覗かせた。


「僕は声しか聞こえなかったのだが、それほどヤバかったのか?」


フィンが恨めしそうにアルベルトを見る。


「俺も顔見たよ」


「どんなだった?」


「聞かない方が幸せだと思う」


「そうか」


アルベルトはすぐに聞くのをやめた。ノエルは先ほどの光景を思い出し、無意識に自分の肩を抱く。その隣では、シャスールが扉へ耳を寄せていた。


「もう遠い」


廊下の向こうから聞こえていた足音は、すでに別の場所へ移動したらしい。


「じゃあ……まず館の構造を把握しましょう。逃走経路が分からないまま遭遇するのが最悪ですわ」


アイリスが息を整えた。彼女は乱れた髪を整え、いつもの冷静な表情を取り戻している。


「賛成だ!とりあえず、今いる場所がどこなのかからだな」


アルベルトは強く頷き、六人は慎重に廊下へと出た。そこで彼らは改めて館の異様さを目の当たりにする。廊下はどこまでも続いているように見えるが、窓という窓はすべて外側から木板で打ち付けられ、光は一切差し込まない。壁には無数の引っ掻き傷が刻まれ、ところどころに黒ずんだ染みが広がっている。床には乾ききった赤茶色の跡が点々と残り、かつてここで何が起きていたのかを無言のまま物語っていた。カティアはその光景に思わず足を止める。


「……これ、血痕よね」


 カティアの言葉に、誰も反論しなかった。

 床に残された赤黒い染みは、乾いてからかなりの時間が経っているようだった。拭き取ろうとした跡はあるものの、完全には消えていない。薄暗い廊下に残る染みは、まるで誰かが引きずられていった跡のように、途切れ途切れに続いていた。


 漂う血の臭いに、フィンとシャスールは顔をしかめ、思わず鼻を押さえる。


「聞きたくなかった……」


「言わない方が良かった?」


「気付いてたから同じだよ……」


 フィンは顔をしかめ、血痕から少しでも離れようと後ずさった。靴底が古びた床を擦る音が、長い廊下の奥へ吸い込まれていく。隣では、シャスールが鼻を押さえながら周囲を見回していた。壁には、等間隔に燭台が取り付けられている。


「変な建物」


「変?」


ノエルが聞く。


「うん。廊下と部屋の配置が少しおかしい。外から見た建物の大きさと、中の広さが一致してない気がする」


 シャスールは壁へ手を伸ばした。指先が触れる寸前で止まり、目を細める。金色の瞳に浮かぶ魔法陣のような模様が、ゆっくりと回転した。


「空間魔法ですもの。内部構造も意図的に歪めているのでしょうね」


アイリスは、壁の継ぎ目や床の角を注意深く観察しながら言った。建物そのものが歪んでいるのではない。空間を折り畳み、別の場所同士を無理やり繋ぎ合わせているような不自然さが、この館全体に漂っているのだと。


「本当に無駄に凝ってるな……」


ノエルが呟いた。


血痕の残る廊下は、途中で左右に分かれていた。片方は細く、もう片方は広い。だが、どちらの先にも外へ通じている気配はない。


ノエルたちは慎重に歩を進め、やがて壁の奥に隠されるように設けられた階段を見つけた。手すりには黒い埃が積もり、段差の隅には砂が溜まっている。


階段は上方と地下へ分かれていた。上へ向かう通路は途中で暗闇に呑まれ、地下へ降りる段差からは冷たい空気が流れてくる。


ノエルはその階段を指差し、二つの行き先を示した。



「どうする?」


「下だ。この建物の構造が空間魔法で歪められている以上、階段の上下がそのまま階層を示しているとは限らない。だが、下へ向かった方が、空間の中心や魔力の集積点へ近づける可能性は高いだろう。それに玄関を探すなら普通は一階だ」


「じゃあ下だな」


六人は階段を下りていった。一段下りるごとに空気は重くなり、古びた鉄のような臭いが更に強まっていった。


耳を澄ませば、壁の中を何かが流れているのか、遠くで水滴が落ちるような音が聞こえる。


やがて階段を下り切ると、その先には、さらに薄暗い廊下が続いていた。天井は高く、奥は霧がかかったようにぼやけている。どれほど先まで続いているのか、その終わりを見通すことさえできなかった。


「……ここが、一階?」


「多分」


カティアの言葉にノエルは自信なさげに答えた。階段を下りたはずなのに、空気も景色も、先ほどまでいた階とほとんど変わらない。唯一の違いは、床に残された血痕がさらに濃くなっていることだった。


血痕は廊下の中央を避け、壁際に沿って続いている。まるで誰かが壁に手をつきながら歩いたかのように、赤黒い手形も残されていた。


それを見つめたフィンは、表情を曇らせた。


「……ここ、誰かが逃げようとしたのかな」


「分かりませんわ」


 アイリスは血痕の先へ視線を向けながら、少し進んだところでノエルが開けた扉の中を覗き込んだ。扉は半開きのまま、錆びついた蝶番がわずかな風に揺れるたび、ぎい、と低い音を響かせている。


「ここ、他となんか違う」


ノエルが扉を押し開くと、そこには血の跡ひとつない部屋が広がっていた。


壁一面に本棚が並び、天井近くまで積み上げられた本の背表紙が、薄暗い室内に不規則な影を落としている。古い革張りの本や金属製の留め具が付いた記録帳、羊皮紙を束ねた資料などが収められており、砂埃をかぶったまま何年も開かれていないものもあれば、最近誰かが手に取ったらしく、机の上に開かれたままの本もあった。


机には資料が山のように積まれ、紙の端には赤い線や黒い印がいくつも書き込まれている。


窓はない。それでも、どこからともなく青白い光が差し込んでいた。光は本棚の隙間や机の脚元に溜まり、まるで部屋そのものが誰かに見張られているような、不気味な気配を漂わせていた。


「書斎ですわね」


アイリスが部屋へ入り、机の上に広げられた資料へ視線を走らせる。ノエルもその後に続いた。


足元には、破れた紙片が落ちていた。ノエルが拾い上げると、そこには古代文字と現代語が混在した記録が記されている。読めない部分が多く、内容のすべてを理解することはできなかったが、何度も繰り返し書かれている単語だけは読み取ることができた。


「もしかしたら、出口の手がかりがあるかもしれない」


アルベルトは本棚へ向かい、背表紙を一冊ずつ確認しながら魔力の反応を探り始めた。氷雪魔法を使う時のように指先へ薄く魔力を集め、隠し扉や仕掛けがあれば、空気の流れや魔力の揺らぎから見抜こうとしている。


「調べよう!よし!アイリスとアルベルトは本棚、俺とフィンとシャスールとカティアは机周り」


『妾たちは?』


「お前ら飛べるんだから上の方見てくれよ」


『分かった』


ソルとルナは天井付近へと飛び上がり、周囲の気配を探るように静かに索敵を開始した。ノエルはその間に机へと向かい、引き出しを一つずつ開けていく。だが一段目は空、二段目には紙屑が散らばっているだけで、三段目に至っては乾いた赤黒いナニかが残されているだけだった。


「……う、わ…閉めよ」


静かに閉じたその時──


「…………?」


遠くから、何かを引きずるような不気味な音が聞こえた様な気がして、ノエルは扉へ近づき、そっと廊下を覗き込む。


その瞬間、身体が凍りついた。


ズリ……ズリ……


廊下の角から、全身を薄汚れた包帯で覆った異形が現れた。目の部分には底の見えない黒い穴が二つ空き、鼻や耳は削ぎ落とされたように存在しない。口元には、笑みとも悲鳴ともつかないV字型の裂け目があり、赤黒い糸で乱雑に縫い合わされている。


異形はゆっくりと部屋に近づいてくる。手にした黒ずんだ袋は床を擦り、鉄のような臭いが漂う。


ノエルの喉が鳴り、本能は逃げろと告げていた。


《アハハ》


暗がりの奥で、異形が笑った。


湿り気を帯びた低い声が響き、その不快な音は聞く者の背筋を冷たく這い上がった。


《…イタ……ミーツケタ!》


「──ッ!」


目はない。なのに、見られている。まるで皮膚の内側へ直接視線を差し込まれ、逃げ道を探す思考までも覗かれているようだった。



 ──見つかった



そう理解した瞬間、濃い血の匂いが一気に押し寄せてきた。考えるより先に身体が反応し、ノエルは廊下へ飛び出すと、扉を閉めて外側の鍵を回した。ガチャッと施錠する音が響く。


「ノエル!?何して…」


アルベルトの戸惑いの声が聞こえたが、ノエルは構わず鍵を引き抜いた。


《…イタ…イル…》


異形が近づいてくる。


「うわぁ……ッ」


ノエルの足は震えた。怖い、ものすごく怖い。逃げ出したい衝動が全身を支配する。それでも、扉の向こうからみんなの声が聞こえた瞬間、ノエルは歯を食いしばる。


(──俺がみんなを助けないと!)


「ノエル! 開けろ!」

「ノエルさん!」

「ノエル!」


異形が扉へ向かえば、全員の存在が見つかってしまう。そう判断したノエルは、アイリスたちを守るため、自ら囮になるべく異形の前へ走り出した。


「……くっそ!」


《アハ…アハハ…ミツケタ…!》


 正面で化け物の腕がゆっくりと持ち上がる。その動きは人間のそれではなく、関節が逆に軋むような不自然さを伴っていた。

 化け物が持っていた武器は赤黒く汚れた刀だった。乾ききらない液体がぽたり、ぽたりと床へ滴り落ちる。

 それは鉄の刃ではない。これまでに何度も命を断ってきた“記憶”そのものが形を成したかのような、不気味な気配を放っていた。


ブォン!


 風を裂く音ではない。空間そのものが悲鳴を上げたような、耳の奥に直接響く唸りだった。

 ノエルは反射的に身体を滑らせる。刃が頭上すれすれを通過し、数本の髪だけが遅れて断ち切られた。宙に舞う髪を見た瞬間、遅れて背筋に冷たいものが走る。一瞬でも遅れていれば、今の自分はもう無事ではなかった。

 床へ叩きつけられた体をすぐに起こし、ノエルは即座に体勢を整えた。


「ッほんと、誰だよこんな気持ち悪い化け物作った奴!!学院長!?」


そのまま脇を抜けて走るが、異形は追ってこない。ノエルが振り向くと、異形はゆっくりと頭を扉の方へ向けていた。中から聞こえる声に反応している。


《アハ…アレ…アレレ?》


「ノエル!」

「ノエルッ!無事か!!」


(っダメだ!!)


ノエルは走りながら大きく息を吸い込んだ。声を出す。ただ叫ぶだけでは意味がないと分かっていた。反射的に頭に浮かんだのは、ルーベ村に伝わる十二の歌の一つ“祈りの歌”

 ただの無力な少年とされているこの状況下で効果があるかは分からないが、それでも、一か八か、今はそれに賭けるしかない。

 柔らかな旋律が、薄暗い館へと静かに響いていく。戦火の中、絶望の只中にありながら、それでもなお、光を願うような歌だった。

 ノエル自身はまだその歌の力の本質を知らない。それは世界の地脈から魔力を吸い上げ、循環させた力を歌声に乗せて放つ儀式であり、魔法空間の法則すら書き換えうるほどの力を秘めていることなど、知る由もなかった。

 ただ、昔から母に教わった通りに歌っただけだった。正しく、意味を込めながら。


(…どうか、みんなを守って)


その祈りを込めた歌声は、静かに空気へと染み込んでいった。そして次の瞬間、化け物の動きはぴたりと止まり、その身体からは白い煙がゆっくりと立ち上っていく。


《オ……オ迎……ェ……ア……ア……》



 化け物は苦しみ始めた。喉の奥もないはずの身体から、押し殺したような悲鳴が漏れ、包帯の隙間から、淡い光が滲み出した。

 最初は小さな点だったそれは、瞬く間に広がり、縫い目の隙間や歪んだ肉の継ぎ目、空洞の奥へと染み込んでいく。まるで、長い時間をかけて積み重なった“歪み”そのものが、初めて正しい形へと戻されていくかのように。

 光は優しくも容赦がなく、逃げ場を与えず、しかしただ痛みだけを与えるものでもない。

 ただ「在るべきではないもの」を、静かに解体していき、やがてそれは全身へと広がり、包帯の下の異形を完全に覆い尽くした。

骨も、肉も、縫い目も、牙も、すべてが白い光に溶けていく。

 化け物は声にならない声を最後に一度だけ震わせた。それは悲鳴でも怒りでもなく、ただ終わりを受け入れるような空虚な響きだった。

 まるで最初からそこに何も存在していなかったかのように跡形もなく消えた。


静寂が訪れ、ノエルは歌うのを止める。


「…………は?」


本人が一番理解していなかった直後、バキィッ!!という音と共に扉が内側から吹き飛んだ。


「ノエル!!」

「うおっ!?」


アルベルトが飛び出してきて、ノエル肩を掴む。


「馬鹿! 何考えてるんだ!」

「痛い痛い痛い!」


フィンも駆け寄る。


「無事!? 怪我してない!?」

「無事! 多分!」


アイリスも顔色を変えている。


「本当に……っ、あなたという人は!」


シャスールとカティアは、消えた化け物の跡をじっと見つめていた。


『『ノエル』』


二人が胸へ飛び込んできた。


「うわっ」


小さな身体の温もりに触れた瞬間、張り詰めていたものがすべて切れた。鼻の奥が痛み、ノエルは思わず鼻を啜る。目にはじわりと涙が滲んでいった。


「…グズッ…なんだよアレ……凄く怖かった……怖いっていうか……死ぬかと思った……」


ぽろ、と涙が落ちた瞬間、場の空気が一気に静まり返った。ノエルの涙に、誰もが言葉を失う。やがて、震える声でノエルが口を開いた。


「…………もうやだ」


ノエルはソルとルナをぎゅっと抱える。


「帰りたい……」





          ☆





演習場は、異様なほど静まり返っていた。


中央に浮かぶ巨大な映像板には、涙を流すノエルの姿が映し出されていた。乱れたダークブラウンの髪に、頬を伝った涙の跡。もともと童顔で中性的な顔立ちをしているため、その姿は美少女と見紛うほど可憐で、見る者の胸を締めつけるような痛々しさを漂わせていた。


ノエルは必死に涙を拭っていた。だが、拭っても拭っても、次から次へと涙が溢れてくる。やがて拭うことさえ諦めたのか、彼は両手で顔を覆った。


《……っ、くそ……なんで止まらないんだよ……!》



『………あの…ものすごく……心が痛みます……』


映像板からノエルの震える声が響いた瞬間、ツツジは胸を押さえた。声は小さかったが、静まり返った演習場では全員の耳に届いた。


教師たちも、ほとんど同じ反応を示した。レオンは片手で顔を覆い、アミュは盛大にため息をつく。ローザでさえ眉を寄せ、教師陣全員が悲痛な表情を浮かべていた。


「あれでは精神的な負荷が大きすぎます」

「学院長の企画ですからね……」

「企画だからで済ませていい内容でしょうか……」


教師たちの間に重苦しい空気が広がる中、映像の中のノエルは涙を堪えようと何度も深呼吸を繰り返していた。


《泣くな……こんなの、ただの企画だろ……》


ノエルは自分に言い聞かせるように呟くが、それでも涙は止まらない。教師たちの表情もますます曇っていく。ツツジはノエルを見つめながら、両手を強く握り締めていた。


一方、ディオーネは、映像板に映る涙目のノエルを見つめながら、蕩けるような笑みを浮かべていた。


「泣いてるノエル、可愛い〜」


「「「学院長!!」」」


全教師が思わず叫ぶように学院長を呼び、ディオーネは驚いたように肩を跳ねさせた。


「なんじゃ!」


『そこじゃないです!ノエルくんが泣いていることを心配してください!』


「心配しておるぞ?」


ディオーネはきょとんとした顔で答えた。


「泣いているノエルが可愛いから、しっかり記録しておこうと思っておる」


「心配の方向性が違います!」

「というか、なんで記録してるんですか!?」


「わしの企画じゃからな。記録映像は当然じゃろう」


「企画って言えば何でも許されると思わないでください!」


アミュが頭を抱え、ディオーネは不満そうに頬を膨らませた。


「え〜……皆、ノエルが泣いているのを見たいと言っておったではないか」


「誰もそんなこと言ってません!」


「わしは言ったぞ」


「学院長だけです!」


教師たちの抗議をよそに、映像板の中では、ノエルが必死に立ち上がろうとしていた。


その姿を見つめるディオーネは、わずかに目を細める。一見すれば、いつものようにノエルを可愛いがっているようにも見えた。しかし、その瞳の奥には、学院長としての冷静な観察が宿っていた。


ノエルは泣いている。身体も心も震えている。それでも、意志だけは決して折れていない。ディオーネは、その事実を誰よりも正確に見抜いていた。


学院長として見れば、ノエルはまだ未熟な生徒だ。無謀で危うく、ときには自分の命さえ軽んじている。仲間を守ろうとするあまり、自分だけが傷つけば済むと考えてしまうのだ。そして、誰かを見捨てることだけは決して選ばない。


最初こそ、その容姿に一目惚れした。だが今では、彼の魂の在り方こそが、ディオーネの内に眠る天人の血を強く揺さぶっていた。


ディオーネの背中に天人の特徴である翼こそない。だが、魔力や寿命、そしてその性質は、先祖返りと呼ぶにふさわしいほど色濃く受け継がれている。


基本的にディオーネは慈悲深く、誰に対しても優しい。学院長として生徒たちを導き、必要とあれば厳しく叱りながら、彼らの未来を守るために力を尽くしている。


しかし、天人の本能は、理屈よりも深い場所で別の答えを囁いていた。


───あの子を守らなければ


───あの子を傷つけるものを、すべて遠ざけなければ


───あの子が望むなら、世界さえ敵に回して構わない


それは慈悲に似ていた。愛情にも似ていた。けれど、その根にあるのは、相手を失うことへの恐怖と、決して手放したくないという激しい執着だった。


ノエルが誰かを守ろうとして傷つくたび、ディオーネの中の本能は、彼を抱き締め、閉じ込めてしまいたいと囁く。甘く優しい檻を、彼の周囲に作り上げたくなる。


だが、ディオーネはその衝動を表には出さなかった。学院長としての理性が、天人の本能を押し留めている。


ノエルは、守られるだけの子供ではない。自らの意志で立ち上がり、自らの意志で仲間を守ろうとしている。その選択を奪ってしまえば、ノエルがノエルである理由まで奪うことになる。


だが…


「仕方ないのぉ。今回は出口を用意してやるか」


その言葉を聞いた瞬間、演習場の空気が一変した。教師たちに安堵が広がる。

しかし、ディオーネがにやりと笑い、ゆっくりと人差し指を立てた途端、安堵は消え教師たちは一斉に身を強張らせる。


「ただし、ラスボスは出口の前に配置しておくように」


「「「『学院長ぉぉぉぉ!!』」」」


学院長の愉快そうな笑い声と、全教師の声が演習場いっぱいに響き渡たり、教師たちが一斉に学院長へ詰め寄っていた。







          ☆





館内へ突然、ツツジの声が響いた。


《皆さん、お疲れ様です! ノエル君の予想以上の奮闘により特別措置! 鍵なしでも出口へ向かえるよう変更されました!床の矢印に従って進んでください!》


床に青白い矢印が浮かぶ。


「出口!」


フィンが笑顔を取り戻す。


「帰ろう!」

「今すぐ帰るぞ!」


 六人は矢印に従って小走りで進んだ。やがて突き当たりに一つの扉が現れる。

 それは他の扉とは明らかに異質だった。黒鉄のような材質で作られている。触れることすら拒絶するような圧力が空間そのものから滲み出ており、その扉の前に立つだけで息苦しさを覚えるほどだった。

 一瞬の沈黙ののち、誰も言葉を発しないまま、ノエルがゆっくりと手を伸ばす。

 重い音と共に扉は開き、次の瞬間全員の動きが止まる。

 視界に飛び込んできた光景が、理解を拒絶したのだ。そこは広大な空間だった。しかしその広さは、異様な“量”によって埋め尽くされていた。

 床一面には白骨が散乱している。整然と並べられているわけではない。まるで不要物を投げ捨てたかのように無造作に積み上げられ、山のように堆積していた。

 頭蓋骨だけでも数十、あるいは百に届くかもしれない。肋骨、腕骨、脚骨が絡み合い、そこに“人間だったもの”の痕跡だけが残されている。

 乾いているはずの空気には、鉄錆のような匂いが刺すように混じっていた。

 部屋の中心には、手術台を思わせる大きな作業台がある。黒ずんだ赤黒い液体で濡れたそれは、今もなおゆっくりと滴り落ち、床へと染みを広げていた。

 周囲には実験器具が散乱し、割れたガラス瓶、中身の分からない薬液の残滓、歪に曲がった金属器具、それらはすべて、使い捨てられた道具のように無造作に転がっている。

 音はなく、それなのに耳鳴りのような圧迫感だけが空間を満たしていた。


誰も一歩を踏み出せない。

部屋の奥に出口に続く門が存在していた。


「…………」


フィンが口を押さえた。


「これは……」


アイリスの声も震えていた。カティアは顔を背け、アルベルトも青ざめる。シャスールでさえ言葉を失い、ノエルの腕の中にいるソルとルナも沈黙していた。


ズル……と、何かが骨の奥で動いた。


ズル……ズル……


それは人の形をしていた。だが、もはや人ではなかった。骨と皮だけに痩せ細った身体、異様に見開かれた目は焦点を結ばず、ただ虚空を彷徨っている。口元には乾いた血がこびりつき、全身からは死臭、血臭、腐臭が混ざり合った異様な臭気が漂っていた。

 その場にいる全員が、思わず顔をしかめる。

その“それ”の目が、ゆっくりと動いた。六人を見渡し……いや、正確には、女であるアイリスとカティア、そして何故かノエルへと、執着するように視線を絡める。まるで物欲しそうに、逃がすまいとするかのように、その視線が絡みついていた。


《…………ほしい》


アイリスの身体が強張る。


《女の身体……ほしい》


アイリスが一歩下がった。


《ほしい……》


アルベルトもフィンも、カティアも、そしてシャスールさえも、本能的に距離を取った。


《ほしい……女…身体……ほしい……!!》


その瞬間、ただ一人、ノエルが前へ出た。


「───うるっせぇぇぇぇ!!知るかよぉ!!」


ノエルは、これまでに溜まりに溜まっていた怒りが一気に爆発した。死ぬほど怖い思いをして、ようやく出口が見えてこの薄気味悪い場所から出られると思った矢先に、こんな最低最悪の状況に放り込まれたうえ、極めつけには「欲しい」などという子供の我が儘のような欲望だけを一方的にぶつけられる始末だった。しかも、自分が女だと勘違いされていることも含めて、何もかもが気に食わない。ノエルはついに堪忍袋の緒が切れ、「ふざけんな」と心の底からブチギレた。


全員が驚いてノエルを見る。


「欲しい欲しいって気持ち悪いんだよ!!アイリスもカティアも!アルベルトもフィンもシャスールも!!ここにいる全員、お前なんかにやるか!!」


近くにあった血まみれの作業台を、ノエルは思い切り蹴り飛ばした。作業台は勢いよく滑り、そのまま男へ直撃し、押し潰すように叩きつけた。


ガシャァァン!!!


《ほ……し……》


「愛する人を病で亡くしたのは可哀想だけど、それでも今のお前に執着されて、お前みたいな奴に好かれてる女の人が可哀想だわ!!お前はあの世でも愛する人に逢えずに、殺した女の人たちの一生分、苦しみ抜いて跡形もなく消滅しろ!!」


息を吸い、歌が再び紡がれる。だが今度のそれは“祈りの歌”ではなかった。“憤怒の歌”だった。激しい旋律が空気を震わせ、怒りと狂気が燃え上がるように広がっていく。早口の古代語が連なり、その異様な響きが空間を支配していった。


《───ギャアアアアアア!!》


男が絶叫した。


 先ほどの祈りのような光とは違う。優しく浄化するものではなく、燃え尽きるような、怒りそのものを叩きつけるような光だった。

 その光に呑まれた瞬間、怪物の身体は崩れ、霧散し、跡形もなく消滅した。


静寂が落ちる。


 アルベルト、アイリス、フィン、シャスール、カティアの全員が呆然とその場に立ち尽くしていた。

 ぽかんとしたまま、誰も言葉を発せない。

 ただ一人、ノエルだけが、化け物が消えた空間を鋭く睨み続けていた。


「ふん!ざまぁみろ!!ソル!ルナ!いえーい!」

『いえーい』

『いえーい』


ソルとルナと両手でハイタッチして、そのまま出口へ向かう。


「ほら、帰るぞ!」


満面の笑みを浮かべるノエルの背中を、五人は無言のまま追った。





          ☆




演習場は、完全な沈黙に包まれていた。生徒も教師も生徒会も、誰一人として言葉を発することができず、ツツジさえもマイクを握ったまま固まっている。やがて、その静寂を破るように、レオンが小さく呟いた。


「……強ぇな、あいつ」


アミュが顔を引き攣らせる。


「いや、精神的な意味で?」

「両方じゃね?」


生徒会席ではカルムが呆然としている。


「途中、泣いてたよな?」

「泣いてたわね」

「恐怖が限界を超えて怒りへ変換されたようですね」


フローラが頷き、コールが苦笑いしながら答えた。


「合理的ではないが……悪くない」


グレイシアは、弟アルベルトが無事だったので、少し機嫌が戻っていた。

その中でただ一人、ディオーネは満面の笑みだった。


「やはりノエルは可愛いのぉ!」

 

『それしか言えないんですか!?』


ツツジのツッコミが演習場に響いた。




────

───

──





 門を抜けた瞬間、異空間の歪みがほどけ、六人は現実の演習場へと戻ってきた。眩い光に思わず目を細める。

 その直後、視界の端から軽やかな足音が近づく。

 コンラッドが、いつも通りの満面の笑みを浮かべて歩み寄ってきた。


「お帰り。全員大丈夫かな?」


六人が瞬きをした、その一瞬で本当に終わったのだと、ようやく全員が理解する。長く張り詰めていた空気が、糸が切れるようにほどけていき、最初に吹き出したのが誰だったのかは、もう分からなかった。


「……ふっ」

「く……」

「ふふ……」

「あははははははっ!!」


一斉に、六人全員が笑い出した。

ノエルが膝へ手をつき、アルベルトもその隣で笑う。


「ははっ……やば……っ、ほんと最悪……!」

「っ、はは……! 何だあれ……!」


アイリスは目元の涙を拭いながら笑っている。


「もう……っ、本当に……!」


フィンは完全に腹を抱えて笑っていた。隣ではシャスールも珍しく声を上げて笑っている。そしてカティアもまた、心の底から楽しそうに笑っていた。その様子を見て、コンラッドは小さく首を傾げるのだった。


「あれ? 怖くなかったの?」


「いいえ!もう最高でしたわ!!もう二度と経験したくないくらい最高でしたわ!!!」


アイリスは顔を上げ、満面の笑みを浮かべた。


「褒めてる?」


「当然ですわ!」


アルベルトも笑いながら言う。


「っ、ああ……! 久しぶりにあんなに肝が冷えた……!」


フィンも続く。


「本当に最高でした! 俺、あんな怖いの初めてです!」


「それ最高って言うの?」


「終わったから最高です!」


ノエルは涙目のまま笑っている。


「本当に最悪の体験した……!」


『ノエルは泣いた』

『可愛かった』


「可愛いって言うな!」


シャスールが微笑む。


「でも素晴らしい体験だったよね」


「シャスール!?」


「普段味わえない非日常。恐怖で判断力が鈍る状況も経験できた。実に良かった」


「お前だけ感想が斜め上なんだよ!」


カティアは目尻には涙が浮かべながらも笑う。


「ええ、ええ……!お陰で皆さんに醜態を晒してしまいました……!」


「カティアも結構震えてたよな」


「フィンさん!」


「あはは!」


「もうっ……本当に最悪……!こんなに笑えて……楽しい日って……本当に、あるのね…」


 そう言ってカティアは、もう一度小さく笑った。その笑顔はどこか吹っ切れたようでいて、同時に静かな安堵を含んでいる。

 ノエルはその表情をじっと見つめた。カティアは、本当に幸せそうな顔をしていた。

 ノエルは何も言わない。ただ少しだけ、同じように笑った。


「あるだろ」


「……え?」


「これからだっていっぱいあるって」


あまりにも当たり前のことのように言う。


「こんな学院なんだし。もっとくだらないことするだろ」


アルベルトが眉を寄せる。


「学院を何だと思ってるんだ、君は」


「昨日襲撃されて今日はコレをやらされる場所」


「否定できませんわ……」


アイリスは遠い目をし、フィンは思わず笑みをこぼした。シャスールも静かに頷き、その場の空気はどこか緩んでいった。


「じゃあ次はもっと面白いことしよう」


カティアが目を瞬いた。


「……次?」


「うん」


フィンが笑う。


「六人で」


その言葉に、カティアは一瞬だけ固まった。六人。その中に、自分も含まれている。唇を噛みしめ、泣きそうになるのを必死に堪えた。そして──だからこそ、彼女は笑った。


「はい!」


大きな拍手が響き渡った。観客席に集まった学院生たちや教師陣、生徒会の面々が、一斉に六人へと拍手を送っている。昨日は魔物の襲撃で、悲鳴が響き、恐怖と不安に満ちていたが、今は違う。そこには笑い声と拍手、そして誰かの楽しげな声が確かにあった。ディオーネはその光景を見届けると、満足げに腕を組んだ。


「ほれ」


隣にいたアミュが見る。


「何ですか?」


「負の感情が正の感情になったじゃろ?」


アミュは演習場を見渡した。そこには、昨日の出来事を語り合いながら“怖かったな”と笑い合う生徒たちの姿があった。恐怖を共有したはずの記憶さえ、今はどこか遠い出来事のように軽やかに変わりつつある。そしてその中心には、仲間と楽しげに笑い合う六人の姿があった。


「……結果だけ見ればそうですね」


「じゃろ?わしは名学院長じゃからな!」


ディオーネが得意げに胸を張る。


「企画内容が狂ってなければ良かったのですが」


「なんじゃと!?」


「いやぁ、でも良かったじゃん」


レオンが後ろから口を挟み、ディオーネを見る。


「全生徒が笑ってるし」


「じゃろ?」


「ノエルを泣かせたけど」


「可愛かったのぉ」


「学院長」


「なんじゃ」


「反省しろ」


「嫌じゃ!」


 また、笑いが起こった。

 その中心で、カティアも笑っていた。誰かに命令されたわけでもなく、誰かに好かれるためでもなく、ニグルムへの忠誠を示すためでもない。ただ、楽しいから。友達と一緒にいられることが、ただそれだけで嬉しかったから。


その日、彼女は初めて心の底から願った。“明日もこんな日ならいいな”と。

ここまでお読みいただきありがとうございます!

今回の展開はいかがでしたか?ぜひ皆さんの率直なリアクションや感想、評価(☆)をお願いします。


「ここの話が好き」「あのキャラ好き!」などの一言でも大歓迎です!

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