☆1-24☆一年生合同訓練 前編
入学式が行われた日の翌日
王立アストル魔法学院の一年生百二十名は、午後の授業開始を告げる鐘に導かれ、学院敷地の東側へと集められていた。
彼らの前に広がっていたのは、学院が誇る最大規模の実践訓練場──森林型の演習区域である。
そこには高くそびえる木々が密集し、複雑に入り組んだ獣道が網の目のように走っていた。静かに流れる小川や点在する岩場、急な斜面などが自然そのままの形で再現されており、中央付近には古代遺跡を模した建造物さえ配置されている。
一見すれば本物の森と見紛うほどの完成度だが、実際には学院の管理下にある人工訓練場であり、周囲は強力な結界によって完全に隔離されている。そのため、多少過激な魔法を使用しても外部へ影響が及ぶことはない。
一年生たちは期待と緊張、そしてわずかな不安を抱えながら、その森の入口に立っていた。
その中には、ノエルの姿もあった。
「……なんか嫌な予感がする」
森を見上げながら、ノエルはぽつりと呟いた。右肩にはソル、左肩にはルナが乗っており、二人の小さな妖精王はそれぞれ無表情のまま、静かに森の様子を見つめていた。
『妾も同感』
『かなり同感』
「だよな」
昨日だけでも、十分すぎるほど多くの出来事が起きていた。
夜中に学院地下へ落下したこと、古代守護機兵四体に襲われ、その四体と何故か契約してしまったこと、学院長に気に入られてしまったこと、入学式に召喚獣登録試験、そして──カティアが学院側に拘束されたと聞かされたこと…その最後の出来事だけは、今もノエルの胸の奥に重く沈んでいた。
詳しい事情については、教師たちも「調査中」としか口にせず、それ以上の情報は一切出てこない。ただ、カティアの周囲から学院に対する何らかの不審な術式が検出されたらしい、という事実だけが淡々と伝えられていた。
考えても答えは出ない。
だからせめて、今日の午後くらいは普通の授業であってほしい──そんな淡い希望を抱きながら歩くノエルの隣で、アルベルトは腕を組み、静かに前を見据えていた。
「今日は一年生三クラスの合同訓練だろう? 別におかしなことはない」
「この学院に来て三日で、俺は“別におかしなことはない”って言葉を信用できなくなった」
「たった三日で何を悟ってるんだ君は」
「地下に落ちて古代守護機兵四体と契約した奴の言葉としては、そこそこ説得力がありますわね」
アイリスが淡々と言った。
昨日の召喚獣登録試験を控えた昼休み、ノエルが古代守護機兵と契約しているという噂は、妖精王と並ぶ規格外の召喚獣を持つという話とともに上級生たちの間で一気に広まり、アイリス、フィン、シャスール、カティアから事情を問い詰められる形となり、ノエル自身というよりは、ソルとルナが面白がるように経緯をぽろぽろと話してしまったことで、結果的に詳細が明らかになってしまった。
アルベルトはその一部始終に頭を抱えていたが、学院長ディオーネの判断により、地下で古代守護機兵と契約した情報のみ、正式に公開を許可されている。
「俺だけのせいみたいに言うなよ。アルベルトも一緒に落ちただろ」
「僕は契約なんてしてない!」
「そこなのか?」
「そこだ!」
言い争う二人を眺めながら、フィンが楽しそうに笑った。
「でも合同訓練って何するんだろうな。三クラス全部ってことは、やっぱりチーム戦?」
「秘密」
シャスールが言った。
「なんでお前が答えるんだよ」
「知らないから」
「なら普通に知らないって言え!」
「それだと面白くない」
「こいつ百二十四歳のくせに妙に子供っぽいな……」
「エルフでは若者だよ」
「年齢の基準が狂う!」
その時、突如として森林訓練場の上空に巨大な魔法投影板が展開された。ぱぁん、と派手な花火が弾け、場違いなほど陽気な音楽が流れ始める。一年生たちは一斉に動きを止め、驚いたように空を見上げた。そして次の瞬間、投影板の中央へ、一人の男性教師が勢いよく飛び込むように現れた。
『一年生の皆様ぁぁぁぁぁっ!!』
拡声魔法によって増幅された声が森全体へ響き渡る。ノエルは思わず耳を塞いだ。
「うるさっ!」
画面に映っているのは、学院の男性教師ツツジだった。彼は何故か実況者のような派手な上着を羽織り、片手には魔導式拡声器まで握っている。
『大変お待たせ致しました!! 只今より毎年恒例! 一年生クラス合同の訓練もとい、交流会を始めまぁぁぁす!!』
「交流会?」
「訓練ではなくて?」
一年生たちがざわつく中、ツツジが満面の笑顔で両腕を広げた。
『今回の訓練名はぁ───学院長命名!!【狩人と獲物〜恋のドキドキ? いいえ、それは恐怖のドキドキだよ☆】!!』
周囲は静まり返り、森を抜ける風の音だけがかすかにかすかに響いていた。
一年生が全員同時に顔を引きつらせる。
「……帰っていいか?」
「駄目ですわ」
アイリスが即答した。
「題名の時点で帰りたいんだけど」
「奇遇だな。僕もだ」
「アルベルトまで!?」
『ルールは簡単!!制限時間六十分! 範囲はこの森林訓練場全域! 皆さん一年生百二十名は“獲物”です!』
「おい、この教師、獲物って言い切ったぞ」
『制限時間がゼロになるまで狩人に捕まらなければ勝利! 狩人に身体を触られた時点で失格!! 捕まった獲物は森中央部に設置された牢屋へ収容されます!』
空中に森の簡易地図が表示され、その中央部にある古い石造りの遺跡を示す位置に赤い丸が浮かび上がった。
『ですが! まだ捕まっていない獲物が牢屋まで辿り着き、捕まった仲間へ触れることができれば、その生徒は復活! 再び逃走可能となりまぁす!!』
「鬼ごっこと牢屋救出を組み合わせた感じか」
ノエルが顎に手を当てる。
「百二十対……狩人は何人なんだ?」
『そして気になる狩人役は──たった一人!!』
生徒たちから歓声が上がった。
「一人!?」
「なら余裕では?」
「百二十人いるんだぞ!」
「森もこんなに広い!」
先ほどまで警戒していた一年生たちの表情が、一気に明るくなる。
アルベルトも鼻で笑った。
「一人で百二十人を六十分以内に捕まえる? いくら教師でも無理だろう」
「だよな」
ノエルも頷いた。
フィンは指を折りながら計算する。
「一分二人捕まえても百二十人だから……あれ? 間に合う?」
「捕まえた生徒を牢屋まで運ぶ必要はないみたいだから、理論上は可能かな」
シャスールが平然と言う。
「嫌な計算するなよ」
『なお、訓練場には多数のトラップが設置されています! 武器・魔法の使用も許可! ただし故意の重傷行為は禁止! 危険と判断した場合は審判が即時介入します!!』
画面が切り替わると、そこは訓練場に設けられた監視塔だった。
壁一面には無数の魔導モニターが並び、訓練場の映像がリアルタイムで映し出されている。
その魔導モニターの前に、ローザ・フレイルとガレス・クインランが並んで座っている。
ローザは脚を組み、厳しい表情のまま手元の資料へと視線を落としていた。鋭い眼差しで映像と記録を交互に確認し、わずかな乱れも見逃さないといった様子で、冷静に状況を分析している。
一方、隣に座るガレスは腕を組み、黙したままモニターを見つめていた。普段通り厳格な表情を崩さず、その瞳には、戦場を見極めるかのような静かな観察眼が宿っている。
二人は言葉を交わすことなく、ただ映し出される実践訓練場、森林型の映像を一つ一つを見逃さぬよう見守っていた。
『審判兼評価担当はぁ! 綺麗な紅薔薇には棘…というよりも猛毒がある、ローザ・フレイル先生! そして筋肉こそ全ての答え、筋肉の申し子ガレス・クインラン先生!!』
「ツツジ先生」
中継越しでも分かるほど、ローザの声音が低くなる。
「誰がその紹介文を許可しましたの?」
『僕です!!』
「後ほど職員室へ」
『はい!!』
ツツジの即答にノエルは思わず感心した。
「潔いな」
「諦めが良いとも言いますわ」
『そして牢屋を守る門番は───我らが学院長! ディオーネ・ジュピター先生ぇぇぇ!!』
映像が切り替わると、そこには森の中央部が映し出されていた。鬱蒼と生い茂る木々に囲まれたその場所には、場違いなほど巨大な鉄格子の牢屋が設置されている。
その牢屋のすぐ前には、白いテーブルクロスが丁寧に掛けられた机が置かれ、その上には高級感のあるティーセットや焼き菓子、色とりどりの果物が美しく並べられていた。
そしてその椅子に腰掛け、優雅に紅茶を楽しんでいるのは──小柄な少女、学院長ディオーネがいる。
『やっほー』
ディオーネが片手を振ると、百二十人の生徒たちは一斉に沈黙した。
特級壱星──国家に数人しか存在しない最高峰の存在であり、一人で他国への軍事的抑止力となり得る、文字通りの戦略兵器。
「……牢屋から逃げられなくない?」
誰かが呟いた。それは全員の気持ちだった。
「捕まったら終わりじゃねぇか!」
「門番が一番強いじゃないか!」
「なんで学院長なんだよ!」
『安心せい。わしは自分から攻撃せん』
「本当ですか!?」
『うむ。牢屋の半径三メートル以内へ入った生徒だけ軽く電撃を撃つだけじゃ』
「撃つんじゃないか!」
『大丈夫じゃ。軽い電気ショックを受けるだけ…死なんから安心せい』
「安心できるか!」
ノエルも全力でツッコんだ。
ディオーネがモニター越しにノエルを見つけたらしく、ぱっと顔を明るくした。
『おお、ノエル! 今日も可愛いのう!』
「名指しすんな!」
『牢屋へ来たら菓子をやるぞ』
「捕まりに来いって言ってる!?」
ルナがノエルの頬へ寄りかかった。
『ノエルは世界一可愛い。学院長は見る目がある』
「そこで意気投合するな!」
『妾は学院長の行動を支持しない』
「よしソル!」
『だがノエルが可愛いという意見には同意』
「裏切られた!」
周囲から笑いが起きた。アイリスは口元を押さえ、フィンは遠慮なく笑い、アルベルトは肩を震わせている。
「お前らも笑うな!」
『さて!!最後に皆様お待ちかね! 狩人をご紹介しましょう!!』
森の入口に、一人の男が歩いてくる。
オレンジ色の髪に黄緑色の垂れ目。口元にはいつもの軽い笑みを浮かべ、鍛え上げられた長身の身体を軽くほぐしながら、レオン・ファルケルが姿を現した。
それを見たノエルは、ぱっと目を輝かせた。
「あ、レオン先生!」
ノエルの反応とは逆に周囲の生徒たちの顔色が変わった。
「……え?」
「ちょっと待って」
「狩人って……」
『狩人役!! 特級弍星!! 学院警備最高責任者!! 称号【超闘武】!! レオン・ファルケル先生ぇぇぇぇ!!』
「無理だろぉぉぉぉぉぉっ!!」
一年生百二十人の絶叫が森を揺らした。
レオンが笑顔で手を振る。
「よろしくなー」
「よろしくじゃない!」
「特級だぞ!」
「一人でも勝ち目ねぇよ!」
つい数秒前まで、一年生たちはまだどこか余裕を残していた。一人であれば問題ない。相手は百二十体、自分たちは一人ではない。数の上では不利に見えても、連携すればどうにかなる──そんな楽観的な見通しを口にする者すらいた。
しかし、その認識は一瞬で崩れ去る。
目の前に立つ存在を正しく理解した瞬間、空気そのものが変質した。
それは「特級」と呼ばれる領域。
上級という人間の限界をさらに超えた先に存在する、規格外の実力者たちにのみ与えられる称号である。単なる戦闘力の差ではない。存在の格そのものが異なる領域だ。
そしてレオン・ファルケルは特級弐星。努力だけでは決して到達できない場所に、才能・経験・異能のすべてを積み上げて辿り着いた“怪物”だった。
その事実を、ノエルは知っている。
三年前、魔物の群れをたった一人で制圧していたレオンの戦いを、彼は確かに目にしていた。
だからこそ理解している。今、目の前にいる相手が、常識という枠そのものを逸脱した存在であるということを。
「……これ無理じゃね?」
「奇遇だな。僕も今、全く同じ結論に達した」
アルベルトの顔が引きつっている。
アイリスだけは気丈に背筋を伸ばした。
「始まる前から諦めるのは感心しませんわ」
「何か作戦ある?」
「ありませんわ」
「無いのかよ!」
「ですがこの広大な森の中で、百二十人全員を捕まえるのは、いくら特級でも容易ではないはずです」
シャスールがレオンを見る。
「……あの人、森だともっと強そう」
「やめろシャスール」
「獣みたい」
「やめろって!」
『それでは開始五分前!! 獲物の皆さんは森へ散開してください!!』
鐘が鳴り、一年生たちが一斉に森へ駆け込んだ。
☆
「固まるな!」
ノエルたち五人は森の中を走っていた。
「一カ所に集まったらまとめて捕まる!」
「では分散しますの?」
「いや、完全に一人になるのも危ない。二、三人くらいがいい!」
「俺、遠く見られるよ!」
フィンの瞳が淡く光る。紫色の瞳の奥で魔力が揺らめき、数百メートル先まで視界が一気に広がった。
「北側に一年生が二十人くらい。南東にも十五人。みんな結構固まってる」
「よし、囮になってもらおう」
シャスールが即答した。
「お前さらっと酷いな!?」
「合理的な判断をしただけ。……必要な犠牲だ」
「たまに怖いよお前!」
狩人レオンがスタートするまで、残り一分。
森の各所へ生徒たちが散っていく。ある者は身を潜めるために茂みへと隠れ、ある者は少しでも距離を取ろうと必死に駆け出していった。
その中でノエルは一度足を止め、肩に乗るソルとルナへと視線を向けた。
「二人とも上からレオン先生見えるか?」
『見える』
『任せて』
二人は空へ飛び上がった直後、遠くで鐘の音が響いた。
『五分経過しました!!只今より狩人解放です!』
その宣言と同時に森は一気に静まり返り、空気はさらに張り詰める。誰もが息を潜め、沈黙が支配する中、風だけが木々の葉を揺らしていた。やがて、かすかな鳥のさえずりが戻り始め、小川のせせらぎも遠くから静かに響き出す。
「来ないな」
アルベルトは小さく息を呑み、周囲の気配を探るように耳を澄ませた。十秒、二十秒、三十秒と静寂が続き、誰もが緊張を解きかけたその瞬間、遠くから鋭い悲鳴が響いた。
「ぎゃああああああ!!」
「来た!」
フィンが振り返り、紫の瞳が見開かれる。
「速っ!?」
森の向こう側に、レオンの姿があった。
だがそれは、はっきりと目で追えるものではない。正確には「一瞬だけ見えた」と表現するのが最も近い。
地面を蹴ったかと思えば、その姿はすでに消えている。次の瞬間には木の枝の上、さらにその次には岩の上へと移動していた。枝から枝へと跳び移り、幹を蹴って一気に加速しながら、四足獣のように低い姿勢で斜面を駆け下りていく。その動きは人間のそれとは思えないほど滑らかで、無駄が一切なかった。
その異常な機動は、単なる脚力や反射神経によるものではない。レオンの動きは「全身の筋肉を一瞬だけ噛み合わせて地面を蹴り、その反動だけを推進力に変える」ことで成立している。いわば、地面を踏むたびに弾かれるように進む構造だ。
さらに重心移動と関節の可動域を極限まで最適化しているため、空中姿勢すら次の踏み込みの準備動作として使われ、減速という概念がほとんど存在しない。
結果として彼の移動は「走る」というよりも、地形そのものを連続的に蹴り台として利用しながら滑走しているに等しい。
そして彼は、そのまま次々と対象へと接近していく。一人、二人、三人、そのすべてに、確実に「触れる」距離へと到達していた。
「はい捕まえた」
「えっ!?」
「四人目」
「待っ──」
「五」
捕獲された生徒たちの腕に、失格を示す赤い光が次々点灯していく。
「人間の動きじゃありませんわ!」
アイリスが珍しく声を荒らげた。
「逃げろぉぉぉ!」
一年生たちは一斉に散開したが、その動きは決して速いものではなかった。
レオンは彼らを正面から追うことはせず、代わりに先回りするように静かに動く。地形の起伏、視線の向き、走り出す際の癖、乱れた呼吸のリズム──そうした些細な情報を一瞬で読み取り、逃走経路を正確に予測していく。
そして次の瞬間には、彼らの進行方向の先、木々の陰から何事もなかったかのようにその姿を現していた。
「よっ!残念だが俺に見つかった時点で終わりだ」
「ひっ!」
『残り時間五十二分!! 開始八分で二十七人が捕獲されましたぁ!!』
「ペースおかしいだろ!」
『レオン先生速い! 速すぎる!! 恋のドキドキどころではありません! 完全に命の危機を感じる方のドキドキだぁぁぁ!!』
「タイトル回収すんな!」
ノエルのツッコミが森に消えた。
────
───
──
───開始から十五分
「ほんっと、何なんですか!《光刃》!!」
アイリスは光の刃を幾つも展開し、レオンの進路を塞ぐ。
「お、いい判断」
レオンは笑みを浮かべたまま、足を止めることなく動き続けた。木の幹に横向きで軽やかに着地すると、その勢いを殺さず、すぐさま次の動作へと移行する。まるで地面を蹴るように自然な流れで、再び走り出した。
「壁を!?」
アイリスの目が見開かれる。
「森って楽しいよな!」
「その感想は今必要ありませんわ!《光弾》!」
光弾が放たれる。レオンはそれをわずかに首を傾けて紙一重で回避すると、そのまま踏み込み、一歩で間合いを詰めた。次の瞬間には懐へ潜り込み、逃げ場を塞ぐようにして、アイリスの額へ軽く指を当てていた。
「はい、捕まえた」
アイリスの腕輪が赤く光った。
────
───
──
───開始十八分
「来るなぁぁぁぁ!!《凍結領域》!!」
アルベルトは氷雪魔法を放ち、周囲に激しい猛吹雪を発生させた。瞬く間に森の一部は白一色に染まり、地面は凍結して足場を奪い、視界も完全に遮られる。これにより敵の追跡を阻害し、逃走のための時間と隙を作り出した。
「完璧だ!」
アルベルトが振り返ると、すぐ隣をレオンが並走していた。
「いい魔法だな」
「何故いる!?」
「追いついた」
「説明になってない!」
肩を叩かれる。
「はい二人目」
「くそぉぉぉぉ!!」
────
───
──
───開始二十三分
シャスールは木の上に身を潜めていた。
呼吸は限りなく浅く、気配も匂いも音も完全に遮断している。エルフとして培われた森の狩猟技術による隠密は極めて高度で、並の人間であれば真下を通ってもその存在に気づくことはない。
(……来た)
足音は重く、一定で、無駄がなかった。シャスールは枝の隙間から、わずかに下を覗く。レオンはただ歩いているだけだというのに、その男の周囲だけ空気が歪むような圧があり、森の静寂すら押し潰されていくようだった。
(……厄介だな)
シャスールは内心で静かに状況を評価していた。隠れること自体は難しくない。問題は「気づかれないこと」ではなく、「気づかれたときにどう対処するか」だ。
レオンはそのまま移動していく。一方でシャスールは一切の動きを見せず、その場に留まる。呼吸すら極限まで抑え、葉の揺れや衣擦れの音はもちろん、魔力の流れさえも完全に断ち切るようにして気配を消していた。
(ここで反応したら負ける)
森で何度も繰り返してきた判断が、シャスールの中で瞬時に形を取る。
だが、レオンは獲物ではなく、狩る側としての本能が先に動き、一度だけ足を止めた。──シャスールの気配が、わずかに揺れたのを感じ取ったからだ。その微細な変化に、シャスールの背筋にもかすかな冷えが走る。
(……気づかれた?いや、違う、確信ではない。ただ違和感を感じ取られただけだ)
レオンはそのまま歩き出し、距離が離れていく。
一歩、二歩、三歩……
(……よし、このまま完全に気配を消せば問題ない)
十メートルほど距離が開いたところで、シャスールはようやく安全圏に入ったと判断し、わずかに肩の力を抜いた。だがその直後、レオンの動きがぴたりと止まる。次の瞬間、彼は何の前触れもなく背を向けたまま地面を蹴って跳躍した。
「見つけた」
「わあ」
シャスールは枝の上で、思わず素直な声を漏らした。真正面から完全に目が合う。
(……やっぱり、普通じゃないな)
驚きよりも先に、冷静な分析が浮かぶ。この男は“気配を探している”のではない。“違和感そのものを拾っている”のだ。つまり隠密の質ではなく、存在そのものの“歪み”を見ている。
(森の獣より厄介だ)
シャスールは小さく息を吐いた。
「いつ気づいたの?」
「最初から」
「すごい」
素直にそう言うと、レオンは鼻で笑った。
「お前も相当だけどな」
その言葉に、シャスールは一瞬だけ目を細める。
(評価された、か)
嬉しいという感情ではなかったが、どこか納得はしていた。自分の隠密は“隠れるための技術”ではなく、“生き残るための技術”だ。それを見抜かれたのなら、この男は確かに“狩る側”なのだろう。
次の瞬間、シャスールの内側でわずかに警鐘が鳴った。反射的に身体が動きかける。しかし、遅い。気づいた時には、すでに肩に手が置かれていた。
(……しまった)
その事実を、シャスールは静かに受け入れる。
そして、小さく笑った。
「……面白いね、この学院」
その声は、ほんの少しだけ楽しげだった。
────
───
──
残されたノエルとフィンは、岩陰へ隠れていた。
「アイリス、アルベルト、シャスール捕まった」
「早すぎる!」
『ノエル』
上空から戻ってきたソルが告げる。
『現在七十三人捕獲』
「二十分ちょっとだぞ!?」
『レオンは楽しそう』
「俺たちは全然楽しくない!」
ルナも降りてくる。
『牢屋が混雑してる』
「だろうな!……よし、牢屋行くか」
「え?」
フィンが目を丸くした。
「捕まった奴を戻す。数が増えれば逃げ切れる可能性も上がる」
「でも門番、学院長だよ?」
「…………忘れてた!」
『ノエルは馬鹿』
『馬鹿な子ほど可愛い』
「ルナ、それ褒めてないからな!」
その時、森の反対側で大きな音が響いた。
「なっ!?」
木々が揺れ、鳥たちが一斉に空へと飛び立った直後、ツツジの実況が響き渡った。
『おおおおおおっとぉぉぉぉ!?』
「今度は何だ!?」
『まさか! まさかの事態です!! レオン先生が──罠にかかったぁぁぁぁぁ!!』
「え?」
────
───
──
レオンは森の中で、ただ立ち尽くしていた。正確には、動くことができなかった。右脚、左脚、腰、そして片腕に至るまで白く半透明の粘着質な物質がべったりと絡みつき、その先には一年生の制服を着た人形が倒れている。その人形は、異様なほど精巧に作られていた。
「…………」
レオンの額に青筋が浮かぶ。
『おおっ〜と! まさかまさかの学院長の力作! 《生徒姿のトリモチちゃん人形》にレオン先生が引っかかったぞ〜!!』
監視室のローザが顔を覆った。
ガレスは目尻を揉んだ。
『どうしたんだレオン先生! 教師陣の中でも随一の野生の勘を持っているのに、トラップに引っかかってしまうとは〜!!』
「…………」
『獲物の一年生たち、チャンスだぁぁぁ!! 頑張れー!!』
森中央の牢屋前、ディオーネが紅茶を一口飲み、何か思い出した顔をした。
『あ、伝えるの忘れとった』
レオンの笑顔が深くなった。
目は全く笑っていない。
「学院長」
『なんじゃ?』
「これ、聞いてないんすけど」
『まぁ、レオンは特級じゃからな。これくらいのハンデがあってもよいじゃろ』
「…………」
『結果オーライじゃ』
にこっと笑うディオーネにレオンもにこっと笑った。そのこめかみには血管が浮いている。
「そうっすか」
『ちなみに! 《生徒姿のトリモチちゃん人形》の存在を僕は知ってい──』
「ツツジ」
『はい?』
「お前も知ってたんだな?」
『…………レオン先生! 獲物……一年生が怯えるので学院長に対する怒りを抑えてください!! 怒るのは後でお願いします!!いや〜! まさかここでタイトル《狩人と獲物〜恋のドキドキ? いいえ、それは恐怖のドキドキだよ☆》を回収するとは思いませんでした〜! あはははは!!』
「おい…笑ってんじゃねーよ?」
『ひっ』
「学院長共々、あとで覚えとけよ」
『笑顔が怖い!!』
監視室で見ていたローザが深いため息をはいた。
「馬鹿ですの?」
「それは誰に向けた言葉でしょうか」
「全員ですわ」
「同感です」
ガレスは一度レオンの状態を確認する。
「とはいえ、一年生へのハンデとしてはちょうど良いのでは?」
「結果論ですわね」
────
───
──
「今だ!牢屋に行くぞ!!」
「うん!」
ノエルが走り出し、その後をフィンが続いた。やがて二人がたどり着いた牢屋には、すでに八十人近い生徒が詰め込まれていた。
「ノエル!」
「助けろー!」
「早く!」
だが牢屋の前では、ディオーネがいる。
「どうする?」
フィンが小声で訊く。
「正攻法は?」
「無理」
「だよな」
ディオーネは優雅にケーキを口へ運んだ。
「ほれ。来るなら来い」
「絶対無理だろ!」
「ただし、三メートル以内に入ったら電撃を撃つぞ」
「攻撃しないって言ったじゃん!」
「自分からは動かんと言っただけじゃ」
「屁理屈!」
フィンが何か考えている。
「あ」
「どうした?」
「俺、いいもの持ってる」
「何?」
フィンは鞄の中を探り、何かを取り出した。それは一枚の紙…正確には写真だった。
「これ」
そう言って差し出されたそれを、ノエルは不思議そうに覗き込む。そして写っている人物を見た瞬間、わずかに目を細めた。
「…………俺?」
「昨日撮った」
「いつ!?」
「召喚獣登録の時」
「なんで持ってんだよ!?」
「家族に送ろうかなって思って…うちの兄妹たち喜びそうだったから、つい」
「知らねぇよ!」
フィンはその写真を持ってディオーネへ近づく。
「学院長先生」
「なんじゃ」
「交渉しましょう」
商人の息子、世界的大商家クローバー家の血が、ここで妙な方向へ覚醒した。
「ここにノエルの写真、一枚あります」
「ほう?」
「牢屋開放することを条件に差し上げます」
ディオーネの目が光り、ノエルの顔が引きつる。彼女はゆっくりと写真へ視線を落とした。そこには、召喚獣登録試験直後のノエルがソルとルナを肩に乗せ、少し照れ臭そうに笑っている姿が写っていた。
「どうします?学院長?」
「二枚」
「一枚しかないプレミアムな写真です。なんなら、写真一枚と、後日ノエルを学院長室へ──」
「俺を売るなフィン!」
「じゃあ写真だけで」
「よし、交渉成立じゃ」
「よしじゃねぇぇぇ!!」
ディオーネは写真を受け取った。
「通れ」
牢屋の扉が、ゆっくりと開いた。その瞬間、一年生全員の動きがぴたりと止まる。誰も声を出せず、ただ状況を理解しきれないまま固まっていた。
一方、監視室ではローザが両手で顔を覆い、思わず目を背けるように俯いていた。隣のガレスもまた無言のまま、目尻をそっと押さえている。
そして実況席のツツジだけが、いつも通りの調子で状況を伝え続けていた。
『な、なんということでしょう!! 学院創立以来初!! 一年生が牢屋の開放に成功しましたぁぁ!! しかも方法は──賄賂だぁぁぁぁ!!』
「違うぞ! これは交渉じゃ!」
『学院長が言うと余計悪質です!!』
まだトリモチを引き剥がしている途中のレオンは、ツツジの実況を聞いて顔を引きつらせる。
「学院長……あんた本当に何やってんすか」
一年生達による一斉脱獄がここに成立。
「逃げろぉぉぉ!」
「復活だ!」
「ありがとうノエル!」
「ありがとうフィン!」
「俺の写真が売られたんだけど!?」
『安い…妾なら菓子百個と交換』
ソルはノエルの肩に座りながら頷く
「俺の価値を菓子で測るな!」
『妾なら国一つ』
ルナはノエルを慰めるように頬を撫でる
「それはそれで重い!」
ノエルはツッコミをしながらも、フィン達と共に再び森の中へ走り出した。




