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セイレーンは終焉を歌わない 〜十二の曲と六芒獣〜  作者: 白雪藤
第一章 王立アストル魔法学院編
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☆1-26☆学院に仕掛けられた悪意


学院各所に設置された梟の装飾が、一斉に目を開いた翌朝。

 その異変に気づいた者は誰一人としていなかった。石造りの柱に彫り込まれた梟は昨日と変わらず無機質な彫刻としてそこに佇み、中央食堂の壁画に描かれた梟もまた、静かにこちらを見つめているだけだった。

 図書館の扉、時計塔、礼拝堂、訓練場、男子寮、女子寮──学院の至るところに存在する梟たちは、まるで何事もなかったかのように沈黙を保っている。

 ただ一つだけ違うのは、その瞳の奥に、針の先ほどの赤黒い光が、確かに宿っていることだった。


 王立アストル魔法学院、本棟地下──特別保護室。そこは一見すると、白一色で統一された清潔な医務室のように見えた。壁も床も天井もすべて無機質な白で塗りつぶされ、余計な装飾は一切ない。静謐で整然とした空間は、本来であれば安心感すら与えるはずの場所だった。


しかし、その本質はまったく異なる。


この部屋は治療のための空間であると同時に、対象を完全に隔離・拘束するための施設でもある。壁面には幾重にも魔法陣が刻み込まれていた。魔力通信、転移、召喚、精神干渉、遠隔操作──あらゆる外部干渉を遮断するための極めて高度な封鎖術式だ。

 その中央には透明な結界が展開されている。柔らかな光を帯びたそれは一見すると保護のためのものに見えるが、実際には逃走も干渉も許さない牢獄そのものだった。


その結界の中に、一人の少女が座っている。

カティア・リューゲン、否、それは仮初めの名。彼女は、組織《金糸雀挽歌》に属する構成員“オウルアイ”

 両手首には銀色の封魔枷が嵌められ、魔力の流れは完全に封じられている。さらに首元には封印環が取り付けられ、発声による魔術発動も妨害されていた。加えて足にも拘束具が施され、移動の自由すら奪われている。

 魔力・発声・行動、そのすべてを制限された完全な拘束状態。

 それでもカティアは、桃色の瞳だけをゆっくりと動かし、正面に立つ教師たちを見つめる。

 その視線には恐怖も焦りもない。ただ状況を観察し、情報を整理する冷静さだけが宿っていた。


「昨日、証拠品保管庫へ移した魔道具をもう一度調べてみたんだ」


 アドモンが白い手袋をした指で、小さな金属片を持ち上げる。梟の羽根を模した、黒ずんだ銀色の部品だ。


「どれも単独では意味を持たない。魔力を流しても反応しない。術式らしい術式もない。最初は単なる偽装部品だと思っていた。…でも、構造をもっと細かく分解してみたら話が変わった」


 金属片を机へ置く。


「これは中継器だ。術式と術式を遠隔で接続するためのね」


 隣ではヒストリアが猛烈な速度で羽根ペンを走らせていた。


「学院の建築記録も調査しました」


 いつもの知的好奇心に満ちた明るい声だが、その目だけは真剣だった。


「ここ十年間の修繕記録と現在の装飾配置を照合したところ、不自然な点がありました。梟の意匠だけが、修繕のたびに少しずつ増えているんです」


「……」


「しかも」


 羽根ペンが止まる。


「あなたが今年入学する以前に設置されたものまで存在する」


 カティアはしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐く。


「……簡単には解除できないわよ」


「は?」


 アドモンが目を瞬いた。


「学院各所に仕掛けた中心術式。大きなものが十二、そこから枝分かれさせた小型術式が……百以上」


アドモンの頬が引きつった。


「いやいやいやいや」


「何よ」


「学院へ何しに来たの?勉強じゃなくて内装工事?」


「梟の飾りを増やしたのは私じゃないわよ。元から学院にある装飾へ、術式を重ねただけ」


 カティアが冷たい視線を向ける。


「それを内装工事っていうんだよ」


「言わないわよ」


「言うよ」


 ローザが眉間を押さえた。


「あなた方、今は漫才をしている場合ではありませんわ」


「はい」


「……はい」


 アドモンとカティアが同時に黙った。

 ディオーネは腕を組みながら、カティアを見つめる。


「術式の目的は」


 先ほどまでの空気が消え、カティアも表情を引き締めた。


「感覚攪乱」


「具体的には?」


「声を使う」


 アミュが壁にもたれたまま、眉をひそめる。


「幻聴か」


「ええ。微弱な声を継続的に聞かせる。不安、恐怖、疑心。そういう感情を少しずつ増幅させるための術式よ」


「視覚じゃない理由は?」


 コンラッドが問う。


「…幻覚は防がれやすいから。特にこの学院には、特級の幻術師である貴方がいる。視覚への魔法干渉なんて、すぐ看破される可能性があったから」


 コンラッドが笑みを消す。


「なるほど」


「でも音なら違う。音は空気の振動として知覚される。完全に遮断しようとすれば、聴覚そのものを塞ぐしかない」


 ヒストリアが目を細めた。


「つまり、仲間同士の連携まで奪える」


「そういうことよ」


 部屋の温度が、ほんの少し下がったように感じられた。


「聞こえるものは?」


 ガレスが問う。


「対象によって変わるわ。対象が最も恐れるもの…魔物の咆哮、誰かに追われる足音、死んだ家族の声、自分を責める言葉、大切な人の悲鳴」


 ローザの目つきが鋭くなった。


「目的は?」


「互いを敵だと思い込ませること。生徒同士で…殺し合わせる」


 空気が凍りついた。ディオーネの表情から、一切の感情が消えた。


「……そうか」


 小さな声。だが、その一言だけで空間が軋んだように感じられた。

 カティアはわずかに目を伏せる。


「解除方法はあるわよ」


「言え」


「中心核へ、私の魔力を流せばいいのよ。術式は私の魔力を鍵にしている。内部へ入り込んで命令を逆転させれば、止められるわ」


「おぬし本人でなければ解除不能ということか」


「少なくとも、一つずつ安全に止めるなら」


「………足の拘束だけ外せ。魔力封印と発声封印は維持、腕の封印もそのまま、解除に必要な最低限のみ許可する」


 ローザが視線を向ける。


「よろしいので?」


「よい。学院の子らを守るためじゃ」


 ディオーネはカティアを真正面から見る。

 その声音には、冗談も甘さもなかった。


「おぬしにも働いてもらうぞ、カティア・リューゲン」


 カティアは少しだけ目を見開く。


「……分かってるわ」





         ☆




 その日の授業は、表面上はいつも通りに行われた。



 〈魔法学〉


「魔力の波長というものはね」


 教壇のコンラッドが黒板へ魔法式を書き込む。


「単純に属性の違いだけじゃない。人間一人一人にも微妙な差がある。だから同じ炎魔法でも───」


 授業中にも関わらず、ノエルは頬杖をつきながら、窓の外を見ていた。


「ノエル君」


「ん?」


「今、僕は何の話をしていたかな」


「魔力の波長」


「もう少し詳しく」


「人によって違う」


「さらに」


「……ちゃんと聞いてたって」


「では説明を」


「嫌だ」


「廊下に立つ?」


「なんで!?」


「授業中に外を眺めている生徒へ教育的指導を提案しただけだよ」


 教室から笑いが起こった。

 ノエルは渋々黒板へ向き直ったが、どうしても気になって仕方がなかった。さっきから校舎の外を行き来している教師の数がやけに多いのだ。

 そして少し前、アミュ先生とローザ先生に挟まれるようにして歩く、一人の少女の姿を見た。

 距離は遠かったが、それでもはっきりと分かった。あれはカティアだった。両手には拘束具のようなものがはめられている。

 二人の教師は彼女を連れながら、校舎の柱や壁を一つずつ確かめるように調べていた。


(……何をしているんだろう)


 ここ最近の出来事を思い返せば、ろくなことではないのは分かる。

 その後の授業もどこか妙だった。歴史学はヒストリア先生ではなく別の教師に交代し、錬金術もアドモン先生ではなく代理が担当していた。

 確実に、何かが起きている。


     


           ☆




最初の中心核は時計塔にあった。


巨大な外壁には梟の紋様が刻まれており、その左目が魔法的な要となっている。


カティアは封魔枷のついた両手をゆっくりと持ち上げた。枷そのものは魔力を封じるためのものだが、完全に遮断しているわけではない。教師たちによって調整が施され、解除作業に必要な最低限の魔力だけが通るようになっていた。


その隙間を縫うように、桃色の魔力が細い糸となって伸び、梟の左目へと吸い込まれていく。


直後、石壁全体に複雑な魔法文字が浮かび上がった。


「出ました!」


 ヒストリアの目が輝く。


「記録!」


「分かってるよ」


 アドモンが記録魔道具を起動する。


「《解除開始》」


カティアが短く告げると、魔法文字は逆回転を始めた。ひとつ、またひとつと光が順に消えていき、やがて静かに収束する。最後にコトン、と乾いた音を立てて、梟の左目から小さな黒い魔石が落ちた。


「危ない危ない」


 アドモンが瓶で受け止める。


「素手はやめてくださいね」


「僕を誰だと思ってるの、ローザ先生」


「面白そうという理由で自ら危険薬を舐めた前科のある人間ですわね」


「一年前の話をいつまで言うんですか」


「自分の行いを反省するまで言いますわよ」


「厳しいなぁ」


「次へ行くわよ」


 カティアは言い合いをする教師陣を尻目に歩き出した。額には汗が滲んでいたが、それを拭う余裕もなく、それでも足を止めることはなかった。図書館、礼拝堂、錬金術棟、第二訓練場、女子寮と次々と各所に仕込まれた中心核を停止させていく。教師陣もまた、解除された術式から派生する小型の魔術回路を一つずつ丁寧に破壊し、学院内の異常は着実に収束へと向かっていた。すべては順調だった。少なくとも、その時までは。


         


 ───夕刻


授業終了を告げる鐘が鳴り響いた直後、学院全域に放送が流れた。


『全生徒へ通達します。現在、学院では防衛訓練を兼ねた緊急警備体制の確認を行っています。授業を終えた生徒は寄り道をせず、速やかに各寮へ戻ってください。図書館、食堂、訓練場、その他共用施設は一時閉鎖。教師または生徒会の許可なく寮外へ出ることは禁止します。………あと「せっかくだし肝試ししようぜ」とか言って抜け出した者には、僕、コンラッドによる特別補習を用意するからね』


 教室が静まり返った。


「絶対やめよう」

「そうだな」

「コンラッド先生の特別補習って何するんだ?」

「知らない方が幸せだと思う」




────

───

──



     


 ──男子寮前

 生徒会役員たちは待機していた。

 その先頭に立つのは、生徒会長グレイシア・ノービリタス。夕陽に照らされたライトブルーの髪が静かに揺れている。アルベルトの兄である彼は、変わらぬ冷静さでその場に立っていた。


「走らず、押さず、落ち着いて中へ入れ。各階の代表者は人数を確認し、生徒会役員へ報告するように」


隣にはカルム先輩がいて、意味ありげに指を立てていた。


「食堂は閉鎖中だから、夕食は寮の厨房から配布されるよ。ちなみに僕が女子寮へ取りに行くという案は却下された」


「誰が提案したんですか?」


 近くの男子生徒が聞いた。


「僕だ」


「副会長、緊張感を返してください」


「緊張しすぎは身体に悪いからね」


 コールが、魔道具を抱えたまま柔らかく微笑む。


「なお、カルム副会長が女子寮から一定距離以内へ侵入した場合、自動で警報と電撃が作動するよう設定してあります」


「コール君?」


「最大電圧は安全基準内です」


「問題はそこじゃないんだけど?」


「安心してください。死にはしません」


「死ななきゃいいわけじゃないよ!?」


 少しだけ周囲から笑いが起こる。


「兄上!」


 アルベルトがグレイシアへ近づく。


「何が起きてるんですか」


 グレイシアは弟を見る。その顔は相変わらずの無表情だが、ほんの少しだけ表情が柔らかくなった気がした。


「現在は教師陣が対応している。お前たち一年が動く必要はない」


「ですが──」


「アルベルト」


「……はい」


「寮にいろ。それがお前の役割だ」


 アルベルトは不満そうだったが、それ以上は言わなかった。グレイシアは一瞬だけ弟の肩へ手を置き、すぐ離す。


ノエルはそれを見て首を傾げる。


 (……普通に弟のこと心配してるよな、この人……なんでアルベルトには伝わってないんだろう?)


「ノエル」


「ん?」


「何を見てるんだ」


「いや、何でも」


「絶対何か考えてただろ」


「お前の家族って大変だなって」


「どういう意味だ!」



────

───

──


    


 中央食堂

 本来なら夕食を求める生徒たちで賑わっている時間だったが、今日は誰の姿もなかった。広大な空間だけが静まり返り、その奥には壁一面に巨大な梟の壁画が描かれていた。

 カティアは壁画の梟へ手を伸ばし、指先から魔力を流し込んだ。すると淡い桃色の光が壁画の輪郭をなぞるように広がり、壁画の梟が微かに脈動した。


「……待って…これ……違う…私が組んだ術式じゃない!」


 カティアの動きが止まった。空中に魔法文字が浮かび上がる。これまで円形に整然と並んでいた文字列は、今度は違っていた。黒い枝のように、まるで枯れ木の根が地中へ広がっていくかのように、幾重にも分岐しながら広がっていく。


「何これ……」

「近づかないで!」


 ヒストリアは驚きよりも先に好奇心が湧きかけたが、カティアの声にそれを制された。そこに刻まれているのは古代語ですらなく、一部の記号は爪痕や傷のように見え、まるで何かの生物が無理やり文字を真似て刻みつけたかのような、不気味な痕跡だった。

 カティアがその不気味な痕跡に指先を近づけ、指先が文字へ届く寸前、黒い記号の一つがぐるりとこちらを向いた。カティアが反射的に手を引くと同時、その記号は裂け、牙のような形へと変化する。次の瞬間、ガチンッ、と空間そのものへ噛みつくような音が響いた。


「危ねっ!」


 レオンはカティアを抱えたまま後方へ跳躍した。その直後、ガレスの剣が一閃し、黒い文字列を断ち切る。切り裂かれたそれは床に落ちるよりも早く黒煙へと変わり、跡形もなく消え去った。静寂が訪れ、レオンの腕の中でカティアは青ざめる。

 その瞬間、学院全体が揺れた。壁一面に描かれた巨大な梟の壁画、その梟の両目から、赤黒い魔力が滝のように溢れ出していた。

 

「なんで…そんな、発動するなんて?!本来なら十二の中心核が全部接続されなければ起動しないのに!」


 カティアが魔法文字を目で追う。


「じゃあなんで動いてんだよ!?」


 レオンの言葉を放つと同時に、ヒストリアが息を呑んだ。


「改変された術式が……解除済みの術式から魔力を吸い上げています!」


「止めたはずの中心核から残留魔力を奪って、ここへ集まっている!僕たちは解除してたんじゃない、こいつへ燃料を送ってたのか!」


ヒストリアの言葉に術式の異常を読み取ったアドモンの表情が歪み、拳を強く握りしめながら補足するように言葉を続けると、その内容を聞いたカティアの顔から一気に血の気が引いた。


「私の術式を……私の術式を利用して、別のものに作り替えた……?」


 その時、壁画に描かれた巨大な梟の嘴がゆっくりと開いた。


《やぁっと見つけた……んー、いっぱい壊したんだね?》


幼い子どもの声が響いた瞬間、全教師が一斉に身構えた。梟の赤黒い瞳、そこに映し出されたのは六歳ほどの少年の姿だった。黒い髪に、縦に割れた赤い瞳。頭には一対の黒い角を生やし、あまりにも無邪気に笑っている。その姿を見た瞬間、カティアの顔色がさっと変わった。


「アルカナ……!」


《こんにちは…あ、今は今晩は、かな?オウルアイ》


「何をしたの!」


《何って?ちょっと遊びやすくしただけだよ?》


「今すぐその“遊び”を止めなさい!」


カティアが術式へ手を伸ばすと、黒い文字が生き物のように跳ね、蛇のように腕へ絡みついた。

皮膚が焼け痛みが走り、レオンはカティアの腕を掴み、強引に引き戻した。


《嫌だよ。…さて、予定より早いけど、遊びたくなったから今から始めるね!》


 少年は笑う。


「貴様……!」


  カティアの顔に浮かんでいたのは恐怖ではなかった。そこにあったのは、静かな怒りだった。自分が作り、自分が仕掛け、自分がこの学院を傷つけるために用意した術式。その罪が、さらに歪められ、別の誰かの手によって利用されていることへの怒りだった。


《いっぱい怖がって、いっぱい傷つけ合って、いっぱい黒いものを生んでね?》


 アルカナは笑みを深めると、赤黒い光が梟を中心に膨張していく。


「全員伏せろ!」


 アミュが両手を広げると、巨大な透明結界が瞬時に展開された。直後、赤黒い衝撃波が爆発し、轟音とともに食堂の窓が一斉に砕け散る。机や椅子、食器までもが一気に吹き飛び、天井の魔法灯が落下したが、ローザが炎でそれらの破片を瞬時に焼き払った。


「アミュ!」


「持たせる!任せろ!」


 結界に蜘蛛の巣のような亀裂が走り、アミュは歯を食いしばった。そんな中、ディオーネだけが静かに壁画を見上げていた。


「……わしの学院で随分と好き勝手してくれるのう」


 黄白色の髪が、電気を帯びてふわりと浮いた。




────

───

──





 男子寮の談話室では、ノエルは教師の指示に従い待機していた。室内にはフィンやアルベルト、シャスールといった男子生徒たちが数人集まっており、さらに生徒会のグレイシア、カルム、コールの三人の先輩の姿もある。ソルとルナはいつものようにノエルの肩にちょこんと乗り、静かに状況を見守っていた。


「暇だな」


「この状況でそれ言うのか?」


 アルベルトが呆れたようにノエルを見た。


「だって何もできないし」


「何もしないことが今の仕事だろ」


「アルベルトは真面目だな」


「君が不真面目なんだ!」


 フィンが笑う。


「でもさ、何か俺たちにも手伝えることないのかな?」


「ない。今は外に出ない方がいい…嫌な感じするから」


 シャスールが金色の瞳が窓の外を見据えながら言った。

その時、ノエルの肩でソルが立ち上がった。


『嫌な気配が濃くなった』

『上じゃない…下から広がってる』


ルナも反対側の肩から周囲を見渡し、ノエルたちは顔を見合わせた。直後、カタ、と小さな音が響く。談話室の壁に飾られた学院章が、誰にも触れられていないのに揺れていた。窓は閉じており、風もない。それなのに、カタ、カタと額縁だけが不自然に震え続けていた。


「……あれ」


 フィンが指差した学院章の中央には、羽を広げた梟が刻まれていた。金色の目を持ち、爪には一冊の本を掴んでいる。その梟の嘴が、ゆっくりと開いた。


《───殺される》


「……は?」


 声は低く掠れており、男とも女とも判別できない曖昧な響きだった。しかしそれは実際に耳で聞いたものではなく、空気を震わせた音でもない。まるで意識の奥へ直接流れ込むように、頭の内側に響いていた。


《殺される》

《殺せ》


 梟が甲高く鳴く。


《敵だ》《敵だ》《敵だ》

《先に殺さなければ、お前が殺される》


 空気が変わった。


「なんだよ、これ……」


 近くの生徒が後退する。

 顔が青ざめている。


「近づくな」

「おい?」

「来るな!」


 その生徒の瞳は、誰も見ていなかった。虚ろな目は、まるで別の何かを見つめているかのようだった。


「化け物……!《火球》!!」

「待て!ッ全員、伏せろ!」


 ノエルは近くにいた同級生を床へ押し倒すと、その直後、頭上を火球が通り過ぎて長椅子に直撃し、爆発が起きた。


「何してんだ!」

「ノエル、右だ!」


 アルベルトの声に振り向くと、そこには槍を構えた上級生が立っていた。だがその目はすでに焦点を失っており、ただ一直線に俺へ向かって迫ってきていた。


「ちょっ──!」


目の前に氷の壁が広がり、そこへ槍が突き刺さるのと同時に、アルベルトがノエルの前へと立つ。


「ぼさっとするな!」


「助かった!」


「礼は後だ!」


 談話室だけではなかった。廊下や階段、一階、二階、三階に至るまで、寮内のあちこちから悲鳴と破壊音が響き渡っていた。


「全員聞け!これは精神干渉だ! 近くにいる者を敵だと思うな!」


 グレイシアの声が響いた。


「そう言われても!」

「魔物が見えてんだよ!」


「兄上!」


「アルベルト、下がれ《氷結》」


 グレイシア先輩が片手を振ると、暴れていた三人の足元だけが一瞬で氷結し、転倒させられた。だが凍傷を負わせないよう、出力は絶妙に抑えられていた。


「コール!」

「原因探査中です!」


 コールは床へ数個の魔道具を放った。

 蜘蛛のように脚が開き、寮内を走り出す。


「魔力反応は“梟の紋様”!」


「学院章か!」


カルムが叫ぶ


「《凍結領域》」


 グレイシアが壁へ手を向けると、学院章は瞬く間に氷に覆われ、次の瞬間にはパキンッという乾いた音とともに粉砕され、梟の姿は消えた。


「止まった?」


 フィンが周囲を見る。


『『まだいっぱいある』』


 ソルとルナの言葉に、全員の顔が引きつった。声は止まらない。天井や柱、扉、窓枠、普段なら気にも留めない小さな梟の彫刻や紋様が、一つ、また一つと赤い目を開いていく。


「いや多っ!何羽いるんだよ!」


「数えてみる?」


 ノエルのツッコミにシャスールが首を少し傾げる。


「今!?」


「…ん、百以上あるよ」


「数えたの!?」


「だいたい」


「なんでそんな冷静なんだよ!」


「僕、森育ちだから」


「説明になってない!」


 そんなやり取りの中、再び魔法が飛んできて、コールが腕を振る。


「《捕縛》!」 


 青白い網が広がり、暴れていた数名を一斉に絡め取った。


「…このまま全員を拘束をするとなれば、魔力の方が先に限界になります!」


 コールの言葉にカルムは目を閉じ、能力を広げる。


「なら、僕が一時的に互いの認識を薄くする!ただ、人数が多すぎる! 長くは無理!」


 寮内のあちこちから、悲鳴や怒号、そして誰かの泣き声が響いていた。


「やめて……」

「違う、俺じゃない!」

「お母さん……!」

「来るな!」


 何人もの生徒が恐怖と混乱に包まれ、呼吸は乱れ、魔力までもが制御を失い暴走していた。混沌と化した寮内で、ノエルは周囲を見渡しながら、どうするべきか、どうすればいいのかと必死に思考を巡らせる。



『ノエル、みんなを眠らせる歌を歌って』

『怖い声より、優しい声を聞かせてあげて』


 その言葉を聞いた瞬間、ノエルの頭の中に一つの旋律がふと浮かんだ。

 それは、村に古くから伝わる十二の歌の中でも、最後に位置づけられる子守唄だった。

 


「……歌で止まるのか?」


『分からない』


「分からないのかよ!?」


『でもノエルの歌なら届く』

『保証する』


「何を根拠に!?」


『ノエルは世界一可愛い』


「今それ関係ないだろ!」


『かなり重要』


「重要じゃない!……でも歌は試してみる価値はあるか」


 ノエルは静かに息を吸い、ゆっくりと目を閉じた。そして、最初の一音を紡ぐ。

 それは力強さや威圧とは無縁の、柔らかく穏やかな声だった。誰かを従わせるためでも、何かを押し通すためでもない。ただ「大丈夫だ」と伝えるための音。安心していいと、そっと寄り添うような歌だった。

 旋律はどこか懐かしく、胸の奥へ自然と染み込んでいく。その歌を口にしているノエル自身もまた、遠い記憶へと引き戻されていくようだった。母の声、父の背中、妹リーナの笑い声。暖炉の揺れる火、木の匂いが満ちる小さな家。窓の外に瞬く、何気ない夜の星。

 特別なものなど何一つない。けれど確かにそこには、家族がいて、日常があった。

 その記憶と共に、ノエルの歌声は静かに談話室へと広がっていった。


《殺せ》


 梟の声が少し遠くなる。


《殺され──》


 ノエルの歌声が響いた瞬間、その音はまるで梟の囁きを優しく包み込むように広がっていった。荒れ狂っていた生徒たちの意識がゆっくりと鎮まり、手にしていた武器は力を失ったように静かに床へと滑り落ちていく。


「……あ」

「母さん……?」


 泣いていた生徒は、ゆっくりと目を閉じた。嗚咽は途切れ、肩の震えも次第に静寂へと沈んでいく。

 グレイシアも、カルムも、コールも、誰もが言葉を失ったまま、ただノエルを見つめていた。アルベルトは何かを言おうとして唇を開きかけたが、そのまま何も発せずに閉じる。

フィンは静かに笑っていた。その笑みは、胸の奥にそっと温度を灯すような、安堵に似た柔らかさだった。シャスールは金色の瞳を細め、ただ一点を見つめている。ノエルそのものではない。その奥で揺らめく“何か”、世界の理の隙間に触れるような気配を、静かに覗き込んでいた。


 ノエルの歌声が、空気の中へと溶けていく。


 それはもはや音ではなかった。

目に見えないはずの“流れ”が、確かにそこにあった。

 淡い波紋のように、談話室の空間そのものが揺らぐ。壁際の影がわずかにほどけ、光と影の境界が曖昧になっていく。廊下へと滲み出した歌は、石床の上を水のように滑り、階段を一段ずつ撫でるように降りていった。

 男子寮の隅々へと広がるにつれ、空気が変質していき、冷たかったはずの風が、いつの間にか柔らかくなり、張り詰めていた沈黙が、静かな呼吸へと変わっていく。

 誰かの胸の奥に触れるたびに、歌は微かに色を変えた。悲しみの中では淡い銀色に、焦燥の中では薄い金色に、孤独の中では夜明け前の青に。

そして窓を抜けた瞬間、世界が、ひとつ息を呑んだ…外の夕闇が、わずかに揺らぐ。

空気の中に“光の層”が生まれていた。

それは光そのものではない。だが確かに視認できる、透明な波の重なり、歌が形を持ったかのように、空へとほどけていき、夕焼けの橙と混ざり合いながら、空間そのものを撫でるように広がり、学院の屋根を越え、庭の木々の葉先を震わせていく。

 女子寮の窓辺に差し込んだ瞬間、カーテンがふわりと揺れた。

庭では草花が一斉に首をもたげ、まるで見えない何かに応えるように静かに呼吸を始める。


それは癒しだった。

それは祈りだった。

そして同時に──触れてしまえば心の奥底まで見透かされてしまうほどの、あまりにも純粋な“優しさ”だった。




 





学院中央


赤黒い魔力が広がる中で、教師たちは一瞬だけ、その場にそぐわない“歌”を聞いた。


「この声……」


 コンラッドが振り返り、ヒストリアの瞳が大きく開く。


「ノエル君?」


「……あの馬鹿!寮にいろって言ったのに何してんだ!」


「歌っているだけですわ。寮から出てはいません」


 レオンの叫びにローザが冷静に返す。


「じゃあ偉い!」


「判断が軽いですわ」


 ディオーネだけが目を細めた。

 地脈、大気中に漂う魔力、自然魔力、そしてそれらすべてを包み込むように巨大な魔力の流れを循環する。


「これが…歌声に乗せて魔力を放出させるノエルの儀式(ちから)か」


   


────

───

──




 歌が終わると、ノエルはゆっくりと目を開いた。談話室は静まり返り、ほとんどの生徒が眠りについていた。


「…あれ、寝たのか?」


「寝たな」


 アルベルト。


「マジで?」


「僕に聞くな!」


 フィンが嬉しそうに笑う。


「すごいな、ノエル!」


「いや、俺も何が起きたのか分かってない」


 シャスールが床へしゃがみ込む。


「ねえ、ノエル」


「ん?」


「今の歌……いや、今はいいや」


「気になる言い方すんなよ」


「秘密」


「お前それ便利に使いすぎだろ!」


「精神汚染反応、急速に低下しています」


コールが周囲を確認し、グレイシアに報告をする。


「全寮か?」


「……はい。少なくとも観測範囲では」


 コールがノエルを見て、カルムも目を丸くしながら、ノエルを見た。


「ノエル君」


「はい」


「君、将来歌手にならない?」


「え、なんで?」


「女子寮から黄色い声援をッ、ぎゃああああっ!?」


 バチンッ、と鋭い音が響いた瞬間、カルムの腰に装着されていた魔道具から電撃が放たれ、その衝撃で彼はその場に崩れ落ちた。


「女子寮関連の不純発言も警戒対象へ追加しておきました」


コールは何事もなかったかのように、穏やかな声で説明をする。


「いつ!?」


「つい先ほど」


「仕事が早すぎる!」


 眠っていない生徒たちの間に、ようやく小さな笑い声が戻り始めた、その矢先だった。

 床がかすかに揺れる。最初は気のせいかと思うほどの微細な振動だった。机の上のカップがわずかに音を立て、しかし次第にその揺れは明確な異変へと変わっていく。振動は強さを増し、寮全体へと波紋のように広がっていった。

 窓ガラスが細かく震え、空気そのものが不安定に揺らぎ始める。


「地震?」

「違う。……上空」


フィンが首を傾げ、シャスールが寮の窓の外を見た。起きていた全員がつられるように視線を向けると、外はいつの間にか夜に更けていた。雲一つない夜空には、本来なら月と星が瞬いているはずだったが、そこに広がっていたのはまったく別の光景だった。


「……何だよ、あれ」


誰かの掠れた声が静寂の中に響いた。学院の上空には巨大な赤黒い魔法陣が展開されており、一重、二重、三重と幾重にも重なった円環が無数の古代文字を刻み込みながら、互いに逆方向へと回転している。その規模は異常で、魔法陣は刻一刻と拡大し、やがて学院全体を覆い尽くすほどの召喚陣へと変貌していく。その光景を見上げた瞬間、ソルとルナの表情がわずかに変わった。


『大きすぎる』

『これは良くない』


「いや、見りゃ分かる!」


 学院全体は、アミュ・プロテクシオンが展開する巨大な防衛結界に覆われている。透明な半球状のその結界は学院を包み込むように広がり、外界からのあらゆる干渉を遮断しているのだ。

 だが今、その結界は赤黒い異常な光を受けて激しく明滅し、明らかな異常反応を示していた。次の瞬間、カンッ、と鋭い警鐘が鳴り響き、続けて時計塔が応じるように再びカンッと鳴動し、その音は校舎、訓練場、寮へと連鎖するように広がっていく。やがて学院中の鐘が一斉に鳴り始め、異常事態の発生を告げていた。


「全生徒起こせ!」


 グレイシア先輩の声が響く。


「地下避難所へ移動させる! アルベルト!」


「はい!」


「一年をまとめろ」


「分かりました!」


「カルム!」


「了解!」


「コール、避難経路を確保!」


「既に開始しています」


 グレイシアが窓の外を見た、その直後だった。空に浮かぶ魔法陣の中心が、音もなく裂ける。破壊でも切断でもない。空間そのものが内側から引き裂かれ、左右へ歪みながら開いていく。

 裂け目の縁は黒く揺らぎ、そこから漏れ出すのは光ではなく“色を失った闇”だった。空気が軋み、視界が引き伸ばされるような圧迫が学院全体を覆い、その向こう側が見えた瞬間、グレイシアは息を呑んだ。


 ──赤黒い雲が渦を巻き、紫の雷光が脈打つ空。地平は溶けた鉄のように歪み、黒い大地には骨のような岩柱が突き立っている。瘴気とも煙ともつかないものが絶えず噴き上がり、風のない空間そのものが呻いていた。


地図にも存在しない領域…“異界”という言葉すら足りない光景だった。


 そして裂け目から、“落ちてくる”

 一つ、二つ、やがて数を数える意味が消えるほどの群れが…


 翼を持つものは鳥ではない。骨と膜でできた羽が空間を削るような音を撒き散らしている。

 獣は関節が逆に折れ、口は頭部を裂くように開き、内側には歯ではなく刃が並んでいる。

 甲殻の巨体は鎧のようでいて鎧ではない。蠕動する外殻が内側の何かに押し破られ、悲鳴のようにひび割れている。

 人型の影もまた人ではない。左右で異なる腕、一定でない指の数、空洞の顔、その奥で“何かが覗いている”気配だけがある。

 それらは落下ではなく、裂け目から“吐き出されていた”


グレイシアが知らない種類の魔物の軍勢、空を埋め尽くすそれらが、学院の上空へと無秩序に溢れ出していく。

 まるで世界そのものが、何かを拒絶するように。あるいは、何かが世界を溢れさせているかのように、学院の空は、完全に“異界の雨”に覆われた。

 夜空は魔物の軍勢によって黒く染まっていく中で、最初の一体が学院の防衛結界へ激突する。ドォンッという轟音とともに空が白く弾け、続けて二体目、三体目と次々に衝突し、やがて十、百と数を増やしていくたびに轟音と閃光が重なり、結界は大きく揺れ始めた。


「アミュ先生の結界だぞ……?」


 フィンの笑顔が消え、グレイシア先輩が空を睨む。


「全員、避難誘導を最優先!教師陣が来るまで、絶対に寮の生徒を外へ出すな!」


透明な防壁へ、さらに魔物がぶつかる。ビキッ、と嫌な音が響き、結界の一部に小さな亀裂が走った。ノエルたちは息を呑む。空を覆う召喚陣の向こうには、まだ、まだ、数え切れないほどの影が蠢いていた。ソルとルナが、ノエルの両肩で静かに立ち上がる。


『ノエル』

『来る』


ノエルは父からもらった剣の柄に手を置いた。学院の夜空を埋め尽くす魔物、鳴り続ける警鐘、響き渡る叫び声、そして亀裂が走った結界。

そのすべてが混ざり合う中で、その日、王立アストル魔法学院創立以来、最大規模となる防衛戦が始まった。


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