☆1-25☆一年生合同訓練 後編
──残り十八分
レオンがトリモチからようやく解放された。
しかし、その瞬間から状況は一変し、まさに地獄のような展開が始まった。
「一年坊どもぉ……楽しい交流会にしような?」
「笑顔なのに目が笑ってない!!」
「俺たち関係ないだろぉぉぉ!」
トリモチと学院長のせいで生徒たちが脱獄したこともあり、溜まっていた鬱憤を発散するかのように、レオンの捕獲速度はさらに加速していった。一度復活して逃げ出した生徒たちも、次々と容赦なく捕まっていく。
残り時間は十二分、生存者は二十六名。
残り十分で十四名、残り八分で七名。
そして最後に残ったのは、ノエル、アイリス、アルベルト、フィン、シャスール、そして他クラスの生徒二人だけだった。
「来る!」
シャスールが振り返る。
「散れ!」
ノエルの叫びを合図に、五人はそれぞれ別方向へと散開した。
だがレオンは誰か一人を追うことはせず、あえて中央へと踏み込む。
「逃げ方が甘い!」
そう言い放つと同時に、地面を拳で強く叩きつけた。その瞬間、衝撃が走る。
「うわっ!?」
足元が大きく揺れ、アイリスの体勢が崩れた。
その直後、彼女の足元で小さく乾いた音が鳴る。
ぱきん。
「え?」
次の瞬間、隠されていた術式が起動し、地面から白い粘着物が勢いよく噴き出した。
「またトリモチ!? アイリス!!」
ノエルは即座に反応した。
そこに迷いは一切ない。崩れかけたアイリスの身体を、腕ごと引き寄せるように抱き込むと、そのまま半歩踏み込み、彼女の体を自分の胸側へ滑り込ませるようにして位置を入れ替えた。
まるで踊るような動きだった。
一瞬遅れて、白い粘着物が二人のいた空間を薙ぎ払う。
「っ……!」
紙一重。ノエルはそのまま体勢を崩さず、片膝を軽く落として衝撃を殺す。
アイリスはノエルの腕の中に収まる形になっていた。
「……無事か?」
短く、それだけ。だがその声は妙に落ち着いていて、状況の混乱とは対照的だった。
「……え、ええ」
アイリスは一瞬だけ言葉を失った。
ノエルはすぐに立ち上がろうとしたが、手が離れない。飛び散った粘着物が、二人の手の甲と指をしっかりと絡め取っていた。
「……アイリス」
「何ですの?」
「手」
「見れば分かりますわ」
「離れない」
「分かっていますわ!!」
完全に繋がっている。指と指が絡むように、逃げようのない形で固定されていた。
「これどうすんだ!?」
「知りませんわよ!」
アイリスの頬がわずかに赤くなるがノエルはまったく気づかない。むしろ状況を確認するように、軽く手を引いた。
「っ……痛いですわ!」
「じゃあどうする!?」
「そのまま走るしかありませんでしょう!」
「マジで!?」
「嫌なのですか!」
「嫌っていうか走りづらいだろ!」
「そういう問題では──」
その瞬間、近くの木が不自然に揺れた。二人は同時にそちらへ視線を向ける。そして次の瞬間、ノエルは一切の迷いなく動き、繋いだままの手を離すどころか、そのまま逆に利用するように強く引き寄せた。
「行くぞ」
「ええ!」
アイリスが応じると、ノエルは一歩踏み込み、彼女の身体を自然に自分の側へ引き寄せるようにして加速した。その動きに乱暴さはなく、守るために最短距離を選んだ無駄のない所作で、アイリスはそのままノエルの横へと収まる。二人は手を繋いだまま駆け出し、風に髪を揺らしながら、重なった足音だけが廊下に響いていった。
「……馬鹿ですわ」
走りながら、アイリスが呟く。
「何が!?」
「あなたです!」
「今言う!?」
だがその声には、先ほどまでの緊張とは違う色が混じっていた。ノエルは前だけを見ており、まるで当然のように、まるで最初からそうするべきだったと言わんばかりに進んでいく。その横顔を、アイリスは一瞬だけ見つめた。
(……本当に…この人は)
頬の熱を隠すように、視線を前へ戻した。
「……離しませんわよ」
「離れてねぇだろ今!」
「そういう意味ではありませんわ!」
「どっちだよ!!」
────
───
──
『残り五分!! ついに生存者は五名のみ!!一年A組、ノエル・メレディス! アイリス・ステラルーチェ! アルベルト・ノービリタス! 一年B組、フィン・クローバー! シャスール・フォレスティ!!』
五人は森の中を走る。ノエルとアイリスの手は、まだくっついたままだ。
「そろそろ来る!……三十秒!」
フィンの天千眼は、森の奥から猛烈な速度で迫ってくる赤い気配を捉えていた。
「逃げ切れない」
シャスールが言う。
「どうする!?」
ノエルが叫ぶとアルベルトが立ち止まった。
「僕たちが時間を稼ぐ」
「は?」
「君とアイリスはそのまま走れ!」
「何言ってんだ!」
「二人で手が繋がってるんだ! 戦闘に向かないだろ!」
「言い方!」
アイリスが真っ赤になり、フィンも足を止めた。
「俺も残る」
「フィンまで!」
「一人でも逃げ切れば俺たちの勝ちなんだろ?なら勝とうぜ」
フィンはいつもの屈託のない笑顔を浮かべ、その隣でシャスールは静かに弓を構えていた。
「僕も」
「シャスール!」
「三人なら少しくらい時間稼げる」
「相手レオン先生だぞ!?」
「知ってる」
アルベルトは氷で作り出した剣を構え、ノエルを見る。
「勘違いするなよ、ノエル!君を逃がしたいわけじゃない。僕が勝ちたいだけだ!」
「分かりやすいツンデレ」
シャスールが言った。
「誰がツンデレだ!」
「今それ言う!?」
フィンが笑うと、木々の間からレオンが姿を現した。
「見つけた」
「《氷壁》!!」
アルベルトは両手を地面に突きつけると、瞬時に巨大な氷の壁を生成し、レオンの進路を塞いだ。
「行け、ノエル!逃げろ!!」
「……絶対あとで助ける!」
ノエルはアイリスの手を引き走り出した。
────
───
──
「三対一か」
レオンが首を鳴らし、軽く身体をほぐす。
その動きに呼応するように、アルベルト、フィン、シャスールの三人もそれぞれ静かに構えを取った。
「一年の割には面白い顔するな」
「舐めないでください!僕たちだってアストルの生徒です!」
「いいねぇ!そういうの好きだぜ」
レオンの笑みが深くなる。
「はっ……はっ……!」
ノエルとアイリスは手を繋いだ状態で走り続ける。
「あと何分!?」
『残り二分三十秒!!』
「長い!」
「短いですわ!」
「どっちだよ!」
背後から爆音が聞こえ、ノエルの表情が曇る。
「アルベルトたち……」
「信じなさい!彼らは、わたくしたちを逃がすために残ったのでしょう?」
「……うん」
「ならば今戻ることは、彼らの覚悟を侮辱することになりますわ」
「……そうだな」
二人は走る。
────
───
──
『残り一分十五秒!!』
「残り二人」
レオンは笑った。
アルベルト、捕獲。フィン、捕獲。シャスールも最後まで弓を放とうとしたが、やがて捕獲される。捕らえられながらも、シャスールはほんの少しだけ笑みを浮かべていた。
「間に合わないかも」
「試してみるさ」
「頑張って、ノエル」
『残り五十秒!!』
「来ますわ!」
「分かってる!」
『四十秒!』
木々の間にオレンジ色の髪が見えた。
「いた!」
「速すぎるだろ!」
『三十秒!!』
双方の距離、三十メートル…二十…十五…
「《閃光》!!」
アイリスが光魔法を放つと、後方へ強烈な閃光が走った。レオンはとっさに腕で目を庇う。その距離、十メートル
『残り二十秒!!』
「まだ来る!」
「当然ですわ!」
ノエルが地面へ剣を突き刺し、土属性の簡易魔法を放つ
「《隆起》!」
地面が盛り上がるが、レオンが跳ぶ。
「甘い!」
「知ってる!」
狙いは止めることではない…一秒、それでいい。
『十秒!!』
レオン着地、残り五メートル。
『九!』
「走れ!」
『八!』
三メートル。
『七!』
レオンが手を伸ばす。
『六!』
ノエルがアイリスを引く。
『五!』
「届く!」
『四!』
指先、あと僅か。
『三!』
アイリスがノエルの手を強く握る。
『二!』
レオンの手とノエルの肩。
『一!』
カァァァァン──!
鐘の音が鳴り響いた瞬間、空気は一気に静まり返った。まるで時間そのものが切り取られたかのような、完全な静寂。
レオンの指先はノエルの制服の肩からほんの一センチ手前でぴたりと止まり、ノエルは息を呑んだまま身じろぎ一つしない。アイリスもまた呼吸を浅くしたまま視線を動かせず、レオン自身もその姿勢のまま石像のように硬直していた。
『しゅ、終了ぉぉぉぉぉぉぉ!!制限時間六十分経過!! ノエル・メレディス! アイリス・ステラルーチェ! 二名生存!! よって今年の合同訓練──獲物側、一年生の勝利ぃぃぃぃぃ!!』
「勝った……」
「当然ですわ……」
「いや絶対ギリギリだっただろ……」
「勝ちは勝ちですわ」
「そっか」
ノエルが笑い、アイリスも小さく笑った。
その時…
「いやぁ」
レオンが口を開き、口角だけを吊り上げた。笑っている形だけがそこにあり、目元は一切動かない。瞬きもなく焦点の合わない瞳が正面を見据え、口元だけが笑みを作っているのに、そこに感情の温度はなかった。
「楽しかったなぁ?」
ノエルとアイリスが一歩下がった。
「何で俺たちに怒ってんの?」
「怒ってねぇよ?」
「怒ってますわ!」
「怒ってねぇって」
レオンは首を回す。
「怒ってんのは別の奴らだから」
────
───
──
「お疲れ様でしたぁぁぁ!!いやー、今年は歴史に残る──」
ツツジが森林訓練場へと降り立った、その瞬間だった。肩に、軽く手が置かれる。
「え?」
何気ないはずの接触だったのに、妙に重く、逃げ場のない圧があった。ゆっくりと振り返ると、そこに立っていたのはレオンだった。彼はいつも通り満面の笑みを浮かべていたが、その目だけは一切笑っていなかった。
「ツツジ」
「はい」
「楽しそうだったな?実況」
「……仕事なので」
「俺がトラップに引っかかった時、随分と楽しそうにタイトル回収したとか言って笑ってたよな?」
ツツジが逃げる。
「学院長ぉぉぉぉぉ!!」
「わしは知らん!」
ディオーネも逃げた。
「待てやぁぁぁぁぁぁ!!」
二人を追うレオン。
「ぎゃあああああ!」
「特級が本気で追ってくるでない!」
「自業自得ですわね」
「ええ。良い運動になるでしょう」
ローザは一切助けようとせず、隣のガレスも頷く。
「教師同士で追いかけっこ始めたぞ……」
『平和』
「これを平和って言えるソルはすごいな」
『ノエル、手』
「ん?」
ルナに言われて、ノエルはアイリスとまだ繋がったままの手に視線を落とした。すると、その瞬間、アイリスの顔が一気に赤く染まった。
「い、いつまで握っているつもりですの!?」
「俺のせいじゃないだろ!?」
「早く剥がしなさい!」
「どうやって!?」
『そのままでいい、似合ってる』
『それ、お湯で剥がせる』
アイリスは耳まで真っ赤になっていた。
一年生たちの笑い声が、夕暮れに染まる森へとゆっくりと広がっていく。
別々のクラスに属し、別々の身分を持ち、別々の国から集まった彼らの中には、互いの名前すら知らなかった者もいた。
それでも六十分間、同じ怪物から必死に逃げ、助け合い、捕まりながらも、最後にはこうして笑い合っている。
学院長が勝手に名付けた、ふざけた名前の訓練だが、結果としてそれは、確かに一年生たちの距離を縮める、ひとつの交流の場として成功を収めた。
☆
同時刻、学院地下
オウルアイが拘束されている学院本棟地下の特別保護室は、幾重にも重ねられた防壁と長い隔離廊下によって、学院のどの区画からも完全に切り離されていた。
その最奥──証拠品保管庫のさらに奥には、彼女が学院内へ持ち込んだ魔道具や、現場で回収された術式の断片が厳重に封印されている。
そこに施された封印は三重構造だった。結界師アミュ・プロテクシオンによる空間結界、錬金術師アドモン・メディシンによる魔力封鎖具、そして学院長ディオーネ・ジュピター自らが刻んだ雷の封印術式。
人類最高峰の術者たちが揃って施した、完全な隔離措置である。内部の魔力反応はすでに完全に沈黙し、術式としての機能も失われていた。
──少なくとも学院側は、そう結論づけていた。
暗闇に沈む保管庫の床には、小さな円形の術式が刻まれている。梟の眼を模した紋様。その中心がごく僅かに、ぴくりと震えた。
魔力はない。術者であるオウルアイは拘束され、外部との接触手段も完全に断たれている。
本来であれば、何も起こるはずのない場所だった。
学院から遥か遠く離れた場所…そこは陽光すら届かない、まるで世界の底に沈んだかのような深い闇だった。音も熱も希薄で、空間そのものが呼吸を忘れているかのような静寂が支配している。
その闇の中心に、小さな影がひとつだけ存在していた。
幼い少年の姿、年齢は六歳ほどにしか見えない。あまりにも小さく、あまりにも無垢に見える輪郭。だが、その存在は「子供」という言葉で括るにはあまりに異質だった。
黒髪は光を拒むように艶を失い、闇そのものが頭部に張り付いているかのように沈んでいる。細い髪の隙間から覗くのは、わずかに尖った耳。人間のそれよりもわずかに長く、形状だけが獣にも似た不自然な曲線を描いていた。
その顔立ちは幼く整っている。頬はまだ柔らかさを残し、輪郭も未成熟で、年相応のあどけなさすら感じさせる。だが、その口元から覗く小さな牙だけが、静かに“人ではない何か”であることを主張していた。
そして何より異様なのは、その瞳だった。
縦に裂けた赤い瞳孔。まるで獣のそれを思わせる形状でありながら、そこに宿る光は本能的な生物のそれではない。感情の温度を持たないまま、ただ世界を観察し、理解し、そして選別するような冷たい知性が沈んでいる。
“幼さと異形性”
“無垢な外見と底知れぬ違和感”
相反する要素が、ひとつの身体の中で矛盾なく同居していた。
少年──アルカナは、そんな闇の中でただ静かに立っていた。
その小さな指先が、宙に浮かぶ赤黒い魔法陣へとそっと触れる。魔法陣は生き物のように脈動し、触れられた瞬間だけわずかに波紋を広げた。
その様子を見つめるアルカナの表情には、恐怖も警戒もなかった。そこにあったのは、遊びを見つけた子供のような無邪気さと、純粋な楽しさだけだった。目を細め、静かに微笑んでいる。
「見つけた」
幼い声が響くと同時に、指先から髪の毛よりも細い闇が伸びた。その闇は距離や壁、結界といったあらゆる障害を無視するかのように進み、やがてオウルアイが残した術式の痕跡へと静かに絡みついていく。
「壊されかけてる!せっかくいっぱい仕込んだのに」
アルカナは頬を膨らませた。もっとも、それを仕込んだのはオウルアイであり、アルカナ自身ではない。しかし彼にとっては、他人の功績と自分の功績を区別することなど大した問題ではなかった。壊れかけている玩具があるのなら、もう一度動かせばいいだけのことだ。そう考えた彼の口元には、静かな笑みが浮かんでいた。
「でも…まだ使える」
幼い指先が赤黒い魔法陣の中心にそっと触れた、その瞬間だった。学院地下に刻まれた梟の紋様へ、黒い魔力が一滴だけ落ちる。
三重に張り巡らされた封印は、いずれも反応を示さない。結界も、錬金術による封鎖具も、雷の封印すら沈黙したままだ。侵入の痕跡はどこにも残らない。
それは当然のことだった。
アルカナの行為は外部から魔力を流し込む侵入ではない。術式そのものに刻まれた「意味」に直接触れているに過ぎない。すでにそこに存在していた構造を、内側から静かに目覚めさせているだけだ。
現代魔法理論では説明不可能な現象。神代の理。現代魔法とは根本から異なる、古く異質な力。その気配に呼応するように、梟の瞳がゆっくりと開いた。
同時に、学院中に存在していた無数の梟の意匠が動き出す。
実践戦闘訓練場の外壁に刻まれた装飾。図書館の柱に彫られた紋章。時計塔の文字盤。廊下の燭台。礼拝堂の窓枠。中央食堂の壁画。学生寮の扉。
石、木、金属、硝子、絵画、彫刻、あらゆる場所に溶け込んでいた梟の目が一斉に開いた。




