☆1-28☆アストル魔法学院防衛戦 後編
──男子寮
「こっちだよ!」
カルムが避難路の先頭を走り、その後ろを生徒たちが続いていく。コールの展開した立体地図が空中に浮かび上がり、進むべき最短経路を明確に示していた。グレイシアは最後尾に近い位置で周囲を鋭く警戒しながら全体の安全を見守る。その中にノエル、アルベルト、フィン、シャスールの四人も加わり、避難する生徒たちの流れの中へと自然に組み込まれていた。
「負傷者はこっち!ゆっくりで大丈夫だから!」
フィンが肩を貸す。
「押すな!全員入れるから焦るな!」
アルベルトが前方へ声を飛ばし、シャスールの金色の瞳が周囲を見渡す。
「……止まって」
「どうしたんだ?」
シャスールの言葉に全員が足を止めた。ノエルが問いかけると、シャスールは廊下の奥をじっと見つめたまま動かなかった。
「誰かいる」
「見えないぞ?」
「見えないんじゃない、隠れてる」
シャスールが弓を構えた瞬間、空気がわずかに震えた。何もなかったはずの廊下の中央に、じわりと黒い染みが広がり始める。それは次第に人の輪郭を形作り、長い髪と杖を持つ女の姿へと変わっていった。その異様な光景に、ノエルの呼吸が思わず止まる。
「……カティア?」
(……違う)
姿は似ているはずなのに、学院で見てきた気弱な少女とはまるで別人だった。鮮やかなピンク色の長髪に眼鏡はなく、年齢も明らかに四十歳前後の女で、その目には学院で見たカティアにはなかった冷たい光が宿っていた。
『生き物ではない』
『術式に保存された意識』
「残像……?」
コールがすぐさま魔道具を操作する。
「高密度魔力反応、生体ではありません。おそらく術式内に人格情報を保存した自律型の戦闘術式です」
女の顔がゆっくり持ち上がった。
《対象確認、ノエル・メレディス》
無機質な声が響いた瞬間、ノエルの背筋にぞくりとした悪寒が走った。
《排除を開始します》
「散開!」
グレイシアの声が響いた直後、女の口がゆっくりと開いた。そこから漏れたのは甲高い鳴き声──梟のようでいて、しかし人間の喉では到底発音できない異様な音だった。瞬間、廊下そのものが歪み、空間に無理やり何かをねじ込まれるような圧迫感が走る。ノエルは耐えきれず、その場に膝をついた。
「ノエル!」
アルベルトが駆け寄る。
「大丈夫!」
「来るな!」
ノエルが叫んだ瞬間、残像が杖を振るう。
杖の動きに呼応するように、空中に何十本もの黒い槍が生成され、すべてノエルへと向けられた。
「《氷壁》!」
アルベルトがノエルの前に立ち、巨大な氷壁を展開した。そこへ黒槍が次々と突き刺さる。一発、二発、三発、四発と衝撃が重なり、やがて氷壁には亀裂が走り始めた。
「くっ……!」
アルベルトは歯を食いしばり、グレイシアは敵を絶対零度のように冷たい視線で見据える。
「私の弟へ攻撃を向けたな!《氷壁》!!」
「兄上、今そこか!?」
グレイシアが手を振ると、氷壁に新たな氷が重なり、一瞬でその厚さは三倍にまで増した。
「生徒を地下へ!」
「了解!」
カルムとコールが一般生徒を先へ進ませる。
「色が変だ!この残像!!感情がある、でも……今のカティアと全然違う!」
フィンはじっと女を見つめ、その瞳が紫色に輝いた。
シャスールが矢を番える。
「過去の人格を保存したなら、当然かも」
残像が再び声を放った瞬間、精神干渉が一気に押し寄せた。ノエルは咄嗟に精神防壁を展開する。旅の途中でニグルムから教わった方法だった。
胸から腹へ、腹から背へと意識を巡らせ、自身の内側を流れる魔力を確かめる。それを円環のように循環させながら、内面に境界を築いていく。意識の中心へ一本の杭を打ち込むように、“自分が自分である”という感覚を強く固定し、その侵食を必死に食い止めた。
「……っ、効くかよ!」
残像の口元が歪んだ。
《抵抗能力を確認》
その言葉と同時に、ノエルの脳裏へ映像が流れ込んできた。
──それは三年前のルーベ村
獣の咆哮が村を震わせていた。村の外から魔物の群れが押し寄せ、土煙を巻き上げながら、異形の影が次々と柵へ迫る。灰色の狼に似た魔物、鋭い牙を持つ猪、黒い羽毛に覆われた巨大な鳥。本来なら同じ群れで行動するはずのない魔物たちが、何かに追い立てられるように村へ向かっていた。その異様さが、ただの襲撃ではないことを物語り、ルーベ村の静かな日常を無残に引き裂いていく。
当時十三歳のノエルは、鍛冶場の前で震える手に剣を握っていた。炉の火は赤く燃えているが、その温もりは恐怖に凍りついた身体を温めるには足りない。
手に持つ剣も練習用の木剣ではなく、父が使っていた古い鉄剣だった。両手で持っても重く、刃先は地面へと下がる。握り慣れていない柄が手のひらに食い込み、指先がじんじんと痛んだ。
「ノエル! 家の中へ入れ!」
怒号のような声に振り向くと、フォーガスが鍛冶用の大槌を肩に担ぎ、村の男たちとともに防衛線を築いていた。額には汗が滲んでいるが、その目は揺らいでいない。
「でも、父さん!」
ノエルは叫び返す。足がすくみながらも、その場から動けない。
「お前が守るのは母さんとリーナだ! 早く行け!」
父の言葉は鋭く、迷いがなかった。ノエルの胸に重い責任がのしかかったその時、近くの柵が砕けた。乾いた木材が弾け飛び、破片が宙を舞う。一頭の魔狼が飛び込んできた。灰色の毛並みを逆立て、血走った目で周囲を見渡している。
村人たちの悲鳴があちこちから上がる。逃げ惑う足音と倒れる音が混ざり合う。魔狼は周囲を見回し、逃げ遅れた幼い子どもへ視線を向けた。まだ五歳にもならない少女だった。恐怖で動けず、道の真ん中に座り込んでいる。小さな肩が震え、涙で顔がぐしゃぐしゃになっていた。
「逃げろ!」
ノエルは叫ぶ。喉が裂けそうなほどの声だった。だけど少女は動かない。恐怖に縛られた身体は命令を受け付けないようだった。魔狼が地面を蹴る。筋肉が収縮し、次の瞬間には飛びかかる体勢に入っていた。
考えるより先に、ノエルの体が動いた。本能が身体を突き動かす。重い剣を引きずりながら少女の前へ飛び出す。足元がもつれそうになりながらも、必死に踏みとどまる。
「来るな!」
剣を構えたものの、腕は震え、刃先は定まらない。視界も揺れ、足も動かず、逃げることも踏み込むこともできなかった。魔狼は大きく口を開き、鋭い牙を剥き出しにしながら、唾液を糸のように垂らして迫ってくる。
( 勝てない )
そう理解した瞬間、全身から力が抜けそうになった。それでも後ろには少女がいる。その存在だけが、ノエルをその場に縫い止めていた。
「俺が……守る」
震える声で呟き、剣の柄を握り直す。
「俺が守るんだ!」
魔狼が跳びかかった。地面を蹴る音が耳に残る。ノエルは目を見開いたまま剣を振ろうとしたが、その動きはあまりにも遅かった。
だが、魔狼の爪が届くことはなかった。
「良い目してんじゃん、嬢ちゃん」
場違いなほど気楽な声が響き、次の瞬間には魔狼の巨体が横へ吹き飛んだ。見えない何かに殴られたかのように、石造りの壁へ激突し、そのまま動かなくなる。
ノエルの前には、一人の青年が立っていた。
鮮やかなオレンジ色の髪、黄緑色の垂れ目、右目元の星形の印。細身の体からは想像できない力で、魔狼を素手で吹き飛ばしていた。
十三歳のノエルは、青年の背中を見つめていた。村人を一人も巻き込むことなく、ただ己の身体だけで圧倒的な力を振るい、次々と魔物を倒していくその青年──レオン・ファルケル。この日、ノエルが学院を目指す決意を固めるきっかけとなった男だった。
そして映像は切り替わる。
村から遠く離れた丘の上。そこに一人の女が立っていた。鮮やかなピンク色の髪を風に揺らし、杖を手に、梟を従えている。彼女は静かに、そしてどこか楽しげに微笑んでいた。
『実験は成功ね。魔物をどこまで正確に操れるか、どれほど離れた場所から命令を維持できるか、村を襲わせた場合、どの程度の混乱が生まれるか…ちょうどいい田舎村だったわ』
ノエルの耳に声が届いた。
足元には複雑な魔法陣が浮かび上がり、その中には無数の魔物を示す光点が揺らめいている。女はそれを見下ろしながら、静かに笑った。
──ノエルの意識は三年前の記憶から現代に戻る
「……お前が」
ノエルの声が震え、アルベルトが横目でそれを見た。
「ノエル?」
「お前が……やったのか」
《実験記録。対象地域、ルーベ村》
「っふざけんな!」
ノエルの怒声が廊下に響き渡り、同時に魔力が爆発するように膨れ上がった。
その気配に反応して、ソルとルナがノエルの肩から素早く飛び立つ。
『ノエル』
『落ち着いて』
「レオン先生が来てくれた。村を助けてくれたんだ。父さんも母さんもリーナも、村のみんなも……あの日、全員助かった。だからって……だからって、皆が無事だったからって、許せるわけがない!」
ノエルは拳を握りしめ、残像を睨みつけた。声は自然と低くなる。フィンの顔からは、いつもの笑みが消えていた。
「……実験?人の命で?何人死ぬかもしれなかったのに?」
ヴァイオレットの瞳が静かに残像を見つめる。その声には怒りが宿り、フィンはただ拳を強く握りしめた。
「俺、そういうの嫌いだ…すごく嫌いだ!!」
残像はフィンを無視し、再びノエルへと狙いを定めて杖を向ける。
《排除続行》
黒い魔力が瞬間的に放たれたその刹那、別方向から飛来した杖がそれを遮るように割り込み、金属音とともに残像ごと弾き飛ばした。
「……え?」
ノエルが振り向くと、廊下の奥に一人の少女が立っていた。鮮やかなピンクの長い髪と瞳、学院の制服を身にまとっているが、その顔色は悪く、腕には拘束解除直後の術式痕が残っていた。
「カティア」
眼鏡もかけておらず、髪の色もベージュブラウンではなく鮮やかなピンクだったが、それでもノエルはカティアだとすぐに分かった。
カティアは返事をせず、ただ静かに立ち尽くす。
目の前にいるのは、自分の過去だった。自分が作り出してしまった残像。残虐で、傲慢で、人の命をただの数字としてしか見ていなかった頃の自分。
その残像が、じっとカティアを見つめていた。
《照合──同一個体》
「……そうね。私よ、間違いなく」
カティアは仕込み杖を拾い上げると、それを静かに構えた。
その動きに呼応するように、残像がわずかに首を傾げる。
《行動矛盾……不快》
「でしょうね。…昔の私なら、今の私が一番嫌いでしょうから」
カティアは、苦しそうに小さく笑った。
「カティア」
「こちらに来たら、駄目よ」
「でも!」
「これは……私がやったことだから、私が終わらせるの」
ほんのわずかに声が震えた。
カティアと残像が同時に口を開く。
同じ称号、同じ能力──【啼忌梟】
二つの声が真正面から衝突した。
音は打ち消し合うのではなく、喰らい合うように干渉し、ぶつかるたびに空間の密度が歪んでいく。視界が揺れ、圧縮された音圧は逃げ場を失っていった。
そして限界に達した瞬間、一気に解放される。
──バキンッ…遅れて、窓が内側から弾け飛んだ。破壊の原因は衝撃ではない、音そのものが空間を破裂させた結果だった。
「カティア!」
「下がって!」
杖が振るわれた瞬間、カティアはその軌道を正確に見切り、上体を反らして刃を回避した。しかし相手はその動きすら読んでおり、遅れて追従した仕込み杖の刃が、回避先へ滑り込むように迫る。
カティアは咄嗟に仕込み杖を構え直し、その一撃を正面から受け止めた。金属同士が激突し、鋭い音とともに火花が散る。
衝突の反動を利用し、相手は一歩踏み込み、カティアの懐へと潜り込むと、柄を握り直した杖で腹部へ鋭い打撃を叩き込んだ。直撃を受けたカティアは体勢を崩し、わずかに後方へ弾かれる。
その隙を逃さず、相手は間髪入れずに魔力を展開した。
地面に瞬時に魔法陣が描かれ、炎・風・氷の三属性が同時に収束する。次の瞬間、それらが融合した複合魔法が放たれた。
「《多重障壁》!」
カティアはそれを受け止めたが、一枚、二枚、三枚と障壁が次々に砕けていき、四枚目が破られた瞬間、解放された衝撃が一気に彼女の身体を襲い、爆風に弾き飛ばされた。
「っ……!」
「カティア!」
ノエルがカティアに駆け寄ろうとしたが、アルベルトに腕を掴まれて止められた。
「待て!」
「離せ!」
「今行ったら邪魔になる!」
「でも!」
「信じろ!本人が終わらせるって決めたんだ!」
ノエルは息を呑んだ。アルベルトも苦しそうに顔を歪めながら、それでも腕を離さない。
カティアは唇から流れた一筋の血を拭い、ゆっくりと立ち上がった。
《理解不能。任務遂行こそ最優先》
「そうね」
《対象への情動は不要》
「そうだった」
《弱者への同情は非合理》
「……分かっているわ」
《ではなぜ、妨害する》
カティアは黙ったまま、ノエル、アルベルト、フィン、シャスール、そして避難していった生徒たちの方向へと視線を巡らせた。ほんの少し前まで、彼女にとって彼らはすべて利用対象に過ぎず、任務のための駒であり、ただの数字でしかなかった。
「知らないわ。私にも、まだよく分からない」
カティアが笑う。
《回答不成立》
「でも、この子たちが傷つくのは嫌なの。だから……終わらせるのよ」
《裏切りと判定》
「そう…それでいい」
カティアは一歩踏み込んだ。残像もまた同時に前へ出る。二つの杖が同じ軌道を描き、同じ技で激突した。しかしその瞬間、カティアだけが途中で軌道を変える。それはかつての彼女なら決して選ばなかった動きだった。相手を殺すためではない。背後にいる誰かを守るための一撃。残像の杖が弾かれ、次の瞬間、カティアの掌がその胸へと触れた。
「《啼忌梟・返哭》」
音が残像の内部へ直接叩き込まれ、保存術式が逆流する。身体に亀裂が走り、そのひび割れは瞬く間に全身へと広がっていった。
《── エラー発生──対象──ノエル・メレディス──》
残像が最後までノエルへ手を伸ばそうとする。カティアはその手を掴んだ。
「触らないでその子は──」
一瞬だけ言葉に詰まる。
「……私の大切な子どもよ」
「っいや、お前も子どもだろ!」
ノエルが叫ぶと、カティアは一瞬きょとんとした。
「あら、私は実年齢四十歳よ?」
「今それ言う!?」
フィンが目を丸くする。
「なっ、四十歳!?」
アルベルトが叫び、シャスールだけが「やっぱり」と呟いた。
「知ってたの!?」
「なんとなく」
戦場のど真ん中で、ほんの一瞬だけ笑いが生まれた。カティアもまた、わずかに笑みを浮かべた次の瞬間、その残像は砕け散り、光の粒となって空へと溶けていった。それは過去のオウルアイ──人を数字として扱っていた頃の彼女の姿。
その影が、今のカティアの目の前で静かに消えていく。最後の光が消える直前、カティアは小さく呟いた。
「……私が始めたことだから…私が終わらせる」
カティアはもう残像を見てはいなかった。その視線の先には、自分が仕掛けた学院襲撃、金糸雀挽歌、そしてこれまでの人生すべてが映っているかのようだった。オウルアイの残像は完全に消滅し、同時にカティア・リューゲンは初めて、自分自身の意思で金糸雀挽歌へ背を向けた。




