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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
44/67

☆1-29☆学院長の狂った企画 前編

⚠️注意⚠️

今回の話にはホラー要素が出てきます。

苦手な人は注意してください!


学院襲撃の翌朝、王立アストル魔法学院は一見すると平穏を取り戻していた。澄み渡る青空の下、白亜の校舎は朝日を受けて輝き、整えられた花壇には色鮮やかな花が揺れている。

 しかし、その穏やかな光景の裏には確かな“傷跡”が残っていた。石畳の一部は抉れ、訓練場へ続く壁には大きな亀裂が走り、焼け焦げた芝生の上では教師たちが復旧作業に追われている。上空にはアミュが張り直した結界の淡い光が薄い膜のように揺らめき、人的被害こそ最小限に抑えられたものの、学院が襲撃を受けたという事実は消えていなかった。

 その影響は生徒たちの表情にもはっきりと表れている。昨日までの賑やかさは薄れ、校内にはどこか張り詰めた緊張が残っていた。


 そんな空気の中、ノエル・メレディスは学院本棟の一室にいた。机を挟んだ向かい側には、一人の少女が座っている。

 いや、少女の姿をしている、と言うべきだろう。

 錬金術によって十六歳ほどの肉体へと若返っているが、その本質は四十歳の女性。ベージュブラウンだった髪は鮮やかなピンクの長髪へと戻り、かつて身につけていた伊達眼鏡もない。


彼女の正体は金糸雀挽歌の構成員、暗号名オウルアイ。


ノエルたちが「カティア・リューゲン」と呼んでいた人物だった。


「……三年前に貴方の村を襲ったのは、私よ」


 カティアの声は、かすれるほど小さかった。

 この部屋にはノエルとカティアだけでなく、少し離れた位置に担任のコンラッドが立ち、壁際にはローザが腕を組んで控えている。さらにアドモンとアミュも同席し、静かに状況を見守っていた。

 学院側としても彼女を完全に信用しているわけではなく、複数の教師が立ち会うのは当然の措置だった。

 その張り詰めた空気の中で、ノエルは膝の上に置いた両手を強く握りしめていた。


「あの時の魔物は本当にお前が操ってたんだな?」


「……そうよ」


短い返事だった。それだけのはずなのに、胸の奥が熱くなる。父の顔、母の顔、リーナの笑顔、村人たちの姿が次々と浮かび、三年前の光景が鮮明に蘇った。魔物に襲われた村、響き渡る悲鳴と泣き声、血の匂い。そして偶然ルーベ村に現れ、魔物の群れを一掃したレオンの背中。もし彼がいなかったら、もしほんの少しでも遅れていたら、父も母も、リーナも、誰かが死んでいたかもしれない。


「……ふざけんなよ…俺の家族が死んでたかもしれないんだぞ」


 ノエルの声は震え、カティアはわずかに肩を揺らした。


「……ええ」


「村のみんなだって!」


「分かっているわ」


「分かってる?分かってるって言えば済むのかよ!」


「済むとは思っていない!……思っていないわ」


カティアは顔を上げかけたが、すぐに視線を落とした。怒鳴り返す資格など自分にはない、そう言うように


「私は命令されたからやった。でも、それを理由にするつもりはない。実際に魔物を操ったのは私。村を襲わせたのも私。あなたが憎むなら、それでいい。……死ねというなら……それも受け入れるわ」


 その瞬間、ノエルの眉間に深い皺が寄った。


「……は?」


「私は──」


「なんでそうなるんだよ!!確かに、俺はお前がやったことは許せない!」


「……ええ」


「今すぐ友達だって笑えるほど、俺は出来た人間じゃない!」


「ええ」


「腹立つし! 殴りたいくらいだし! 家族のこと考えたら、本当に…ッ!」


言葉が途切れ、ノエルは奥歯を強く噛みしめた。やがて拳を震わせながら、絞り出すように言葉を吐き出した。


「でも、だからって、死んで欲しいとは思わない!!」


 カティアの瞳が揺れた。


「……ノエルさん」


「生きて償えよ!」


 真っ直ぐにノエルは彼女を見る。


「俺は、今はまだ、お前を友達って呼べるか分からない……でも、敵だって決めつけて切り捨ててしまうのも嫌だ」


 誰も口を挟まなかった。コンラッドも、ローザも、アドモンも、アミュも、ただその二人を見ているだけだった。


「だから……今は、それでいいだろ」


「それで……?」


「答えを探してる途中、でいいだろ」


カティアは何かを言おうとしたが、結局言葉にはできず、代わりにほんの僅かに小さく頷いた。


「……ええ…そうね」


 その声は、これまで聞いたどんな声よりも弱かった。けれど同時に、ほんの少しだけ救われたようにも聞こえた。

 その後、カティアには再び詳細な検査が行われた。アドモンを中心に、魔法薬学・錬金術・治癒術・呪術解析といった各分野の教師陣が総出で調査にあたる大掛かりなものとなったが、その結果、ただ一つだけ、極めて不穏な事実が明らかになった。


「……解除できない?」


 ノエルの問いに、アドモンは珍しく笑っていなかった。


「正確には、今の僕たちでは構造そのものを完全に把握できない」


宙に浮かぶ魔導映像には、カティアの身体を模した光の輪郭が映し出されていた。心臓や魔力経路、そして魂に近い深層部分にまで、黒い糸のようなものが無数に絡みついている。


「闇属性の術式だよ。それも身体に刻まれたなんて可愛いものじゃない。魂そのものと癒着している」


「取ったら?」


「最悪、死ぬ。……いや、死ぬだけならまだ単純なんだ。何が起きるのか分からない」


「そんな……」


「安心しろ、とは言えない。でも僕たちも諦めてはいないよ。学院の教師四十人、全員ひっくるめて一人の生徒も救えないなんて、格好悪すぎるからね」


 カティアが目を伏せた。


「私は……生徒では」


「今それ言ったらローザ先生に怒られるよ」


 視線を医務室の扉付近へ向けると、そこには腕を組んだまま静かに立つローザの姿があった。


「当たり前ですわ。学院へ敵として侵入し、生徒たちを危険へ晒した。到底看過できる行為ではありません。ですが…それと、あなたを見捨てることは別問題です。教師は生徒を守る者。あなたが今後この学院で何をするか、わたくしは厳しく見させていただきます。…生きている限り、ですわ」


 ローザは踵を返し、そのまま扉の向こうへと姿を消した。静かに扉が閉まる音が響く。

 カティアは、暫く何も言わなかった。


     


          ☆



 その日、カティアはノエルを助けたという功績を考慮され、学院長から監視付きという条件のもとで学院生活への復帰を許可された。

 外見はすでに変装を解かれており、これまでの気弱な転入生としての印象は消えている。眼鏡も外され、髪色も本来の鮮やかなピンクへと戻ったことで、彼女は以前とは明らかに異なる存在感を周囲に放っていた。

 その変化は教室内でも顕著で、自然と視線が彼女へと集まることになる。


ノエル、アイリス、アルベルト、フィン、シャスール、そしてカティア。

 昼休み、六人は同じテーブルを囲んでいたが、そこに会話はほとんどなかった。

 互いに何を話せばいいのか分からず、言葉は生まれないまま沈黙だけが続く。重く静かな空気がテーブルの周囲に広がり、気まずさだけがゆっくりと積み重なっていった。


 フィンはパンを一口かじり、ゆっくりと咀嚼して飲み込むと、沈黙を破るように口を開いた。


「カティア、その髪すごく綺麗だね」


「……え?」


「鮮やかなピンク色の髪!目立つけど似合ってる」


「……あなた、もう少し何かありますでしょう?」


 アイリスが呆れたようにフィンを見る。


「何が?」


「何がって……」


「髪が綺麗だったから」


「そういう意味ではありませんわ!」


「?」


 フィンが首を傾げる。

 その横でアルベルトは腕を組んだままカティアを睨んでいた。


「僕はまだ君を信用したわけじゃないからな」


「……ええ」


「少しでも怪しい行動をしたら──」


「アルベルト」


「なんだ」


「パン焦げてるぞ」


「え?」


ノエルが指を差し、アルベルトがその先にある皿へ視線を向ける。しかし、そこにあるパンは焦げてなどいなかった。


「焦げてないじゃないか!」


「騙された」


「このっ……!」


「やめなさいな。食堂で暴れないでくださる?」


 アイリスが冷ややかに言葉を投げる一方で、その隣ではシャスールが静かにカティアを見つめていた。


「カティア」


「……何?」


「まだ全部言ってないよね」


「……」


「まあ、今言いたくないならいいけど…秘密って、言う側にも理由があるから。ただし、あとで取り返しがつかなくなる秘密なら、早めに言った方がいいよ」


シャスールは金色の瞳を細め、いつものように飄々とした笑みを浮かべながら問いかけたが、カティアは答えなかった。ただ静かに視線を落とし、机の下でそっと両手を強く握りしめる。彼女の中には、自身の過去の出来事やニグルムとの関係、そしてカナリアにまつわる記憶など、まだ誰にも語っていない過去が重く沈んでおり、それらは今も胸の奥に留まり、言葉にすることができずにいた──今はまだ、話せないまま…



────

───

──




廊下ですれ違う生徒たちの声は普段より小さく、食堂でも昨日の出来事についてひそひそと話す者が多い。

 学院そのものへの被害は、教師陣と生徒会の奮戦もあって最小限に抑えられた。それでも、自分たちの学び舎が敵に狙われたという事実は消えない。

 明るく振る舞っている者でさえ、ふとした瞬間に周囲へ目を向けてしまう。


 また何か起きるのではないか、今度こそ、自分や友人が傷つくのではないか。

 そんな不安が、目に見えない霧のように学院全体へ広がっていた。


だからこそ、午後から通常授業を急遽取りやめるという学院長ディオーネ・ジュピターの判断そのものは、誰もが理解できた。


問題は、その代わりに用意されたものだった。


 王立アストル魔法学院、北棟

 本校舎から長い渡り廊下を進んだ先に位置する、魔獣や対人戦闘を専門的に扱う巨大訓練施設《学院北棟演習場》


直径百メートルを超える円形の演習場には、一年生だけでなく、上級生まで含めた大勢の学院生が集められていた。


観客席には教師陣、その近くには生徒会の四人。そして演習場中央には、巨大な魔道具による四枚の映像板が浮かんでいる。


そのすぐ下、即席の実況席に立った男性教師ツツジが、満面の笑みで片手を高々と掲げた。


『皆さん! 昨日は大変な一日でしたね!』


生徒たちから返事はないが、ツツジは気にせず続けた。


『魔物! 爆発! 襲撃! 恐怖! 悲鳴! 泣き声! いやぁ、思い出したくもないですね!』


「なんで今それ全部言ったんですか!?」


観客席のどこかから叫び声が飛んだ。


『いいツッコミです!』


ツツジが親指を立てる。


『そんな学院内に蔓延する負の感情を、楽しい正の感情へ変えてしまおう! という学院長のありがたーい発案による特別企画!』


演習場上空に、巨大な文字が浮かび上がった。


【魔物なんて怖くないよ!ドキドキ♡恐怖体験!戦慄迷宮〜怖かった事件は更に怖い思い出で塗り潰せ〜】


 沈黙が落ちた。誰も拍手をしない。むしろ、生徒たちの顔から一斉に血の気が引いていく。

 生徒会長グレイシアはゆっくりと額へ手を当て、副会長カルムはどこか遠い世界を見るような目をしていた。フローラは可愛らしい顔を引き攣らせ、言葉を失っている。その中でコールだけが、わずかに興味深そうに映像のタイトルを眺めていた。


やがてグレイシアは、学院長席へ向かって静かに口を開いた。


「学院長」


「なんじゃ?」


「人の心はありますか?」


ディオーネは胸を張った。


「当然ある!」


「ではなぜ、この企画が通ったんですか!?」


「恐怖を恐怖で上書きすれば、昨日程度の恐怖なぞ可愛く思えるじゃろ?」


「理論が最悪です!」


観客席からは、グレイシアのツッコミに対して盛大な拍手が巻き起こった。ツツジはその様子に軽く咳払いをして場を整えた。


『なんというか……恐怖を恐怖で塗り潰すという、本末転倒になりそうな題名ですが! 当然、学院生全員が体験するには人手も時間も足りません!そこで今回は、選ばれた数名だけ参加! その他の生徒は安全な場所から観戦となります!』


その瞬間、ほぼ全ての学院生が祈るように両手を組んだ。選ばれませんように、絶対に選ばれませんようにと、普段は信仰などしていない者も神に対して、その日だけは必死に願いを捧げていた。


『そして今回、参加者には非常に厳しい条件が課せられます!種族に関係なく“魔法が使えない、ただの人間”という設定です!』


演習場中がざわめいた。


『称号による能力も原則使用禁止! 身体能力も一般人相当まで空間魔法で補正! グループ全員で協力して館内に隠された鍵を探し、屋敷から脱出する! 制限時間なしの本格脱出ホラーゲームとなっております!』


「何で襲撃翌日にやるんですか!?」


また声が飛んだが、ツツジは無視した。


『さーて!今回、生贄……おっと、名誉ある生徒代表に選ばれたのは!!』


((((今、生贄って言った!!))))


全生徒の心の声が一致する


『この子たちだぁぁぁ!!』


四方の巨大映像板へ、六枚の写真が表示された。


【ノエル・メレディス】

【アルベルト・ノービリタス】

【アイリス・ステラルーチェ】

【フィン・クローバー】

【シャスール・フォレスティ】

【カティア・リューゲン】


『おっとぉぉぉ!? まさかまさかの全員一年生だぁぁぁ!!うわっ、マジで可哀想!』


「司会が言うな!!」


『いや流石に本当に可哀想ですよ!? せめて上級生! もっと言えば生徒会の皆さんだったらよかったのに!』


カルムが勢いよく立ち上がる。


「巻き込まないでください!」


ツツジは学院長を見る。


『学院長、これ今からでも変更──』


「嫌じゃ」


『まさかの即答!?』


ディオーネは非常に満足そうだった。


「一年生同士の親睦にもなるじゃろ」


『もっと普通の親睦方法があると思いますけどね!では……』


ツツジは六人へ、心の底から同情する顔を向けた。


『可哀想ですが、これも運命だと思って諦めてください。生徒代表に選ばれた生贄の一年生たち、こちらへどうぞ』


「生贄ってもう隠す気ないだろ!?」


ノエルが叫んだ。


教師たちに促され──というより半ば連行されるようにして、六人は演習場の中央へと運ばれていく。その様子を、他の生徒たちは静かに見守りながら道を開けた。中には胸の前でそっと手を合わせる者もいた。


「安らかに……」


「死なねぇよ!」


ノエルが怒鳴る。


「多分」


フィンが付け加えた。


「余計なこと言うな!」


アルベルトが即座にツッコんだ。


中央には、不気味な巨大門が設置されていた。黒ずんだ鉄で造られ、絡みつくような蔦の意匠が全体に施されている。その向こう側は黒い靄に覆われており、何も見通すことはできない。空間魔法によって作られた異空間へと繋がっているらしいと、ツツジが実況席から説明を続けた。


『なお! 雰囲気を壊さないため、中に入った六名には我々の声は一切届きません! 実況も観客の声援も聞こえません!』


アイリスが振り返った。


「声援より先に救援をお願いしたいところですわ」


『救援はありません!』


「最低ですわね!?」


『ただし危険が発生した場合は強制転送されますので命だけは保証されています!』


「心は!?」


ノエルが叫ぶとディオーネがにっこり笑った。


「保証せん」


「学院長ぉぉぉ!!」


笑いが起きた。重苦しい空気に包まれていた生徒たちから、大きな笑い声が響く。ディオーネはその様子をちらりと見て、ほんの一瞬だけいつものふざけた表情ではなく、穏やかな学院長の顔をのぞかせた。しかしその変化に気づく者は誰もおらず、ツツジが再び声を張り上げた。


「では学院長作、今回のシナリオを軽くご説明しましょう!」


六人が嫌そうな顔をする。


『昔々、愛する女性を病で失った一人の男がおりました』


空中の映像板に、古びた館の絵が表示された。


『男は愛する人を蘇らせるため、禁忌の研究へ手を染めます。使用人一人だけを雇い、館へ籠もり、何年も、何年も、何年も──』


ツツジの声が不自然に低くなる。


『そして、とうとう彼は一つの答えへ辿り着きました』


映像が切り替わると、そこには手術台と拘束具が並び、床や壁には大量の赤黒い染みと骸が残されていた。


『新たな肉体に、愛する人の魂を移せばいい!!それ以来、男は館へ迷い込んだ若い女性を捕らえ、何度も、何度も実験を繰り返しています』


アイリスがディオーネを見る。


「学院長」


「なんじゃ?」


「趣味が悪すぎませんこと?」


「褒め言葉じゃな!」


「褒めていませんわ!」


ツツジが続ける。


『そして館内には、男に雇われた一人の使用人、という名の凶器を持った化け物が徘徊しております』


説明するツツジ本人の顔色まで悪くなる。


『……いや、俺も説明していて怖くなってきましたね。企画名の“恐怖体験”という部分を“学院長の趣味”に変えてほしいです』


「却下じゃ」


『ですよねー!』


六人が門の前に並ばされ、ツツジは最後に楽しそうに言った。


『舞台は古びた三階建ての大屋敷! 空は曇天! 湿気はじっとり! 窓には鉄格子! 廊下には血痕! 壁には引っ掻き傷! そして皆さんを探し回る異形の使用人!それでは生贄の一年生たち!行ってらっしゃーい!』


門が開き、六人とソル、ルナの姿が黒い靄に飲み込まれた。







          ☆






門の中を潜った先、ノエルたちは館の一室に立っていた。


「……」


 誰も喋らなかった。

 室内には大きな天蓋付きベッドが置かれ、古びた衣装棚や小さな机、色褪せた絵画が並んでいる。かつては高級だったのだろう家具の数々は、長い年月に侵食されたようにくすみ、静かに朽ちていた。

 蝋燭が数本だけ灯され、弱々しい炎が壁に長い影を落としている。ベランダへ続いているらしい大窓もあったが、その向こうに広がっているのは月も星もない、ただの黒だった。何も見えない闇。

 そして何より、この場所は空気そのものが異様だった。湿っていて、冷たく、重い。まるで空間そのものが沈殿しているかのような圧迫感が満ちている。


ノエルは思わず顔をしかめた。


「……嫌な匂いするな」


「嫌な、で済む?」


フィンの声は震えていた。普段の明るい笑顔は消え、鼻を押さえながら眉間に深い皺を寄せている。隣に立つシャスールもまた、露骨に顔をしかめていた。


「血の匂いがする」


「……血?」


アイリスが聞き返す。


「かなり濃い。古いのと新しいのが混じってる」


 シャスールの金色の瞳が細くなる。

 四分の一とはいえ獣人の血を引くフィンも、嗅覚は人間より鋭い。


「気持ち悪い……これ、部屋だけじゃないよ。建物中からする」


「学院長、本気出す場所を間違えているのでは?」


カティアが引き攣った笑顔を見せる。


「同感だ」


アルベルトが短く返した。

ノエルの頭上では、ソルとルナが辺りを見回していた。


『趣味が悪い』

『ノエルが怖がる場所を作った。学院長は敵』


「そこまで言うな。今のところは」


『今のところ』


ルナが復唱する。


「そこ強調するな」


魔法が使えない。称号能力も封じられている。ソルとルナがそばにいるとはいえ、その力さえ制限された状態では、ノエルにとって想像以上に心細かった。剣もなく、魔法も使えない今の自分は、ただの無力な十六歳の少年だ。


「とりあえず……凶器持った化け物が歩いてるって話だったよな?」


「いたね、そういう設定」


ノエルの問いにフィンが答えるが、普段の笑顔が死んでいる。


「まず隠れられる場所を──」


シャスールが突然言葉を切った。


「──!」


フィンも同時に顔を上げる。

二人の視線が、一つの扉へ向いた。


「? どうした? フィン、シャスール」


「……何か近づいて来る」


「え?」


シャスールの声が低くなる。


「皆、隠れるよ」


「は?」


アルベルトが眉を寄せた。


「隠れるって、どこに──」


「どこでもいい!早く!」


 普段ほとんど声を荒げないシャスールの一言に、全員の背筋へ冷たいものが走った。

 フィンが青ざめる。


「うぅ……血の匂いが、どんどん濃くなってる……」


そして、ズリ……ズリ……と、何かを引き摺る音が響いた。一定のリズムを刻む音だ。ゆっくりと、しかし確実にこちらへ近づいてくる。ズリ……ズリ…その音が次第に大きくなるにつれ、空気の質が変わっていくのが分かった。まるで冷えた鉄を喉に押し当てられたような圧迫感が、静かに広がっていく。

 ノエルたちにも、それがはっきりと分かった。血の匂いが、濃くなっている。

 最初はかすかな鉄錆の気配だったものが、距離が縮まるごとに生々しさを増し、鼻腔の奥にまとわりつくような重さへと変わっていく。甘さすら錯覚させるほどの濃密な血臭が、暗い通路の空気そのものを染め上げていた。


「うっ……!」


思わず鼻を押さえた。


「早く!」


フィンがノエルとカティアの腕を掴み、素早く引き寄せる。アイリスとシャスールは無言のままクローゼットの中へ身を滑り込ませ、アルベルトは大きな衣装箱を無理やり開けてその中へ身体を押し込んだ。ノエル、フィン、カティアの三人は息を殺したままベッドの下へと潜り込む。


その直後──


キィィィ……


ゆっくりと、扉が開いた。


《アハ、オ迎エニ……来タヨ……》


人間の声がした。確かに喉から発せられているはずなのに、どこかが決定的におかしい。平坦で、抑揚がない。喜びも怒りも恐怖もそこには存在せず、ただ音だけが機械のように言葉が並べられている。


ズリ……ズリ……


何かが引きずられてくる音がした。ゆっくりとナニカが室内へ入り込んでくる。暗闇の中で、その音だけがやけに鮮明に響いていた。


《アラ…アララ?……ドコ…》


ノエルたちは息を止めた。


ベッドの下から見えるのは、まず黒い革靴。本来ならば磨かれているはずのそれは、今は泥と乾いた血でまだらに汚れている。次に見えたのは、使用人服の裾だった。規則正しく整えられているはずの布は、まるで何かに引きずられたように不自然に揺れている。

 その手に持っているのは赤黒く汚れた大きな袋。

 その大きな袋から赤黒い液体が滲み出ていて、鉄の匂いと、何かが腐ったような異様な臭気が一気に広がる。

 フィンは両手で口を押さえたまま、肩を小刻みに震わせていた。声を出せば終わると、本能で理解している顔だった。

 カティアもまた、目を見開いたまま動けない。呼吸の仕方を忘れたかのように、ただ視線だけが薄汚れた大きな袋へ向けられていた。

 そしてノエルは、それを、見てしまった。


 薄汚れた大きな袋の破けた隙間から見えてしまったソレ。それは人の形をしている。いや、正確には人の形だったものと言うべきかもしれない。

 骨のように細い指が袋から少しはみ出し、時折わずかに動く。その動きはまるで生きているかのようにも見えるが、次の瞬間には関節が逆方向に折れたままぴくりとも動かなくなり、生死の境すら判別できない異様な光景。

 ノエルの喉が鳴る。息を吸おうとしても上手くできず、視線を逸らそうとしても目が離れない。

“見てはいけないもの”だと理解しているのに、脳がそれを拒否できなかった。


《アハ…アララ?》


 そいつはゆっくりと身体を屈めた。

 薄汚れた包帯が全身を覆う異形だった。

 顔の目にあたる部分には眼球は存在せず、ただ底の見えない黒い穴が二つ、ぽっかりと空いているだけだ。鼻と耳はない。あるべき場所はただ削ぎ落とされたように平坦で、そこに「何もなかったこと」だけが異様に強調されている。

 口にあたる位置には、笑みとも悲鳴ともつかないV字型の裂け目が刻まれていた。それは傷というより、開かれたまま閉じることを忘れた空洞に近く、そしてそのすべてが、赤黒い太い糸で無理やり縫い留められていた。

 縫い目は雑で均一ではなく、まるで何度も解体され、そのたびに別の誰かの手で適当に繋ぎ直されたかのように歪んでいる。


《ドコニモ…イナイ》


 空気そのものが震えているような、不快で低い音だった。湿り気を帯びたその響きは、聞くだけで背筋を冷たく這い上がってくる。

 口がないのにどこから、と思えば、化け物の頭部が花弁のように開いている。唇も舌もない。ただ暗い空洞がぽっかりと口を開け、その奥から湿った呼気が漏れ出していた。


内部には無数の牙があった。


歯というより棘の群れ。円環状に幾重にも重なり、奥へ奥へと続いている。半透明の膜をまといながら、わずかに脈打っていた。時折、唾液が糸を引いて床へ落ち、それが焼けるように濡れていく。

 牙は止まっていない。互いに擦れ、噛み合い、絶えず微細に動き続けている。カチ、カチ、と乾いた音と、ぬめる咀嚼音が混ざり合い、その不協和音だけで胃が反射的に拒絶反応を起こした。


そして牙の奥で、再び声が鳴った。



《オ迎エニ……来タノニ…ゴ主人様ニ怒ラレル…》


ノエルの背中を冷たい汗が流れた。


(無理…これ無理…!学院長の趣味、本当に終わってる)


化け物はしばらく部屋を探した。

だが見つけられなかったらしい。


《アラ…アララ…イナイ……アハハ…ドコ…ドコォ…?探ス…肉体…余ッタブンハ…オヤツ…》


身体を戻すと、ズリ…ズリ…と大きな袋を引き摺りながら、律儀に扉が閉められた。キィ……と軋む音のあと、ぱたんと静かに扉が閉じる。再びズリ…ズリ…という引き摺る音だけが残り、その音もやがてゆっくりと遠ざかっていった。

誰も動かない。十秒、二十秒と沈黙だけが空間を支配し続け、ようやくフィンが細く長く息を吐いた。


「…………死ぬ」


「私、これ考えた人嫌い……」


「奇遇だな……俺も今すげぇ嫌い」


カティアの呟きに、ノエルも震える声で返した。





           ☆




演習場の実況席で、ツツジは口元を押さえていた。観客席の誰もが身じろぎ一つせず、中央の映像に釘づけになっている。


称号も魔法も武器もない。ただ響く足音、交わされる視線、わずかな指先の動き。そのすべてが観客たちの想像力を刺激し、もし自分があの場に立たされていたらと想像させていた。


やがて、静まり返った実況席に、ツツジの喉がひゅっと鳴る音だけが響いた。


『…………怖ッ!!』


その声が実況席から響いた瞬間、張り詰めていた空気がわずかに揺れた。だが、誰も笑わなかった。学院生たちは皆、目を見開き、口元を引きつらせ、背筋を伸ばしたまま凍りついている。中には両手で自分の肩を抱き、演習場にいる人物から身を守ろうとするような姿勢を取る者までいた。


『いや怖い!! 僕まで息止めちゃいましたよ!?』


ツツジ自身も実況を続けるうち、いつの間にか息を止めていたらしい。慌てて息を吸い込むと、胸が大きく上下する。その様子に反応するように、生徒たちも一斉に息を吐いた。演習場全体に、安堵とも恐怖ともつかない吐息が重なって広がっていく。


一方、生徒会席ではカルムが蒼白な顔で演習場を見つめていた。普段の彼なら、どれほど予想外の事態に直面しても、冷静に状況を分析できる。しかし今は、両手を膝の上で固く握り締め、視線を逸らせずにいる。額には薄く汗が浮かび、唇はわずかに震えていた。


「俺、選ばれなくて良かった……」


 心の底から絞り出したような声だった。

 隣に座るフローラも、青ざめた顔で頷く。彼女は普段、カルムの発言に対して何かしら皮肉を返すことが多い。だが今回は、反論する気力すら残っていないらしい。


「初めてあなたと意見が一致したわ」


 コールはやや引きながらも感心していた。


 彼は画面に映し出された異形を観察し、目を細めていた。恐怖を覚えているのは間違いない。それでも、それ以上に彼の意識を奪っていたのは、異形に施された技術の精密さだった。


「造形技術が非常に高度ですね」


声には、純粋な感嘆が滲んでいた。


骨格や筋肉の配置、関節の可動域に至るまで人間と酷似している。それにもかかわらず、人間ではない。生きているように見えるその身体に宿っているのは生命ではなく、精密に組み上げられた技術の結晶だった。


その事実が、観客たちの恐怖をいっそう煽っている。


一方、グレイシアは演習場にいる弟が無傷であることを確認し、ひとまず安堵の息を吐いた。演習が始まってからというもの、彼は身を乗り出すようにして弟の様子を見守り続けていたのだ。


もちろん、完全に安心したわけではない。それでも、少なくとも現時点では命に関わる事態に陥っていないと分かり、張り詰めていた肩の力をわずかに抜く。


それでもなお、彼の視線が演習場から離れることはなかった。


『しかも称号も魔法も武器なしですよ!? え、これ罰ゲームでは?』



「「「罰ゲームだよ!!」」」



 観客席のあちこちから、次々と声が上がった。


最初は数人の叫びだった。だが、それは瞬く間に周囲へ広がり、やがて演習場を取り囲むすべての席から同じ言葉が響き渡る。まるで一つの合唱のように膨れ上がった声が、演習場の空気を震わせた。


生徒たちは口々に訴えながら、互いに肩を寄せ合っていた。少しでも距離を取ろうと、後ずさる者もいる。


そんな中、ディオーネだけは満足げに頷いていた。腕を組み、巻き起こる悲鳴と抗議を、まるで予定どおりの反応だと言わんばかりに眺めている。


「なかなか良い出来じゃろ」


その言葉に、教師陣全員の視線が一斉に彼女へ集まった。そこに浮かんでいたのは、呆れや困惑、そしてわずかな諦めが入り混じった複雑な感情だった。やがて、レオンが低く呟く。


「学院長」


「なんじゃ?」


「趣味悪ぃな」


ディオーネは一瞬、目を丸くしたものの、すぐに口元を吊り上げた。


「褒め言葉じゃ!」


「褒めてねぇ!」


レオンのツッコミが、演習場に響き渡った。


その場にいた全員が、同じ結論へたどり着く。


───やはり、これは罰ゲームだ


しかも、ただの罰ゲームではない。

学院長が生徒たちの反応を眺めながら、満面の笑みを浮かべて「いいぞ、もっとやれ」と拍手して、心の底から楽しんでいる類いの罰ゲームに違いなかった。



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