☆1-27☆アストル魔法学院防衛戦 前編
学院上空を埋め尽くす魔物の大群が、一斉に防衛結界へと激突した。
夜空が白く弾け、轟音が大気そのものを揺らす。男子寮の窓ガラスは今にも砕け散りそうなほど激しく震え、学院全体が悲鳴を上げているかのようだった。
一体や二体ではない。空を覆い尽くす翼持つ魔物の群れが黒い雲のように広がり、その隙間を縫うように巨大な獣や人型の異形までもが次々と降下してくる。
牙で結界に噛みつくもの。角を突き立てて抉るもの。炎や氷、毒液を放ち、魔力そのものを侵食しようとするもの。さらには仲間の身体を足場にして、強引に結界の内側へと侵入を試みる個体までいた。
透明な防衛結界の表面には、青白い亀裂が蜘蛛の巣のように広がり始めている。それはまるで、学院そのものが限界を迎えつつあることを示すかのようだった。
「全員、窓から離れろ!」
グレイシアの鋭い声が男子寮の談話室を貫いた。その声音には一切の迷いがなく、窓辺に集まっていた生徒たちは弾かれるように後方へと下がる。先ほどまで精神干渉によって混乱し、ノエルの子守唄によって眠っていた者たちも、絶え間なく響く警鐘と激しい振動に次々と目を覚まし始めていた。
「……なんだ?」
「赤い空……?」
「ッ魔物!?」
「なんだよ、あの数!」
「結界が壊れるぞ!」
目を覚ましたばかりの生徒たちから悲鳴が上がる。ほんの少し前まで、存在しない声に怯え、互いを敵だと思い込んで暴れていた彼らは、ようやく悪夢から解放されたと思った矢先に、今度は本物の魔物の軍勢を目の当たりにしていた。冗談にしては悪趣味が過ぎる光景だった。夢だと言われても信じられない。───いや、もしこれが夢だというのなら、そろそろ目を覚ましてもいい頃だった。
そんな混乱の中でも、グレイシアは冷静に全体を見渡しながら、コールへ的確に指示を飛ばしていた。
「コール」
「はい」
コールは床へ小型の魔道具をそっと置いた。掌ほどの金属球は甲高い音を立てながら六方向へ展開し、中央から青い光を放つ。
やがて空中に、王立アストル魔法学院の立体地図が浮かび上がった。校舎、訓練場、男女それぞれの寮、図書館、礼拝堂、そしてその地下を走る避難路までが精密に再現される。
男子寮から地下避難所へ向かう経路は三本の青い線として表示されたが、そのうち二本は途中から不気味に赤く点滅していた。
「西側通路と中央階段は使用不能ですね」
「原因は?」
「先ほどの精神干渉で、壁と天井の一部が崩落しています」
コールは穏やかな微笑を崩さず地図を拡大した。
「壊した生徒には、後ほど修繕費の請求書を送っておきましょう」
「操られてたんだぞ!」
思わずノエルが声を上げ、コールは小さく首を傾げた。
「冗談ですよ」
「先輩が言うと冗談に聞こえないんですけど!」
「僕は善良な生徒会会計ですよ?」
「善良な人は拘束用魔道具を十種類も持ち歩かないと思います!」
「備えあれば憂いなしです」
「備えの方向が怖い!」
少し離れたところで、カルムが眠っている上級生を背負い直した。
「僕が先行するよ」
それまでの軽薄さを消し、真剣な声で言う。
「魔物が内部に侵入していた場合、僕の称号【透水隠】で認識から外してやり過ごす」
アルベルトが振り向いた。
「この人数全員を対象にできるんですか?」
「長時間は無理だね。でも短時間なら問題ない。魔物の目の前を横切る程度なら隠しきれる」
カルムは長い前髪の奥で目を細める。
「では先頭をお願いします」
「任せて」
そこまで完璧な副会長だった。しかしカルムは、ふとノエルへ視線を向けた。
「ただ……女子寮の避難を担当できなかったことだけが心残りだ」
「真面目さが一瞬で消えた!」
「非常時だからこそ、自分に正直でいたい」
「欲望に正直にならないでください!」
コールがにっこりと笑った。
「ローザ先生や女性教師の皆さんへ報告しましょうか」
カルムの顔から血の気が引いた。
「それはやめて!」
「そんなに怖いのか?みんな綺麗で優しそうな先生たちだけど」
ノエルは首を傾げ、フィンも不思議そうに問いかける。
「見た目だけで人を判断しない方がいいよ」
カルムの声だけが妙に重く、シャスールが首を傾げる。
「何されたの?」
「聞かないで」
「気になる」
「忘れて」
「無理」
「お願いだから!」
グレイシアのこめかみに青筋が浮いた。
「カルム、黙れ」
「はい」
グレイシアの一声で場は静まり返った。アルベルトは思わず兄の横顔を見上げる。こんな状況でもグレイシアの態度は一切揺らがず、冷静に、迷いなく、正しい判断を積み重ねている。その姿にアルベルトは“やっぱり兄上はすごい”と素直に思った。
グレイシアは視線だけをわずかに動かし、周囲の動線と退路を一瞬で把握する。その流れの中で、何気ない足運びのままアルベルトの立ち位置を半歩だけ内側へと誘導していた。まるで偶然そうなったかのように自然な動きで、誰の目にも意図は残らない。アルベルト自身も、そのわずかな位置の変化に気づくことはない。ただ兄の背中を見ているだけだった。
「全員、移動開始!」
グレイシアの命令と同時に、生徒会を中心とした男子寮の避難が始まった。
────
───
──
──その頃、学院中央塔の屋上
ディオーネ・ジュピターは一人、夜空を見上げていた。幼い少女の姿。黄白色の髪が暴風に揺れ、薄黄緑色の瞳には青白い雷光が映り込む。
普段の彼女を知る者であれば、今そこに立つ存在が同一人物だとは思えなかったかもしれない。そこに、ふざけた笑みはない。ノエルへ抱きつこうとして教師たちに取り押さえられていた、あの残念な一面もない。
ただそこにいるのは、世界で三指に入る大魔導師であり、王立アストル魔法学院の学院長であり、そして六百年以上にわたりこの学院で幾千幾万の子どもたちを守り続けてきた者だった。
その視線の先では、無数の魔物が学院の結界へと群がり、空を覆う巨大な召喚陣からは今なお、新たな魔物が吐き出され続けていた。
「……よくもまぁ…わしの学院へ、これだけ土足で踏み込んでくれたものじゃ」
ディオーネが静かに低い声で呟いた。
一頭の飛竜が防衛結界へ炎を吐きつけ、別の巨大鳥が鋭い嘴で何度も叩きつける。やがて結界に亀裂が走った。その瞬間、ディオーネが片手を上げた。
「《大雷霆・天網》」
夜空そのものが光った。
天から無数の雷撃が降り注ぎ、それぞれが生き物のように空を駆けながら魔物だけを正確に追尾していく。防衛結界に張りついていた翼竜の胸を撃ち抜き、巨大な鳥の翼を貫き、炎を吐こうと口を開いた飛竜の口腔へ真っ直ぐ突き刺さる。
青白い電流が全身を駆け巡った瞬間、巨体はその場で硬直し、落下するよりも早く二撃目の雷が走る。轟音とともに肉体は空中で灰へと変わった。
百、二百、三百──上空を覆っていた魔物たちは、まるで雷雨に打たれる枯葉のように次々と撃墜されていく。
それでも雷は一発たりとも校舎には触れず、結界をかすめることすらない。
地上から見上げていた若い教師は、その圧倒的な制御と殲滅の光景に、ただ息を呑むことしかできなかった。
「これが称号【大雷霆】の力……」
隣の教師が杖を構えたまま言う。
「見惚れるな。学院長が撃ち漏らした魔物を排除するぞ」
「撃ち漏らしがあるんですか?」
「学院長は時々、生徒や後進の教材を残してくださる」
「今は実戦ですよ!?」
「ならば尚更だ。我々教師の実力を示す機会になる」
中央塔の屋上から、ディオーネの声が学院全体へ響いた。
「空はわしが抑える!」
雷鳴を押し退けるほどの声。
「お主らは、生徒と学院を守れ!」
学院各所で、四十人の教師たちが一斉に応えた。
────
───
──
「第三結界《展開》!」
アミュ・プロテクシオンが両手を叩き合わせると、学院外周を覆う巨大な防衛結界の内側に、さらに透明な壁が幾重にも生まれた。
それは一枚の結界ではない。
校舎、男子寮、女子寮、図書館、礼拝堂、訓練場、研究棟──学院に存在する主要施設すべてを包み込むように、大小数百に及ぶ結界が同時に展開されていく。
さらにそれらは細い魔力線で相互に接続され、損傷した箇所へは他の結界から即座に魔力が供給される仕組みとなっていた。外側が破られれば内側が補い、内側が損傷すれば隣接する結界が即座に補強する。
その瞬間、学院そのものが一つの巨大な生命体へと変貌したかのような防衛網が完成した。
「第四結界《展開》!」
アミュの足元から薄紫色の光が奔り、瞬く間に巨大な魔法陣が地面へと刻まれた。直後、地中から侵入しようとしていた巨大な虫型魔物が半身を地上へと突き出した瞬間、見えない壁のような何かに頭を強かに打ちつける。ごんっ、と間抜けな音が響き、巨体はそのまま仰向けに転がり落ちた。アミュはその様子を見て、豪快に笑い声を上げた。
「空だけ見てりゃいいと思ったか!ハッ悪いな! うちの学院は地下も立入禁止だ!」
虫型魔物が無数の脚をばたつかせながら起き上がろうとした瞬間、その真上に新たな結界板が展開される。地面側の結界と上空の結界が挟み込むように急速に接近し、逃げ場を失った魔物はそのまま圧縮され、ぐしゃりと硬い甲殻が砕け散った。
《アミュ先生!》
連絡用水晶から声が飛ぶ。
《北側結界の魔力が急速に低下しています!》
「第七から第十三結界の魔力を回す!」
《ですが、それだと東側が薄くなります!》
「東側はローザたち女性教師が守ってる。“百花繚乱の麗園”の前じゃ、燃え残りどころか灰すら残らねぇよ。見た目は優雅なお茶会をしてる貴婦人みてぇな奴らだが、戦場じゃ笑いながら敵を粉砕する連中だ。安心しな」
────
───
──
学院東側、最大規模の実践訓練場──森林型の演習区域があるエリア
防衛結界に生じた細い亀裂から、小型の魔物が次々と滑り込んでいた。狼に似た四足獣、猿の胴に鳥の頭を持つ異形、そして巨大な鎌状の前脚を持つ虫型の魔物。それらの狙いはただ一つ、生徒たちのいる寮だった。
その進路上へ、ローザ・フレイルが静かに立ちはだかる。ワインレッドの髪が熱風に揺れ、彼女は無言のまま扇型の杖を開いた。灰色の瞳が冷たく細められ、侵入者たちを一瞥する。その瞬間、空気が張り詰め、戦場の温度が一段階下がったように感じられた。
「許可なく学院内へ立ち入ることは、校則違反ですわ」
魔物の群れが一斉に地面を蹴った瞬間、ローザは扇を一振りした。すると地面から無数の薔薇が咲き誇る。
赤、橙、白、それらはただの花ではなく、炎そのものが花弁となったものだった。燃え盛る薔薇は辺り一帯を瞬く間に埋め尽くし、空気そのものを灼熱へと変えていく。魔物たちは触れるよりも早く熱気に悲鳴を上げて逃げ出そうとするが、その足元にさらに新たな薔薇が咲き、次の瞬間、花弁が開くと同時に火柱が夜空へと噴き上がった。
「《豪炎華・薔薇庭園》」
炎の薔薇はまるで獲物を選ぶかのように一体ずつ魔物を包み込み、爆発することもなく周囲の石畳や建物には一切の損傷を与えず、ただ魔物だけを的確に焼き尽くしていく。その炎の蔓はさらに、東エリアで破損していた結界の亀裂そのものをも塞いでいった。
「ヒストリア先生」
「はい」
ローザの後方、水色の髪を揺らしたヒストリアが笑顔で振り向く。
「ユリ先生、アイビー先生、モネ先生、アリス先生、ミリナ先生と共に女子寮へ。生徒たちをお願いします」
「あら、こちらは大丈夫ですの?」
「ええ」
ローザは炎の向こうを見た。黒い甲殻に覆われた巨大な魔物が、炎の薔薇を踏み潰しながら近づいてくる。
「こちらは、わたくしたちで十分ですわ」
「あらあら」
アイビーが口元へ手を添えて微笑んだ。
「残していくのが少し申し訳ないですわね」
「わたくしたちの分も取っておいてくださいな」
ユリも大剣を抱えながら穏やかに笑う。
「可能でしたら…善処いたしますわ」
ローザは扇で口元を隠したまま微動だにしなかった。巨大な魔物が彼女へ拳を振り下ろすが、それでも彼女は避けることなく、ただ足元に一輪の白い薔薇を咲かせた。
「《白炎薔薇》」
音すらなかった。魔物の巨体は一瞬で白い炎に包まれ、その動きは完全に停止する。振り下ろされたはずの拳はローザの眼前でぴたりと止まり、次の瞬間には灰へと変わっていた。さらさらと崩れ落ちる灰を、ローザは鬱陶しそうに肩から払った。
「美しい花には棘があること、ご存じなかったのかしら?」
その背後では、女子寮へ向かって歩き出した六人の女性教師たちが、皆一様に優雅な微笑みを浮かべていた。
女性教師は学院長を抜いて総勢十七人。
普段は穏やかで美しく、優しさすら感じさせる彼女たちの姿に、生徒たちは畏敬と、ほんのわずかな恐怖を抱いている。特に生徒会副会長カルムは、彼女たちをこう呼んでいた――“百花繚乱の麗園”と
「あら」
女子寮へ続く道に、魔物の一群が降り立ち、ヒストリアが嬉しそうに目を輝かせた。
「見たことのない個体です」
「ヒストリア先生」
ユリがにこやかに言う。
「解剖は後ですわよ」
「分かっています」
「生きたまま持ち帰ろうとしてはいけませんよ?」
「……善処します」
「今の間は何ですの?」
魔物が咆哮するが、女性教師たちは誰一人、笑みを消さなかった。
「では皆さん」
アイビーが優雅に、禍々しいオーラを放つ針と糸を目の前に掲げた。
「生徒たちの前へ、一匹たりとも通さないようにいたしましょう」
「ええ」
「あらあら、元気な子」
「まあ、大きな牙」
「教材に良さそうですわね」
「先生方、楽しんでません?」
近くにいた若い女性教師が、小声で尋ねた。
それに対し、全員が笑顔で振り向いた。
「まさか」
直後、女子寮側から魔物の悲鳴が連続して響いた。
────
───
──
学院北棟側、直径百メートルを超える円形の学院北棟演習場があるエリア
巨大な影が空から落下した。
石床を粉砕しながら、全高十メートルを超える魔物が着地する。岩のように硬質化した皮膚、異様に発達した四本の腕、そして口元からは紫色の毒液が滴り落ちていた。着地の衝撃だけで地面は大きく陥没し、周囲にひび割れが走る。
魔物はゆっくりと最も近い校舎へ顔を向けると、四本の腕を地面に突き立て、その巨体を揺らしながら突進しようと動き出した。
「はい、そこまで」
頭上から声が響いた。魔物が反射的に顔を上げると、そこには月を背負うように宙へと浮かぶレオン・ファルケルの姿があった。飛行魔法ではない。ただ、常識外れの跳躍によってそこに到達しているだけだった。
「悪いけど、そっちは通行止めなんだわ」
身体を捻り、右足の踵が魔物の頭頂へ叩き込まれた。──轟音。十メートルを超える巨体が地面へと押し込まれ、衝撃波が演習場を駆け抜ける。校舎へ届く直前、その余波はアミュの結界に受け止められた。
魔物は咆哮し、四本の腕を振り回すが、レオンは紙一重でそれを回避する。一撃、二撃、三撃、四方向からの連撃すべてを、彼は見切っていた。
「腕が多いと便利そうだよな!荷物いっぱい持てるし、料理しながら片づけもできる。でも──」
魔物が怒鳴るように吼え、四本の腕が同時に振り下ろされるが、レオンは避けることなく両腕を交差させて正面から受け止めた。演習場が沈み込むほどの衝撃が走るが、それでもレオンの身体は一寸たりとも動かなかった。
「殴ることしか考えてねぇなら、宝の持ち腐れだな。お前の攻撃は軽い……うちの生徒に手ぇ出そうとするには軽すぎる」
黄緑色の瞳から笑みが消え、四本の腕を掴むと、そのまま十メートル級の魔物を持ち上げた。宙に浮かされた巨体を前に、近くの男性教師たちは思わず口を開けた。
「はは……マジか」
「相変わらずですねぇ」
「俺たち、仕事なくない?」
レオンは巨体を振り回し、無人の訓練場中央へ叩きつけると、すぐさま地面を蹴って一瞬で懐へ踏み込み、そのまま拳を腹部へ突き刺した。
「《超闘武・崩天》」
衝撃が魔物の身体を突き抜け、背中側の岩肌が爆ぜて巨大な穴が開いた。怪物は声すら上げることなく崩れ落ちる。レオンは拳についた汚れを振り払い、警備を兼任する男性教師たちへと振り返った。
「残り頼む」
「残り、ですか?」
モスが嫌な予感を覚えながら上を見る。
結界の亀裂から、同型の大型魔物が五体降下してきた。
「五体いますけど!?」
「お前らは俺の扱きに耐えて今ここに立ってる、上級の教師だ。一人一体なら余裕だろ」
レオンが笑った瞬間、モス、アベル、ツツジ、ローレンス、クレムの五人の顔が一斉に引きつった。
モスは“またこの人は無茶を言う”とでも言いたげにこめかみをぴくりと跳ねさせ、口元こそ笑っているものの目だけはまったく笑っていない。
「……先生、それ“余裕”の基準が先生基準なんですよ」
アベルは額に手を当て、深く息を吐いた。呆れと諦めが半分、そして残り半分は“やるしかない”という覚悟だ。
「一人一体“余裕”って言葉、普通はもう少し優しい難易度で使うものですよね?」
ツツジは苦笑を浮かべたまま、腰の刀の柄を静かに握り込んだ。口元には笑みを残しているが、その瞳の奥には、すでに戦闘者の鋭い光が宿っていた。
「……やるしかないですね。ほんと、毎回胃が痛いですけど」
ローレンスは無言で首を鳴らした。表情は一番静かだが、その静けさが逆に一番危険だった。まるで“面倒だが壊すだけなら簡単だ”と言っているような目だ。
「一体ずつ、か…まあ、先生の無茶振りに慣れた時点で、普通の戦場は楽勝ですしね」
クレムは呟きながら、魔導籠手を軽く握り込む。レオンの言葉に顔を引き攣らせながらも、どこか楽しそうですらある。
文句を言いながらも、五人の目はすでに戦闘者のそれだった。
「まぁ、生徒の前で格好悪いところは見せられませんね」
「同感です」
アベルが肩を回し槍を握りしめ、モスは杖を前へ向ける。
「一人一体」
ツツジが小さく息を吐き、笑う。
「やりますか」
ローレンスは一歩前へ出て、クレムは拳を鳴らした。
五人の上級教師が、五体の大型魔物へと同時に駆け出した。
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───
──
──学院南側、地下避難所へ続く回廊
何人かの教師が先導し、ガレス・クインランとアドモン・メディシンは、生徒たちの最後尾に立っていた。
「走らずに進みなさい」
ガレスの落ち着いた声。
「焦らなくて大丈夫ですよ」
アドモンも柔らかく続ける。
「前の人を押さないように。負傷者には肩を貸してください」
魔物の咆哮が響き、建物は激しく揺れ、窓の外では雷光が走る。恐怖を煽る要素はいくらでもあった。
それでも、ガレスやアドモンが背後にいるという事実が、生徒たちの足を前へと進ませていた。
「先生!」
「後ろから魔物が!」
崩れた窓から四足の魔物が飛び込んできた。一体、二体、三体と続き、さらにその後ろから十数体が雪崩のように侵入する。ガレスは静かに剣を抜き、アドモンも白衣の内側から複数の薬瓶を取り出した。
「前を向きなさい」
「ですが!」
「私たちがいます。あなた方の背中へ、牙も刃も届きません」
ガレスは腰を落とし、正眼に構えた。魔物が走る。
「剣術の基本は、呼吸です」
ガレスが一歩踏み込んだ瞬間、その動きは視認できないほど速かった。一閃が走り、最前列の三体が同時に崩れ落ちる。
「焦れば剣先は乱れる」
二歩目──四体
「恐怖に呑まれれば、足が止まる」
三歩目──さらに五体
「ですから──」
最後の一頭が飛びかかった瞬間、ガレスは静かに剣を納めると、その背後で魔物の身体は力を失い、崩れ落ちていった。
「筋肉を鍛えるのです」
避難していた生徒たちが振り返った。
「そこに繋がるんですか!?」
「当然です」
アドモンが笑いを堪えながら薬瓶を放る。
「ガレス先生の理論はいつも最後が筋肉なんですよ」
瓶が空中で砕け散ると、緑色の液体が霧となって広がり、次の魔物の群れを包み込んだ。その瞬間、魔物たちの動きはぴたりと止まり、足元から胴体、頭部へと順に石化が進行し、次々と硬質な石像へと変わっていった。
「《錬成薬・石牢》…生徒に触れたら危ないですよ」
アドモンは眼鏡を押し上げ、笑みを浮かべたが、その目はまったく笑っていなかった。
「僕、こう見えて結構怒ってるので」
────
───
──
学院西側、上空
ディオーネの雷撃を避けるように、翼を持つ魔物の一群が低空飛行していた。雲と建物の陰を巧みに利用しながら女子寮へと接近していく。先頭の個体が眼下を見下ろし、標的である女子寮を視認した、はずだった。
次の瞬間、女子寮は忽然と姿を消した。
代わりに、目の前に巨大な壁が出現する。魔物たちは慌てて左へ旋回したが、そこにも壁があった。右にも壁。上を見上げれば断崖がそびえている。気づけば一群は、細長い峡谷のような空間へと追い込まれていた。
だが実際には、そこに地形など存在しない。
すべては“幻”。校舎の屋上で、コンラッド・スターリットが穏やかな表情のまま空を見上げていた。
「群れで行動する生物は、先頭の判断へ追従するようになっている」
横に配置されていた若い男性教師が唖然とする。
「だから、一体の認識を変えれば」
コンラッドが指を鳴らすと、幻の峡谷が歪んだ。
「群れ全体を誘導できる」
魔物たちは疑うことなく幻の道を飛び続け、そのまま出口へと誘われていく。だがその先で待ち構えていたのはディオーネの雷撃だった。魔物の群れは逃げるどころか、自ら雷雨の中へ飛び込む形となり、青白い閃光と轟音が連続して走る中で次々と撃墜されていった。
「コンラッド先生!」
「はい?」
「右から別の群れ!」
コンラッドが右手を上げると、飛来する魔物の前に学院長ディオーネの幻影が出現した。一人、二人、十人、そして百人近いディオーネが一斉に手を掲げると、魔物の群れは露骨に怯え、そのまま即座に反転して逃走した。しかしその逃げた先には、すでにローザの炎の薔薇が待ち構えており、逃げ場を失った魔物たちは爆炎に呑み込まれた。
「幻術は相手を騙す魔法だと思われがちだけど、正しくは、相手の認識を利用する魔法だよ。恐怖している者には、恐れているものを」
「怒っている者には?」
「憎んでいるものを」
「じゃあ、何も恐れてない相手には?」
「殴るかな」
「幻術は!?」
「殴った後に考るよ」
「相変わらず見た目に反して武闘派ですね!」
背後から人型の魔物が音もなく飛びかかるが、コンラッドは振り向きもせず上体だけを沈めて爪を紙一重で回避し、そのまま肘を腹部へ叩き込む。鈍い衝撃音が響いた直後、流れるように回転して蹴りを放ち顎を打ち抜くと、魔物は宙へ浮かされた。次の瞬間、屋根の上には百人のコンラッドが同時に現れ、全員が一斉に拳を構えた。
「さぁ、どれが本物か分かるかな?」
魔物は狼狽した。右を見ても、左を見ても、正面を見ても、状況は変わらない。どこにも逃げ道はなく、ただ同じ圧力だけが四方から迫ってくる。
そして背後から、静かな声が響いた。
「正解は後ろ、だよ」
振り向くよりも早く蹴りが放たれ、魔物は屋根から遥か彼方へと吹き飛んだ。若い教師は遠ざかっていくその影を見送りながら、静かに呟いた。
「……本当に幻術師ですよね?」
「そうだよ」
「格闘家じゃなく?」
コンラッドは笑う。
「幻術師だよ」
階級レベル、称号、属性、武器、戦闘思想、そのすべてが異なる四十人の教師たちは、本来であれば決して交わることのない個性の集合体である。
授業方針も価値観も戦い方も統一されておらず、授業中に堂々と居眠りをする者、生徒の前で悪ふざけに興じる者、研究室に籠もって外界を忘れる者、些細なことで口論を始めて魔法理論を罵り合う者、生徒に対してすら容赦なく無茶を課す者まで存在し、その在り方は秩序というより混沌に近い。
しかし、その全員がただ一点においてだけは決して揺るがない。守るべきものはただ一つ──生徒であり、その命であり、その未来である。
王立アストル魔法学院において才能ある子どもたちは“資源”ではなく“掌中の珠”であり、教師とはそれを預かる者ではなく、守り抜く者として存在している。この理念だけは、普段は一枚岩とは程遠い彼らの間で唯一共有される絶対の規範だった。
そして、その混沌がひとつの方向へと収束する瞬間がある。それは、生徒に牙を剥く存在が現れた時だ。学院の結界を破り、教室へ踏み込み、子どもたちの命へ手を伸ばしたその瞬間、空気は一変する。冗談は消え、眠気は消え、笑いは消え、代わりに残るのは殺意に等しい静寂だけとなる。
誰が先に動くかでもなく、誰が強いかでもない。ただ全員が同時に理解する──ここから先は教育ではない、処理だと。
次の瞬間には、四十人の教師たちはすでに同じ方向を向いている。迷いも躊躇もなく、そこにあるのはただ一つ、生徒を守るという絶対の意思。
王立アストル魔法学院の教師は生徒の絶対的な守護者である。その言葉はこの瞬間だけ、理念ではなく現実そのものとなる。




